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ダ・ヴィンチ・コード、ほんと?コミュの3. 「聖書は都合よく編纂された」---ほんと?

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再度整理してみると、ダヴィンチコード等の陰謀論が主張する歴史の中でキリスト教の転換期に「起こったこと」として決まり文句的によく言われている点は以下の3つです。
1) コンスタンティヌス帝が政治的に教会を利用した。
2) コンスタンティヌス帝の時代に現代に伝わっている聖書が出来た。それは都合良く編纂されたもので、皇帝と教会はキリストの「真実」を記載している他の聖書を隠ぺいした。
3) キリストは元々優れた預言者でしかなったが、権力基盤を固めるために彼を神格化したのはコンスタンティヌス帝とニケーア公会議においてで、政治的・人為的に操作されたものだった。

前回、この1)にあたる「教会を政治的に利用し、また、教会が政治的になったのはコンスタンティヌス帝の政治的野望のためであった」と言われていたことが、実際はかなり異なるということが分かりました。断片的で情報不足のところも多々ありますが、 今回はキリスト教のアイデンティティにも関係してくる2)について見てみたいと思います。


■ 福音書
聖書にはイエズスの言行を記した4つの福音書が納められています。

マタイによる福音書、マルコによる福音書、ルカによる福音書、そしてヨハネによる福音書。

これらはお互い非常に似ているため、また、補いあっているため、「共観福音書」と呼ばれています。 ちなみに「福音」とは「良い知らせ」という意味です。

一方、オカルト系の本等では、これ以外にも福音書はあり、当時の教会が隠蔽したと語られています。それらは「グノーシスの福音書」と呼ばれていて、実際に存在します。その数およそ16くらいで、その中でもよく耳にするのが、「トマの福音書」、「フィリポの福音書」、「マグダラのマリアの福音書」と呼ばれるものです。 先日ニュースをにぎわせた「ユダの福音書」もこれに入ります。


■ グノーシス思想
「グノーシス」とはギリシャ語で「知識」という意味で す。この一派の起源については、インド起源、イラン起 源、バビロニア起源、ギリシャ起源等の諸説があります。 キリスト教以前から存在していたもので、キリスト教か ら派生したものではありません。しかし、古代からのい ろいろな宗教や思想を取り込んで来ているため、キリス ト教が広がっていく過程でキリスト教的なものも吸収し ています。

グノーシス派は2〜3世紀あたりの記録の中に特に出始めます。

【A) グノーシスが目指すもの】
一言に要約するならば、個々人が「“隠された知識”を 通して、“超越した存在”となること」です。言い換えれば、 自分自身が「神」となることです。

グノーシスは、「権威(=国家、政府、教会、社会、家族 etc)からの離脱」、「時間や空間とい う制限からの逃避」、「物理的・歴史的存在からの逸脱」、 「個々人の個別手段による救い」を目指します。 そして これらを可能にし、また「超越した人間」となることを可 能にするのが、限られた人に知らされる「隠された知識」とある種の「技法」だと 教えます。 似たような思想は現代のカルトの間にも浸透していますよね。

このような思想から、キリスト教的な父なる神のイメージ、 教会の権威、信条や教義、政治体制といったものに対し反 対します。物質は悪から生まれたので、人間の体も「悪」 として卑下されています。また、特にグノーシスでは、教会は「人間を束縛して「真実」を伝達するのを妨げる組織 」として見なしています。ダヴィンチコードの中での主張も同じですね。

【B) グノーシスの神の認識 】
「真の神」は、この世界や物質的な存在を超越しているだけでなく、そもそも世界の創造自体と全く無関係であるとしています。

天地創造は、「真の神」によってではなく、より低級の 「神」(グノーシスでは「デミウルゴス」と呼ばれる悪神で、ユダヤ・キリスト教の神ヤーウェと同一視)に よって創られたため、物質的存在は「悪」であり、人間はこの状態から抜け出さなくてはならないと教えます。 そしてこの状態から抜け出すには、「真の神」の「隠さ れた知識(=グノーシス)」によってのみ可能とします。

【C) グノーシスのイエズス・キリストの認識】
人間は、「神の助け」によって「罪」を克服するのでは なく、「自己探求」によって「無知」を克服しなくては ならないと教えます。これがグノーシスの定義する「救い」です。 なので、イエズスは人類を罪から解放するために人となった神ではなく、人間が「神的存在」となるように導く 「霊的なマスター(師)」であるとしています。

