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韓国ニューライト関連記事を読むコミュの(3)植民地収奪論vs植民地近代化論

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原文:http://www.newright.or.kr/read.php?cataId=nr03007&num=1701

<解放前後史の再認識>特講(3)
日本の朝鮮同化政策がもたらした朝鮮の近代化

 自由主義に基づいた新しい歴史認識と民族主義に基づいた古い歴史認識は、1905〜1945年の日帝下の植民地期をどう理解するかが大きく分かれています。現在国史学系で主流を占めている民族主義の歴史認識は、日帝が大韓民国の国権を侵奪し朝鮮の土地と食料、資源、労働力を収奪によって、民族の生存権を否定し民族の正常な発展の道をわい曲したという主張があります。

 これを指してよく「植民地収奪論」といいます。そこには歴史を階級的な観点から、搾取階級で認識するマルクス主義的歴史学と経済学が大きな影響を及ぼしています。仮に韓国で近代的歴史学と経済学は1930年代から始まったといえますが、その草創期の歴史学者と経済学者を見ると、とても唯物史観に基づいたマルクス主義の場合が多いです。

 収奪論をもう少し具体的に紹介すると次のようになります。日帝は土地調査事業(1910〜1918)を実施にあたって、農民達に所有農地を申告させました。しかし申告が何か分からない農民もいるのなか申告期間を逃す人が多くいました。だから、なんと全国4割にあたる多くの土地が総督府の所有地として収奪し、この土地を日本から来た移民農民や東洋拓殖株式会社のような会社に、捨て値で渡されたということです。過去40年間大韓民国の国史教科書は学生達にこう教えました。

 また国史教科書には日帝が、生産した米の半分を奪い日本に運んだことになっています。畑仕事をすべて終えたら日本の警察や憲兵が刀銃突き付け半分を奪い取ったように、そんなふうに直接書いてはいませんが、そう解釈できる文脈で学生を教えて来ました。また日帝は朝鮮人の労働力を収奪したといいます。1940年代の戦時期に約650万名の朝鮮人を前線、工場、炭坑に強制連行し、連れて行ってからは賃金を渡さず奴隷のように使われたということです。そのなかには朝鮮の未婚の女性達がいました。挺身隊という名目で朝鮮の未婚の女性達を動員して日本軍の慰安婦になりましたが、その数が数十万に達すると教科書には記述しています。

 しかし、この話はすべて事実ではありません。びっくりする人も多いでしょうが、要点だけを述べると、この話はすべて教科書を書いた歴史学者がつくり出した話です。解放以後の歴史教科書を検討してみたら1960年まではこんな話しはありませんでした。そのうち1970年代に入り特に1974年以後、国定教科書体制に移行して上記のような乱暴な叙述が教科書に登場してきました。これについてここでこれ以上詳しく説明する暇がありませんが、知りたい方は私の以前の論文を参照してください。(イ・ヨンフン<国史教科書に描かれた日帝の収奪性とその神話性><時代精神>28、2005)

 先程、紹介したように収奪論は1930年からありました。しかしこのときの収奪は一種の理論的なこととしてマルクス主義的収奪でした。しかし1970年代からの収奪は何の対価を支払うことなく、ただ暴力的に奪って行く文字通り全て奪う略奪だといえます。しかしこれは事実ではありません。このような全てを奪う略奪としての収奪論が1970年から教科書に登場したことは、韓国の歴史学界がいまだに日帝下の植民地期を科学的に認識する能力と姿勢が足りないことを意味しています。

 正当な対価が支払われず土地を米を奪って行ったとしたら、その結果がどんなふうになっていたでしょうか。まるで風船から空気が抜け出ていくように経済は委縮していくほかありません。これはごく当たり前の事実で、証明の必要すらないぐらいの明白な事実です。ですので人々はどんどん貧しくなります。人口は減ってしまうでしょう。

 でも事実はどうだったでしょうか。まったく反対でした。1910年の朝鮮の人口はだいたい1600〜1700万ぐらいでした。1940年には2400万でした。日本と満州に行った人を含めると2600万ぐらいでした。わずか30年の短い期間で50%以上の人口が増加したんですが、この人口増加現象は経済が滅茶苦茶だったら想像できないことでしょう。

