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クリスチャンへの疑問質問!コミュの聖書の言葉はすべて神の霊感を受けて書かれたものでしょうか

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最近私は聖句を読んでいた時、聖書の記録に矛盾があることを発見してビックリしたのです。例えば、ペテロが主の弟子であることを3回否定することに関して、聖書の記録ではマタイ26:34にこう書かれています、「イエスは言われた、『よくあなたに言っておく。今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう』。」しかし、マルコ14:30には、「イエスは言われた、『あなたによく言っておく。きょう、今夜、にわとりが二度鳴く前に、そう言うあなたが、三度わたしを知らないと言うだろう』。」と書かれているのです。これらの節はペテロの否定に関することですが、その1つにはペテロは鶏が鳴く前に三度主を知らないと言うと書かれていますが、もう1つにはそれは鶏が二度鳴く前だと書かれています。なので、明らかにこの回数が一致していないのです。また、旧約聖書にはダビデがイスラエルを数えることについて記録してあります。サムエル記下24:1に、「主は再びイスラエルに向かって怒りを発し、ダビデを感動して彼らに逆らわせ、『行ってイスラエルとユダとを数えよ』と言われた。」という記述がありますが、歴代志上21:1には、「時にサタンが起ってイスラエルに敵し、ダビデを動かしてイスラエルを数えさせようとした。」、と書かれているのです。両節ともにダビデがイスラエルを数えることに触れていますが、その1つはヤーウェがダビデを動かしてイスラエルを数えさせたとありますが、もう片方にはサタンがダビデを動かしてイスラエルを数えさせようとした、と記されています。この2つは意味が全く逆になっているのです。私はこれを発見した時、ショックを受けました。どうして同じ出来事において完全に対立してしまうほど矛盾した記録が聖書の中に含まれているのでしょうか?聖書の言葉全てが神の霊感を受けて書かれているのなら、ほんの僅かの誤りも存在しないはずです。この疑問に関する皆さんのお考えをご教示いただけませんでしょうか?

コメント(58)


私の賛美する神よ。黙っていないでください。
彼らは邪悪な口と、欺きの口を、私に向けて開き、偽りの舌をもって、私に語ったからです。
彼らはまた、憎しみのことばで私を取り囲み、ゆえもなく私と戦いました。
彼らは、私の愛への報いとして私をなじります。私は祈るばかりです。
彼らは、善にかえて悪を、私の愛にかえて憎しみを、私に報いました。
どうか、悪者を彼に遣わしてください。なじる者が彼の右に立つようにしてください。
彼がさばかれるとき、彼は罪ある者とされ、その祈りが罪となりますように。
彼の日はわずかとなり、彼の仕事は他人が取り、
その子らはみなしごとなり、彼の妻はやもめとなりますように。
彼の子らは、さまよい歩いて、物ごいをしますように。その荒れ果てた家から離れて、物ごいをしますように。
債権者が、彼のすべての持ち物を没収し、見知らぬ者が、その勤労の実をかすめますように。
彼には恵みを注ぐ者もなく、そのみなしごをあわれむ者もいませんように。
その子孫は断ち切られ、次の世代には彼らの名が消し去られますように。
彼の父たちの咎が、主に覚えられ、その母の罪が消し去られませんように。
それらがいつも主の御前にあり、主が彼らの記憶を地から消されますように。
それは、彼が愛のわざを行なうことに心を留めず、むしろ、悩む者、貧しい人、心ひしがれた者を追いつめ、殺そうとしたからです。
彼はまたのろうことを愛したので、それが自分に返って来ました。祝福することを喜ばなかったので、それは彼から遠く離れました。
彼はおのれの衣のようにのろいを身にまといました。それは水のように彼の内臓へ、油のように、その骨々にしみ込みました。 それが彼の着る着物となり、いつも、締めている帯となりますように。
このことが、私をなじる者や私のたましいについて悪口を言う者への、主からの刑罰でありますように。
しかし、私の主、神よ。どうかあなたは、御名のために私に優しくしてください。あなたの恵みは、まことに深いのですから、私を救い出してください。
私は悩み、そして貧しく、私の心は、私のうちで傷ついています。
私は、伸びていく夕日の影のように去り行き、いなごのように振り払われます。
私のひざは、断食のためによろけ、私の肉は脂肪がなく、やせ衰えています。
私はまた、彼らのそしりとなり、彼らは私を見て、その頭を振ります。
わが神、主よ。私を助けてください。あなたの恵みによって、私を救ってください。
こうして、これがあなたの手であること、主よ、あなたがそれをなされたことを彼らが知りますように。
彼らはのろいましょう。しかし、あなたは祝福してくださいます。彼らは立ち上がると、恥を見ます。しかしあなたのしもべは喜びます。
私をなじる者が侮辱をこうむり、おのれの恥を上着として着ますように。
私は、この口をもって、大いに主に感謝します。私は多くの人々の真中で、賛美します。
主は貧しい者の右に立ち、死刑を宣告する者たちから、彼を救われるからです。
れいかんで書かれてるんだろうけど、よーやくしてんの一般人だし、昨今ではboxyのメシだねになってるからなぁ。
はじめまして、コメント失礼します^^
まず、マルコとマタイでは矛盾はしてなくて、どこまで書いているかの違いだと理解するのはどうでしょうか?
・鳴く前に3回
・2回鳴く前に3回
聖霊に動かされ書いたとしても書くのは人なので、どこまで書くかや書き方に違いがあるという理解です

