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枡野浩一のかんたん短歌blogコミュの宇都宮敦さん寄稿 その先の「かんたん短歌」

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現在休止中の「かんたん短歌blog」ですが、みなさまからの寄稿が掲載されることがあります。 作者の方に許可をいただきましたので、記録の意味も兼ねてコミュでも掲載させていただくことにしました、感想やご意見などありましたらコメントよろしくお願いします。

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宇都宮敦(http://air.ap.teacup.com/utsuno/
寄稿『その先の「かんたん短歌」』
(2008年1月5日)


死ぬほどの悲しみじゃないということが生きてくことを難しくする

この短歌を読んでみなさんはどういう感想をもつだろうか。きっとここを読むような人の多くは、おもしろいとかつまらないといった感想をもつ前に、枡野浩一の短歌に似ているって感じるんじゃないだろうか。実はこれ、僕が初心者のころつくった歌なんだけど、自分では、けっこう完成度の高い歌だと思っていて、それでも、枡野さんの影響うけすぎだよなー、って自己チェックのすえ、お蔵入りとしていたものだ。

枡野浩一の短歌の特徴を一語であらわすとしたら、(当然例外もあるが)<いま使われている書き言葉で書かれた切れ目のない一文にみえる57577ぴったりの短歌>となるだろう。一語で書こうとして、無理のある日本語になっているけど。これは「かんたん短歌」の作歌作法と重なる部分もあるけれど、やっぱり枡野浩一の短歌の説明だ。なんの考えもなしに<>内の説明どおりにつくると、冒頭の歌のように、枡野浩一もどきの歌になってしまう。それは、<>が、かんたん短歌の大命題、「簡単なのに感嘆できる短歌」であるための手法であると同時に、暗に短歌の生命線であるリズムも規定しているからだ。現代書き言葉で切れ目のない57577をつくると、どうやっても、音楽用語でいったら短調(単調でないよ)でかつデクレッシェンドがかかっているような旋律になる(註1)。どの歌を挙げてもいいんだけど、たとえば、

こんなにもふざけたきょうがある以上どんなあすでもありうるだろう/枡野浩一

このリズムが、怒りや悲しみややるせなさを鎮静化するという詩的効果をあげていて、いま、かるい気持ちで詩的効果なんて書いてしまったけど、<>の中の内容はアンチ・ポエジー(詩的であることの否定)の表明であるのに、リズムの部分で詩にするという二面性をもっていて、このことが枡野の短歌の魅力のひとつになっている。しかし、この<>を作歌作法としてしまうことは、ちょっと言葉のセンスがあって自分でもなにかやりたいなって思っている者にとって大きな罠だ。短歌をつくるおもしろさってのは何かと言ったら、57577の定型と戦っているうちに自分の本当の気持ちに気づけるってことだと思う。はじめに書こうとしたことが、57577のとおりなんてほとんどない、だから、あわせようと、語彙をかえたり順番をかえたりする、ようやく57577にあったけどなんかちがう、また言葉をいじる、57577からはずれた、直す、そんなことを繰り返しようやくこれでいいんじゃないかと思える頃には、はじめに書こうとしたことよりずいぶん遠くにきている、でも、ずいぶん遠くのここのほうがスタート地点よりも本当に近い気がする、と、こんな感じで。ただここで注意したいのは、自分の本当の気持ちに近づくことと定型に気持ちを合わせてしまうということは別のことだということだ。短歌において気持ちとリズムは不可離の関係なので、リズムが規定されていると、よほど強い意志をもたないかぎり、気持ちも規定されてしまう。つまり<>のようにつくると、気持ちも枡野浩一っぽくなる(註2)。<>は、枡野さんが自分の言いたいことを言うために定型と戦って手に入れたものであるから価値がある。それなのに、それをトップダウン的に使い、自分の言いたいことを合わせにいけば枡野浩一みたいな短歌になるけれど、その実は全く別ものだろう。冒頭の僕の短歌みたいに。

ここまで形と気持ちについてみてきたけれど内容についても考えてみよう。「簡単なのに感嘆できる短歌」を目指すことは「わかりやすさ」を目指すことと同じ意味と捉えられがちだけど、ここにひとつ大きな勘違いがあると僕には思える。