 その他にも経済史研究者の精密な統計的な推定によると、植民地期1910〜1940間にかけて朝鮮半島の総所得は年平均3.7%の割合いで持続的に成長しました。これは当時、世界的に高い水準でした。20世紀前半、世界資本主義は停滞と危機の時代でした。だから先進国といってもだいたい2%前後の低い成長率を示していました。しかし日本だけが唯一3〜4%の高い成長率を示していましたので、我々の朝鮮半島が日本の領土として編入されていた理由で、日本本土と同様にそれくらいの経済成長率を示していました。
 
  皆さんはすでに私の話に不快感と煩わしさを感じているかもしれません。しかし冷静に考えてみてください。例えば大韓民国という国で、全羅道は年平均4%成長して慶尚道は年平均−4%後退することはないでしょう。同様の原理です。朝鮮半島は日本帝国の一部分として日帝の領土になってしまいました。ひとつの領土になったことを持って歴史学者が植民地と言っているだけです。まさにその理由で日本が経済成長したのと同様に朝鮮半島にも経済成長が起こることになりました。

 どうしてこうなったんでしょうか。日本に米を積んで運んでいたんではなく、日本に輸出していたからです。当時は輸出ではなく移出と言いました。とにかく日本の米価は朝鮮より高く、市場の原理にしたがい日本に輸出されたんですね。その結果、輸出した農民や地主には輸出所得が発生するようになりました。国内で米を処分した時より、もっと多くの所得が発生したんです。それで経済が成長しました。この輸出代金で日本から綿製品のような工業製品も輸入し、満州から不足の食料も買い入れ、銀行と会社に投資もして、工場も建てていました。

 このような経済的変化をちゃんと知るために、我々は日帝が朝鮮半島を植民地支配した目的や方法から正しく知る必要があります。日帝が朝鮮半島を植民地支配した基本の目的は、いわば「永久併合」でした。日帝が残した統治史料を見ると、「永久併合」という言葉が、うっとうしいぐらい出て来ます。永久に日本の領土と見なすということでしょう。日本人達はここに20〜30年ぐらい住んで自分の国に帰るつもりでは決してありませんでした。永久に住むつもりで来ました。この点をしっかり見据える必要があります。

 「永久併合」の目的を達成するためには、どうすべきでしょうか。何よりも朝鮮の社会と経済を日本と同化させる必要があります。この目的により日帝は、自分の国の法律と制度を植民地の朝鮮に移植しました。そうして初めて日本人達が朝鮮にやって来て自分の国のように不自由なく住めるのではないでしょうか。朝鮮人に対しては文化と精神を奪うことによって日本人に作って初めて、永久に併合することができます。そうするために朝鮮の文化と精神がそのままではだめでしょう。新しい文化と精神を導入して朝鮮人を日本人に変える必要がありました。その目的により日帝は近代的な法律と制度を朝鮮に移植しました。

 その代表的なことは、1912年発表された朝鮮民事令です。当時施行された日本の民法は今も大韓民国の民法に受け継がれています。両方の法律について見ると最初の表現が順序までも変わらないものが多いです。それでは近代的な民法の核心原理は何でしょうか。これについて民法学者は「私的自由原則」を話します。もう少し具体的に説明すると人間は国家や他人に拘束されない自由な存在で社会生活と経済生活は自分の自由な意思によることです。これは財産権制度と関連して、一つめ「所有権絶対の原則」として現れます。所有権は絶対的に不可侵で国家もこれを任意的に侵害したり制限することはできません。

 二つめは「契約の自由の原則」です。これは財産権を譲渡したり処分する時に所有者の自由意思に基づいた契約だけが法的に有効なことです。さきほども指摘しましたが、今日の大韓民国の国民が享有している財産権制度はまさにここから出発しました。日帝は朝鮮の社会と経済を統合する政治原理に民主主義と自由主義を導入しませんでした。日本自身が自由民主主義をまだ知らなかったといえます。彼等は家族的で全体主義的な政治原理を天皇制の形態で発達させました。

 日本が自由民主主義の政治原理を理解し実践したのは、アメリカによって天皇制軍国主義が解体された1945年以後からです。しかし日帝は天皇制という政治体制下で社会生活と経済生活の原理で近代的な民法を西ヨーロッパから導入し自国のやり方で定着させました。なので大きく見て明治維新以後の日本を近代社会と呼んでいます。この西ヨーロッパが起源の近代要素が植民地期に朝鮮に移植されました。まさに植民地朝鮮を永久に日本帝国の領土に編入し併合しさらには同化させる目的の基だったのです。

