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九条の会@mixiコミュの駐日コスタリカ総領事の講演から・・・

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日刊「ベリタ」よりの転載です。
http://www.nikkanberita.com/

Full Text
2009年04月26日11時25分掲載  無料記事  印刷用

軍隊を廃止したコスタリカの今 暮らしの中に根付いた平和文化 安原和雄 

  中米の小国、コスタリカは憲法を改正し、軍隊を廃止してから60年になり、今ではコスタリカの人々の間に「軍隊がないのが当たり前」という感覚が広がっている。しかも多様な平和の日常化という意味での「平和文化」が暮らしの中に根付いている。一方、日本は「戦力不保持」の憲法9条を持ちながら、強大な軍事力を保有する偽装国家となっており、その国としてのあり方はいかにも対照的である。 
 日本も憲法本来の理念を生かして、平和を追求し、つくっていくときと考えるが、そのためには、コスタリカに学ぶべき点が少なくないだろう。コスタリカの「平和文化」なるものの実相を報告する。 
 
▽駐日コスタリカ総領事の講演 ― 軍隊がないのが当たり前に 
 
 「コスタリカに学ぶ会」(正式名称=軍隊を捨てた国コスタリカに学び平和をつくる会)は09年4月19日東京・文京区の文京区民センターで第6回定例総会を開き、駐日コスタリカ公使参事官兼総領事アマリリ・ビジェガス・コルデロさんを招き、講演会を開いた。 
 テーマは「本当に軍隊を捨てて平和に暮らしている国〜コスタリカはどうしてそれができるのか〜」である。コルデロさんはラテンアメリカにおける若き女性リーダーとしても知られており、講演では「今では軍隊がないのが当たり前になっている」ことなどを強調した。 
 なお私(安原)は「コスタリカに学ぶ会」世話人の一人として参加した。講演は司会者の質問に答える形で進行した。以下の講演趣旨は発言順序そのままではないことをお断りしておく。 
 
問い:コスタリカでは軍隊を持っていないから外国から攻められないし、安心できると考えている。これは日本人の普通の感覚とは異なっている。どうしてそういう風に考えることができるのか。 
 
答え:日本人にとってはミステリーだと言うことでしょうが、そういう疑問に答えることができれば、と思う。コスタリカ近隣の軍事独裁国家の話を耳にして、やはり軍隊を持った方がいいのではないかと質問される。しかしそういう質問が出されること自体が実は不思議である。 
 戦争は特殊な状態であり、コスタリカ人のメンタリティから外れている。軍隊や武器を持っていると、もっと多くの軍隊を、もっと武器をということになるだろう。それを使うと、紛争が紛争を呼ぶという悪循環に陥ることにもなる。だから私たちは軍隊を持たない方がいいとして廃止したし、外国にも軍隊を持たない方がよいと呼びかけてもいる。紛争は武器ではなく、言葉の力、対話によって解決することになっている。 
 
 平和プランを持たねばならない。軍隊を廃止し、そのカネを教育と医療のために使うことにした。人間として生きるために一番重要なこの2つの分野に軍隊廃止で浮いたカネを使っている。 
 今は多くの人がケータイ電話を持っているが、ケータイがなかったときは、ないことが当たり前だった。私たちは内戦という非常につらい経験をして、翌年の1949年に憲法改正して軍隊を廃止した。今では軍隊がないことが当たり前になっている。 
 
問い:子どもたちが育つ環境についてうかがいたい。日本ではビデオゲームで遊んでいる。それも戦争とか、相手を倒すとかをゲームの中で楽しむという習慣がある。コスタリカではそのような遊びはあるのか、学校の先生や親が注意することはあるのか。 
 
答え:規制メカニズムがないわけではないが、むしろ家族の中での学びを重視する。お年寄りと孫が一緒になって過ごすなど家族が人間関係を学ぶ場になっている。ゲームは一人でやるから孤立した時間になっている。友人や家族と例えばフットボールでも見に行ったり、話し合ったりすればいいのではないか。 
 学校では個人一人ひとりにも平和があり、イヌ、ネコ、魚のことまで考える。それが平和だと教えられる。 
 
 私はコスタリカの外交官であることを誇りに思っている。自然との平和、環境との平和、自分自身の平和など多様な平和を打ち出しているから。それに軍隊がないからこそ、もっといい国をつくることができることを学んできた。 
 日本の桜の花は美しいし、そこから平和をつくることもできるのではないか。平和の文化には歌や踊りを楽しむことも含まれることを指摘したい。 
 
