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『赤備え』〜朱塗の軍装〜コミュの飯富兵部少輔虎昌 略歴

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飯富兵部少輔虎昌:赤備えの創始者

300騎持ち侍大将。
知略に優れ率いる軍の装備は赤一色だった。


●永正元年(1504?)
甲斐源氏の名家に生まれる。
飯富氏は河内源氏の一源義家の四男、源義忠の子、
飯富忠宗の末裔。
あるいは甲斐源氏の辺見光長の子が飯富源内長能(ながよし)と
名乗ったとも言われている。
源満政の後裔とも言われている。


●天文七年(1538)
信玄嫡男太郎義信 誕生。 虎昌は傅役となる。


●天文八年(1539)
六月二十一日
信濃の村上義清が若神子方面へ、諏訪頼重が台が原方面に呼応して出陣。
板垣信方は台が原へ700騎を率いて迎撃、虎昌は若神子方面の抑えとして八ヶ岳山麓念場ヶ原から野辺山に800騎を率いて布陣する。
夜の明けの山麓より武田軍得意の『朝懸け』戦法で押し出す
飯富虎昌隊を見た村上勢の物見は驚いたことでありましょう。
虎昌隊は具足・馬具・軍装・旗指物すべてが朱色に統一されていたのであります。

これが『赤備え』初めての実戦のようで、
以後、虎昌は武田家の合戦では常に先陣をきることとなり『甲山の猛虎〜赤備え隊』とも『火の玉』とも信濃の豪族達に言わしめ恐れられます。

村上勢は虎昌隊に蹴散らされ若神子を駆逐されます。
虎昌はこの日を背にする【朝懸け】に『赤備え』で臨み、100に及ぶ首級を上げる戦果を得ました。
板垣信方も諏訪頼重を追い払います。


●天文九〜十年(1540〜41)
五月 
前年からの小競り合いを経て信虎・晴信親子は村上義清・諏訪頼重と共に8000の軍勢で信州佐久郡の本格的な攻略に乗り出す。
武田軍は一日に36の城を落とす。虎昌は佐久郡の守備隊長となる。

六月十四日 
信虎追放事件
虎昌は晴信を支持し最高軍事・行政官『職』の板垣駿河守信方・甘利備前守虎泰と共に譜代家老衆としてクーデターに参加、成功させる。


●天文十一年(1542)
三月九日 
信濃国瀬沢で小笠原・諏訪・村上・木曽連合軍と合戦しこれを撃破。(瀬沢合戦)

諏訪頼重・高遠頼継の軍と連戦しこれを撃破する。

                 
●天文十五年(1546)
五月二十日
武田軍、信州南佐久郡:内山城を落とす。 
虎昌、瀬沢合戦の功により城主となる。


●天文十六年(1547) 
七月
笠原新九郎が約500名で籠もる北佐久郡志賀城を
数千の軍勢で包囲。


八月六日 
上州平井城の関東管領上杉憲政の家臣:金井秀景を出陣させて
3000の後詰が浅間山麓:小田井原に陣を構えた。
虎昌は原”鬼美濃”虎胤・板垣信方と共に精鋭を率いてこれを撃破。さらに真田幸隆が碓氷峠を封鎖して退路を断ち、上杉勢は殲滅。武田勢は大将の首15、雑兵2,000首級以上を討ち取った。
(小田井原合戦)

八月十一日
志賀城は後詰を失い落城。


●天文十七年(1548)
二月十四日 
上田原で村上義清と激戦し板垣駿河守信方・甘利備前守虎泰・才間河内守・初鹿野伝右衛門が討死。

四月二十五日
守備する南佐久:内山城を村上義清率いる8000名の軍勢に包囲される。
虎昌はわずか800の城兵を指揮し奇襲を持って翻弄した。

後に小諸城代となる。


◇武田氏の小県:塩田城(前山城)攻略は
上田原合戦で村上義清によって退けられます。
晴信は痛恨の敗北を喫し、特に諏訪郡代としてその名の轟く
板垣信方の死は衝撃も大きく、武田家が平定したばかりだった占領地:佐久郡の動揺は激しいものでした。
『晴信敗北』の風聞は内山城・志賀城の落城によって上野をはじめとする諸国に散っていた佐久郡出身の浪人にも届き、浪人たちは続々と旧領:佐久郡に帰って村上氏につきました。
諏訪では西方衆:花岡・矢島氏が小笠原長時について武田氏に背きました。
佐久郡の地侍たちも不満を爆発させて武田家に背き、小笠原長時・村上義清は連合して混乱する諏訪・佐久郡の奪取に乗り出します。
内山城は武田家の佐久郡の本拠地であり、抜かれると甲斐も危険な状態になりました。
しかし晴信は諏訪を攻める小笠原を無視することが出来ず、上田原敗戦の損害もあって強力な後詰を出すことができませんでした。

このような困難な状況ではありましたが虎昌は寡兵を指揮して内山城に籠城し、勢いに乗る勇猛な村上勢を見事に食い止めました。
晴信の期待に答えた、まさに赤備えの活躍と呼べるといえます。

(千曲之真砂には村上勢に”長尾景虎助勢”の記述が見られます。しかし天文十七年末、景虎(謙信)は兄:晴景との抗争の後ようやく長尾家の家督、越後守護代職を継いだところでありました。しかも一族の上田:長尾政景との抗争を控えいまだ越後の完全統一はなっておらず、この状態で景虎が村上義清のために佐久郡へ援軍出兵したというのは考えにくいです。仮に天文十七年以降、景虎が内山城まで攻め寄せたということであれば、越後勢は甲斐国境近くまで肉迫したことを示し、つまり川中島を完全に掌中に収めたことになります。以上のことからこの記述は架空の事実と思われます。)




七月十九日
態勢を立て直した晴信は内応工作を駆使して三村・西牧・山家氏の抱きこみに成功し
塩尻峠で小笠原長時を前後から挟撃、敗走させる。




●永禄四年(1561)
九月十日
▽第四回川中島合戦(別リンク)


●永禄八年(1565)
信玄の駿河侵攻に反対した長男・太郎義信の謀反事件に傅役として連座し、罪を一身に背負って自刃。
この時、虎昌は弟の源四郎(後の山県昌景)に謀反の事実を知らせ、信玄に密通させて大事になるのを防いだといます。
謀反の首謀者は本来斬首されるのがその末路でありますが、
虎昌は自刃・切腹の沙汰を受けており、しかも弟の源四郎を家老にしていることからみても信玄は虎昌の武田家を想う忠節を源四郎から聞いていたのだ

と思います。
もともと信虎・信玄二代に仕え、信虎追放の時には功労者でもあった虎昌の忠義は揺るぐべき物ではなく、信玄は陰ながら虎昌の忠節に答えるよう対処

しています。


万が一義信のクーデターが成功した際、虎昌は武田家の筆頭家老となり、
クーデターが失敗した際は源四郎が飯富家を残すことになります。

これは真田昌幸が関ヶ原合戦に先立って嫡男:信幸を”江戸”徳川家康につかせ、自らは”大坂”石田三成についた家名を残す処世術と似ているとも言

え、
虎昌が源四郎に信玄への内通を促したのは
どちらかが斃れてもどちらかが家名を残こすことを考えたのかもしれません。

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虎昌には武器の使用の解釈で、信玄をひどく感心させ、甲州軍団中の評判になったという逸話があります。

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