こんなにもふざけたきょうがある以上どんなあすでもありうるだろう

さきほどあげたこの短歌にもう一回登場してもらうと、この短歌はたしかに意味はわかりやすい。この歌の読みを書こうとしたら「こんなにもふざけた今日がある以上どんなあすでもありうるだろう」と短歌そのままの繰り返しを書くしかない。でも、「どんなあす」が、今日よりまともな日なのかもっとふざけた日になるのかはわからない。一読目はどんな人もどちらか一方(その人の置かれている状況や個性でどちらか読みたいほう)で読むだろう。そして、少し間をおいて、逆の含みもあることに気づく。それによって自分の読みたい方向(すなわち、自分の置かれてる状況や個性)が相対化されて、おーっと感嘆する。このように枡野浩一の短歌において、一読してわかるのは意味だけでつねにおもしろさは遅れてやってくる。というか、この時間差がおもしろさだとも言える(註3)。多くの枡野フォロワーがしくじるのはたいていここで、一読して意味もおもしろさもわかるように作ろうとして、結果、わかるけれどつまらない短歌をつくってしまう。簡単(わかりやすさ)と感嘆(おもしろさ)は等号記号で並記できるものではなく、簡単は感嘆に従属しているものなのだ。意味のわかりやすさ、一読して意味がつかめることが大事なのは、遅れてくるおもしろさのためであって、読者への媚びではない。媚びとサービスは違う。

死ぬほどの悲しみじゃないということが生きてくことを難しくする

この歌、意味は書かれている以上のものはない。でも、死ぬほどの悲しみだったら死んじゃうんだって、言わば当たり前すぎる気づきがあとからやってきて、人によってそこに絶望を感じたり希望を感じたりする。なんか自分で解説書いていて、いい歌な気もしてきたけれど、やっぱりだめだと思う。この歌、リズムと気持ちだけでなくて、おもしろさの産み出し方も枡野浩一的なのだ。そして問題は、枡野浩一以外の人間が枡野浩一的おもしろさを追求して本当におもしろいのかってところにある。

ここまでの文章、かんたん短歌否定のように見えるだろうか。よくできたかんたん短歌は結局、枡野浩一もどきにしかならないことを長々証明してきたように見えるかもしれない。でもここで言いたいのは、枡野さんの歌を本当にいいなと思っているのなら、その意匠ではなく、スピリットの部分を継承するべきなのでは、ってことだ。「かんたん短歌」の反対にあるのは「短歌らしい短歌」と言っていいと思う。「短歌らしい短歌」なんてそんなもんはないと反論する人がいるかもしれない。僕もそう思う。でも、ありもしない「短歌らしさ」をなぞることが「短歌」を作ることと同じ意味だと考えられている場合があるとも思う。「男らしい」「女らしい」「日本人らしい」、なんでもいいけど「らしい」はその本質からもっとも遠い。「短歌らしい短歌」、そんなものはないかもしれないけれど無意識のうちに、「短歌らしさ」に逃げ込んでしまってはいないか、それは「短歌」からもっとも遠いんじゃないか、自分のやりたいことは本当にこういうことなのかって問いかけのすえに、枡野浩一は枡野浩一になったのだろう。スピリットとはこういうことだ。

