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素敵な「やまとことば」コミュの巫

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巫(かんなぎ 「かうなぎ」)〜
〔古くは「かむなき」。神(かむ)和(な)ぎ、の意〕神に仕えることを務めとする人。神をまつり、神楽(かぐら)を奏し、また「神降ろし」をする。祝(はふり)とともに禰宜(ねぎ)より下級の神職。かみなき。こうなぎ。[大辞林より」]


  我が子は十余になりぬらん 巫(こうなぎ)してこそ歩くなれ
  田子の浦に潮踏むと いかに海人(あまびと)集うらん
  まだしとて 問いみ問わずみなぶるらん いとおしや(梁塵秘抄364)

 (大意)
  わが子は十を過ぎただろうか 歩き巫女になって
  田子の浦で占いをすると漁師が集まるだろう
  そして、未熟なやつだといじめるだろう かわいそうに


 去年から、信仰と人間の関係をいろいろ考えてきた。聖(ひじり)と同じように、巫も下層の布教者のひとつに数えられる。歩き巫女に至っては、路銀を稼ぐために、護符を売り、体を売って、旅を続けたという。
 まだ、勉強が足りず、単なる仮説で、出典もないのだが、ある時ふと、こんなことを思いついた。「歩き巫女達は、路銀を稼ぐために体を売ったのではなく、布教のために体を売ったのではないだろうか。」
 だとすれば、なんと苛烈な人生ではないだろうか。そうまでして彼女達が信じたものは何だったのだろうか。そして、彼女たちは見知らぬ男達に抱かれながら、神に何を祈ったのだろうか。
 そんな空想をしながら、信仰について考えている。巫たちは、確かに「神の横顔」を見たのではないだろうかと。

コメント(1)

考え方(解釈)次第ですが
賤でなければ聖に通じることができない、というロジックもあった様です。
ジャンケンではありませんが、賤・聖・俗が三巴になっているのかもしれません。
海人も賤ですが、女性の場合は遊女をイメージする場合もありますし、
一方で、遊女の名前には仏に縁がある名前も多かった様な気がします。
(不確かな記憶ですみません)

苛烈でなければ、そこまで強い思いがなければ、
女性は救われなかったのかもしれません。
普通に暮らしていただけでは救いの網からこぼれてしまうので
神仏に気づいてもらうために何か強いアピールが必要だったとか。
蛇になる程まで強い思いがあったからこそ救われる、
道成寺をそういうお話に感じる時があります。

これは仮説以前の、勝手な想像です。(苦笑)

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