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ダ・ヴィンチ・コード、ほんと?コミュの5.「権力により抹殺された母系社会(2)」---ほんと?

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もし仮に当時の教会が「男性の優位性を保つため」という観点で実 際に聖書を書き替えたとしたならば、当時の教会指導者には現代 まで多大な影響を与えている思想家や文筆家といった知識人が揃っていながら、なかなかお粗末な書き替え方をしたものだなと個人的に思います。

聖書は非常に女性という存在を大切に描写していると思います。 男性優位の時代にバシバシと女性蔑視の慣習や風潮を覆しています。

たとえば;

・イエズスは売春婦を助けます。 非難もしません。当時では考えられない革命的なことです。律法では石打ちの刑で殺せとされているからです。逆にその ためにイエズス自身が多くの敵を作ることになりました。
・マグダラのマリアを最初の復活の証人にします。 これも当時のユダヤの慣例では考えられないことです。女性の証言は重要視されていなかったからです。
・模範として描かれるのは、女性の方がはるかに多いです。  (聖母、やもめの献金、カナンの女、サマリアの女、悔い改めた女etc..)
・受胎告知のときに聖母はすぐに神のメッセージを信じましたが、 洗者ヨハネを妻のエリザベトが身ごもるというお告げがあった時、 夫のザカリアは疑いました。
・女性は男性よりも強く描かれています。受難の中、十字架の足元に最後まで残ったのは女性たちでした。 いつもイエズスと共にいた使徒たちでさえ逃げてしまいました。

また、カトリックや東方教会においては、初期教会の頃から聖母を 「被造物の中でも最も素晴らしいもの」として称えて来ていて、聖母賛歌は遅くても2世紀の記録にすでに残っています。
聖書を読んでいると、男性優位どころか、男性陣は口ばっかりだったり 叱られてばっかりで、ホント情けなく、女性陣の大胆な信仰の前にはそ の影が薄くなる一方です。

男性優位体制を保持するために聖書を書き換えられたと主張する人は、今一度聖書を調べてみて検証してみることが必要に思います。また、陰謀論では、「書き替え られた!」「事実が抹殺された!」と言う主張一辺倒です。書き換えられたり抹殺されたということが分かるのなら、ではどこがどう書き替えられ、何がどう抹殺されたのかという具体的証明が必要ですが、そういったものがほとんど皆無なのも陰謀論の特長です。

聖書に書かれていることは、「男性だから女性だから」という観点に基づくものではなく、さらに深く根本的なもの、つまり人間という存在がどのようなものであるべきかという本質的な部分におけるものだと思います。オカルト主義者の主張とは視点&次元が全然違います。


さて、「グノーシスの福音書」である「トマの福音書」の最後に次のような節があります。  


シモン・ペトロは彼らに言った。  
「(マグダラの)マリアを去らせてください。 女性は命に値しません。」


この箇所をオカルト主義者はよく引用します。 いかにペトロたちが女性を卑下していたか、教会の中心から女性を消そ うとしていたかということを主張するのですが、おもしろいことに、この引用箇所の直後には実際は次のような言葉が続いているんです。  


イエズスは答えた。
「私が彼女を男とするように導びこう。 そうすることで、あなたたち男のように彼女も生きる霊魂となるであろう。自分自身を男とする女は誰でも天の国に入るであろう。」


この内容はあきらかに「男性優位的」コメントで、陰謀論の主張と矛盾してしまいます。なので大抵隠されています(^_^)

グノーシス派&急進的フェミニストの著名人、エレイン・ペイゲルズ自身、 彼女の著書「Gnostic Gospels」の中で、グノーシス関連の文書の多くには 女性を侮辱している表現があることを言及しています。が、オカルト主義者 はこれらの部分は隠して、都合良い部分のみ引用しているわけです。

このように矛盾する点を見てみても、陰謀論は都合のよい部分のみつなぎあわせていると思います。

コメント(10)