〈安原の感想〉 誇りを持てる日本人になれるか 
講演を聴きながら私は、日本人の発想とは根本のところで大きく異なっていることを痛感していた。同時にコスタリカは日本よりも遙か先を進んでいることを感じてもいた。軍隊がないことが当たり前という感覚は、掛け値なしに素敵というほかない。日本人の多くは軍事力の虜(とりこ)になっており、コスタリカの人々は平和の日常的な作り手であり、同時に平和の享受者として暮らしている。どちらに誇りを持てるかは議論の余地はない。 
 われわれ日本人の多くは誇りを持って生きるという肝心なことを忘れてはいないか。講演者の「コスタリカの外交官であることを誇りに思っている」という発言に私は「日本はコスタリカに負けた」と思った。 
 
▽コスタリカの人々の平和観 ― 日本人の平和観との違い 
 
 足立力也著『丸腰国家〜軍隊を放棄したコスタリカ 60年の平和戦略〜』(扶桑社新書、09年3月刊)は、コスタリカの人々が平和をどうとらえているのか、その平和観を描いている。日本人の平和観との違いを浮き彫りにしているところに本書の特色がある。 
 同氏は、フリーランス・コスタリカ研究家で、1999年からコスタリカに滞在し、国立ナシオナル大学大学院博士課程に在学、2000年に中退した。本書のまえがきで「研究者としてコスタリカをさまざまな角度から調査し、また生活者としてコスタリカ人とともに暮らした。その成果と感覚を通じて,〈等身大のコスタリカ〉を紹介したい」と書いている。以下に『丸腰国家』の要点を書き留める。 
 
(1)軍隊に関するコスタリカと日本の憲法規定の違い 
 
〈コスタリカ共和国憲法12条〉(1949年改正) 
恒久的組織としての軍隊は禁止される。 
公共の秩序の監視と維持のため、必要な警察力を持つものとする。 
大陸間協定もしくは国家防衛のためにのみ、軍事力を組織することができる。 
 
〈日本国憲法9条〉(1947年新憲法施行) 
日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。 
前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。 
 
 以上から明らかなように日本国憲法は「戦力不保持」、「交戦権の否認」を掲げて、徹底した非武装の理念を打ち出しているのに対し、コスタリカ憲法は必要に応じて軍事力を持つことができる規定になっている。しかし現状は全く逆で、日本は戦力否定の9条を持ちながら、強大な軍事力を保有し、一方、コスタリカは再軍備可能な憲法の条文を持ちつつも、これまで60年間一貫して軍事力を持たないままでいる。 
 
(2)日本人とコスタリカ人にみる顕著な平和観の違い 
 
 平和とは何か、そのイメージについても日本人とコスタリカ人とではかなり際立った違いがみられる。 
 
?「平和に対する想像力」が働かない日本人 
 「平和」という言葉を聞いたとき、日本人の多くは何を連想するか? 小学5年生を対象に調べたところ、「戦争」という答えが多い。これでは「戦争は悪いこと」は分かるが、「ではどうすればよいのか」という視点に欠けるところが弱点である。そのため平和に対する想像力が働かなくなる状態に日本人の多くは陥っている。 
 
 こういう「日本人の平和観」では心が未来に向かいにくい。つまり後退を食い止めるところまではできても、前進するところまではなかなかいかない。平和と聞くだけで戦争のことを想起してしまい、嫌な気分になってしまう。これが日本人が陥っている罠とはいえないか。 
 日本では「平和=反戦」という既成概念にとらわれない平和観が求められているのではないか。 
 
?コスタリカ人の多様な平和観 
*小学生の平和観 
 小学5年生を対象に調べたところ、平和について民主主義、人権、環境、愛、家族、理解 ― など多様な答えが出てくる。 
 
 5年生の社会の授業で「自分自身の中の平和」というテーマでつぎのような発表が行われた。 
 「自分の中に平和がなかったら、他人との平和もない。他人が自分より何かを多く持っているとしても、それは重要なことではない。自分自身をそのまま受け入れ、自分自身を尊重しなければならない。でなければ他人を理解し、尊重することもできない」 
 
*自己尊厳と他者への尊重 
 責任を持たせて自己尊厳を回復させると、他者も尊重するようになる。この場合の責任とは、問題があった場合、とがを負うという意味ではなく、何かの仕事を自らが主導して最後までやりぬき、その社会を構成するメンバー全員対してきちんと説明できること。責任感は自己実現とセットになって、ポジティブな意味合いを持って、その子の心に定着する。 
 責任を持たせてもらえることで、自分に対する尊厳を回復していく。そこから他者の尊厳も尊重しようという気持ちも生まれてくる。こうして子供達は笑顔を取り戻していった。 
 
