ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

『嫌韓流』を検証するコミュの韓国人研究者は井上角五郎をどう見ているか

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
 これまで井上角五郎とハングル漢字混合文(国漢混用文)の関係、漢城周報の関係について見てきました。中川八洋氏は井上の業績が韓国でまったく無視されていると論じています。

 ここでは韓国人研究者、それも歴史研究者ではなくて国語史の研究者はどう見ているのかを紹介します。申昌淳(2003)『国語近代表記法の展開』(太学社)という本がもっとも詳しく論じていますから、これを日本語に翻訳・要約して紹介していきます。

 この本の第5章では、まず1994年11月21日に王から勅令が発せられ、「法律や勅令には以後漢文とこれを訳した国漢文の混用を用いること」とされたことが記されています。「国漢文の混用」とはハングル漢文混合文のことです。こうしてハングル創制500年ぶりにハングルが公用文に使われるようになったのです。問題はこの「国漢文の混用」という文体がどのように形成されたか、ということです。

コメント(14)

 申昌淳(2003)『国語近代表記法の展開』(太学社)から
 451ページ
 
 
 ・・・兪吉濬(1856−1914)は早くに1881年に朝鮮政府から日本に「紳士遊覧団」を派遣する際に同行し、日本にそのまま滞在しながら福澤諭吉が設立した慶応義塾に入学した。兪吉濬は留学中福澤諭吉の家に寄寓しながらその指導を受けたが、福澤は日本の開化巨頭で朝鮮の経綸にも関心を持っていた。特に福澤諭吉は早くから朝鮮人の教育上、文章を容易にしなければならず、またその国の諺文を漢字と混合使用しなければならないという考えを持っており、兪吉濬が彼の家に滞在する期間中に、兪吉濬をして自著『文字の教』の文章を漢字諺文混用文で翻訳させ、朝鮮の文章はこうでなければならないと述べたという。

 (つづく)
 申昌淳(2003)『国語近代表記法の展開』(太学社)から
 451ページ〜452ページ
 
 福澤諭吉のこのような勧めがなくても兪吉濬としては日本に来て見て、日本の早い開化が彼らの仮名漢字混用文のおかげであることにたやすく気づいたはずである。しかし福澤の教えが我々の文章語改革の意義と漢文に代わる文体が国漢字混用体でなければならないということについて、さらにはっきりとした認識を持つようになっただろう。兪吉濬は後日、1908年6月10日付け皇城新聞に書いた「小学教育に対する意見」という論説で漢字と漢文を区別し、漢文は廃止しなければならないが漢字の使用は必要であるとし、「小学教科の書籍は国漢字を交用しなければならない」として、わが文章語としては国漢字混用文体を取るのが正しいと述べている。

 (つづく)
申昌淳(2003)『国語近代表記法の展開』(太学社)から 453ページ

 これまで我々の文体改革と関連し、福澤諭吉の兪吉濬に対する影響を述べてきたが、福澤の朝鮮語文体改革はこれにとどまらない。福澤諭吉は韓国で文章語を漢字ハングル混用文にする利点も述べているが、また彼は朝鮮の文化的誘導の必要性を主張して朝鮮開化の具体的手段の一つとして朝鮮で新聞を発行するという考えを持っていた。この福澤の意図がわが国での新聞発行にどのように作用したのか見よう。
 1882年7月、壬午軍乱が発生し、その事後処理のために同年8月に朴泳孝が修信使正史として日本に赴いたとき、朴泳孝は日本の文物を視察しつつ、朝鮮近代化の方策を模索していた最中に金玉均の紹介で福澤諭吉に出会った。

 (つづく)
申昌淳(2003)『国語近代表記法の展開』(太学社)から
453ページ

朴泳孝は自分の意図するところを推進するための要員の斡旋を福澤に依頼したが、前で述べたように福澤が新聞発行を念頭に置いており、朴泳孝、金玉均などと同じ考えを持っていた次第があり、お互いの意見は一致した。よって1882年12月、朴泳孝らの帰国と同時に福澤の斡旋で新聞編集者2人、印刷技術者2人、その他の部門の技術者4人が韓国に送られたが、この一行にはその他に慶応義塾卒業生で、福澤の弟子である井上角五郎という者が同行することになった。
 1883年1月に帰国した朴泳孝はすぐ漢城府判尹に就任し、高宗から漢城府の主導のもとで新聞を発行する許可を受けた。
申昌淳(2003)『国語近代表記法の展開』(太学社)から
453−454ページ