サムエルと歴代誌はヨブ記一章を読むとわかりますが、
そそのかすのがサタンで、サタンがそそのかすのを許すのが神様です。
いのちのパンさんはプロテスタントのクリスチャンだと偽ってます。

全能神教会の信者です。

全能神教会は信者たちに嘘偽りを奨励してます。

人々を惑わし、真の神様から遠ざけ、イエス・キリストを信じてのみ真に救われるというキリスト教を否定します。

それはさておき

聖書とは真の神様の霊感によって記された書。

作者は真の神様です。

はるヒメさんの解説がわかりやすいですね。

皆給付金貰ったよね?
ちゃんと献金しろよ〜。
ネコババイカンヨ ( *´艸`) クスクス
まず大事なことはね、
「全ては人間が記し、人間が編纂し、人間が正誤を決めている」
ということ。

これが、はるヒメさんの言うような、

………………………………………………………………………………………………
聖書は神の言葉であり、書かれた時にも、編集されたときにも、書き写し保存されたときにも、正典として教会がそれを認めたときにも、それが読まれ、語られ、聞かれる時にも、聖霊なる神様が働いて、恵みをくださると信じる教派のものです。
………………………………………………………………………………………………

であるかどうかは、どんなものも担保していない。
つまり「信じる以外になにもない」

もしね、完全に「神の意志が反映されたもの」だとすると、
なんで書き換えが起こったり「ある時点で偽典にされる」ようなことがおこるんだろうね?
仮に、「神の意志がどこかにあったのだとしても」
1、神は間違えていた
2、神の意志通りには書かれていなかった
このどちらかでない限り、「訂正する」ということは起こらない。

おそらく、ここにいる人はモルモンや統一心霊協会を否定するだろうけど、
彼らからしてみれば「最後の最後の正しい啓示である」となる。

あれだって聖書だからね。

もっといえばクルアーンは、
モーゼいまいち、イエスいまいち、ムハンマドおっけー!
という三大預言者が最終的に成就した聖書だ。

イスラム教から見れば、キリスト教の聖書は「未完成の出来損ない」に過ぎない。




人間が書き、人間が編纂し、人間が正誤を決める「聖書」には、
神の証拠はないんだよ。
だから、それぞれが「自分こそ正しい」と勝手に主張する。
それを信じるという。

聖書を信じるか?

コーランを信じるか?

ヴェーダを信じるか?

グルグラントを信じるか?

法華経を信じるか?

お金を信じるか?

自由意思を与えられてるので何を信じるかは自己責任。

1つ言える事は信心した結果はその人に顕れてくる。

「結果に顕れる」

それって、聖書を信じたキリスト教徒が、
人類史上最強最悪の大虐殺教徒になったってこと?