*大人たちの平和観 
・公園の庭師(男性)=平和とはまず静寂、平穏ということ。平和でないときには。誰だってそわそわするだろう。落ち着いた暮らしができること、それが平和だ。 
・裁判所職員(女性)=コスタリカ人にとって、平和とは、私たちに内在する固有の価値観で、私たちを私たちたらしめる重要なもの。自由を感じること。私たちの代表を選ぶことができること。国中を自由に移動できること。誰とでも気軽に話すことができること。思ったことを自由に表現できること。 
・選挙最高裁判所(注)の判事=1949年以来、自由で公正な選挙を行ってきた。それは「民主主義としての平和」を意味する。 
 (注)1949年の憲法改正でこの選挙最高裁判所の設置が決められた。 
 
?「豊かな自然環境」は、平和な社会のお手本 
一人のエコツアーガイドさんのつぎのような森に関する説明が興味深い。「環境先進国」・コスタリカならではの発想だ。 
 
 森は私たちの社会のようなもの。土、日光、水、木、草があり、菌類、虫、鳥、動物がいる。土、日光、水はインフラであり、動植物は私たちのようなもの。互いに競争することもあるが、結局は相互依存している。収奪しすぎると結局共倒れになってしまう。森は私たちに、私たちの社会がどうあるべきかを教えてくれる、最も身近な教材だ。 
 自然界の多様性、生態系の循環とバランスは、私たちの社会と相似関係にある。それに気づくと、自然環境に対する見方も、私たちが生きている人間社会に対する見方も変わってくる。環境破壊が進むと、水や食糧など私たちの生活に必要なものすら得られなくなる。豊かな自然とともに暮らすことで、そこから平和な社会を建設するためのインスピレーションを得て、次世代へとつなぐ― と。 
 
?コスタリカの平和観は前向きのイメージ 
 これまで私たちは人間のことばかり考えていたが、「環境民主主義」という言葉が出てきたように、動植物はもちろんのこと、海や山、森の声にも耳を澄ませ、その意思と人間の意志をつむぎ合わせていかなければならない時代になってきた。このプロセスには終わりがない。だからこそ、その終わりなき働きかけこそが、「平和」という言葉がもつ、本質的な概念なのだ。 
 
 コスタリカでの平和観には平穏、自由、民主主義、文化、尊厳、環境など、常に前向きな方向性が含まれている。より平穏に、より自由に、より民主主義的に、より尊厳を持って、より豊かな環境の中で生きる文化を、常に求めていこうとする思想がその底には流れている。 
 
〈安原の感想〉 日本に「平和文化」が根付くのはいつの日か 
 ここでは平和観の大きな違いに着目したい。コスタリカ人にとって平和とは、非武装を前提にして、平穏、自由、民主主義、文化、尊厳、環境など多様であり、しかもそれが日常の暮らしの中に「平和文化」として根付いている。駐日コスタリカ総領事も講演で「平和文化には歌や踊りを楽しむことも含まれる」と指摘している。だからこそ「軍隊がないのが当たり前」という感覚が広がっているのだろう。 
 一方、日本人にとって平和とは、反戦・非戦を指している場合が多い。著者の足立氏はこれを「平和に対する想像力が働かなくなる状態」であり、「日本人が陥っている罠」であり、これでは「心が未来へ向かいにくい」とも指摘している。 
 
 ただ日本とコスタリカが置かれている客観的状況の違いを見逃してはならない。それは日米安保体制下で日本が強大な軍事力を保有し、その軍事力行使への衝動を強めようとしていることである。だから日本の平和にとっては反戦・非戦も必要なのである。 
 重要なのは、そこで足踏みしないで、平和観を発展させることである。それは反戦・非戦に重点を置く従来型の平和観から多様な非暴力を目指す21世紀型の平和観(反戦・非戦のほかに、いのち尊重、地球環境保全、資源エネルギーの節約、貧困・格差の解消、人間の尊厳、安心・安全など)をどう実現させていくかである。 
 脱「日米安保」、非武装・日本の構築は、必要条件ではあっても、十分条件ではない。「平和=非暴力」を実現していく長い道のりの出発点にすぎない。われわれの日常の暮らしの中に多様な非暴力としての「平和文化」が定着するのは、果たしていつの日なのだろうか。 
 
*本稿は「安原和雄の仏教経済塾」からの転載です。 
http://kyasuhara.blog14.fc2.com/

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