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哲学が好きコミュの仏教哲学

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仏教はその哲学的側面がこれまで多くの哲学者の関心を引いてきたし、現在もそうである。例えば「空」思想の解明は一つのテーマである。

現代哲学の成果も参照しつつ、釈迦の思想の意味を明らかにしたい。


ウィキペディア「仏教」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E6%95%99

コメント(1000)

「成立しているどんな事象にもそれを成立させるに至った原因がある」という因果律の見方が仏教の中心的な見方となっているから、
人生のさまざまな出来事も自分の心や行いにその原因を見たり、さらには自分の行いの原因に自分のどのような考えや心があったのかも見つめてゆく。
そして、そもそも自分の心にそのような思い、考えが涌いてくるのはどうしたわけかと、因果律をさらに追求する。
外的要因のせいか。
いや、同じ外的要因を目の前にしながら人によって反応が違うのはなぜか。
自分独自の考え、思いを生じさせる内的要因があるんじゃないか。
あの時、あんなことがあったから、自分はこんなふうに考えるようになったんじゃないか。
・・・・・・

生まれてから今までの出来事の中に自分の心を形成した原因がどーしても見つけられない時、
いくら幼少期から今までのことを細かく思い起こしても、さらなる先に原因があるように思われた時、インドの人々は前世にまで原因はさかのぼると考えた。
>>[963]

組織内の階位にあまりこだわる文化、風土を持ち過ぎると、一般社会でそうしたものに懐疑をいだき苦しんでいる人を救い損ねることになりかねませんね。
同じ平場に生きる人間同士として、声を聞き、手を差し伸べてくれる人を求めてきた人なら、余計そうですね。
禅定によって「父母未生前の自分を知る」というようなことを禅者が言うことがある。これを自分がトカゲやミミズであった時の記憶を思い出すというような、超能力のようなものとしてとらえるべきではないと考えます。生前のことは無記とされた、釈尊の教えに思いを致すべきでしょう。

いわゆる輪廻説というものは昔のインドに流布されていた俗説が、一部の仏典にも紛れ込んだだけのものと解釈する方が納得できます。仏典はすべて素晴らしい哲学者によって書かれたとは限らないと考えるべきでしょう。

誰も検証できないことを最初に口にするのはどういった種類の人々かということを考えるべきと思います。そんなはったり屋がこの世界にはごまんといるということです。

現在の不運は生前の悪行のせいなどと、無辜の人に不当な責任を負わせるというのはいかにも不合理です。無常の世界はもともと不条理かつ不公正であり、それをそのまま現実として受け止めなくてはならない、というのが釈尊の教えであると思います。

仏教でいう因果律は、自然法則があるというぐらいの意味に受け止めるべきであると思います。世界が無常である理由は我々には問えない、それが無記であるということでしょう。ただ、無常である現実を受け止めることからものごとは始まる、それが仏教的諦観の意味であろうかと思います。それが「輪廻を断ち切る」ということの真意でもあろうかと思います。
「両親があって自分がある」という因果律(縁起)を超えた一切の根底にある自分。
両親さえも生み出したところの自分。

それは万物の基底としての自分であり、その自分に禅定によって達すること。
「人を殺してはいけない理由」(筑紫哲也の番組で有名になった例のあれ)を考察しましょう。

「他者を傷つけないのは自分がそうされないため」というのは報復や刑罰を想定している。
これは【因果】で考えていることになる。しかしこれは責任追及を想定した場合にしか成り立たないので弱い。

じゃあ【相依】で考えればどうなるか。
人をあやめてはいけないのは、一人一人の命はさまざまな思いをかかえたとても尊いものだからだと思います。
一人の命には本人のさまざまな思いもあれば、他者がその人に寄せるさまざまな思いもある。
それらを無下にすることはとても残酷で可哀想なことだ。
>>[968]

前提を設けないで考える限り、「人を殺してはいけない理由」も「人を殺しても良い理由」も導き出せないはずです。なにがなんでも人を殺したいという人がもしいたとすれば、その人にとっては、人を殺すことが善であるか悪であるかということは問題ではなく、誰が何と言っても人を殺そうとするでしょう。

倫理の根源は人間の本性に求めるしかありません。仏教は慈悲(キリスト教の愛に相当します)を根本原理としています。人間の本性にはア・プリオリに慈悲があるということです。修行して煩悩を取り除けばそこには慈悲が発露するということになるかと思います。他力を標榜する親鸞においては、「自然」(じねん)ということを言います。弥陀の本願にすがりはからいを捨てた時、そこに御仏の慈悲が顕現するということなのでしょう。

仏教においては慈悲が大前提ですから、「人を殺すことの善し悪し」の理由を云々する発想は出てこないと思います。あえて言うなら、人間の本性である慈悲に逆らって、人を殺しても幸せにはなれない、というところでしょうか。
>>[968]

