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馬敗れて草原あり/寺山修司コミュの寺山修司の言葉

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「浪漫派」ならではの寺山修司の競馬に関する言葉について語り合いましょう。

コメント(30)

「テンポイントが遺したものは、記録ではなく、思い出だった」
山崎ハコに「テンポイントの詩」という唄があるそうで…。寺山は「とくに、他の客のいない酒場のカウンターの止まり木できくのがいい。外に雨でも降っていれば、もっといい」と書いています。
「挙げればきりのない競馬場の伝染病のなかでもっとも重いのは、言うまでもない。一攫千金を夢見るファンたちの患る、『希望という名の病気』なのである」
「私は、逃げ馬が好きであった。それは、もしかしたら北国の貧しい家庭で生まれた私の育ちのせいかもしれなかった」

寺山は白い逃亡者・ホワイトフォンテンが好きでしたね。高橋司とのコンビが見事でした。タマミのテンのスピードも絶賛していました。
「偶然のない人生などというものは、存在しないのだ」
「レースは物語であり、勝敗は現実である」
「男は、人を喜ばせようとするときには、できるだけ多くの人を思い描かなければいけない。しかし、万一、それが悲しみだったら、人を巻き込んじゃいけないよ。それは自分ひとりで充分なのだ。そして、どうしてもつらくなったら、心を遠い草原に投げてやればいいのさ」(ウイリアム・サローヤンの言葉を引用)
言葉とはちょっと違うかもしれませんが、「さらばハイセイコー」の中の

ふりむくな ふりむくな 後ろには夢がない

というフレーズはなかなかよいと思います
「散るさくら海青ければ海に散る」

寺山が、この高屋窓秋の句をメイズイの菊花賞の逃げに例えて紹介しています。
競馬ファンは馬券を買わない。
財布の底をはたいて「自分」を買っているのである。

確かにそういう面があるなあと思います。だから馬券が当たらないのかと(笑)
「本のあとがきを書くのは、何となく最終レースのたのしみに似ている」

 最終レースの競馬場。黄昏れていましたね。
「人生の直線は長い。追い込めば、まだ間に合うかもしれないよ」
ファンは、自分の客観的な推理などという迷信にとらわれて、合理的な配当金増殖だけ
をねらっているのではない。まさに、自分の前夜観てしまった幻想のレースと、現実に展
開されるほんもののレースのあいだを埋めていくデテールを楽しむのである。
したがって、幻想のレースと、現実のレースがぴったり合致してしまうと、そこには意外性
とかロマネスクがなくなってしまう。
心では、自分の幻想を、現実が裏切ってくれることをのぞみながら、しかし賭博での勝利
者になることをねがうという二律背反が、いつまでもついてまわるというわけなのである。

       ー 馬敗れて草原あり より ー
「ズイショウは走るホウキ星である」
「人間同士の葛藤のドラマは結局、人間を超えることはできないが、偶然との葛藤である競馬は、まるで『神の意志』とのたたかいのように思われたのである」(書を捨てよ、町へ出よう)
「万馬券研究会といえばきこえはいいが、人生からすべり落ちた連中が集まって、
一攫千金の夢をかけた集まりである。」

     スポーツ版裏町人生より
 競馬とは関係ないですが…。

「駈けてきてふいに止まればわれを越えてゆく風たちの時を呼ぶ声」(寺山修司)

「言偏に寺を書いたら詩になるとだれかが言った寺山修司」(林あまり)
私は必ずしも「競馬は人生の比喩だ」とは思っていない。
その逆に「人生が競馬の比喩だ」と思っているのである。
この二つの警句はよく似ているが、まるで違う。
前者の主体はレースにあり、後者の主体は私たちにあるからである。

            馬敗れて草原あり より。
「レースはただ、馬の群走にすぎないがその勝敗を決めるナンバーは、思想に匹敵する」
「競走馬のゼッケンナンバーは一種の死である」
                   「東京零年」より
「競馬馬における完全性は、その速さと、美しさである。サラブレッドはそれ自身が走るのではなく、人々の『幻想が走る』のであるから、早いだけでは不充分なのだ」
「おまえに一生に一度のダービーに、乗ってやれなかったな」と。馬はうなずく。
「勝つ気になりさえすれば、おまえにとっちゃタニノムーティエなんか問題じゃないさ」
と、少年は言う。
「ただ、もしもおまえがダービーに勝って、加賀さんと並んで写真を撮るのを遠くか
ら見ていたら、ぼくは涙ぐんでしまうかもしれない―でも仕方ないさ。がんばれよ」
と少年は言う。
「ぼくは今日は、おまえのレースは見ないから」

      競馬への望郷 より。
 馬群に沈んでしまったアローエクスプレスと柴田政人の物語ですね。あの日寺山は、ミオソチスの弟の晴れ姿を見るために、フジテレビの競馬中継のゲストで東京競馬場にいたんです。そこで直線で伸びないアローの姿を目の当たりにしました。
「男は生涯に1回だけ勝負すればいいのだ」
「勝った馬が常に美しいのは、運の祝福を受けているからにほかならない」
「私は、少年時代から競馬の落馬シーンに惹きつけられてきたが、それは一言でいえば「落馬が美しい」からであった。――落馬にはどこか〈崩れゆく〉ものの美がある」
「私は肝硬変で死ぬだろう。そのことだけは、はっきりしている。だが、だからと言って墓は建てて欲しくない。私の墓は、私のことばであれば、充分」(墓場まで何マイル?」
「家出少年の最も親しい道づれは幻想である」(死者の書)
 誰でも、偶然なしでは生きている愉しみがない。そんなとき、無印の非力な馬の馬券を買ってみる。
 その馬の「万に一つの逆転の可能性」は、そのまま自分の人生の「万に一つの逆転の可能性」に通底しているからである。(山河ありき)
 「人の一生は、悲しい時計番の一生にすぎない」(思い出さないで)
 競馬馬における完全性は、その速さと美しさである。
 サラブレッドはそれ自身が走るのではなく、人々の「幻想が走る」のであるから、速いだけでは不充分なのだ。(幻想図書館)
「わが国で最高の賞を、人間ではなくて馬がもらうというというのはいい話ですね」
とコックがいった。

「芸術祭にだって、大臣賞はあるが、
天皇賞はありませんからね」


私は「なるほど」と思った。

最高の英雄が政治家などではなくて、
サラブレッドの馬だというなら、
まずまずわが国も平和だと思ったからである』

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