また、 イエズスは弟子よりも優れている存在ではないが、イエズスは「知識」において弟子を凌ぐと認識しています。 ちなみにグノーシスでは「キリスト」と「イエズス」は 別個の存在としています。「キリスト」は高次元の霊で あり、「イエズス」は「キリスト霊」を一時的に宿した 器でしかありません。この「キリスト霊」は、洗礼の時 に「イエズス」に下り、「イエズス」の死の前にその体を離れたとしています。


■ 「共観福音書」と「グノーシスの福音書」
「共観福音書」と「グノーシスの福音書」が大きく異なる点がいくつかあります。

・ 歴史性
聖書を読むと、歴史的にも詳しく書かれていることが分かります。「何々のときに何が起こった」ということが記載されています。例を挙げると、イエズスの誕生時にユダヤ全土に人口調査の勅令が出ていたこと、磔刑に処された時期にあたる年にピラトがユダヤを治めていたことetc。これらはユダヤの歴史書(1世紀のユダヤの歴史家フラビウス・ヨセフスetc)にも記載されており、今日の歴史学者たちも実際にあったことと認知しています。一方、グノーシスの福音書にはこういった「歴史的事実」の記載が欠如しています。

・ 具体性
4つの福音書には、キリストの言葉だけでなく、彼がどのようなことをしたか(食べたり、泣いたり、キレてムチを振り回したりしたところまで!)が細かく記載されています。また、歴史的人物、政治的活動、初期教会の信徒たちの生活の様子や起こった出来事も詳細に記されています。一方、グノーシスの福音書にはこれら具体的な出来事についての記載がほとんどありません。

これらの違いが発生しているのはなぜでしょうか?

聖書が記載された時期と「グノーシスの福音書」が記載された時期にはかなりの隔たりがあります。 聖書に収められている福音書、パウロの書簡、その他の書簡、ヨハネの黙示録は、記載されたはっきりした年は諸説ありますが、聖書学者の間では50-100ADの間にすべて書かれたという点で一致しています。

一方、「グノーシスの福音書」と呼ばれるものは、グノーシスの研究者も認めていることですが、早く見積もっても最初のものが2世紀の半ばで、そのほとんどが3〜5世紀の間に記載されており、また、全部が全部同じ時期に記載されたのではなく、大部分が3世紀から5世紀に掛けて書かれています。

なので、イエズスの生きた当時の証人はすでにいない時代で、直接見聞きしたものを書き記すのではなく、僕達が200〜400年前の人のことを想像しながら書き記すようなものであるため、具体性が欠如していると思われます。例えば、今から200年前というと、黒船来航は150年くらい前の話ですから、それからさらに50年前という感じ(江戸時代後期)になります。一世代30年とすると今の僕達から6〜7世代前ですね。また、「グノーシスの福音書」どうしも記載内容が食い違っていたりします。


■ 聖書が編纂されたのはいつ?
現在私たちが手にしている聖書は、4世紀にコンスタンティヌス帝が政治的にキリスト教を利用するために、当時の教会と一緒に都合良く編纂したという一種の「陰謀論」がありますが、この問題はどうでしょうか?

聖書学者や歴史学者たちの研究によると、遅くとも「2世紀半ば(=イエズスが亡くなって100年くらいですね)まで」には、ほぼ僕達が今日手にしているものと同じ聖書が「信頼できる書物」としてクリスチャンの間で共有されていたことがほぼ一致した見解です。

つまり、コンスタンティヌス帝の時代(4世紀)以前に、すでに今日僕達が手に出来る聖書と同じ聖書が信徒達の間でシェアされていたということになります。 そのことは2世紀半ばに記されている記録からも窺えます。

165年に殉教したユスティヌスは、生前の著書の中で「使徒達によって編纂された福音書と呼ばれている実録が、私達に託された」と書き残しています(The First Apology)。

同時期に活躍した改宗者のテルトゥリアヌスは、すでに4つの福音書、使途行録、パウロの書簡、ヘブライ人への手紙、ヨハネの手紙1、そして黙示録の正当性をうたった記録を残しています(Five Books against Marcion)。

また、ユスティヌスやテルトゥリアヌスの20年くらい後のイレネウスは、次のように書き残しています。

「マタイもまたヘブライ人たちの間で彼らの言葉で福音書を書き残し、同時期にペトロとパウロはローマで宣教し、教会の礎を築いていた。彼らが召された後、弟子でありペトロの通訳であったマルコも、ペトロによって伝えられたことを書きまとめて私達に伝えてくれた。パウロの同胞であるルカも、パウロから伝え聞いた福音書の内容を本にまとめた。その後、主の弟子であり、主の胸に寄り添っていたヨハネが、アジアのエフェソに住を定めていたときに自分自身で福音書を取りまとめた。」 (Against Heresies)