人を攻撃したら、すぐ復讐されるとは限らない。「怨みに対して怨みで返せば、怨みは永遠に止まない」と考える人は復讐しないだろう。
しかし相手に復讐されずとも、人を傷つけるような心や言葉や行動をとる人は、それ(業)自体が自らの運命に種子をまき、かえって自分自らを苦しめることになる一一一というのが、この世界に深く埋め込まれた法則であると仏教は説く。
>>[968]

[970] のコメントは問いの趣旨に沿っていなかったように思ったので補足します。

仏教を整合的に理解しようとすると、どうしても究極的な善悪というものはない、というところに行きつくと思います。結局、善悪というのはその時々で人間が恣意的に決めつけているということになるわけです。

歎異抄の13条より引用します。
≪これにてしるべし、なにごとも、こころにまかせたることならば、往生のために千人殺せといはんに、すなわちころすべし。しかれども一人にてもかなひぬべき業縁なきによりて害せざるなり。わがこころのよくて殺さぬにはあらず、‥‥≫

ここからうかがえるように、仏教には個人の責任を問う姿勢がありません。もちろん、人を殺すことを善しとしているわけではありませんが、突き詰めていけば、人は抗しがたい状況に支配されているということになるのだと思います。

それは親鸞が他力本願だからそういうことを言うという訳では無く、自力本願とされている禅宗においても、「一坐の功を為す人も積みし無量の罪滅ぶ」という文言があります。罪をその人個人の責任に帰すということであれば、こういう発想にはならないような気がします。

だから仏教では、罪を犯した人間を憎むのではなく、憐れむという論理になるのでしょう。
>>[972]

>ここからうかがえるように、仏教には個人の責任を問う姿勢がありません。


というより、今生のわれだけに個人を限定して考える思想が仏教には無いので、前世においてさまざまな生を生まれ変わり生きてきた中で作ってしまった業縁の報いが、善いにつけ悪いにつけ今生の自分の心や行いにも作用しているということを『歎異抄』のこの親鸞は言っているのだと思います。


>禅宗においても、「一坐の功を為す人も積みし無量の罪滅ぶ」という文言があります。罪をその人個人の責任に帰すということであれば、こういう発想にはならないような気がします。


その人が前世において、いくつもの無量の生を生まれては死に、それらの中で作ってきた無量の罪も、その人が真摯な坐によって根底までうがつなら、一切滅尽することができるのだということを言っているのだと思います。
自分が作った罪がずっと前世から今生の自分へと、滅ぼされない限り持ち越され、抱えられているということを言っていると思います。
>>[973]

>その人が前世において、いくつもの無量の生を生まれては死に、それらの中で作ってきた無量の罪も、その人が真摯な坐によって根底までうがつなら、一切滅尽することができるのだ

なにを根拠にそんなことが言えるでしょうか? いくら坐禅をしたって、罪は永遠に罪です。帳消しにはなりません。

人をなぶり殺した後で、いくら真剣に坐禅したって、殺された人の無念があがなわれるはずがあるはずがないではありませんか。
>>[974]

それは御坊哲さんが持ち出された禅宗の言葉に対して、禅宗のそんな考えはおかしいと言ってらっしゃるのですか。
それとも、その言葉に対する僕の解釈がおかしいと言ってらっしゃるのですか。
僕は御坊哲さんが取り上げた言葉は、そういう意味ではないかと思いました。
輪廻だとか前世だとかいうことはよく言われるが、釈尊は決してそんなことについて言及していない(そう私は信じている)ということを言っておきたいと思います。
禅においても「父母未生前のわれ」というような表現を使うことがあるが、これも前世だとかいう概念とは全く別のものであります。坐禅をくんだからと言って、前世の自分が犬であったとか猫であったとか分かるはずがない、ということは言うまでもないことであることを強調しておきます。

人間は所詮罪を犯さずには生きられない、そういう悲しい生き物であるという諦観が仏教にはあると思います。
>>[975]

>それは御坊哲さんが持ち出された禅宗の言葉に対して、禅宗のそんな考えはおかしいと言ってらっしゃるのですか。

いいえ言っていません。

>それとも、その言葉に対する僕の解釈がおかしいと言ってらっしゃるのですか。

おかしいかどうかは知りませんが、少なくとも私の解釈とは違います。
>>[976]

>輪廻だとか前世だとかいうことはよく言われるが、釈尊は決してそんなことについて言及していない(そう私は信じている)ということを言っておきたいと思います。


それは初期経典のどこをどう見渡してもゴータマ・ブッダの言葉として輪廻や前世に言及した言葉は見当たらないという意味でしょうか。
それとも、たとえ初期経典の中でブッダが説法の中でそれらについて言及しているとしても、それはブッダ亡き後、ブッダの考えにまったく反して弟子らが持ち込んだ考えに違いないという意味でしょうか。


