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哲学が好きコミュの決定論と自由意志

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コメント(1000)

あの角を曲がっても今日は学校が無いかもしれないし、蛇口から出てくる水は今回は毒かもしれないし、お父さんは明日になったら自分のことを忘れているかもしれない、なんて考えていたら生活できません。世界を信用しなければ、われわれは生きられない。
物理法則が有り因果律が在る。故に我々の脳とゆう物体から発生している現象である精神も
因果律に縛られて自由意志はない。
とみなしている意思はある。因果律が客観的にあるとゆうよりも主観が決めているから有るんだとゆう。
精神が物理法則に則っていると考えるのも精神だから無限ループだ。
だから因果律を無限に遡るのは意味が無い。直近の因果だけ見るべきだ。
しかも本当のところには興味が無いと言う。
真理よりも社会的な責任や自由を重要視するべきだ。


上記の理解で合っているかもよくわからないが。初めて聞く主張だ。かなり分かり難い。理解し難い。
このような主張をしている哲学者っているのでしょうか?
思いついたのは現象学です。真理を客観的なものとはみなさず主体を統一し共通了解を導き出す。
ダニエル・デネットがヘテロ現象学と名乗っていて複雑で独立した現象である人間の意志には
自由意志を入れる余地がある。創発論の立場でしたね。
創発論をもう忘れましたがホッチさんが否定していたっけ。

もうすぐこのスレも埋まりますな。


>>[981]
カントを調べました。なかなか難しい。

現象界における因果の鎖の一環として見れば、私たちの行為は必然という様相で記述可能ではあるが、それに対して実際の行為者の視点から見れば、常に他の行為も可能であったと思えるものである。しかし決定論的な立場とは正反対に、仮に意志がいかなる規定根拠もなしに働くというところに自由の意味を求めるとしても、このときには意志によって生じた行為はまったくの偶然性に委ねられ、決定論的立場におけるのと同様に責任の根拠を問うことは合理的な根拠を失ってしまうだろう。
 このような両者の相克・矛盾を調停し、この両立可能論に一定の解決をもたらす試みのひとつとして、ここでカント(1724〜1804)の問題把握を紹介したい。彼の試みは、意志の自由の有無だけでなく因果性にも深い関心を寄せたものとして、近代における決定論と自由の両立可能論の系譜のひとつの頂点をなすとされている。
 カントは人間の認識能力に制限を加え、世界を二分している。すなわち、認識可能な「現象」(からなる現象界)と認識不可能な「物自体」(からなる可想界)とへの世界の二分である。その上で彼は彼の主著『純粋理性批判』において次のアンティノミー(二律背反)を私たちに提示する。
 定立・・・自然法則に従う因果性は世界の諸現象を生起させうる唯一の原理であるとはいえない。
 反定立・・・いかなる自由も存在しない。世界における一切は、自然法則にしたがってのみ生起する。
 このアンティノミーに関する彼の解決が上に挙げた世界の二分なのである。すなわちこれは、決定論は現象界において成り立つが、しかし可想界では成り立たないことを意味している。世界内のその他の存在と同じく、個々の人間存在もその在り方として現象的な在り方と物自体的な在り方との両面を有する。それゆえにカントは同一人物の意志に関して、それは自然因果の支配下にある、と述べうると同時に、それは自然因果から自由である、とも述べうる。というのは、人間は現象としては因果性によって決定されるが、超感性的で可想的な在り方においては(物自体としては)、因果性によって決定されないからである。
 カントによれば、可想的存在としての人間に関してはいかなる認識も私たちは有することができない。だから可想的存在としての人間が自由意志を有することを理論的根拠に基づいて主張することは不可能であり、自由意志がなにゆえに可能であるかは私たちの認識能力を超えた問題である。しかし、その可能性を矛盾なく思考しうるという事実はきわめて重要である。というのは、もしこの事実が存在しなければ、道徳意識の本性をその根拠とするいかなる論証も私たちを説得する力を持ちえなくなるからである。
 以上から導き出されるカントの結論のひとつは、彼の道徳哲学(これは自由意志を必然の帰結として含む)と彼の自然哲学(決定論を必然の帰結として含む)とは互いに矛盾しあうことなくそれぞれの固有の法則に従いつつ自らを展開しうるということである。
 カントのこの自由は、『実践理性批判』において、道徳法則の意識を通じて、単にそれを「考える」ことが自然因果性と矛盾しないという論理的可能性だけではなく、客観的な実在性を与えられることになる。すなわち「自律」としての自由がそれである。
 カントの見解によれば、意志作用や自由に基づく行為を、欲求・欲望・衝動・傾向性などに還元することは不可能である。なぜなら、それは因果的に規定された自然必然性に他ならず、それらに基づく行為が自由であるとはいっても、こうした感性的衝動による意志規定を含む自由概念によっては、人間の人間としての行為の独自性が見出されえないからである。カントは行為の原理としてはただ、理性による意志の自己規定という「意志の自律としての自由」のみを認めたのである。これは近代の自然科学の隆盛にともなって生じた決定論との調停において、さもなければ自然の出来事へと還元されてしまわざるをえない「人間的行為」という概念を救おうとする試みの、ひとつの当然の帰結であったのかもしれない。
 カントにおいては、道徳的な行為が理性的であり、理性的行為のみが自由である。この行為は道徳的な理性の「要請」として表現され、この行為の自由は保証されているとカントはいう。現象界における因果律に対して、この理性自身は自律的な道徳法則に従うがゆえに自由なのである。つまり「自分の意志の格率が普遍的なそれになるように行為すべし」という純粋に内的な「要請」に従う点にこそ自由の根拠が認められることになる。

>>[981]
世界を物自体と現象に二分して考えているので自由意志は有るとも言えるしないとも言える。
両立するとゆうことか。
調べると両立主義者ってまあまあいますね。

シャカの毒矢の例えは毒の成分が何なのか調べる前に毒矢を引き抜けと。
苦からの解脱を説いていたお釈迦さんですからね。ある意味実存主義者と言えなくもない。
両立主義者を見ていると道徳からの要請が理由に多い気がする。
そして主張がシンプルでは無いので滅法解りにくい。
『自由は進化する』 ダニエル・C・デネット 山形浩生 NTT出版
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4757160127/ref=sr_11_1/503-7596531-4364769?ie=UTF8

http://nbsakurai.exblog.jp/5576551
原因と結果の対応は、一定でないのではないですか?

ある原因からある結果が生じても、
同じ原因から別の結果になる場合はある。

量子力学など、物理の法則は確率を含んでいますから。

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