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哲学が好きコミュの私たち人間に選択できる未来はあるのか?

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この問題は存在理由、自由意志と決定論、絶望と希望などの議論から派生する問題である。



コメント(186)

>>[146]

>選択するってのは「選択肢」があってこその選択じゃないかなあ。そういう感じだと、
「あからさまな」選択肢ってないんじゃないかな。ビデオゲームじゃないんだから。

ゲームの場合には「コマンド」というかたちでハッキリと選択肢が提示されますね。

一方でワタシたちの普段の生活の中では、ゲームのコマンドのようなメニュー項目が明確に提示されない場合の方が多い。

立ち上がって歩き出す時に右足を先に出すか左足を出すかっていうのは完全に無意識的にやっていることでそういう行為を「選択」とは呼ばないだろうし、日常的な動作や振る舞いの多くが無意識的で脊髄反射的なもののような気もする。

それに選択の可能性は常に技術や環境によって外延が決められているから、もし今仮に倫理的に完全な自由を与えられたとしても、「殺人」という選択肢を提示されても人は簡単には人を殺せないと思う。


>>[148]

>環境なりに「限定するもの」に縛られていて、そういったものに対処するために行動しているだけだと。

もしも人間が物理法則や諸規範、社会的慣習や道徳・倫理などの制約から完全に自由で、主体的(能動的)に意思決定が行えるなら、その決定は自分の意志の力でなされていなければならず、その意志の力を生み出す原因となる意志もまた必要になるし、更にその意志の力を生み出す意志を意志する力も必要になって・・・という具合に無限後退に陥りますね。

要するに人が何かを決定する場合の意志というのは、ある状況に置かれた場合にそれに対処するために自然発生的に生じてくる心の状態のことを指すのだと思います。


>、「頭髪をハードなモヒカンにして一流企業の面接を受ける」という行動は、
現代でもなんら問題のない行動ですね。(道徳的にアレですが)
これも状況……周囲の目というのが主でしょうが、やってのける人間はいないでしょう。

そうですね。たとえ会社側に自由な服装で参加してよいと言われたとしても、普通はリクルート・スーツのような無難な恰好で面接に行きますね。

ワタシたちは無意識的に一般常識とか社会通念のようなものをかなり強く内面化していて、それが行動の規範になってますし、またそうでなければ正常な社会生活は送れないですね。


>そもそも、決定するには何か理由があってのことで、その理由に則して生きているのが人間ですよね。

バーバヤガさんが最初に指摘されていた通り、通常の社会生活では「あからさまな選択肢」が提示されて何かを決定しなければならない場面というのは稀で、大抵の事柄は状況や他者との関係性に応じて無意識的な習慣とか条件反射によって処理してますね。

こういうネット上の言説の大半もそうで、意識的に思考し、熟慮した末にオリジナルな結論を導き出して何かを発言するなんてことはめったになくて、他人の言葉を脊髄反射的にコピペして、それをいつのまにか自分の言葉として発してしまう場合が多い気がします。
横からお邪魔します。

ご参考までに。

「われわれは過去を変更不可能なものと認めている一方で、未来には不意の出来事が起こりうるとか、未来に影響を及ぼすことができるとか考えている。

しかしどんな過去もかつては未来だったわけだから、この過去がすべての未来の現実と同じ非決定の条件下に形成されたのではないかという問いが持ち上がる。

物理学はそのような可能性を許さないし、過去も未来もおしなべて完全に決定されているという公理を前提としているというのが、おそらく従来から一般に認められてきた考えだろう。」

 「ゲシュタルトと時間」ヴィクトーア・フォン・ヴァイツゼッカー
>>[150]
>どんなこともオリジナルか、全部が偽物なのか。
ごく、当たり前の日常ですね。

はい。

時折、「自分の言葉で語れ!」といか言う人がいますけど、そもそも言語は自分が生まれた時にはすでにあって、それを他者から学び、他者に合わせて使うものなわけで、「模倣」や「コピペ」が混ざるのは仕方ないですよね。