ちなみに、テルトゥリアヌスもイレネウスもグノーシスの思想を反駁する著書を多く書き残しています。 言い換えると、2世紀半ばにはすでにグノーシス派が現れていて、教会と相容れていなかったということを窺い知ることができます。

一方で、キリストの「本当の姿」を書き記しており、4世紀に権力をつけてきた教会によって隠蔽されたとされる「グノーシスの福音書」は、その大部分が3〜5世紀の間に書かれているため、この時期にはほとんど存在していません。早く見積もっても一番早いもので2世紀半ばに記されたということですので、おそらく存在しても1〜2冊でしょう。

これらの情報を総合すると次のことが分かると思います。

・ 「 すでに2世紀半ばには4つの共観福音書が存在していた。」
先述したように、聖書学者や歴史学者たちの見解にあるように、50〜100ADの間、つまり1世紀半ばから2世紀の間には完成していたということはおおよそ正しく、その中でも少なくとも2世紀の半ばにはすでに存在していたことは間違いないであろうということが分かります。また、4つの福音書だけでなく、現代手にすることが出来る聖書とほぼ同じ書物が聖書とされていたことも窺い知れます。

・ 「 2世紀の半ばには、教会では4つの福音書“のみ”が信頼できる福音書として受け入れられていた。 」
テルトゥリアヌスやイレネウスの残した著書からもそのことが読み取れます。また、この時代にはまだ件の「グノーシスの福音書」のほとんどが存在していません。 したがって、4世紀に皇帝と力をつけて来た教会が聖書を都合よく編纂し、キリストの「本当の姿」を記載していた数々の「グノーシスの福音書」を隠蔽したという主張はこの点からも成り立たなくなります。


■ 「死海文書」
陰謀論的主張の間でよくひきあいに出されるのが、「死海文書」です。

この死海文書に当時の教会やコンスタンティヌス帝らが隠ぺいすることができなかったキリストの「事実」の姿が記されていると主張するオカルト主義者がいます。 けれども実際には、死海文書にはキリストについての記載は全く含まれていません。死海文書とは、1950年代にイスラエルの死海の畔のクムランの洞窟で発見された、20世紀の大発見とされる文書です。聖書の時代のユダヤの生活や風習を知るのに非常に重要な資料となっています。

死海文書は約800の文書で構成されています。そのうち200は旧約聖書に関する記載で、詩編や申命紀、イザヤの預言etcに関する手書きの写しで、後はクムラン教団のことに関する文書等が多く残されています。 クムランは新約聖書時代の話が紙にしたためられる時代以前にすでに破壊されており、死海文書にはキリストのことだけでなく、洗者ヨハネに関する記載も残っていません。


■ まとめ
断片的ではありますがこれらの情報を俯瞰してみると、少なくとも次のことが見えてくると思います。

・ 現在の我々が手にする内容と同じ内容の聖書が編纂されたのは、4世紀のコンスタンティヌス帝の時代ではなく、少なくともキリストが亡くなってから100年の間にはその形をすでに取っていたことが分かります。 つまり、ユスティニアヌス帝の時代の200年前には、現在私達が読んでいる聖書内にある書物とほぼ同じ書物が教会の中で信頼たるものとしてみなされていたことが分かります。

・ 一方、現在残っている聖書以外にある「グノーシスの福音書」は、その記載時期が一番早くても聖書が完成してから100年後であり、全部が同じ時期に書かれたものではないこと、内容的にも具体性や共通性が欠如しているため信憑性に乏しいことが分かりました。また、「共観福音書」以外の「グノーシスの福音書」は、4世紀になって教会やローマ皇帝によって意図的に排除されたものではなく、当初から教会の中では「信憑性のある書物」としては全くみなされていなかったことも分かります。

コメント(7)

>> 服部@映画瓦版さん

どうもコメントありがとうございます。

失礼しました。確かにヨハネによる福音書は「共観福音書」じゃありませんでしたね。ご指摘ありがとうございます。ヨハネは残りの3つの福音書が書かれた後に福音書をまとめたので、この3つには書かれていない部分で補ったりしているものでした。

グノーシスが非常に捉えにくいのは、「なんでもあり」だからであって、基本的にまとまった組織等もなく、グノーシスとされるものの間でも千差万別な思想があるからだと思います。
その中でも一般的に共通なのは、「イエズスは大衆に対しては表面的な教えを語ったけれども、選ばれた弟子たちに対しては真の知識を秘密に伝えた」という思想です。ダヴィンチコードの根底にもなっていますよね。