 ・・・新聞発行計画の実務を担当させるために朴泳孝は兪吉濬を帰国させた。兪吉濬は新聞発行が国民の開化のために何よりも必要だと考えて、実務に没頭した。兪吉濬はこれから発行される新聞の創刊辞と新聞に関する解説文を書いたが、この新聞創刊辞が漢字ハングル混合文になっており、兪吉濬は最初の国漢字子尿文を書いた者として記憶されるようになる。この創刊辞原稿には朴泳孝が自筆で修正を加えており、このことから見て二人は新聞の文体を国漢字混用文にするつもりであったことがわかる。
申昌淳(2003)『国語近代表記法の展開』(太学社)から
454−455ページ

 ところで朴泳孝、兪吉濬の新聞発行の試みは挫折した。朴泳孝が1883年4月10日、突然、広州留守に左遷されたのである。そうなると兪吉濬もどうしようもなく4月16日、病気を理由に辞任してしまった。新聞発行の試みはこのようにして
挫折してしまい、福澤諭吉によって派遣されていた新聞編集人2人も韓国にとどまることができず、日本に帰ってしまった。ところが一緒に来ていた井上角五郎は若い意気と尊敬する福澤の朝鮮での新聞発行の意思を実現しなければならないという心情で印刷工2人を押しとどめて滞在させ、新聞発行のための活動を始めた。

 「漢城旬報」は漢文で書かれていたと言われていますが、兪吉濬の書いた創刊辞が漢字ハングル混合体であったということは注目されます。また井上の行動が類書に比べ詳しく書かれています。
申昌淳(2003)『国語近代表記法の展開』(太学社)から
455ページ

 ・・・彼(井上)はついに朴泳孝が日本修信使として行く時に修信副使として随行した金允植の紹介を受ける。金允植は当時政権の中枢におり、閔氏一族とも関連が深く、保守派ではあったが、開化の思想をもっており、井上角五郎の新聞発行にかける意欲を理解して積極的に助けることとなった。金允植は総理交渉通商事務衙門の協弁(次官)であったが、1883年6月、井上を同衙門の顧問に委嘱し、新聞発行を援助した。
 金允植に井上が提出した新聞発行事業の計画案では・・・(中略)新聞の文体を漢文としたことは、漢文を真文とし、ハングルを「諺文」としていた保守勢力の慕華思想に妥協するためであり、また、未だ適当な漢字ハングル混用文の執筆者がいなかったためだ。

 これでわかるように井上も当初から漢字ハングル混合文を目指していたわけではなく、漢文による新聞発行もやむなしと考えていたことが分かります。
申昌淳(2003)『国語近代表記法の展開』(太学社)から
455ページ

・・・1883年8月総理交渉通商事務衙門の傘下に新聞発行機関としての博文局が設置され、新聞編集の陣容を整え、井上はその実務責任者となり、日本語・英語・中国語(漢文)の翻訳・編集という業務を行うようになった。こうして同年10月1日(陽暦10月31日)に「漢城旬報」の創刊号が発行された。「漢城旬報」はこのように井上角五郎と金允植の努力によって発行を見たのである。
 井上は「漢城旬報」が出るたびに福澤に送ったが、福澤は井上に送った手紙で新聞の文章を漢文でのみ書かずに、ハングルを混ぜて書くようにすることを慫慂した。(つづく)
申昌淳(2003)『国語近代表記法の展開』(太学社)から
455ページ〜456ページ