ちょっとボクの書き方自体が良くなかったですね。

「聖書」と書いてしまいましたが、「福音書」のことを念頭に話していました。というのも、ダ・ヴィンチ・コードの主張が攻撃しているのは、福音書に関する内容ですので。
なので、上にあげた例も福音書の中の女性像をピックアップしています。

「聖書全体」というときには、確かに今のボクたちから見ると女性を見下しているように読める表現があると思います。それは、聖書的にそのような視点に立っていたのではなく、当時の社会の一般的な生活環境の反映だと思います。福音書の中でも人の数を数えるときは、「男の数だけ」を数えています。これは、今日から見ると女性蔑視的な視点かもしれませんが、当時のユダヤ社会では女性や子どもは数えないのが一般的な数え方であって、言い換えるなら当時の社会自体が女性蔑視的な風潮のある社会であって、聖書が女性を蔑視しているわけではないと思います。なので、聖書の中の文言をそのまま額面通りに取って判断すると、現代のボクたちの価値観からすれば女性を差別している部分があるように感じてしまいます。

一方で、福音書以外の中でも、「洗礼を通してキリストのうちに一致するものに男も女もない」とありますし(ガラテア人への手紙)、結婚することが当然で結婚できない女性は価値の無い女性とみなされる社会の中で、信仰のために女性が独身を貫く権利とその価値を保障していたり(コリント人への手紙)、ペトロの手紙の中では妻の模範は不信心な夫を天国に導くといったような記載もあります。おそらく当時の価値観では考えられないことだったのではないでしょうか?

「夫は家長、妻や子どもは夫に従うもの」という当時の価値観と今日の価値観は異なりますが、当時の価値観を今日の価値観で一方的に計ることもできませんし、聖書の内容を字面通りに読むのではなく、その時代の時代背景、また、象徴しているものを鑑みながら全体のバランスを考えて読んでみると、聖書が女性蔑視の傾向が強いとは一概に言えないと思います。

「聖書全体」の話に道がそれてしまいましたが、ダ・ヴィンチ・コードに話を戻すと、「福音書」は女性を男性より模範的に書いている場面が多々あると思います。
そういう視点から、「福音書」は女性優位の体制を抹殺して男性優位の体制に都合よく変えるために書き換えられたり、事実を抹消したとはとても言えないと思います。
初期キリスト教では多くのセクトがあったわけで、聖書にもその片鱗を感じる記述は多いですね。また宗教改革以前は西方教会でも多くの外伝、偽典等が読まれていたり、土着的な女性の聖人が崇敬を集めていたりと、女性が積極的に信仰の光景の中に入り込む要素は多く、その典型が「マリア信心」などに見られるでしょう。

こうした聖人崇敬は教義化されていない、体系化されていなかったものも多く、ことに中世の騎士物語に出てくるような「女性崇拝」なども含め、父権制という時代の制約はあるにせよ、現代人が考えるよりかなり自由な風潮はあったようです。

マグダラという聖女は中世では特に人気がありましたね。フランスではマグダラにまつわる多くの聖堂が建てられ、南仏にはその聖地もあります。ジプシーが年に一度集まる有名な聖地です。ダ・ヴィンチ・コードのネタのベースとなった伝承はここにありますね。

ですので、ローマ教会が隠すどころか、マグダラは推奨される聖人でしたし、彼女のイエスへの思いを多少ロマンス的に考えていた人も多かったようで、マグダラを題材にしたルネッサンス期の絵画などにもその影響が見られます。

西洋絵画史とキリスト教の文化史を齧ったことがある人なら、ダ・ヴィンチ・コードの光景がいかに荒唐無稽かはすぐ判りますね。
midori様>
キリスト教における聖職者「司祭」は神学的にパラレルでイエスという存在に重ね合わされます。それは「最後の晩餐」の光景がミサという場で再現される時によく判ると思います。またユダヤ教の系譜の宗教の「ラビ」は皆男性であり、そうした伝統が今も受けつがれているという感じでしょうね。

例えば、神道の神主は何故男性なのか?天照大神のような女性神もいるのに。。あるいは巫女さんは何故女性でなくてはならないのか?という神道における性的役割分担の伝統に対し、今日的なフェミニズムのような質問を問う人がいないのと同じでしょう。
「伝統」というのは今日的な理屈からはナンセンスに見えるモノを内在しています。

