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陸軍戦闘隊撃墜戦記コミュの赤鼻のエースと中国の鍾馗戦隊(冒頭部分)

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ブラスコウさん、早速、コミュニティ参加ありがとうございます。以下は今書いている原稿の一部です。

敵は速い、P-40の上を悠々と回ってる!

 昭和18年11月10日、10時15分(現地時間)。よく晴れた朝だった。在支米軍、第16戦闘飛行隊のロイ・ブラウン中尉は4機のP-40を率いて衡陽飛行場から洞庭湖の岳陽付近から漢口に至る揚子江の水上船舶掃討に飛びたった。僚機はチャック・アーカート少尉。ウォルター・リチャート中尉とコータムの編隊は上空掩護として高度6千メートルを航進していた。囮の偽飛行機しか置いていない日本軍の岳陽(白螺磯?)飛行場を過ぎると中国側からの情報通り、河のあちこちにかなり大きな船舶が散在していた。2機のP-40は、揚子江を漢口に向かって遡上しながら船舶を機銃掃射。彼らは軽高射砲による応戦を受けたものの、全長約20メートルの船を1隻撃沈、15メートル前後の船舶2隻を射撃、一隻は発煙、もう一隻は甲板まで水没した。
 折から地上では日本の第11軍が洞庭湖の西岸にある要衝、常徳への進攻「江南作戦」を実施中で、揚子江の船舶は進攻部隊への補給の重要な部分を担っていた。この作戦では従来になく多数の米中空軍機が出撃、日本軍への対地攻撃を繰り返していた。第3飛行師団は九九双軽の飛行第16戦隊、九九襲撃機装備の飛行第44戦隊、一式戦装備の飛行第25戦隊に進攻部隊への直接協力を命じていたが、後方地区の補給、連絡線の制空は手薄となりがちだった。
 ブラウン中尉は無線で掩護編隊に河から離れ、新堤付近で、陸上目標を探すと通告した。実はこの時、上空掩護の2機は12機の日本戦闘機と交戦、撃退はしたものの交戦中にリチャート中尉のP-40が行方不明となっていた。
 一方、ブラウン中尉等の2機はトラック縦隊を発見。何台も炎上させ、掃射で日本兵を満足行くまで追い散らした。だが、その帰途、彼は前方から太陽を背負って、ゆったりとした縦列編隊で緩降下して来る機影を見つけた。8機いる。その短い翼とずんぐりとした姿は、中国空軍が使っていたリパブリックP-43「ランサー」に見えた。だが翼に日の丸がある。いったいこれは? 見慣れた「ゼロ」の優美な姿とはまるで違う。そして非常に高速だった。
 日本の編隊長機は急旋回すると対進攻撃を挑んできた。だが未熟な操縦者らしく旋回が終わる前から発砲を始めた。そして絶好の射撃位置に入ってきた時、ブラウン中尉は日本機の大きな空冷エンジンを照準に捉え、6門の50口径機関砲の引き金を引いた。だが彼はすでに対地攻撃で全弾を撃ち尽くしていた。日本戦闘機は激しく発射火光を閃かせながら突進してくる。だが1発も命中しない。ブラウン中尉は僚機に目を転じた。まったく被弾しなかったのは、敵機が皆、アーカート機を狙っていたからだ。彼の機体は穴だらけにされていた。アーカート機にも弾薬はほとんど残っておらず、彼は時速650キロ近い速度で降下離脱していった。
 小太りの日本戦闘機は四方八方から追いすがると次々に長い連射を放つ。日本機は2機の、発煙し気息奄々と飛ぶP-40の後上方を悠々と旋回しながら何度も攻撃航過を行った。しかし絶好のカモを撃ち落とす前に全弾を撃ち尽くしてしまったらしい。岳陽を過ぎると追って来る敵機は1機だけになっていた。日本戦闘機は間近まで迫って来た。ブラウン中尉が体当たりしてやろうと試みると、日本機は岳陽の方角に去って行った。アーカート少尉機は方向舵を撃ち落とされ、燃料タンクは破裂、油圧システムは射抜かれ機体中に大小無数の穴を開けられていたが基地にたどり着きなんとか不時着した。