>禅においても「父母未生前のわれ」というような表現を使うことがあるが、これも前世だとかいう概念とは全く別のものであります。


僕も禅宗におけるその文言は前世とは関係のない存在の基底についてのものだと思います。


>坐禅をくんだからと言って、前世の自分が犬であったとか猫であったとか分かるはずがない、ということは言うまでもないことであることを強調しておきます。


初期経典には悟りを開くと自分の過去の一切の生が見えるに至るということまで書いてありますが、こうしたことは僕も受け入れ難いものです。


>人間は所詮罪を犯さずには生きられない、そういう悲しい生き物であるという諦観が仏教にはあると思います。


その点についてはもちろん同感です。それゆえに人間を救おうという慈悲が仏教には脈打っていますね。
「『意識』は存在するか? (その3)」
http://blog.goo.ne.jp/gorian21/e/6f2cc184154931b784a7bce7e248916c

禅的視点から「意識」というものを考えてみました。
空観について奇妙な説明をしている人がいるので、一つくぎを刺しておきたい。

【 涅槃とは、『この世界は、素粒子が霧のように集・散して出来ている。素粒子もエネルギーと相互変換したり、他の素粒子に変わるので、実体ではなく、無自性・空である。素粒子の正体を我々は見ることが出来ないことは勿論、科学的にも詳細には分からない。「もの」が見えるのは、そのごく一部の電子が光と相互作用をするからであるが、その相互作用がないなら、素粒子は見えないので、この世界は透明である。したがって、霧のような不可思議な素粒子は有るものの、実体としてのものは無いのである。このように、「もの・こと」のような存在性を認めないところが涅槃と言える。】

上記の言い分によるならば、もし仮に素粒子などというものはなく、原子が不変の究極粒子であるということになっていたら、龍樹の「空論」は破綻してしまうということになってしまうかのような印象を受ける。

龍樹が素粒子論について何らかの知識をもっていたはずかない。たとえ、原子が究極粒子であろうとなかろうと、龍樹の空観にはいささかの影響もないはずだと私は考える。もともと自然科学そのものが現象の関係性を記述したものに過ぎない。原子であろうと素粒子であろうと、すべて概念操作を経た構成物に過ぎない。はじめからすべては空なのである。その徹底性がなければ空観ではない。
この世界の構成物として究極の粒子のようなものを想定するのは、その粒子によって構築されるすべてを無常だと考えながら、行き着いたその粒子だけは常住だと考えるものですね。
龍樹(ナーガールジュナ)は、このような表面的構築物だけは常住を否定しておきながら、肉眼でとらえることのできない究極的粒子だけは常住だと考えるような物質主義の残滓も『根本中論』で木っ端微塵に粉砕していますね。
古典マルクスでマルクス理解が止まってるやつは知性ゼロのウイルス、ジョンローマ(ハーバード数学首席)置塩、森嶋が作った数理マルクスを学びなさい吉原や松尾、塩沢がいい仕事してるからまずそれを学び聖書仏典ガンジー孫子ロスチャルド、織田信長オールスター、マルクスエンゲルス、ウエーバー、ゾンバルト、デュルケム、ゴフマン、パーソンズ、ルーマン、小室、宮台、橋爪、副島、大澤、シケタイの伊藤真をまず読みなさい。これが幼稚園
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※副管理人です。
>>[987] ナカノ、ノブナガさん

スパム投稿は規約違反ですので、自主削除をお願いします。


以上です。
仏教といっても、どのへんの、どれ、?


仏の顔も三度?
、で?



般若心経?
中国でつくられたらしい?
あんまり、やらないほうがいい、らしい?
ぎゃーていぎゃーてい?
はらそーぎゃーてぃ
ぼーじーそわかー
はんにゃーしんきょー

なんみょーほーれんげーきょー
なむあみだぶつ
なむなむなむなむ


なむだいしへんじょうこんご
なむだいし?
仏教ではないかもしれないけど、?
念仏の人?
ありがとうを100万回言うといいとか、

真言宗?空海さん、
100万回
頭がよくなるまんとら?みたいなやつ
おん、、
わすれた、
右脳が開いたらしいとか、
三回くらい、、
別にいいと思うけど、、さておき?
弱いものいじめして自己愛?満足?

自主削除お願いするスパム、規約違反、とは、何回?三回までですか?
、ほか、でもやってたら、しょうがないかも?

仏典、イム様、、
哲学のにわか仏教、理解ではしょうがないということで。


これで、なにかあったら、どこからスパム投稿になるのか、ちょっとずつ確かめてみたモードになるかも?

ならんけど。

だれか、

なるかも?


>>[990]

仏教哲学入門
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E6%95%99%E5%93%B2%E5%AD%A6
本、高いので安めのを。
https://shinshomap.info/theme/buddhism.html
>>[991]
引用
「 ブッダの時代の仏教は、宗教というよりも世界観であり、思考方法だった。インド仏教哲学、ヒンドゥー哲学と空思想など、その多様な仏教の哲学をどう読み取るか。 」
仏教哲学は主にブッだの時代をやる。
まあ、私の宗教学特講になるが。
>>[990]
それだと、キリスト教でいう教会で聖書を読む聖書研究会ですね。お寺でも良く般若心経読む会とか、習字する会あります。

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