十字軍による残虐行為から新大陸でも虐殺に略奪や文化破壊等。

歴史を観ればキリスト教布教を大義名分にしての数々の悪逆行為。

多くの人々が聖書をまともに勉強してない時代も宗教改革迄続いた。

聖職者と言えども聖書を知識として知っていても信じてるとは限らない。

聖書ってさ、
記述が福音書によって違っていたり、
言ってることが下手すると真逆だったり、
矛盾てんこ盛りなわけですよ。

で、聖書解釈をやっている人は、二通りあって、

1、歴史学文献学科学的に考えて、
  オリジナルの別な本があったとか、一方はあとから創作された等の推論をする。
  これは、前提として、
  「人間が書いた書物」として客観的に見ているから。

2、聖書は全て正しいと「信じている人」は、
  矛盾や記述の違いに「神の意志」があるのだと考える。
  どうしてそうなったかを、勝手に都合よく解釈するわけ。

2の立場に立ちたい人は、「そうですかご自由に」と思うけど、
普通に考えれば、「間違い」だよね。
そんなことやっていると、進化論はウソ、地動説はウソといわなきゃいけなくなる。
それよりは、聖書が間違っているってなぜ思わないのか?ってことです。

実際に神なんかいないし、ヤーヴェ信仰は虚構ですけどね、
それでも百歩譲って、
聖書にいくらかの真実があるとしたとしても、
「聖書の大部分は人間による作り物」ですよ。
>>[28]

キリスト教は、キリストの二性一人格ってのを信じててね。
キリストは全き神にして全き人なの。
聖書も、全く神のことばで,全く人間が書いたものなの。

だからね、「人間が書いた書物として客観的に見ながら、そこに神の意志があるのだと考える」ことは可能なの。
勝手に都合良く解釈しているわけではないの。

ただね、年月がたってから、あ、あれって、時代に制約された勝手な解釈だったって気づくことはあるわけね。
自分の人生の中でも、世界史的にも。
気づく度に悔い改めて、悔い改めに導かれることは恵みなの。

それを端から見てて、「なにやってんだキリスト教」って思われるのは、
まあ、当然というか、すみませんっていうか。

にもかかわらず、

>百歩譲って、
>聖書にいくらかの真実がある

って、思ってもらえるのは、すごく幸いだな〜と思います。

でね。
聖書は全部、神さまのおことばだよ!



人とは被造物なのでいくら頭で考えても限界ってある。

聖書とは神の霊感によって記された書。

信心した結果はその人に顕れる。

トマスのインド伝道の影響によって大乗仏教が起こり。

法華経等が後に日本に伝わり。

日本は法華経の国となった。

日蓮宗・日蓮正宗・顕正会・創価学会・立正佼成会・霊友会等、法華経を奉じてる宗教多い。

枝葉の先の法華経ですらこれだけの影響がある。

これらの宗教の人は法華経はお釈迦様の教えだと信じている。

日蓮大聖人の方が強調されてる所もあるが。

何であれ信心する事が大切。

クリスチャンへの質問であるので法華経等の話は機会有れば別のコミニティで。

聖霊によって書かれたものでしょうが、ソレを飯ダネとしてる輩もいるわけですよ。
( *´艸`) クスクス
>>[29]

真面目に考えると、信仰の根幹が揺らぐから、
「考えるのを止める」のはわかる。
別に、それでいいんじゃない?

>キリストは全き神にして全き人なの。

三位一体もそうだけどさ、
おかしいと考えるほうが理性的だよ。
理性は論理に乗っかっているからね。

キリスト教は、根幹部分が論理的に無理筋。
信じる人はそこを捨てている。
それはしょうがないことだけどね。
人は被造物なので創造主について考えても限界がある。

真面目に考えてこそ人は被造物なので限界があると認識する方が賢明であろう。

有限な人が無限である創造主について全て知りつくそうとする方がおかしい。

しかし。

人は考える生き物として創られた。

キリスト教徒でも。

仏教徒でも。

無神論者でも。

皆変わらない。

>>[32]

「考えるのを止める」までの「考える」の量と質が、おおっさんの想定よりめちゃめちゃ膨大だ、ということを、お伝えしたいと思います。

とっても浅くて低い時点で「止める」人もいて、それで幸せなら,それでもいいと思います。
また疑問に思ったら考え初めて、ある程度のところでまた止める。
それは、考えてもしょうがないからとか、考えるとやばいからとかって否定的な理由の時もあるし、これですごく納得という肯定的な理由の時もある。

止まったままでいると、周囲の人が(特にその人の子どもは、とっても)迷惑を被る場合があって、できれば、周囲の人といっしょに、また考えたリ、立ち止まったり、先に進んだり,舞い戻ったりもしてほしい。

「神さまの御言葉によって絶えず改革され続ける」っていうのが、わたしの所属する教派が標榜していることなのだけれど、これは言うほど簡単ではなくて、でも、それができることはすごい神さまのみ恵みなのです。