もし完全にオリジナルな言葉を発明して何かを語っても誰にも通じないわけで・・・

ウィトゲンシュタインはこれを「言語の私秘性」として批判的に考えたわけですが、仮に「選択」や「決定」といった「意識の私秘性」という問題に置き換えても同じだろうと思います。

あらゆる状況や文脈を無視して選択や決定を行ったとしてもそれは公共性を獲得することはできない。

空気の読めない奴だとか批判されたり、下手をすると狂人扱いされかねません。㜊
>>[151]

さくらもちさんご自身は、人間は意志の力によって未来を変えることも選択することも可能だとお考えですか?
>>153 栞さん

それができるならもうちょっとマシな世の中になっていてもいいんじゃないかと・・・
人間の不安定性、不確定性が未来を生み出すための必要条件だと思います。
>>[154]

あらゆる物質の振る舞いが物理法則にしばられているとするなら、人間も物質のかたまりですから自由な存在ではありえないですね。

それを踏まえた上で、問題は未来が人間にとってより良いものになるかどうかだと思います。

例えばですが、科学が飛躍的に進歩して、人類にとって絶対的な「共通利益」のようなものが見つかり、それを可視化することができるようになれば、それを基準に社会システムを設計していくというような方法で世の中を「マシ」なものに変えることができるように思うのですが、そういう可能性を語ることすらできないということでしょうかね?
>>154 補足

うまく言えなかったので補足します。

もし未来が非決定であることを認めるなら、この世界に予測不可能なものがあることを認めなければなりません。
その最有力候補は人間だということになります。

他方、未来が決定されているということを認めるなら、この世界には予測不可能なものはないということを認めなければなりません。

人間は、というか生き物は同一の刺激に対して異なる反応を示すことが知られているようです。ということは入力から出力を予測できないということです。

このことから、意志も人間に付随するものである以上、この非決定性の相の下にあるということです。

なので、意志によって未来を選択することは「できる」とも言えないし、「できない」とも言えない、という歯切れの悪い答えしかできません。

人間とは非論理的な矛盾なのです。

私たち人間に選択できる未来はあるのか・・・?

意志の力によって未来を変えることはできないとしても、少なくとも目の前の現実をどう解釈するかの自由はあるだろう。

ブドウに手が届かなかったキツネが「あれは酸っぱいブドウだったのだ」と考えることで自分を納得させたように。

事実命題に、どんな価値命題を付与するかは、
やはり、その人間、それぞれの人間に、任されているのだと考えています。

スピノザ的にみれば、
自分を見つめて、「自己の本性の必然性」に気づき、それに従って自然に生きようとしているならば
自由になれるということでしょうし、
そんな瞬間は、自由さを感じるのではないかなと…。

國分功一郎氏も、何かの本に、
スピノザのいう自由とは、必然性とは対立する概念ではない
という解釈を、書かれていたと思います。
要するに「独我論」的な世界解釈の自由である。

世界はワタシが存在するかぎりで存在する。

ワタシはワタシの外に、ワタシの意識に依存しないものとして世界が存在しているとはっきり認識している。

しかしだからといってそこから世界がワタシの意識に全く依存せず独立に存在することは導き出せない。

思考と、思考対象の「最適解」 という考え方は、興味深いと考えています。

心は、無意識からの贈与を受けとります。ラカンだったかも…
「刺激と反応の関係がこれほどはっきりと非定常的な、しかしそれだからこそ生物的/生命論的に本質的な性格をもっているということ、このことが未来の非決定という相のもとでは生命物質の不可解な属性ではなくなって、一定の未来を生み出す必然的な実現条件となる。

不安定性はもはや予測の不完全さや確定不能ではなく、実際の事象を産出するために必要な不確定性となる。」

     「ゲシュタルトと時間」ヴィクトーア・フォン・ヴァイツゼッカー
>>[160]

ラカンというよりは依然としてデカルトですね。

独我論的思考はどうしてもカルテジアンの枠の外に出るのが難しい。

永井均さんはコギトの外部に出て世界を認識し、再び「私」の内部に戻って世界を記述するというスキームを用いることで「私」の唯一無二性を際立たせるというようなアクロバティックなことをやってますが、それでもやはりデカルト的臭味は抜けません。

ラカン的な文脈で「自由」というものを考えるとどうなるのでしょう?

