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ダ・ヴィンチ・コード、ほんと?コミュの2. .「コンスタンティヌス帝が政治的に利用し歪めた」---ほんと?

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コンスタンティヌス帝がキリスト教を政治的に利用し、都合よく改ざんしたといわれていますが、どうでしょうか?


■ コンスタンティヌス帝の生い立ちと当時の社会
彼の生まれた年は明確には分かっていませんが、273〜275ADあたりに生まれたとされています。卑弥呼が中国に使いを送ったのが239AD頃といわれてますから、えらく昔の人です。

この時期はローマ帝国内がとても不安定な時期だったと言われています。帝国内は権力紛争に明け暮れ、異民族の侵入、飢餓等も相次いで疲弊していました。 彼の父、フラウィウス・コンスタンティウス(父コンスタンティ“ウ”スと子コンスタンティ“ヌ”ス・・・、紛らわしい!)は、ディオクレティアヌス帝の下で西ローマ帝国の副帝に上げられます。(ディオクレティアヌス帝は285年マクシミアヌスを副帝、翌年正帝に指名し帝国を東西に分割統治し、さらに293年にはガレリウスを自分の副帝に、コンスタンティウスをマクシミアヌスの副帝にそれぞれ任命し、帝国の「四分割統治」を開始します。)

以下、この章では「コンスタンティウス」を「パパ」、「コンスタンティヌス」を「坊ちゃん」と基本的に呼びますね。紛らわしくて混乱するかもしれないんで・・・。

ディオクレティアヌス帝の治世下では、当初キリスト教徒は比較的自由を享受していたようですが、ローマの神官たちの讒言により、ネロ帝の迫害を超えるかつてない大規模な迫害が始まります。

303年2月23日に勅令が発布されます。この勅令は、教会や聖書の破壊・破棄を命じ、礼拝のために集まることを禁じます。信仰を捨てない兵士は奴隷とされ、キリスト教徒の役人は偶像に捧げものをしなければ死刑に処されるようになりました。 この迫害は、「大迫害」として知られており、キリスト教史上、最も殉教者を出したと言われるほど激しく残酷なものとして記録されています。

305年、ディオクレティアヌス帝が病気で退位すると、西では「パパ」が正帝として即位しますが、翌年ブリタニアとの戦いの最中に死亡してしまいます。その後継者として、兵士たちの人望厚かった「坊ちゃん」が推挙されますが、東の正帝ガレリウスは彼を副帝としか認めませんでした。彼が正帝のになるのはガレリウスの死後、マクセンティウス(先帝マクシミアヌスの子)との争いに勝利した312 or 313年です。そして330年には東と西の統一を果たしています。

「坊ちゃん」の母はヘレナと言います。 ヘレナは一般庶民の出身でした。そもそも「パパ」も軍人で貴族ではありません。しかし、出世街道邁進中の「パパ」が西の副帝に即位するには、西の正帝マクシミアヌスの娘、テオドラと結婚するのが条件でした。

コンスタンティウスはヘレナを捨てテオドラとの再婚を選びます。この時から「坊ちゃん」は不遇の時を過ごすこととなり、少年時代は人質としてディオクレティアヌス帝の宮廷におかれていました。 コンスタンティヌスは母を深く愛していたようで、後に自分が西の皇帝(称号はアウグストゥス)に就くと、ヘレナを急いで宮殿に招聘し、「アウグスタ」という最高の尊称を贈り敬います。また貨幣には彼女の像を刻ませました。

ヘレナはキリスト教の洗礼を受け(コンスタンティヌスはまだこのときには洗礼を受けていません)、自らは質素な生活を送り、貧しい人々を助けました。324年にはエルサレムに巡礼し、ゴルゴダの丘(イエズスが十字架に掛けられた場所)に大きな教会を建て、そこでイエズスの時代のものを発掘しているときに十字架を発見したと言われています。