個人の歩みとしてだけでなく、キリスト教全体の歩みとしては、それはもう膨大な思考・思索の積み重ねですとも。
めっちゃ論理的で科学的なのから、非論理的で神秘主義的なのから、詩的なのから芸術的なのから、さまざまな領域を横断して、知の集積といえる思索の積み重ねがキリスト教にはございます。
そして、そんなの全然無駄だから、という評価もあります。

「神さまがわたしを救ってくださった」という事実以上に大切なものなんてない、という意味で、わたしもその評価に同意しますが、
この同意が「信仰って結局思考停止じゃん」という誤解を生むなら、わたしは訂正したいと思います。

>>[34]

>おおっさんの想定よりめちゃめちゃ膨大だ、ということを、お伝えしたいと思います。

そう思いたいのは勝手だけど、
私から見れば「お前ら俺の100万分の1も思考していない」ってなるんだよ。
それは、古くはアウグスティヌスレベルであってもね。
正直、ルターとかカルビンとか、
「頭が弱いからこんな無駄なことするんだな」と思えるし。

他人のことを知ったほうなこと言わないほうがいいと思うよ。

そのあとのことは、まあよろしいんじゃないですか?
ご自由になされば。
「今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」
「今夜、鶏が二度鳴く前に、わたしを知らないと三度言います。」

この2つの文章のどこに「矛盾点」があるのでしょうか。
双方とも、「鶏が鳴く前に3度否定する」という内容で、前後関係も、数字も一致しています。
マタイの記録は、鶏の鳴く回数を省いているだけです。
あなたは?
聖書は?

聖書の言葉?

抜けてたり?

2てもて3:16

[テモテへの手紙 第二 3:16]

聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。


ぜんのうしん?
な感じ?
差別?区別?
失礼?
申し訳?

[マタイの福音書 26:34]

イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに言います。あなたは今夜、鶏が鳴く前に三度わたしを知らないと言います。」

[マルコの福音書 14:30]

イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに言います。まさに今夜、鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います。」

[ルカの福音書 22:34]

しかし、イエスは言われた。「ペテロ、あなたに言っておきます。今日、鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。」

[ヨハネの福音書 18:27]

ペテロは再び否定した。すると、すぐに鶏が鳴いた。

総じて、旧新約66巻は、神の霊感によると信じます。
神の霊感とはどこからか電波のようなものが聖書記者に到達して、無意識のうちにペンが記録するというようなことではないと思います。
モーセの時代に書かれたもの、伝承されたものなどが、バビロン捕囚のあいだに文字として記録されたものが多いと思います。新約もまたキリスト昇天ののち時間をかけて編纂され、祈りのうちに27巻旧約39巻と合わせて聖書と定めました。
驚かれるまでもなく、一見矛盾と思われる記述が随所にあります。「ここは削除した方がいいんじゃないか」とか思いがちな部分がいっぱいです。
そうした部分、誰かに突っ込まれそうなこと、みっともないカッコ悪いことなども、そのまま残してこその聖書であると思います。
「なぜ聖書記者はこんな記述を残したのだろう」そう思うと聖書の世界に引き込まれます。
わたしは教会で成人科の責任を持っていますが、「どんな有名な先生が書いていることよりも、高名な牧師先生おことばよりも聖書に聞きましょう。聖書記者はその記述を採用した人々はどんなことを考えだのでしょう」と皆で話し合います。そうしていると一人一人のこころにみことばが降り注ぎます。これまで気づかなかったことに気づきが与えられ、神さまのみことばかこころに到達するのです。
矛盾もまた神の霊感によると考えてみてください。きっとどっかの解説書にあることは違ったあなた一人のためのみことばが与えられます
神様の霊感ってなんなんですか?

聖書を書いた人は書いている時に何が起こっているんですか?
自分の頭で考えて書いているのでは無いんですか?
自分の頭で考えて無いんですか?
直感的に書いているんですか?
(いや、そこは霊感的に書いているのか?)

みなさんも神の霊感に従いコメントを書いていたりするんですか!?

みなさん自身も神の霊感に従っている時もあれば、それ以外の自分の考えに従っている時もあるんですよね?
その違いってどんな感じなんですか?