 現地時間の13時10分、リチャート中尉機を除く3機は衡陽に帰り着いた。後に、負傷したリチャートも中国の民船に乗って帰ってきた。上空掩護の2機も8機の日本機に上空から襲われて交戦。彼は撃墜され、落下傘降下したのだ。ブラウン中尉は、ジープに乗って駆けつけて来た第16戦闘飛行隊の指揮官、ロバート・ライルズ大尉と、第23戦闘航空群の指揮官、デイビッド「テックス」ヒル大佐に「今日の敵機はすごく高速で、P-40の上を悠々と回っていました。射撃の腕が悪かったから助かったようなものです」と報告し、今日遭遇した敵機は情報部が「トージョー」と呼ぶ戦闘機であったことを知った。3週間後、ヒル大佐自身も、この恐るべき「トージョー」と戦うことになる。
 以上は米国の研究者スティーブ・ブレイク氏の協力で入手した第16戦闘飛行隊の戦闘日誌と、彼が主宰する米第14航空軍戦友会の雑誌「ジンバオ・ジャーナル」に寄せられたブラウン中尉による体験談の抄訳である。
 一方、昭和18年11月20日の朝日新聞には、10日、13時23分、地上で展開中の江南作戦を上空から掩護するため制空中であった陸軍戦闘機隊は揚子江の嘉魚(新堤の北東50キロ)上空において2機のP-40を発見。逃走を試みる両機を長沙上空まで追撃し撃墜したと報道している。当時、長沙はまだ中国側の勢力圏にあったので、米軍の脱出操縦者(リチャート中尉)が救出されたと言う話にも合致する。現地時間と日本時間には2時間の開きがあるので、新聞記事の13時23分は、米軍からみれば11時23分になる。さらに13時56分、河口付近でまた2機のP-40を発見。同地南方数十キロまで追撃、うち1機(アーカート機?)に黒煙を曳かせたが、雲のため墜落を確認することはできなかったとしている。
 この時期、中国大陸で米軍に「トージョー」のコードネームを付けられた中島のキ44、二式単座戦闘機「鍾馗」を装備し、漢口付近に出撃可能だった部隊は飛行第85戦隊のみである。当時、戦隊主力は広東に常駐し防空任務に就いていたが、10月6日に第1中隊の6機が漢口防空に抽出されていた。P-40を一方的に撃墜したのは、黒ずくめの服装で異彩を放っていた第1中隊長、洞口光大尉等である可能性が高い。
 ブラウン中尉の回想にある日本軍操縦者の射撃の腕については、残念ながら事実であったようだ。中国大陸での航空戦を担っていた第3飛行師団(後に第5航空軍に改編)の司令官、下山琢磨中将自身も戦後にしたためた回想録で、幼少時から銃器や狩猟に親しんでいた者の多い米軍に比べ、日本の戦闘機操縦者の射撃技量が劣っていたことを認めている。日露戦争の頃から日本軍は、対戦相手から、砲兵は優秀だが歩兵の小銃射撃は拙劣であると評価されていた。太平洋戦争でもしかり。砲術は科学だから教育程度の高い兵が多い日本軍にとって得手であったが、鈍重といって良いほどの沈着さが必要な小火器の射撃は全般に神経過敏な傾向がある日本人には向かなかったのであろう。日本軍戦闘機乗りの空中射撃の拙劣さも、日本人全般の生育環境や国民性の何かがもたらしたものなのだろうか。
 もうひとつ印象的なのは「鍾馗」の対戦相手であるカーチスP-40の撃たれても撃たれてもなかなか落ちない頑丈さである。防弾性の良さに加え、仮に撃墜されても落下傘降下や不時着で操縦者が生存し万難を排して帰ってくる粘り強さにも舌を巻く。
 撃たれても容易には発火も墜落もしない戦闘機で、落とされても操縦者が生還してふたたび挑戦してくる。被弾に弱い戦闘機で戦い、ほとんど場合、墜落がたちまち戦死につながる日本軍とは対照的なこの米軍の戦い方が、やがて戦闘機の数や、速度、運動性、武装、航続距離等の機体性能の格差、そして操縦者の空戦技量差にも増して、中国大陸の辺境で長く続いた戦いの帰趨を決して行くことになる。

コメント(1)

陸軍戦闘隊撃墜戦記の第一巻の冒頭は、こんな感じで始めようと思っています。中国戦線の鍾馗部隊の活動を描いた書籍はこれまでまったく出版されていないのではないかと思います。結構、活躍してるんですよ。

この部隊は後に四式戦に機種改変して、P-51を一方的に3機撃墜(米軍資料で確認)したりしているんです。

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