■ コンスタンティヌスの信仰
コンスタンティヌスの性格は、彼を研究している歴史家によれば以下のように言われいます。

「権威主義的だが、同時に失敗には寛大。癇癪持ちだが、簡単になだめられる。粗野であるが、とても信心深い。成功はさらなる上の存在の恩恵によるものと信じていた。」

コンスタンティヌスは、キリスト教を公認し、後に自分も洗礼を受けたという事実にだけ注意が行きますが、彼はあらゆる信仰に寛大でした。

【 ミラノ勅令 】
313年、彼は東の正帝リキニウスと共に「ミラノ勅令」を発布し、この勅令でキリスト教を「公認」します。しかし忘れてはいけないのが、勅令では同時にあらゆる宗教の「信仰の自由」を認めている点です。

その2年前の311年、東の正帝ガレリウスが没すると、コンスタンティヌスはライバルのマクセンティウス(西の先帝マクシミアヌスの息子)と争い、312年に有名な「ミルウィウス橋の戦い」が勃発します。

マクセンティウスの方はキリスト教迫害論者でした。 戦いの前夜、イエズスがコンスタンティヌスの夢にあらわれ、兵士の甲冑にキリストの頭文字を記すようにコンスタンティヌスに告げたと言われています。翌日、太陽に十字が重なり、「この十字によりてなんじは勝利せん」という文字がうかぶのを見たと言われるコンスタンティヌスは、十字架の印を軍旗に着け、マクセンティウスとの戦いの勝利を納めます。この「事件」が彼のキリスト教公認、そして自身の洗礼への動きに結びついたと言われています。

【 「無敵の太陽」信仰とキリスト教 】
コンスタンティヌスは元々、Sol Invictus(ソル・インヴィクトゥス:無敵の太陽)という一派を信仰していました。 Sol Invictusの信仰は2世紀頃に形成され始めたもので、全宇宙を治める神的な霊の存在を、太陽をそのシンボルとして太陽神を崇拝する一神教的な形を取っています。中近東起源のミトラ教やギリシャのソクラテス哲学の影響がミックスされ、ローマの色に染め直されたもののと言われています。

ここで留意すべきは、ローマにおいてSol Invinctusは小さな一派で、しかも言ってみれば新興宗教でしかないことです。

当時のローマの信仰は、女神ローマ(=ローマ帝国を神格化)を礼拝、そして神格化された皇帝たちを敬い、同時にユピテル(ゼウス)、ユノー(ヘラ)、ミネルウァ(アテナ)を崇める信仰でした。 おそらくSol Invictusにあった一神教的性格と、キリスト教徒の間でも輝く太陽をイエズスのシンボルと見なしていた点等の一見似通ったように見える点、またクリスチャンの母の影響もあいまって、ミルウィウス橋の戦いでの出来事以降、コンスタンティヌスはキリスト教への親近感を更に深めて行ったのではないでしょうか。

【 キリスト教を政治的に利用?? 】
コンスタンティヌスがキリスト教を公認した当時、皇帝としての勢力を拡大するためにキリスト教を政治的に利用したと言われていますが、果たして本当にそうなのでしょうか?

結論から言うと、政治的な施策のためにキリスト教を公認するメリットは、当時の社会を見るとほとんどないと言えると思います。

先述した通り、当時のローマの大部分は「ローマの信仰」を信じています。帝国内でキリスト教徒はほんの一握りの少数派に過ぎません。 「一神教」という部分を利用して皇帝の権力を強めていくのであれば、おびただしい殉教者を出すほどローマの要素を取り入れたり迎合することを徹底的に拒否したキリスト教は認めず、よりローマ的な一神教「Sol Invictus」を国教に制定してしまう方がはるかに理にかなっていると思います。

また、ディオクレティアヌス帝の大迫害以降、キリスト教徒の大部分は下層階級に落とされています。 ですから、帝国内の少数派で、しかもその大部分が下層階級であるキリスト教を政治的に利用する利点はゼロに近いと言えるように思います。

【 コンスタンティヌスの洗礼 】
コンスタンティヌスがキリスト教を自分の信仰として受け入れるまでには案外時間が掛かっているようですが、はっきりとどの時点で完全に受け入れたのかというのは分かりません。しかしキリスト教にどんどん惹かれて行ったことは彼の教会への好意的な行動の数々から分かります。