枡野浩一をきっかけに短歌を作り始めた人間は、その後、二極化するように思える。一方は、上記のことをまったく疑うことなく、かんたん短歌はすばらしい、って原理主義的に盲信する人。もう一方は、上記のようなことを中途半端に考えて、かんたん短歌に絶望し、それまでの共感が全否定にひっくりかえる人。僕には、後者が「短歌らしさ」に逃げ込んでいるふうにみえるし、前者も実は「かんたん短歌らしさ」に逃げ込んでいるだけに思える。でもそれは「短歌らしさ」を疑うことで成立した(と思える)かんたん短歌からもっとも遠い。自分の本当の気持ちはどんなだろうって短歌を使って考えたり、新しいおもしろさを作ってみようって考えたら、どちらの道にも進まないはずなんだけど。実際は、なんか違うなと思いながらも、どうやってそこから抜け出せばいいのかわからないというのが本当のところなのかもしれない。そういう人は、上で形(リズム)と気持ちと内容ってみてみたけど、形からいろいろやってみればいいと思う。話し言葉をいっぱい使ってみたらどうか、文の切れ目をいれてみればどうか、句割れ・句またがりを使ってみる、etc、etc(註4)。そこまでやってみて、それでもしっくりこない。意味が通らなくてもいいからもっとテンションの高い言葉を使ってみる? それとも、昔の言葉を使ってみる? 「簡単なのに感嘆」ではなくなったけど、それを代償にする価値がこの歌にある? ここまで考えているなら「短歌らしさ」に逃げているなんて僕は思わないし、逆に、いろいろやったすえに、<>で書いたような短歌を作ったとしても枡野さんとはまた違ったおもしろさのある短歌ができるかもしれない。ここに書いたようなことはたしかにしんどい。でも、このしんどさこそがおもしろさだと思えないようだったら、短歌をやっている意味はない。

最後にひとつ。ここまで読んで、でも、わたしはそんなだいそれたことは考えてなくて、ただ枡野さんに採ってもらいたいだけなんです、という人がいるかもしれない。だけど、そういう人はなおさらここに書いてあるようなことを考えたほうがいいと思う(といっても、文語旧かなまでいってしまって枡野さんに投稿するのはちょっとズレてる気がするけど)。枡野浩一風の短歌を作って、あるいは枡野さんのアドバイスに優等生的に従ってるだけで、枡野さんに採ってもらうのは難しい(註5)。むかし、NHKの「ようこそ先輩」に枡野さんが出て、母校の小学生に対して短歌を教えていたときのこと(記憶で書くので細かいところは間違えてるかもしれません)。「友達を励ます短歌」という課題に対して、多くの生徒が「大丈夫」という直接的な言葉を書いてくる。すると、こんな中身のない言葉で自分は励まされますか(反語)、と枡野さんは言い、「大丈夫」を使用禁止にする。そのあと、生徒の短歌は急激におもしろくなるのだけど、それをテレビで見ていた僕は、おーさすが、と思うと同時に、だけど、と思ったのです。だったら、そのペラくて何の力もない言葉は僕が引き受けようって。そして、当時、他の部分は完成していたのにどうしても初句がしっくりこなかった短歌の初句におきました。そういう感じである意味、枡野さんの忠告にまっこうから逆らったその短歌は、しかしその後、枡野さんによく引用してもらってます。

だいじょうぶ 急ぐ旅ではないのだし 急いでないし 旅でもないし

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註1:枡野浩一の短歌のリズムについての考察は、ほかの歌人からもされていて、だいたい共通の認識がなされていると思います。たとえば奥村晃作さん(フラットな歌い下げ:http://www5e.biglobe.ne.jp/~kosakuok/ron.html)、永井祐さん(だるいような、内向的な、何もしてないのに疲れたような韻律:http://blog.livedoor.jp/m-69_81425/archives/3105163.html)。
註2:枡野浩一『あるきかたがただしくない』303ページで引かれていた、小説家・保坂和志の『かなしーおもちゃ』収録の短歌を読んでの感想「枡野浩一でない誰が作ろうが、すべて「枡野浩一の世界」です」への、なぜそうなるのか、僕なりの考えです。
註3:かんたん短歌には詩的飛躍のある短歌と別種の技術がいるのではないかということは、いままで幾度か指摘されています。たとえばここでの「別次元のスキル。」と題されたひぐらしひなつさんの書き込み(http://6540.teacup.com/k/bbs?OF=30&BD=10&CH=5 )。
註4:ここに書いてあるようなことは、枡野さんの上の世代の人たちがすでにやっていたことだったりするので、退化にみえるかもしれないけれど、枡野浩一を経由して、そこに戻るのはまた違うと思う。というか、言葉の芸術に一方向の進化みたいなものはない。
註5:でも、たとえば志井一さんのような例外もいて(まあ、志井さんに優等生的なイメージはないが)、僕もおもしろいと思うし、なんでおもしろいのかって理由を考えたこともあるけれど、ここではとりあえず置いておく。

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