神の霊感に従っている時の様子が聴きたいです!ぴかぴか(新しい)ぴかぴか(新しい)
>>[40]

教科書的には、キリストを宣べ伝えてる事が、神の霊感。
ルターの表現を借りれば、「キリストを教えないなら使徒的ではない。反対に、キリストを教えるなら、…ポンテオ・ピラト(ら)が書こうが使徒的である」。

信徒の「証」や牧師の「説教」もキリストについて、あるいはキリストに於いて語れ、と言われるし、まあルターも、聖書の戒めは「キリストにおいて」守れ、つー表現をする。

反対に、キリストと無関係な直観、たとえば士師記のベニヤミン族の狼藉は酷いな、とか、
大洪水の二年後に第三子を生んだセムの年齢は百歳と書かれてるが、大洪水の終わった時のセムの年齢も百歳と書かれてる、どっちなんだ、と思った時は人間としての直観ですな。
聖書の解釈は、どこぞに書いたように原則があって、
ルター以降のプロテスタントだと、「聖書は聖書の解釈者だ」、つー原則。
たとえ聖書に六百箇所以上、行動義認を示す箇所があっても、
信仰義認の福音を示したキリストという、「聖書の著者」の証言者となる箇所を基軸に、調和が取れるように読まなければならない。

アウグスティスヌスも、ルターも、福音記者の細かな間違いは十分知っていたが、
それは聖書の解釈に影響を与えない。

あくまでもキリストを宣べ伝えること、それに与し、与ることが神の霊感であり、
それ以外は人間の直観。

あー教科書通り過ぎて気恥ずかしいw
>>[40]

いま「聖書」として販売されている 66 の書からなる本は、もっとたくさんの書から取捨選択されたもの。カトリックには「続編」ってのもくっつくことがあります。以前、クムランの洞窟で発見された「死海文書」は、結局どうなったのでしょう。あれも神の霊感が働いたのかな。

聖書収録候補はもっとたくさんあったのに、あれこれ比較して 66 の書にまとめたのって人間ですが、そこにも神の霊感が働いていたのでしょうか。教会にとって都合のいい記述のだけに絞っていたりして。「偽典」てのもありますよね。

私は神の霊感に従ったことはないでしょう。「私はいま、神の霊感に従って書いている」なんて考えは、あまりにも畏れ多いし、傲慢かと。
書いてから何年も経って、「ああ、あれは神の霊感が働いて書いたんだ」と気付く人もいるやもしれませんが。

霊感ではなくて導きなら、過去を振り返って「あれが神の導きだったのか」と思うことは、よくありますが。
>>[42]

>教科書的には、キリストを宣べ伝えてる事が、神の霊感。

そっかー。そんなに超常現象的なことではないんですね。
神様とか聖霊とか霊感とか永遠の命とか言われるとなんだかオカルト的な不思議な現象なんかを想像してました。

なんかとてつもなくミラクルな事かと思ってしまっていたのですが、案外ナチュラルな事だったので安心しました。顔(笑)
聴いて良かったぴかぴか(新しい)
(ほんとは超常的な事を期待してたかも…なんてあせあせ)

その辺は私だけでなく、一般人はみんな誤解をしてしまうかも知れませんね。
日常会話に出てこない言葉なので。
>>[43]

導きならわかりやすいですね。

霊感や聖霊って言葉を普通に使うのも一般人の誤解を誘うため結構リスク高いような気もするのですが、でもあえてそれらの言葉を使う魅力や特別感って言うのも確かに有りますよね。

これはなかなか効果的!(なにが!?)
記憶に留めておこうぴかぴか(新しい)
聖書は神の霊感だとして、
【全て】というナニカを付け加えるものは呪われませんように。
どーぞ、。
おゆるしください。

>>[43]

まみふくて花さんのように謙虚な姿勢のクリスチャンの言葉は、愛に満ちていて、スッと入ってきますね。

(✿✪‿✪。)♡˚✧₊ ❝᷀ົཽ≀ˍ ❝᷀ົཽ ⁺˳✧༚


人を裁くようなクリスチャンの言葉は、何となく聞きづらい(笑)

その人達も、私も、傲慢さがあるからなのでしょうけど、まみふくて花さんの言葉には救われますね♪
>>[47]

なんと。もったいないお言葉です。
ありがとうございます。
私もかなり傲慢ですよ。
わたしみたいな一般人
考えたらおしまい

肉、、
みたま?れい?
たましい?

