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『赤備え』〜朱塗の軍装〜コミュの真田従五位下左衛門佐幸村(信繁) 略歴

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敗亡流転:真田幸村、戦国最後の”赤備え”の勇将

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『七日早天、真田左衛門、茶臼山に赤の幟をたて、一色赤装束にて居り申し候』
<<大坂御陣山口休庵噺>>

真田従五位下左衛門佐幸村(滋野信繁)
(1567〜1615)

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●永禄十年(1567)
昌幸の次男として生まれる。
兄:信幸は九年生まれで二人は「年子」になります。
『真田左衛門佐<さえもんのすけ>
(幼名は弁丸。後に源二郎(源次郎)高野山蟄居中、剃髪して好白と称す)
永禄十年丁(ひのう)卯誕生。真田安房守昌幸次男。母は菊亭右大臣晴季の女、山之手殿』
<<左衛門佐君伝記稿>>

※母=昌幸の正室は宇田下野守頼忠の女ともいわれており、
石田三成の妻も宇田下野守頼忠の女で
二人は義兄弟の関係にあったとも考えられています。
(三成の義弟頼次の妻は昌幸の娘であります。)
兄の幼名が源三郎で幸村の幼名が源次郎であることから
二人は異母兄弟で幸村が本来は年長だったともされています。


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●天正十年(1582)
・真田家の主筋である武田家滅亡。


●天正十三年(1585)19歳
・七月十三日
昌幸、越後:上杉景勝と和睦の誓詞を交わす。

幸村,軍卒100騎を率い
叔父:矢沢頼綱の嫡男:三十郎頼幸(頼康)とともに
春日山城へ人質として赴く。

▽第一次上田合戦(神川合戦)
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=6396035&comm_id=731999


●天正十四年(1586)20歳
・五月 
神川合戦後、昌幸の豊臣家への臣従に伴い
幸村、大坂城へ豊臣秀吉への人質として赴く。

●天正十八年(1590)24歳
小田原の役
父、昌幸に従い、前田利家を総大将とする北陸軍に加わる。

・七月十一日
後北条氏、小田原城にて滅亡。

〜豊臣秀吉の天下統一成る〜
・幸村、豊臣姓を賜る。
・幸村、大谷刑部少輔吉継の娘(竹林院)を妻とする。


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●慶長五年(1600)34歳
徳川家康、会津討伐軍を興し、石田三成畿内で挙兵。

▽第二次上田合戦 『犬伏の別れ』
【当時の情勢】
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=6602566&comm_id=731999

【表裏比興(ひょうりひきょう):真田昌幸】
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=6792614&comm_id=731999

幸村、戸石城を守り、一手を率いてゲリラ戦で活躍。

▽関ヶ原合戦
〜関ヶ原合戦で西軍が敗れ、昌幸・幸村親子は高野山・九度山村へ配流。
(昌幸嫡男:信幸(この年信之に改名)のたっての助命嘆願で罪一等を減じられての配流となる)


●慶長七年(1602)
嫡男:大助、九度山にて生まれる。

●慶長十六年(1611)45歳
・六月四日
父:真田昌幸没。享年65歳

●慶長十九年
・四月十六日
東山方広寺大仏殿の鐘完成。

・七月二十一日
徳川家康、東山方広寺大仏殿鐘鋳銘に不吉な文言ありとする。

・八月二日
豊臣家を激しく弾劾し、東山方広寺大仏殿の開眼供養を中止させる。

・十月一日
徳川家康、大坂城討滅を宣言。

大坂:豊臣秀頼の家臣、速水甲斐守守久が
黄金200枚、銀30貫(総額で米1万7500石に相当)を持ち
助勢勧誘の使者として九度山を訪れる。
勝利の暁には50万石の恩賞を確約する。

幸村、これを受ける。


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・十月九日
浅野但馬守長晟の監視する高野山・九度山を幸村、嫡男:大助と共に脱出。
15年にも渡るの流人生活を終え、大坂城に入る。

〜真田丸構築開始〜
大坂城からの使番として伊木七郎右衛門遠雄
が幸村の監視役として附く。

・十一月二十二日
幕府軍:佐竹義宣隊、今福砦を攻撃し
大坂冬の陣開始。
(後藤又兵衛・木村重成がこれを撃退)

・十二月四日
幕府軍:前田利常・松平忠直・井伊直孝ら
真田丸を攻めるが幸村の逆襲に遭い敗退。
前田利常隊300騎、松平忠直隊480騎の名のある武士が討死。

同日、本多正純の前田利常宛ての書状により
前田利常配下の本多安房守政重、
幸村の叔父:真田隠岐守信尹(のぶしげ)が幸村内応の工作を行う。
幸村が断ると、徳川方は信濃一国10万石の条件を提示するが幸村は空証文としてこの誘いも断る。

◎真田の赤備え〜大坂の陣マニアックス〜
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=8085083&comm_id=968475

・十二月十六日
幕府軍大筒を使用し大坂城天守閣を砲撃。

・十二月十八日
大坂方・幕府方は和睦する。
〜大坂冬の陣終結〜

◇武田信玄の配下:原昌胤の子、松平忠直の使番:隼人助貞胤と幸村の和睦の中での会話<別リンク>

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●元和元年
・四月十三日
幸村、大坂城内の軍議にて
秀頼に出陣を促し上方での幕府の拠点:伏見城攻略を進言、これを退けられる。

・四月二十九日
塙団右衛門、樫井にて討死。

・五月五日
家康、旗本を率いて出陣。

・五月六日
後藤又兵衛、道明寺表で伊達家:片倉重綱に討ち取られ、薄田隼人も討死。
増田盛次、木村重成討死。
大助、片倉隊との戦いで傷を負うも首級をあげる。
幸村、敗残兵を纏めて撤退。
追撃する伊達政宗の騎馬鉄砲隊を伏兵にて破る。

幸村、

「関東勢百万も候え、男は一人もなく候」

の言葉を残す。


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・五月七日
幸村、大助と共に茶臼山に布陣。
秀頼後詰の献策が容れられないと知ると
大助を大坂城に人質として差し出し、秀頼に再度出馬を乞うが退けられる。

毛利勝永隊、本多忠朝隊と激戦し、忠朝は討死するが毛利隊も押し崩されて敗退。

幸村は一万の兵を率いて徳川家康本陣に突撃し徳川秀忠、松平忠直隊と戦い戦死。

享年49歳


◎真田幸村評伝
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=8708097&comm_id=968475

◎真田幸村の娘:梅と片倉小十郎重綱(景長)
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=8858651&comm_id=968475

・五月八日
嫡男:大助、秀頼の自決に際し殉死す。享年14歳。

・五月二十日
幸村正室:竹林院、浅野但馬守長晟に紀州伊都郡で捉えられるも許され、
慶安二年五月十八日に没す。


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