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馬敗れて草原あり/寺山修司コミュの競馬コラム「風の吹くまゝ」

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寺山修司は昭和45年10月10日から昭和58年4月17日まで、報知新聞競馬欄に中央競馬の予想コラム「みどころ」「風の吹くまゝ」を連載していた。スシ屋の政やトルコの桃ちゃんが登場する軽妙なタッチの文章で、すべてが独断と偏見に満ちていた。しかし、そのなかに寺山ならではの温かさや人生観がぎっしり詰まっていて、ブラッドスポーツと呼ばれる競馬の魅力を伝えてくれていた。
 いま、競馬場のパドックには横断幕が張られ、ひいきの馬を応援するのが珍しくなくなったが、この現象の源流には競馬そのものを人生としてとらえていた競馬浪漫派・寺山の思想がある。

 寺山修司は自ら地方競馬に「ユリシーズ」という名の馬を持ち、わすれな草という意味の「ミオソチス」や「ニホンピロエース」「モンタサン」「ハクセツ」などを愛した。それは強いか弱いかではなく、その馬の背負っている運命や雰囲気で、競馬場や場外馬券売り場にうごめくファンを「競馬人別帖」のように扱ったりもした。
 いまは亡き吉永正人騎手のファンで、コラムで吉永が乗る馬を押し続け、八大レース52連敗という悲運を記録し続けた。そして絶筆は第43回皐月賞。このレースには吉永が乗ったミスターシービーが出ていた。シービーは見事に勝って、その後ダービー、菊花賞も制して三冠馬になるのだが、寺山はその晴れ姿を見ることなく逝ってしまった。

 報知新聞の連載コラムは何年かたって「宝島コレクション」として単行本になった。その記念すべき第一巻目のタイトルは『競馬場で逢おう』。さらに『風の吹くまま』『競馬三文オペラ』『住所馬券必勝法』『ネバーセイダイ』と出続け、最終刊『日曜の朝の酒場で』で完結した。そのときほど編者として名前があった秋山協一郎さんに感謝したことはない。
 時間があると本をめくって、あのころのことを思い出す。「アン」や「ジョセツ」や「マジョルカ」や「ケンサチオー」や「タカイホーマ」などの名前を懐かしく眺めながめていると、それぞれの馬の姿やレースぶりが浮かんでくる。そして「寺山修司は競馬の師匠だ」とあらためて思う。
 井崎脩五郎さんは「あとがき」で「人それぞれに、それぞれの競馬があるということなのだろう。それを一番よく知っていたのが、寺山修司さんだと、僕は思っている」と書いている。

 昭和45年から58年までの13年間。濃かったと思う。寺山の死とともに私の競馬も終わりを告げ、競馬は望郷になってしまった。

コメント(2)

私もこのコラムは『宝島コレクション』で刊行された際に全冊揃えましたが、コラムの一編一編に味わい深いものがあり、今でも読み返したりしています。

コラムと共に掲載された当時の出馬表を見て、懐かしい馬名に、その馬の姿を思い浮かべたり…或いは、その当時の競馬中継にゲストとして出演されていた寺山修司氏の姿を思い浮かべたり…

今から36年前、叔父の影響で競馬に興味を持ち、毎週末の競馬中継が待ち遠しくてたまらなかった当時に現役だった優駿達だからこそ、今尚記憶に鮮やかなのでしょうけれど。

寺山修司氏は晩年、『月刊優駿』にエッセイを連載されていましたが、絶筆となった最後のエッセイのタイトルは『ザ・ラスト・レース』でした。
スシ屋の政やトルコの桃ちゃん。
懐かしいですね・・・。

何度も言っていると思いますが、私が競馬の魅力に囚われることとなったのは、
寺山修司の文章を読み、そこに想像力を刺激された結果だと思います。
当時、報知新聞をとっていて、読みましたよ、小学生なのに(笑)・・・。

氏の文章は、競走馬を擬人化し、それを極端にデフォルメしてしまいますが、
味わい深かったですね。。。

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