からだ?こころ?あたま?
ち?じょう?い?
聖書の霊感はさておき、
あなたの良心?両親?、
商法?
霊性?
霊的?
マルチ?
ネットワーク?
レベル?マーケティング?
昔のコメント見るとチェスター。ビーティー・パピリのこと言っているであろう文言があったが、意味不明。

チェスター・ビーティー・パピリの新約聖書写本である𝔓45、𝔓46、𝔓47は写本証拠として批判的校訂本(ネストレやUBS版など)に採用されているし、写本も公開されている。また、初期重要パピルス写本をまとめた本に全文が出ている。日本語訳の聖書の多くが批判的校訂本(ネストレやUBS版など)から翻訳されている。

識字率大事、
よく読んだ結果。いみふ。

その結果?、
残ってるものは、大丈夫そう、
?。
雑記です。

聖書の執筆に神の霊感が働いた、つまり、神が執筆者の手を借りて文書にしたのだとしても。
人間の言葉にはどうしても制限があって、言いたいことを 100% 言葉にできることはまずありません。

それでも、もし執筆者が「よし、完璧に表現できた」と考えても、読み手の読解力、語彙、背景はひとりひとり異なります。執筆者の意図したことが、なにひとつ完全に読み手に伝わることはありません。
ましてや、別の言語に置き換えられてしまったら、執筆者の言いたいことからずれてしまう。

キリスト教会の中には、聖書の文字ひとつひとつに誤謬がなく、数字などもそのまま信じる教派があります。それとは異なり、当時の文化的・社会的背景などを踏まえて、執筆者が伝えたいことは何なのかを研究する教派もいます。後者も、もちろん、聖書に神の霊感が働いていると信じています。神の言葉をより正確に汲み取るために、解釈を加えます。

どちらがいいのか、教派ごとの教義ですから何とも言えません。
後者は、いわゆる「プロの翻訳者」がおこなっている作業に似ているなと感じました。

おしまい。
すべて、というのはひとのことば、、
すべて、ではない、可能性、?
>>[53]

直接キリスト教とは関係ない質問をして恐縮ですが、まみふくて花さんは翻訳の仕事をされてるみたいなので、一つお聞きしたいことがあります。

海外の作家の小説を日本人が翻訳して出版してますが、何十年間に一度くらいの割合で新しい訳が出ますよね。

あれって、やっぱり文体が古臭くなってしまったと出版社が判断するから新訳が出るのでしょうか?
>>[55]

翻訳には大きく分けて文芸翻訳と産業翻訳があります。小説の翻訳は、文芸翻訳です。私の専門は産業翻訳ですので、残念ながら詳細は分かりません。

翻訳者のネットワークで、文芸翻訳者に確認してみますね。しばらく日数がかかると思いますが、お待ちくださいませ。
>>[56]

貴重なお時間を費やさせてしまうことになってしまい申し訳ありません。

翻訳にも大きく分けて文芸翻訳と産業翻訳があるのですね。

個人的に純文学系統の海外作品は新潮文庫で読むことが多いのですが、知らないあいだに訳者が変わっていてビックリすることがあります。

それで残念な思いをすることがあるので、今回訊ねてみることにしました。

それとは真逆なパターンで、日本人作家の英訳された作品を、まみふくて花さんが読むことはありますか?

翻訳の精度とか、作家の感性や文体をどれくらい訳者が汲み取れているだろうか…とか、点検の意味も兼ねて。

そんな面倒くさい事しないかな?
>>[57]

作家ごとに翻訳者が決まっていることが多いようですが、何か事情があってほかの方が新たに翻訳することもあるのかもしれません。『ダ・ヴィンチ・コード』のダン・ブラウンなら越前さんとか。『ハリーポッター』シリーズの静水社(だったかな)の元通訳だった方の訳は、個人的に抵抗がありますけれど。

日本人作家の作品の英訳。覚えている限り、読んだことはありません。
でも、読むとおもしろいかも。

あ、大学の授業で、日本人のだれだったかの作品を日本に精通した英語ネイティブが英語にどう訳したかを学んだことはあります。

「白足袋」を英語にどう訳すか。その「白足袋」は、作品中でどういう意味を持ち、どうしてその人がその場面で白足袋を履いたのか。それを読み込んだその翻訳者は、悩んだ挙げ句、納得いかないながらも「白手袋」と英訳したそうです。翻訳は、そこまでしなければならない作業なんです。

それから、新聞のコラムに、たぶん英語ネイティブの人が古典の和歌を英訳するコーナーがあります。その和歌の背景とか文化とかを解説したうえで、こう訳しましたと。英語ネイティブに古典を教わりながら翻訳を学ぶのはおもしろい試みです。

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