また、「キリスト教的グノーシス」と呼ばれるものの多くは、肉体を卑下し、イエズスの体は幻であったとする「仮現説」をとっていたと思います。グノーシスの主流派はシリア派(ユダヤ・キリスト教の言う創造神は不完全な悪神)、アレクサンドリア派(シリア派をさらにギリシャ哲学的に洗練させたもの)、二元論派(神は完全な存在ではなく常に変容している)、反律法主義派(「ユダヤの神」が教えたものとすべて反対のことを行うべき)の4つに分けられます。

キリスト教の「肉体」の認識は、おっしゃる通り、肉体を軽視・蔑視する部分が全くないとは言えないと思います。
一方で信仰の最も根幹となるもののひとつとして「体の復活を待ち望む」という部分もあり、人は霊だけの存在ではなく、最終的には霊と体がひとつで完全な人間であるという思想があります。つまり、「肉体は悪である」とか「肉体は幻にすぎない」とするグノーシスとは正反対の視点に立っていることがわかります。

また、聖書的な読み方では、「肉」は必ずしも文字通りの「肉体」を表しているのではなく、「この世的なもの」のシンボルとして使われています。「肉」という言葉の表面だけ読み下していくと、おっしゃるようにグノーシズムに近い考えに行き着くことも十分あると思います。文字通りの「肉vs霊」という考えで極端な二元論に走ると、グノーシス的思想の影響を受けた中世のカタリ派のようにイエズスは肉体を持たない幽霊のような存在だったとする考えが出てきたり、肉体から解放されるためには一種の自殺もOKということになってしまいます。

個人的な感想としては、両方とも霊性という部分だけを切り出してみると一見似たような部分があるように見えますが、全体を俯瞰して見ると、向かっている方向は正反対のように思います。 ただし、コメントにある通り、肉体を軽視して霊性ばかりを強調すれば、それはグノーシス主義の亜流になってしまいますね。
と、ごちゃごちゃ書いておきながら、あまりにマニアックな話なのもなんですね。

とりあえず、このコミュでは「事実」とさいれているダヴィンチコードの中の話が、「ホントにそうなのかどうか?」という部分だけに焦点を絞っておきたいと思います。引き続きよろしくお願いします。
>> 服部@映画瓦版さん

コメントありがとうございます。

いろんなご意見をいろんな方から伺えるのは良いことですね。
今回、服部@映画瓦版さんがくださっているコメントにもなるほどと同調する部分もありますし、個人的には全く違った意見を持っている部分もあります。調べたり参考にする資料等によっても、いろいろな見方がされると思います。

ただし、そこを議論しはじめても終わることはないと思うので焦点をダ・ヴィンチ・コードに戻すと、服部:映画瓦版さんのコメントにも通じるところですが、ダ・ヴィンチ・コードは、「グノーシス的思想を都合よく借用したオカルト」と言えるかもしれませんね。おそらくダ・ヴィンチ・コードのネタ本となったであろうPagelsのようないわゆる現代の「グノーシス研究者」と呼ばれている方々の著書がありますが、あれも「グノーシスを主張しているがグノーシスなのかどうなのか?」というところから検証しないといけないかもしれません。

いづれにしても、今回このトピックでボクが個人的にシェアしたかったポイントは、ダ・ヴィンチ・コードの主張にあるように、「聖書というものが4世紀に権力の都合よく編纂されたもの」ではないという点です。
そうですね。クリスチャンであっても、よほどのことがないと教会史や聖書学について調べてみたり勉強してみたりすることもなかなかないと思います。
たしかに2000年の歴史が詰まった膨大な情報ですから、そう簡単にインプットできるものでもないですし。そして、知れば知るほど、知らなくてはいけない情報の多さが次々と明るみになって圧倒されます。

クリスチャンは信仰としてキリスト教を信じているので、知識ばかり詰め込んだ頭でっかち信徒になってはいけないと思いますが、自分のアイデンティティでもある教会や聖書のことについて、もう少し知っておく必要があるかもしれません。

なので、「ダ・ヴィンチ・コード」自体はいろいろな情報を断片的に都合よく寄せ集めたものであり、そこに「事実」として書かれている内容は信用性もなにもないものですが、反対の見方をすれば、クリスチャンにとってはそのことに反論することで自分のアイデンティティをよく勉強してみる良い機会を提供したともポジティブに捉えることができるかもしれませんね。

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