キリスト教におけるそれらの役職は信徒に対し「奉仕する」存在であり、よーするに「信徒に使える奴僕」みたいなもんです。しかし信徒が理想として生きる規範としての「聖人」には女性も数多くいます。

尚、女性が早くから組織立って社会のために働く機関としての「女子修道院」の存在もあります。女子修道院長は司祭よりも権力を持っている場合もあります。中世には「司教」の肩書きを持った女子修道院長もいました。過去の歴史の中でも教皇に真っ向から意見した修道女、神学を究めた修道女など女傑が数多くいますね。

しかしこれら聖域役職の性差に関しては今日のカトリック教会でも話し合われている案件の一つではあります。2000年続いた伝統を現代の価値の「男女同権」というものを導入し、変容していいのか?ということは神学者達の間でも激しい議論となっています。
キリスト教の価値観の根底にあるものとして、「男女は等しいが男女は同じものではない」というものがあるように思います。

どういう意味かというと、男女はそれぞれを補いあっている存在であるので「対等の存在」であるけれども、それぞれに与えられている役割は違うという意味です。

「なぜ女性が司祭になれないのか?」という点は、あんとに庵さんがコメントされているように、現代でもいろいろ議論が続いています。一方で、司祭職というものは、ボクたちが好きなように選択して従事する普通の仕事と同じではなく、神の方から呼び出されるものであって、「超自然的なもの」という認識があります。

イエズスには多く弟子たちがいて、その中には「最も祝された方」と言われた聖母や、マグダラのマリア、その他にもたくさんの女性がいましたが、12名の男性のみが「使徒」として選ばれています。「司祭職」はこの「使徒職」の継続でもあります。

福音書では、この「使徒」と呼ばれる人たちが「完全な人」であったとは書かれておらず、もちろん素晴らしい面もある一方で多くの欠点を抱えている人として描かれています。キリストが政治的な「イスラエルの王」となることを望んで権力的なものを期待をしていた人もいますが、あんとに庵さんがコメントされてるように、選ばれた者は「下僕」、つまり誰よりも人に仕える者にならなくてはならないことを逆に戒められています。つまり「使徒職」は「奉仕職」であり、「名誉職」ではありません。反対に、「使徒」として選ばれていない女性の弟子たちは、信仰の模範として描かれています。

このような状況の中、「なぜ12名の男子のみが使徒として選ばれたのか?」というのは、いろいろな理由は考えられますが、度々イエズスは当時の社会の慣習に縛られることなく女性の尊厳を強調してきているので「使徒の選出」は「男女の雇用差別」といった問題ではなく、そこは人間があーだこーだ言う領域ではなくて神による「超自然的」な理由があるからだとするのが教会の考え方だと思います。
>> midoriさん

「宗教が好きになれない」というのは特に現代の日本人の感覚的に最も自然なことのように思います。

何教であっても、宗教や神の名を掲げて、自分の考えにあわないものは迫害してしまえとか、殺しあいを繰り返してきたのが世界的に見てもどこでも歴史の中で起こってきたことのように感じます。

一方で、矛盾することに、それぞれの宗教では「平和」や「愛」といった普遍的価値観を教えているものが多いですよね。

では、なにが問題なのか?
おそらく、ひとりひとりの人間自身の問題だと思います。

ボクは、それぞれが信仰しているものの教えに本当に従っているのなら、戦争だのテロだの迫害だの起すことはないように思います。これらを起す裏には個々人の利己心やエゴがあり、自分のやりたいことを「神のため!」「信仰のため!」と都合良く主張することで正当化させようとしているように思います。しかし、言い換えれば、「神のため!」や「信仰のため!」と声高に叫んで自分勝手なことをしている人ほど、一番の「不信仰者」だと言えると思います。