 経済的側面の同化政策についてもう少し説明します。近代的な民法と商法が移植された植民地朝鮮は結局日本とひとつの市場に統合されました。1920年まですべての関税が廃止されました。資本と商品の行き来に障害がなくなりました。それに従い、二つの地域間の貿易が大きく発展しました。貿易が大きく発展したらどうなりますでしょうか。皆さんもよくご存じの通り、1960年代以後韓国経済は輸出貿易をメインに高度経済成長をしました。まったく同じことです。貿易が増えれば経済は成長します。

 経済という家計と企業間の財貨、労働力、所得の流動ですね。これに輸出と収入が加われば、循環の規模が大きくなりますよね。経済成長がつづき、一人当りの所得水準も増加します。その過程において日本から資本が入り、朝鮮の農地を開墾し工場を建てました。このように日本が主体の経済成長でした。ずうっと資本が入り続け経済成長が持続した結果はどうなると思いますか。朝鮮の土地と地下資源、工業施設はだんだん日本人の所有になりました。まさにこのようなことが、経済学的に言うと真正な意味の植民地的な収奪ですね。

 奪って行ったのでなく、投資をして朝鮮半島の経済的支援を日本人の所有として作っていったのでした。まさにこの点で永久併合と同化政策に従い実質的な収奪の恐ろしい結果になりました。もう一度言いますが、詐欺と暴力で人民の財産を奪うのは古代の略奪国家や中世の征服国家がしたことです。日帝はこのような野蛮国家ではありませんでした。彼等は近代社会で、近代国家でした。彼等は朝鮮半島を永久に日本の領土として編入しようとしました。その目的で投資をしていたんです。

 逆説的に聞こえるかもしれませんが、このような植民地的収奪の結果として朝鮮の社会と経済も近代化し始めました。日本人が工場を建てて、農場を開拓すると、朝鮮人が労働者、または小作民として雇われました。これにより朝鮮人の所得が増加し始めました。それだけではなく、朝鮮人の中から日本人を見習って工場を建て起業家として成長する階層が出て来ました。さきほど近代民法の基本の精神を言いました。私的自由の原則ですね。朝鮮人にもこの私的自由の原則が適用されました。それで始めて同化と言えるからです。

 ところで全体人口のわずか2〜3%の日本人が朝鮮のすべての土地と資源を所有できるでしょうか。絶対的には相変わらず朝鮮人の所有の財産が多かったです。そうして朝鮮人資産家の中で日本人に学んだり、また日本に留学して、上流学校を卒業した近代的な人間集団が生まれ出しました。今日のサムソングループと現代グループを創業したイ・ビョンチョルとジョン・ジュヨンもみんな植民地期に企業を起こした人達です。

 1939年末になると、このような朝鮮人で工場を運営している人の数が日本人より多く4千名を超えるようになりました。近代化の主役はあくまでも日本人でしたが、多数の朝鮮人もここにじわじわ参加し始めたということです。近代から差別を受けながら、近代を学習し近代を実践し始めたんです。このように生まれて来た近代的な人的資本を土台にし、後に日帝がこの地から引き上げた時、我々の力で近代経済と近代社会、近代国家を建設することができたということです。

 人間の理性で歴史の偶然をすべて知ることは出来ません。日帝が永久併合しようと同化政策を繰り広げた結果がこうなるなんて誰がよそうできたでしょうか。こんなことを踏まえて歴史のイタズラというのが相応しいかわかりませんが、こうやって日帝が朝鮮を植民地支配した歴史の意味を近代的な法と制度の移植を通して、朝鮮の近代化を研究した学説を指して「植民地近代化論」といいます。

 今放送している私のような主に経済史を研究している人達が主張し始めましたが、いつの間にか我々を批判する人達がこのような名前を付けてくれたんですよ。「植民地近代化論」に関して、すなわち植民地期の経済的変化について、より詳細に知りたい方は<解放前後史の再認識>1巻に載っているキム・ナクニョンの「植民地時期の工業化再論」とジュ・イクジュンの「植民地時期の生活水準」の2つの論文を参照願います。私のかいつまんだ説明よりはるかに詳しく有益な内容を知ることができます。(特講4につづく)

イ・ヨンフン(ソウル大教授、<解放前後史の再認識>共同著者)
*イ・ヨンフン教授の<解放前後史の再認識>はEBSラジオホームページで聞くことができます。http://www.ebs.co.kr/Homepage/?progcd=0002420

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