人間は「大文字の他者」としての「ことば」を獲得した時点でかなり自由を抑圧されるような気もしますが。
チェスや株といったゲームを成立させる条件は「次の一手がわからない」ということです。

株価の値動きをミクロで見ると、次にどう動くのか(同じままなのか、上昇するのか、下降するのか)わかりません。しかし次の値が決まればわかります。
すなわち現在(の状態)が未来を決定するのではなく、未来が決まることによって現在(の状態)が決まります。

話を本題に戻すと、「意志(わたしは〜したい)」も無数の現在のオプションの一つにすぎません。
現在の「不確定性」が未来を生み出し、ゲームが成立します。

ライプニッツの「充足理由律」が間違っているということではありません。
そこに「現在の不確定性」を導入すればよいのです。

ですから「未来は(意志によって)選択可能か?」という問いは成り立たなくなります。
問いを立てるとするなら「現在は(意志によって)選択可能か?」です。

そして答えはもちろん「NO」です。


世界解釈の自由。

世の中の事象を無時間的、分析的にとらえるのではなく、いわば臨床的に柔軟に解釈すること。

定型的なテクスト読解のように一義的な読みではなく、多義的に重層的に世界を読み解くこと。
>>[162]

御意見、ありがとうございます。

>>[160]の「最適解」ですが、ラカンが自己と他者の間の関係において、そういうものを求めた哲学者であったという解釈です。
何か、計算もしていたようです。後で追記しておきます。
>>[162]

「大文字の他者」については、おっしゃるような面はあると思います。
また、規定は、絶対的なものではありませんね。

一定の健康的な精神状態の場合、規定を左右するのは、その鍵は、自分の欲望の中の
他者の欲望の自覚ではないかなあと考えています。
ジジェクの、『ラカンはこう読め』は、面白かったですね。
治療に関してのところで、私のお気に入りの、「コロンボ警部」が、例としてあげてありました。
コロンボ警部は、初めから犯人を、神秘的な力、直観力のようなもので見抜きますね。
確か、別の箇所で、映画『カサブランカ』も、出てきました♪
>>[166]

>一定の健康的な精神状態の場合、規定を左右するのは、その鍵は、自分の欲望の中の
他者の欲望の自覚ではないかなあと考えています。

同感です。

ワタシの欲望とは、他者の欲望を欲望するということですから結局のところワタシは原理的に自分の欲望の主体にはなれないんですよね。

あとトラウマというのも人間の主体的行為を阻害するひとつの要素だと思います。
人間には何かを選択する自由な意志なんか無いんだという議論が、科学の名のもとにこのコミュでもしばしば展開されてきましたね。
しかし、因果律とか構造とか法則などによって対象化され把握されるものとしての人間の心は、
対象化され把握の仕組みの中に組み込まれる時は確かに疑いえないほど自由意志はあやふやに雲散霧消してしまいますが、

人間の心の問題がそれにとどまらないのは、
人間の心が対象化され把握される側面とは別に、

まさに何ものかを対象化し把握する当のものだという側面も持っているがゆえですね。

人間が自らの思惑に基づいてあらゆるものを対象化し把握する際の道具たる因果律や構造や法則などの概念は、
人間の心自体を考える際にも用いられる。
しかし、心とは心を対象化し把握しようと試みるその当の主体でもある。
>>[169]
ご自分で自由意志は有るとトピックを立てられたらどうですか?
>>[170]