また、現代の日本で「宗教」と聞くと、カルト的なイメージがあり、なにか社会から逸脱した得体の知れない集団のような印象を持つことが多いように思います。

個人的には「宗教」という言葉そのものがあまり好きではありません。この用語は政府が明治時代に作ったものと聞いたことがあります。それまで日本ではなんと言っていたかというと、「道」です。「神道」、「仏道」 etc... つまり、「人が人として生きるために歩むべき道」を示すものがいわゆる「宗教」の本来の姿だと思います。

英語の「religion」もラテン語の「religare」から来ていて、これは「再び結びつける」とか「繰り返して結びつける」という意味です。何を結びつけるのかというと、神と人間の関係を繋ぎ、人と人の関係を繋ぐことだと思います。

ちょっと本論から脱線してしましましたね。スイマセン。
midori様>

そうですね。聖書は古代という時代にかかれたものであり、当時の社会は父権制に今日的な「女性とは?」と問うことすら念頭にないような価値の時代でした。ユダヤ>キリスト教文化だけではなく、ギリシャローマ文化の系譜においても女性神を持ちながらも、社会の有様は男性中心社会でした。ギリシャのアカデミズムに女性がほとんどいないのもそれを証明しています。

そういう時代背景をベースに登場したキリスト教は男性よりも女性信徒を多く集めたようです。それはイエスの言葉に着目していただければよく判るかと思います。イエスの言葉は対象者は性を選びません。これに関しては t a d d yさんが既に多くを語られておりますね。

宗教を口実にした戦争はまことに醜いものだと私も思います。
しかし今日でもイスラム対キリスト教などと単純化して見られがちな中東問題も実は石油カルテルの問題という経済が絡んでいたり、靖国を口実に中国が日本を批判するように、根底には民族紛争が横たわっている。これらの光景では本来の宗教が権力者によっていいようにカードに使われていることが見てとれます。過去の宗教戦争といわれるものもよくよく歴史を検証して見るならば権力者の道具として、或いは口実に用いられている場合は多いですね。戦争というのはほんというと金がかかるし、わりにあわないので、宗教なんて霞み食ってるような精神世界を守るよりも、経済的問題で動くのが戦争です。十字軍が実は通商路の確保だったというのとかね。或いは民族紛争。←冷戦後はこれが増えましたね。戦争行為は後ろめたいんで宗教持ちだして正当化を諮ろうとするのはブッシュの演説を見ればよく判ると思います。「神の名を口にしたりすんな、このボケ猿が!!!」などと言いたくなりますね。

バチカンが独立した国家ろして存在しているのは、そのような世俗の権力から教会を守るためでもあるのですが、そのような状態になったのは近代に入ってからですね。その為ヨーロッパでは政教分離が進み、例えばダ・ヴィンチ・コードのように物議をかもし出すような小説も堂々と世に出され人々が読むことになったし、バチカンが「読むなよな」などと遠ぼえをしても、却って読者を増やす(ほぼ全員がカトリックと言ってもいいイタリア人は祭り好きだから、バチカンのその一言で却って読者を増やしたらしいよ)ような自由な風潮が産まれたのです。ヨーロッパの世俗文化にはイエスやキリスト教或いは教皇への風刺などが溢れています。

翻れば、イスラム社会ではそうした宗教批判の文化はありませんし、日本においても「天皇」はタブーですね。風刺の対象にする人はいません。跡継ぎ問題ですらもめています。そういえば「天皇」も先の戦争時には口実に持ちいられましたね。わたくしもカトリック信者である前に日本人ですから、「天皇」に対してはそれなりの敬意を感じています故に低俗な風刺などされたら怒るかもしれません。(そういえばドイツの新聞が皇太子殿下を風刺した時に日本側から抗議が出たことが一例としてありますね)キリスト教は寧ろその点ではさまざまな批判や風刺に対し、開かれているとはいえるでしょう。

ただ「天皇」の問題を通じ、考えてみればお分かりになる通り、伝統的な存在を簡単に嘲笑し傷つけるということは実はどういうことかは心情的に判るでしょう。バチカンが守らねばならないと考えるのも自然な心情です。信徒としては仕方ないと諦めつつも、やはり嘲笑と誤解に取り囲まれるのは悲しいものです。

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