彼の洗礼は337年の復活祭です。60歳を過ぎたときです。その数カ月後に彼は亡くなりっています。当時のキリスト教徒の風習として、洗礼を死の床まで伸ばしていたようです(アウグスティヌスの著書、「告白」にも当時の様子が記載されているようです)。 洗礼後に大きな罪を犯すと償うのが大変だという考え方のもと、特に人を裁いたり死刑にする権利・義務を持つ高官の役職にある人は、死の直前に洗礼を受けていたようです。


■「国教化」ではなくて「公認」
確かにコンスタンティヌスはそれまで禁止されてきたキリスト教の信仰に自由を与えることで、結果的に歴史的な転換を与えるきっかけを作りました。

しかし、注意すべきは、コンスタンティヌスはキリスト教を「国教化」はしていません。「公認」しただけです。
よくミラノ勅令のタイミングをキリスト教の「国教化」としている方々がいますが、この点は誤りです。言い換えるならば、ミラノ勅令でキリスト教を公認したことは、他の公認宗教と同列に配しただけです。

ミラノ勅令発布後彼の死まで、ミラノ勅令を覆したり修正したりするものは出されていません。 330年には東と西を統一しますが、彼ほどのカリスマ性に富んだ権力者が政治的基盤を固めるためにキリスト教を利用するのであれば、統一後に新しい宗教を「国教化」して利用し、教義を都合良く改ざんして押し付けてしまえば手っ取り早く効率的です。しかし先述のとおり、彼はそのような行動に出ていません。また、自分の臣下にさえキリスト教への改宗を強要していませんでした。

実際にキリスト教が「国教化」されたのは彼の死後約60年後の392年です。 自身も熱心なキリスト教徒だったテオドシウス帝(=元々は軍指揮官の息子)が国教化の勅令を発布しています。一時ユリアヌス帝が古来のローマの宗教の復興を試みますが失敗しています。ミラノ勅令発布後80年の間に信仰の自由を謳歌したキリスト教が、ローマの「国教化」にいたる程一気に帝国内の民衆の間に広がりをみせるわけです。


■ 感想
コンスタンティヌスは帝国を統一するほどの権力を備え、政治的手腕も巧みな成り上がりの専制君主ですが、同時に部下や元老院から慕われ、人間臭く、権力のためなら肉親を殺すこともいとわない当時の風潮の中、母を一貫して敬愛する面もあります。皇帝に上り詰める人間ですから、コンスタンティヌスは帝国を統一する野望を常に抱いてきたことでしょう。しかしそれは、彼なりの「理想国家」を築く野望だったのではないかと想像します。

コンスタンティヌスの歩みを俯瞰してみてみると、これまでの権力者とは若干異なる性格を持っていると思います。従来、国家宗教を「皇帝の神格化」などで政治的に利用してきた世俗的な先達たちとは異なり、彼は自分自身を神格化するローマの宗教を信じていませんし、当初Sol Invictusを信仰していたように、何か超越した霊的な存在を崇拝する篤い信仰心や精神性を持ち合わせています。

これまでの不幸な幼少期、飽きることない帝国内の政争をつぶさに見て来て、敬愛する母ヘレナの模範的な生活、当時でもそのモラル性の高さはよく知られていたキリスト教の教えに共鳴し(ローマやヘレニズムの世界がいかに自由奔放だったかを思うと、当時の富裕層にはキリスト教は異常なくらい潔癖に映ったことでしょう・・・)、また、大きな節目節目に出会うキリスト教に運命的なものを感じ、自分の理想国家を建設していくためにキリスト教に惹かれていったのではないでしょうか。

実際のところ、どのような理想を心に抱いて帝国を統一していったかは分かりませんが、彼の実際の足取りを見ると、キリスト教への思い入れはあったにしても、少なくともキリスト教を政治的に利用したという結論にはたどり着かないように思います。

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