確かにトピックを立てる自由はありますね。
しかし、トピックをあまり増やさずに、既存の自由意志の存否に関連するトピック内で議論を続行するということを選択する自由意志もありますから。
>>[171]
では何故龍樹と因果律についてトピックを立ててくれるならそこで話すなどと前いったのですか?
自分で立てればいいのに
78910さんのような発掘王は発掘に徹した方がよろしいのではと(・×・)
古い似たトピがあがりまくって更に新トピ立てまで兼用とか
一時期の日本の不動産事情よろしく地上も地底もカオスになってしまいます。




さて、
一応他の類似トピック等でもあらゆる視点で議論される命題ではありますが、あらかた暫定で
大枠の未来は予想がつくがひとつを正確に「選ぶ」ようにはできていない
といった感じのことが真理wなのではないかと思われますが

そもそも、なぜにヒトは未来を選択しようとすることがあるのか(・×・)
ヒト以外の存在にも、同じような働きを企て?て動くものはいるのだろうか
また
選択できたといった風な実感→「うまくいった」とか「思い通りになった」とか「やっぱり」だとか後になって事象を判断する
その間に世界が動くプロセスとはその他と比較して何がどう違っておるものなのだろうか(・×・)
私の投稿一覧 :

>>[31] 先に関連する参照文献を示します。

>>[34] 人生はゲームです。敵と味方、障害があり、目的を達成するために努力します。古くは演劇に例えられました(シェークスピア)。

>>[35] 人は神から生まれ、譲り受けた「創造の力」を駆使し、この三次元宇宙を造り上げました。

>>[37] 生命の"本質"とは静的なものです。意識があり意思決定がなされる、その中にそれ以上に作用機序を解明出来るものではないのです。

>>[41] 精神が世界をつくり出す様は、次のように描写できます。ある視点を決めます。視点からの広がりは空間と言われます。

>>[42] そしてキリスト者が嘆く「神の助けが得られない」理由は、自らが神であるからです。人は、数兆年もの間に、宇宙を創ったことなどを忘れ去っているのです。

>>[44] 神(無限)と人(制限)との間の関係は、梵我一如です。

>>[47] 人は、個人の宇宙で創造の力を持っています。個人が体験することに神の関与はありません。

>>[50] 宇宙の全ては、創世期から現在まで全てを人が行っていることと、人の与り知らぬところで、運命が定められていたり、何かの導きでものごとが進み行くと言うわけでもなく、全ては人の自由であることを表現したかっただけです。

>>[54] 梵我一如とは、両者を"支配する原理"が同じということでした。

>>[55] キリスト教における終末論は、オーソドックスなハルマゲドンにしろ、エホバの証人のそれであれ、必ず神の救いがあります。神の助けがあるわけです。

>>[77] 上記は、煩悩は際限なく蓄積され人を破滅に導くものと理解されます。

>>[128] このコミュは、以前の論客がいなくなったかのようです。

以上
>>[172]

コメントをいただきながら見落としていました。申し訳ありません。お話の流れがよくわからなくなってしまいましたが、自分で新しいトピックを立てるのは目立ち過ぎるので控えたのかもしれません。人様が立ててくれたトピックでその主題を考えるほうが労が少ないせいかもしれません。




 ∧_∧
(*^ω^*)
⊂   ⊃
〜|  |
 ∪ ̄∪ 待っててね
不良哲学よりW
決定論に対する物理学的アプローチ
https://www.youtube.com/watch?v=4v7aVCMmlfU
>【物理学150年の謎を日本人教授が解明】マクスウェルの悪魔が現れた!/東京大学 沙川貴大教授/教え子にヨビノリたくみ氏/世界レベルの独創性「情報熱力学」
>自由意志

>「自由意志」は存在する(ただし、ほんの0.2秒間だけ):研究結果
われわれに自由意志は存在するのか? 熟考した末の意識的な決断は、自由意志の表れではないのか? 長年にわたって繰り広げられてきた思索と研究の末、いま興味深い研究結果が発表された。
https://wired.jp/2016/06/13/free-will-research/
とっくの昔にほぼほぼ否定されていますが。。

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