 井上も以前から持っていた意思を実行しようとして、当時儒学者および朝鮮語学者として有名であった姜瑋(1820〜1884)を個人教授として呼んで、彼をして漢字ハングル混用文体を研究させた。姜瑋も漢字ハングル混用文体が実行されれば便利になるだろうとして様々に研究を行った。国漢混用文体の研究がある程度進展し、井上は金允植や博文局員らと新聞におけるこの文体の採用を論議したが、その趣旨には賛成であるが、ハングルを諺文として蔑視していた当時の社会では受け入れようとしないだろうとして、漢城旬報では国漢字混用文はついに日の光を見ることはなかった。

 日本人の井上が国漢混用文を推進しようとしていたのに対し、朝鮮側がむしろこれに反対していたという興味深い経緯が記されています。
申昌淳(2003)『国語近代表記法の展開』(太学社)から 456ページ

 ・・・しかし1885年に創刊された漢城周報では国漢字混用文章の使用が実現したが、漢城周報の発行も井上角五郎の尽力によって成し遂げられたのである。その経緯を見てみよう。
 漢城旬報の発行も軌道に乗ったころ、金玉均、朴泳孝などによって1884年12月4日、甲申政変が起こされたのであるが文字通り三日天下に終わってしまった。ところが政変鎮圧の最中の12月6日、博文局に火災が発生し新聞の原稿や印刷機械などがすべて焼けてしまった。井上もこの政変に関与していたため、一身の危険を感じて11日に日本に帰国してしまった。しかし井上は政変後、いくばくもたたない1885年1月3日に特命全権大使・井上馨の随行員として再び漢城に帰還することができた。
 申昌淳(2003)『国語近代表記法の展開』(太学社)から 456ページ

 井上は新聞の再刊計画を進行する間、国王に国民教化のためにハングルを使用するようにしなければならないという趣旨の建議書を金允植を通じて奏上したが、金允植は姜瑋が案出した漢字ハングル混用文を書くことを付け加えて高宗に上奏した。その結果、1885年5月12日、高宗は新聞復刊の允許を下した。こうして翌年の1886年1月25日(陰暦12月21日)漢城周報が発行された。
 漢城周報は政府機関である博文局が編集・発行し、官報と啓蒙紙を兼ねるという点で形式上「漢城旬報」の続編であると見られるが、題字が異なり、漢城旬報が旬刊であるが、漢城周報は週刊であるというということ、また漢城周報が純漢文で発行されたのに対して、漢城旬報は漢字ハングル混用文体を採用したという点で別個の新聞と見るべきである。
  申昌淳(2003)『国語近代表記法の展開』(太学社)から 457ページ

 こうして漢城周報は政府公認のもと公然と開化期以来はじめて漢字ハングル混用文を書く嚆矢となったのである。(中略)漢城周報発刊に尽力した井上は漢城周報の編集に5、6ヶ月従事して日本に帰国したが、その影響もあったのか漢城周報の文体状況は国漢字混用文体や純ハングル文体は次第に減少し、47号からは純漢文体のみが使われるようになった。漢城周報での国漢字混用文体使用の試みは漢文体を選択する保守勢力に押されて失敗に終わってしまった。漢城周報は創刊2年6ヶ月後の1888年7月7日に廃刊されてしまった。

 この部分は非常に重要です。『嫌韓流』にも中川八洋氏の本にも漢城周報の漢字ハングル混合文が最後には失敗したということが書かれていないからです。確かに漢城旬報は漢字ハングル混用文の嚆矢と見ることはできますが、この文体が完全に定着するまでにはなお若干の時間を要したと見るほうが妥当なようです。
 以上、長大な引用をしてきましたが、これで見るように韓国の研究者も井上の業績を十分に認めていることがわかります。申昌淳氏は近代において韓国語の表記や文体がどのように形成されたかを研究しており、引用した論文も日韓の論著を渉猟したもので、十分に信頼がおけるものです。次にはトピを変えて批判本・『「マンガ嫌韓流」のここがデタラメ』の内容について検討していきます。
「韓国人研究者は井上角五郎をどう見ているか」のトピック文9行目
この本の第5章では、まず1994年11月21日に王から勅令が発せられ、

 上記の部分についてご指摘を戴きました。1894年でありました。訂正いたします。

ログインすると、みんなのコメントがもっと見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

『嫌韓流』を検証する 更新情報

『嫌韓流』を検証するのメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング