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感動【FLASH】倉庫コミュのはなす手★つなぐ手

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プラダーウイリー症候群という障害を持つ妹と、母との現実の葛藤を書きました。
内容はとても重たく、悩みましたが、夢と希望を乗せ、トピックを立てさせて頂きました。

原稿用紙27枚ぐらいありますが、最後に感想頂けたら嬉しいです。   



            はなす手★つなぐ手 に願いを込めて


 それは昨年の二月、子供の幼稚園のお迎えの帰り道、私のケイタイにかかってきた一本の電話から始まりました。
 
 もしもし。。と言う前に電話から聞こえたのは、ただ「お母さん」と泣き叫ぶ声。。。私は子供達に何かあったんだと直感し、必死で「どうしたん?何があったん?」と問いかけました。しかし、こちらの声は全く聞こえないくらいの大声でただ「お母さん!」を繰り返すだけ。。

「彩なの?輝なの?」私はわが子の名前を呼びながら「落ち着いて!泣き止んで!どうしたん?」と私まで大声で叫ぶ中、ふと、着信番号を見ると、それは実家からでした。

誰?誰が泣いてるの?私までパニックに。。
一度電話を切り、自宅へかけるとそこには変わらぬわが子の声。。ひとまず安堵し、すぐに実家にかけなおしてみました。

そして、大声で泣き叫んでいたのは、私のひとまわり離れた妹からだと判りました。

 すぐさま実家の近所に住む妹夫婦に連絡をとり、実家で何が起きているのか見てきて欲しいとお願いし、私は実家へと急ぎました。

 その道中、父のケイタイにつながりました。

「お父さん、妙ちゃん泣いてるやん。何があったん!」
父はため息をひとつつき
「お母さんが家出した。妙ちゃんをおいて、家を出て行きよったんや。。」
「いつなん?」
「昨日や。。」
「なんでそんな大事なこと言わへんのよ!今からすぐ行くから待ってて」
「こんでもええ!」

 私は父の言葉で、来るべく日がとうとう来た そう感じ、この日から悪夢とも言うべき日々が始まったのでした。

 私は娘の手を引き電車に飛び乗り、深呼吸しながら、母がいつも言っていた(死にたい)その言葉を思い返していました。
 
 私たちは三人姉妹。私のひとまわり下の三女の妙ちゃんは、プラダーウィリー症候群と言う病名で知的障害も持って生まれてきました。
幼い頃、私の記憶としてあるのは色白で、ぽっちゃりしていて、歌が大好きなよく笑う妹でした。

とにかく、いくら食べても、脳が「お腹いっぱいだ!」という指令を出さないから食べ過ぎてしまう病気だとか言って、母は毎日、カロリー計算して食事を作っていました。

歳の離れた妹は、とてもかわいくて、私はよく公園や買い物に連れて行き遊んでいました。しかし、お風呂の無い2Kの市営住宅の実家は、とても窮屈で、妹が小学校に上がる頃には。私も三つ下の二女も独立して家を出ていたので、それ以降の妹の様子は、あまり知ることがありませんでした。

 実家との行き来が始まったのは、私も二女も結婚し、子供が産まれた頃からでした。

 盆と正月と誰かの誕生日には、決まって実家で食事会をしました。妙ちゃんは年々体は成長していきましたが、精神面では、私たちの子供と同じレベルでした。食べ物に人一倍執着があるので、おやつの分配で真剣な喧嘩になるのです。
「同じものが欲しい!」と言い、母が叱ると、そこから大声で
怒り始め、何を言ってもきかなくなります。
そんな事が繰り返しあり、次第に実家では、食事をしなくなっていきました。

 妹が二十歳を過ぎた頃からか。。母からよく電話がかかってくるようになりました。

「もう嫌や!私の事、お手伝いくらいにしか思ってへん。助けてーや。私にあれせーこれせー言うて、気にいらんかったら手を出してくる。お父さんは仕事仕事で何もしてくれへんし、もう死にたいわ!」

 私は、その時には、母の愚痴くらいにしか思っておらず、妙ちゃんが怒るのも、いつも母が口うるさく叱ってばかりおったから仕方ないことや。。と内心思いながら、いつもウンウンと適当に聞いて電話を切っていました。

 本当のところ、実家のことより、自分の家の生活や子育てで精一杯で、母の悩みを真剣に考える余裕など無かった、という方が正しかったのかもしれません。

そんな事を思い返しながら、とにかくどうか死んでいませんように、どうか無事でいますように、と祈るような気持ちで実家へと急ぎました。

実家には すでに三つ下の妹が先に着いていて、一睡もしてなかったであろう妹を寝かしつけてくれていました。

「お父さん、お母さんから連絡あった?何でこんな事になったん!」
 私の矢継ぎ早の問いかけのも、父はただ
「わからん!」だけ。。。

そこへ、突然母が帰ってきたのです。

「お母さん!!無事やったんやね、どれだけ心配したか!」
母は まるで何もなかったかの様に
「何でみんなおるん・・・」とひと言。
「何でって!妙ちゃんがどれだけ、お母さんお母さん言うて泣いてたと思うんよ!」

そう言った瞬間、母は、へたへたと座り込み、
「妙ちゃん泣いてたんか・・ごめんなぁ、ごめんなぁ、私は ほんまに死ぬ気で出たんや でも妙ちゃんのことが、妙ちゃんのことが・・・」
そう言ったきり、泣き崩れてしまいました。

 何はともあれ、母が帰ってきてくれたことに皆は安堵し、母が少し落ち着くのを待って話を聞くことになりました。
 久しぶりに、ゆっくり見た母の姿は、明るく、よくしゃべる母ではなく、白髪いっぱいで、何もかもに疲れ果てた。。という姿でした。

「お母さん、何があったん・・・話して」
私は諭すように声をかけました。

 母は、ゆっくりと、この数年間のことを話し始めました。
 
 毎日通う福祉作業所の送り迎えで市バスの席をめぐってのトラブルがあり、電車に変えてみたが、エレベーターのボタンを押すことで人ととトラブルになり、タクシーでしか行けなくなったこと。

 糖尿病になってしまい、今まで以上に食事制限をしなければいけなくなったが、そのことがストレスとなり、今まで以上に過食になったこと。

 病院での毎月の糖尿病の検査でも、自分の好きな看護師さん以外には検査させてくれないので、そのために何時間も待ち続けたり、検査せずに帰ってくることも度々あったこと。。

 近所のスーパーで買い物中に、何か気に入らないことがあり、陳列の前に座りこみ動かなくなり、店の人たちに迷惑をかけたこと。。

 極めつけはお風呂屋さん。いつも人の少ない時間帯に、あえて一番に行っていたにもかかわらず、自分の座っている席に誰かが座っていると、そこからパニックになり裸のまま、入り口に座り込み動かなくなる。
 母はとにかく人に迷惑だからと、妙ちゃんをなだめ、叱り、何とかしょうとするが、それが妙ちゃんにとっては逆効果になって更に暴れだす始末。
周りの人達は皆唖然!もう何十年通い続けたお風呂屋のおばちゃんまでもが
「悪いけど・・違うとこ行ってくれへんかなぁ・・・」とひと言。 
実際、母と妙ちゃんは、もう一ヶ月近くお風呂に入っていませんでした。

「もうなぁ・・スーパーも行かれへん。お風呂屋さんも行かれへん、どこに行っても迷惑かけて皆に謝って歩かなあかんねん・・そやけどな、妙ちゃんが悪いんちゃうねん、障害持って生まれてきたから仕方ないねん・・・」

そう言ったきり母はまた泣き崩れてしまいました。

 妙ちゃんの障害年金が入っているはずの通帳に残金が二百五十円というのを見たとき、母がどんな気持ちで家を出たのか胸が締め付けられました。

 父と母は数年前から家庭内別居状態で、会話もしていなかったので、改めて聞く母の話に、今まで任せきりにしていた事への後悔からか、父はずっとうつむいたままでした。
もちろん、その場にいる私たちも同じ思いでした。

「お母さん。これからは家族でがんばろう!」
私はまだこの時点で、家族でがんばれば、本当になんとかなる。 そう思っていたのでした。

それから、妙ちゃんの送り迎えは父の車で両親がすることになり、その帰りに私の家へ寄り、お風呂に入って帰るようになりました。

 母の家出の件があって以来、福祉作業所の先生方とも連絡を取り合うようになり、インターネットで妙ちゃんと同じ障害を持つ親の会を調べ、資料を集めたりと、皆で妹のことを真剣に考え始めるようになっていきました。

 ある日、お風呂に入りに来ていた時のこと。

妙ちゃんがお風呂に入るのを確認してから、母は小声で話しかけてきました。

「もうやっぱりあかんわ・・・前よりひどくなってきた。ご飯は食べずに、ケーキやお菓子ばっかり食べて血糖値はこの前400やで・・・」

「注意してるの?」

「少しでも言おうものなら、うるさい!だまれ!くそばばー出て行け!が始まるんや・・・腹立ったら私の服ハサミで切るんやで!私は奴隷のようにビクビクしてるだけや・・・」

「薬は飲んでるの?」

「もう確かめもしてへん。どうせ飲んでないやろう・・もうそんな事どうでもえーねん、糖尿病で死ぬんやったら死んでくれたらいい、どっかに一生出られへん施設ないか」

「お母さん・・・ やっぱりヘルパーさんとかに入ってもらおう」

「誰がこんな子見てくれるのよ!第一、妙ちゃんが知らん人を受け付けへんわ」

「そんなんやってみなわからへんやん」

「無理やって!!」

「じゃあ入院は?」

「検査の度に、入院しなさいと言われてるけど、できる訳ないやろー 人に迷惑かけるだけや」

「人に迷惑やばかり言うててもあかんやん!」

「あんたは何も判ってない!良い顔してくれるのも最初だけや!どれだけのこと言われてきたと思ってんのよ、うちは・・」

 話を続けようとした時、ドアの音がして、その音に母はビクリとして、孫の所へ駆け寄り、孫に話かけ始めました。
その姿に、母の神経が常に張り詰めていることを感じました。

 
 実際、妙ちゃんは、福祉作業所では特に問題なく過ごしていました。 私たちにも暴力的な態度や言葉は一切ないのに、母にだけは違いました。
特にあの家出以来、自分は捨てられた、との思いからか妹の中で何かがプツンと切れ、母に対する憎しみだけの思いが態度に出るようになっていったようでした。

 わたしは、福祉作業所の先生の所へ相談に行きました。

「インターネットで調べて東京の親の会の方と毎日連絡を取り、妙ちゃんの現状を報告し相談しているのですが、まず驚いたのは、どの家庭も全くといっていいほど、同じような悩みをかかえていた事なんです。二十歳くらいを境に、それまで親のいうことも聞けていた子らが、それまでの食べ物で制限されてきたことが恨みに変わるらしく、一気に親子の立場が逆転し反抗的になるそうなんです。
しかもそれは、母親にだけあたるらしいんです。
早い時期から母子分離をしていける環境作りがとても大切だと言われました」

「こちらも色々情報を集めてみました。これから区役所へ行き、ケースワーカーさんや保健師さんに会ってこようと思っています。」

「ありがとうございます。私も今から入所施設など色々あたってみます。母を少し休ませてあげることも考えないといけないですしね。でも・・・皮肉ですよね。母が二十年以上も妙ちゃんの体のために食事制限してがんばってきたことが全部恨まれる結果になるなんて・・・母がかわいそうです・・あっ!!落ち込んでいる場合じゃないですよね、では宜しくお願いします」

 それから私は妙ちゃんの支援費制度やガイドヘルパーの手続き、施設見学等、父や、すぐしたの妹と何軒も足を運び回りました。

 驚いたことは、ショートステイやグループホーム等の入所施設は全て今すぐ利用できる所がひとつも無かったという事でした。 早くて半年待ち。しかも糖尿病などの疾患を持っていると無理という事もわかりました。 問題行動があるとなると論外でしょう・・要するに、その様なところは早い時期からの自立支援の為に利用する場所であって、駆け込み寺的存在の場所はどこにも無いということでした。

 その間にも、母と妙ちゃんとの関係がひどくなっていく。。
私の頭から離れない(母子分離)の言葉。。。

どうしていいのか分からないまま、私たちはひとつの決断をしました。
 
 妙ちゃんを入院させて、まず糖尿病の治療をすることにしました。 もちろん、入院することは妙ちゃんは了解していません。しかし今はそれ以上に母の心労が大きかったので、やむを得ませんでした。ウソをついて病院へ連れて行き、病室でゆっくり話しました。

「妙ちゃん、このままやったら体がどんどん悪くなるから、少し入院して血糖値さげよう」

「お母さんは?」

「あのなぁー、実はお母さん血圧があがって倒れてしまって、違う病院に入院したんや・・でも大丈夫やで!お母さんもちゃんと治療したらすぐに治るから、だから妙ちゃんもがんばろうな!」

「嫌や・・・帰りたい・・」

 そう繰り返す妙ちゃんを何度もなだめながら、二時間ほどするとあきらめたのか、しぶしぶベットに横になり眠りにつきました。
すでに、この日血糖値は400以上!眠ってしまったのもそのせいだったのかも知れません。。

 それからは、私と二女は毎日交代で様子を見に行きました。私も二女も小さい子供を三人づつかかえているので、病院へ行くことも容易ではありませんでした。

 父にはその間、孫の子守と運転手にと奮闘してもらいました。

 妙ちゃんの好きなマンガやパズルを持って行き、病院内を散歩し対話する日々が続きました。

 一週間ほどは行く度に「お母さんは?」と聞いていましたが、まだ入院していると伝えると、それ以上は聞き返してきませんでした。

 妙ちゃんの様子は毎日母に電話で報告しました。

 あれほどまでに苦しんでいた母だから、少しは心身ともに安らいでくれているという思いとはうらはらに

「もう淋しくて、毎日眠られへん・・あんたらも自分たちの生活があるから大変やろう。迷惑かけたくないから明日から私が病院いくわ」  という始末。

「何言うてんのよ!今妙ちゃんもがんばってるんやで!お母さんがそんな事いうてどないすんのよ!今、何の問題もなく、食事にしても、お風呂にしても、看護師さん達との関係もうまくいってる。妙ちゃん、今日洗濯物も自分で干してんで!自立に向けて誰にも迷惑かけずにがんばってる!何より血糖値だって下がってきてるやん。今お母さんが来たらもとのさやや・・我慢する時や」

「一緒にいても地獄やけど離れるのはもっと地獄や!」

 こう叫ぶ母の声に、離れたくても離れられない何とも言えない親子の絆を感じました。

 二十七年間、かた時も離れたことのない母にとって、この時は本当に辛かったと思います。 その辛さを少しでも埋めてあげるためにも、私達は毎日妙ちゃんの良く変わっていく姿を報告していきました。

 二週間ほど過ぎた頃でしょうか。。。

主治医や看護師さん達から、妙ちゃんがすごく明るくなった、よく話すようになった、積極的になった等の声をかけてもらうようになりました。

 
 実際私達が行くと、人とのかかわりが苦手だったはずの妙ちゃんが、

「お姉ちゃん、あんなぁ、この本、となりの入院している人が買ってくれてん」
「今日○○さんと散歩行ったでー」
と、明るく何でも話してくれ、小さい子供を見つけると、
「パズルするかぁ?本読むかぁ?」
と、大人が普通に子供に声かけするように話しているのです。

 この変化はとても不思議でした。

 ある日、私は妹に、
「妙ちゃん、退院したら少しづつ自立していけるように、ショートステイしてみたり、グループホームの見学行ってみたりしょうか?」
と、声をかけてみました。

 以前なら、その言葉をいうだけで拒否反応を示していたのですが、以外にも返事は、

「うん!面接いってみる。一度見学してみたいと思ってた」

と言ったのでした。 この妙ちゃんの大きな変化をふまえて、私達は退院後のことを姉妹で話あいました。

「妙ちゃん、今ホンマに順調にいってるから、このまま退院して、自立に向けてグループホームにでも入所できたら最高なんやけどなぁ・・・」

「そやけど、少し異常なくらい明るくなってきてるから反対に怖いわ・・」

「確かに・・昨夜も電話があって、すごい敬語で私に持ってきて欲しいものとかお願いしてたわ・・人が変わったみたい」

「母子分離が成功やったって事かなぁ・・」

「そうやなぁ、今、お母さんの事ひと言も聞かへんしなぁ・・
私もがんばらな!って思ってるんやろうか」

「子離れでけへんのはお母さんだけで、妙ちゃんは親離れしたかったんかな・・・妙ちゃんが出来ることまで全部お母さんがやってたもんなぁ」

「家に帰ってどうなるのか・・・」

「・・・」

「まるで博打やわなぁ・・先が全くわからんわ」

 本当にこの時点で妙ちゃんがどうなるのか予想がつきませんでした。
 ただ分かっていたのは、妹はいつでも退院できる血糖値に下がっていたことと、どこの施設も入所待ちで、家以外に帰る場所はなかったという事実だけでした。

ある日、家で夕食の支度をしている時、病院から、すぐに来て欲しいと電話がかかってきました。

「実は今日、他の患者さんとトラブルがありまして・・・その直後にお部屋で失禁したんです」

「え!?おしっこもらしたんですか! まさか! トラブルの原因は何ですか」

「ロビーで横になってテレビを見ていたらしいのですが、他の患者さんが座って見てくれる?と声をかけても動かなかったそうで・・「この子の親は何してんねんやろ」と言ったそうなんです。 その言葉で急に怒り出したそうで・・部屋を覗いてみると失禁していて・・何を聞いても黙ったままなんです」

 私は病室へ顔をだし声をかけてみましたが、失禁したことが恥ずかしかったのか、何も話してはくれませんでした。
 ここ数日のあの明るさはどこに消えたのかと思うほど、この日から妹は変わっていきました。

 それはまさに(壊れた)この言葉がピッタリでした。

 失禁はそれから毎日続き、部屋からも出なくなり、訳の分からないことを言いはじめたのです。
 音楽などかけていないのに「消して」と言い、誰もいないのに、「あそこから見てる!」と天井を指差し・・・

 病院からは毎日呼び出され、私たちも限界にきていた頃、主治医より、精神科の病院に入院したほうがいい・・と言われたのでした。

 それは言い換えれば、もう退院してくださいとの言葉だったと思います。

 精神科に入院など全く予想もしていなかった私達には、そこだけは行かせたくないと拒み、主治医に退院ではなく、外泊ということでお願いし、家に連れて帰ることになりました。

 もしかしたら、母に会うことで良くなってくれるかもしれない・・・
 そんな希望を持ちながらも、ある意味最悪での母子対面となったのです。

 そんな状態の中、一番喜んだのは やはり母でした。

 まるで赤ちゃんを可愛がるように妙ちゃんの世話をしました。

 しかし・・・ 数日後最悪な事が起きました。

 過食の復活 暴力 暴言 失禁 そして母をトイレにすら行かせない異常な行動。 家の窓から物を投げ捨て家を飛び出そうとする・・・

 父はこの日、生まれて初めて妙ちゃんに手を上げてしまった・・と泣いていました。
 
電話が鳴り、後ろでは母の泣き叫ぶ声・・  父が、

「もう皆で死のうと思う・・もう皆がダメになる・・色々してもろたけど、もうあかんわ・・ありがとうなぁ すまんなぁ」

 泣き言など言わなかった父までもが死を口にしている 私はいてもたってもいられず、片っ端から精神科の病院に電話をしていました。

「このままだと誰かが犯罪者となり、誰かが死んでしまうから入院させてください!」
と必死で話しました。 次から次へと満床という理由で断られる。 それでもあきらめずにかけ続け、ようやく一軒の病院が受け入れてくれたのでした。

 それは山の中腹にある精神科の病院でした。

ー精神病院ー

 私が想像していたのは、暗く人間が人間として扱われていない所。一度入ると二度と出てこれない所。 そんな先入観がありました。
 いかし、いざそこに行ってみると、内科やカウセリング科等充実しており、作業所やカラオケボックスまであり、明るくアットホームな所でした。私の先入観はいっぺんに消え、こんな所ならもっと早くから知っておきたかった・・と思ったほどでした。

 入院した日、妙ちゃんは歩くことも話すことも出来ないほど体は衰弱していました。

 主治医は、急な環境の変化やストレスからくる(幼稚返り)
だと診断しました。
 治療は、少しの薬と、たくさんの家族の愛情だと・・・

 私は、また振り出しにもどったかのような錯覚を覚えました

 家族の愛情? それって何? 愛情があれば治る? 治るってどうなること? どの時点で治ったというのか・・治っても妹は健常者ではない・・またあの妹に? それならいっその事治らないでいて欲しい・・・

 目の前にいる妹を見つめながら、そんな事を考えていました。 家族は皆疲れ果てていました。 この時初めて、家族だけでは乗り越えられないことを誰もが悟ったのでした。

 私はこの数ヶ月間の家族の闘いを通して、色々なことを感じていました。

 父も母も、もう高齢者。。。普通なら孫に囲まれて老後を楽しんでいる頃でしょう。

 しかし現実はどうか。。。

 こんなにも父も母も苦しみ抜いている。。もう手遅れとしか言いようがない。 何故、何故もっともっと早い時期から考えてこれなかったのか、それがどうしても悔やまれてなりませんでした。

 その日 私は夢を見ました。それは妙ちゃんの成人式でした。

「妙ちゃんおめでとう!今日から大人の仲間入りやね!みんなが待ってるよ!」

「うん!」

「さあ!お母さん、ゆっくり手をはなしてみて。すぐにつないでくれる人達がいてるよ。 支えあう手は一人より二人がいい、二人より三人、四人、多ければ多い程、人は生きていけるんやで。

一人なら前に進めなくても、支えあう手があれば前進していける。

一人なら倒れてしまうところも、支えあう手があれば絶対に倒れることはない。

一人なら後ずさりしてしまう道でも、支えあう手があれば絶対に後もどりなんてしない。

もう一人でがんばらんでいいんやで。 だから、勇気だして、手をはなして・・・・・」

 母は不安な顔をしながらも、ゆっくりと手をはなし、娘の晴れ姿を微笑んで見送っていました。。

 私は母の背中にも(おめでとう)そう声をかけていました。

「お母さん、妙ちゃんが幼稚返りしてタイムスリップしてしまった事は、神様がもう一度くれたチャンスかもしれへんね。そう信じて、これからはみんなで子育てしていこう!」

 心からうなずく母に、ようやく本当の意味での希望の光を見出せる思いがしました。


その年のクリスマス。退院のお祝いに、妙ちゃんが以前から楽しみにしていたユニバーサルスタジオジャパンの花火を見に行くことになりました。

「行ってきま〜す!」 と妙ちゃんの弾む声。

「よろしくお願いいたします・・・」 と深々と頭を下げる父と母。

「お母さん心配せんでもいいよ。今日はサポート隊の人達がいっぱいいてるからなぁ・・途中で電話とかせんといてやぁ〜」

「そうそう、たまには二人で老いらくの何とかやらでも楽しんでて〜」

「ハハハハ〜」

 そこには、たくさんの手がありました。そして手の数だけ笑顔があり、優しさがありました。

 大音響と共に、夜空に打ちあがる色とりどりの花火は、まるで私達を祝福してくれているかのように、いつまでも、いつまでも光輝いていました。

                    



                    END


最後まで読んで頂きありがとうございました。





 

コメント(19)

月さん。。。。

始めまして。
兵庫県で小さなピアノ教室の講師をしています祥恵と申します。

全部読ませて頂きました。
涙が止まらず
悲しみと哀愁とせつなさと。。。
そして何よりも感動で涙が溢れてきました。


>食事にしても、お風呂にしても、看護師さん達との関係もうまくいってる。
>妙ちゃん、今日洗濯物も自分で干してんで!
>自立に向けて誰にも迷惑かけずにがんばってる!
>何より血糖値だって下がってきてるやん。

『ほんまに良かったね!!』と。。
この所では、もう怒涛のごとく泣いてしまいました。

>二十七年間、かた時も離れたことのない母にとって、この時は本当に辛かったと思います。 

本当ですね^〜♪
お母様のせつない心感じます。。。

 
>二週間ほど過ぎた頃でしょうか。。。
>実際私達が行くと、人とのかかわりが苦手だったはずの妙ちゃんが、「お姉ちゃん、あんなぁ、この本、となりの入院している人が買ってくれてん」 「今日○○さんと散歩行ったでー」
と、明るく何でも話してくれ、 

>この変化はとても不思議でした。


私も、これで巧く脱却できたらと想いましたが。
やはり妙ちゃんなりに、自分で背伸びしながら(でも、きっと一番「このままではやっぱいかん! 何とか自分でもがんばらんと!!」と本音で想ったんじゃないでしょうか)ある面では、本当にチャレンジしようと思った妙ちゃんだと想いますよ。

ただベースがどうしても(しかたがないのですが長年の環境で)弱いから、崩れ出したら歯止め無くいっちゃったんでしょうね。。。

。。。。。。

そしてまた地獄が。
今までの中で、最悪な展開になってしまいそうな地獄が。



でも・・・・
・・・・

お母様・・・
御父様・・・
本当によう頑張ったね。。。。


>さあ!お母さん、ゆっくり手をはなしてみて。
>すぐにつないでくれる人達がいてるよ。 
>支えあう手は一人より二人がいい、二人より三人、四人、多ければ多い程、人は生きていけるんやで。

>一人なら前に進めなくても、支えあう手があれば前進していける。

>一人なら倒れてしまうところも、支えあう手があれば絶対に倒れることはない。

>一人なら後ずさりしてしまう道でも、支えあう手があれば絶対に後もどりなんてしない。

>もう一人でがんばらんでいいんやで。 
>だから、勇気だして、手をはなして・・・・・」

>母は不安な顔をしながらも、ゆっくりと手をはなし、娘の晴れ姿を微笑んで見送っていました。。

>私は母の背中にも(おめでとう)そう声をかけていました。


月さん。
この言葉が、どれだけのこれからのお母様や御父様の勇気になったことでしょう〜^♪


月さん。
まだ、いっぱい苦しい時や、死にたい思いになる時もあるかもしれないよね。

人生(人が生かさせて頂いている)と言う事に、終わりはないもんね。。。。

でも、その時に、また光が一瞬でもさしてくれたら、またそこから始める事って絶対にあると想うよね。

いっぱい泣いて、いっぱい頑張って。。。
そして「やっぱあかん。。」と何度も想って。。。。

でも
また歩いて行って欲しいと想っています。


妙ちゃんは妙ちゃんなりに
御父様は御父様なりに
そして・・・
お母様はお母様なりに

いっぱいのせつなさと、苦しみと、時には自慰な心さえ起こってしまうかと想います。

どうぞ、月さんや周りの方々で、支えって頑張ってね。。。。


すみません。
生意気な事を書いてしまいました。

月さんのお心の、深い優しさと、細やかな感性に思わずお声をかけてしまいました。




祥恵
感想を置いて頂けた方へはメッセージでお返事いたしますね。
はじめまして。

感動…悲しみ…せつなさ…温かさ…

どれとも言えない複雑な気持ちで拝見しました。

一人では乗り越えられないことも家族みんなでなら…
それでもだめなこともあっぱりあって、最後には取り囲む全ての人の手が救うんですね。
一番大事なことに気付かされた気がしました。
月さん、読ませていただきました。
ありがとうございました。
この文章から、
いろいろな感情が渦巻いて複雑な様を感じて、
私の知らないものであったので衝撃も大きかったです。

1人だけじゃない、
そしてみんなでお互いに支えあっていく、
それをあらためて意識しました。
とても大切なことだとおもうので、心に留めておこうと思います。

これからも大変なこともあるかと思いますが、
皆様の健やかな時間を願っております。
稚拙な感想ですが、ありがとうございました。
いろんな感情で読みました。
読み終えた今はすごく複雑な思いです。

障害がある時点で、妙ちゃんに人並みの自立を求める事は無理だと思います。
でも障害があっても、無駄な命なんて絶対にない。
妙ちゃんが生きることにはものすごい意味があり、尊い事だと思います。

ですけど。
その介護?というか世話というか、
面倒をみるために
健康なご両親が生活を捨てて、
兄弟・家族に負担をかけて、
関係ないまわりの人に迷惑をかけて。
言い方悪いですけど、有害ですよね。

悪いのは妙ちゃんじゃなくて障害。
妙ちゃんは尊い命です。
障害だけ消せたら、いいのに。

どれだけ疲れてもやっぱり
障害を消すために妙ちゃんを消すなんていうことは
絶対しちゃいけない。

どうすればいいんでしょうね。
難しい、難しい問題だと思います。


結局何が言いたいのかよくわからない感想になりましたけど
とても感動しながら読ませて戴きました。
障害者の方の面倒を見ることは本当に大変だと思います。
本当に、応援しています。
終わりはないけど、負けないでください。
はじめまして。私は低酸素性脳症の子がいます。
その子は三人姉妹の末っ子です。
月さんの妹さんとは違った大変さを抱えています。

私も月さんのお母様と同じように逃げ出してしまいたい!
と思った時期がありました。現在は幸い主人の協力が得られ、
主人の帰宅後に働きに行くようになり、自分の時間を持つことができるようになりました。

自分の事を書いてしまってすみません。
 家族愛に感動です。
お父様お母様を支えてあげてくださいね。
はじめまして。
私は看護師をしています。
毎日いろんな患者さんやその家族と関わるなかで
家族の事情をイロイロ聞かせてくださるかたが多いです。

きっとなかなか家族や親戚には言えない苦労や、ましてや
他人にはもっと言えないことも、なぜか白衣の私には
言いやすいのかもしれません・・・

いつも何て言葉をかけたらいいのかわからないことが
多いです。
若いうちは何もしてあげられないことに悩みましたが、最近は
聞いているだけでいいのかな・・と思うようになりました。

私が感想を述べたところでやはり現実味はなく、手伝えるわけもないからです。

本当に家族みんなが大変な状況でここまでがんばろうよって
された月さんはすごいと思います。
ごめんなさい。
すごいとかそんな言葉では表せません。
どうすればいいって答えも出ないことなのでしょうね。

とにかくみなさんの健康と笑顔を祈っています。
涙がとまりません。
月さん、お返事あるがとうございました。
ごめんなさい、私このコミュの事をちゃんと
理解していなくて。
月さんが紹介してくださったお話なんですね。

月さんも大変なんですね。
自分の時間作れるといいですね。

がんばりましょう!いえ!いつも私達は頑張っているんです。
だから見ず知らずの人が親切心で「がんばってね」と
声をかけてくると、正直言って少しムッとします。
言われれば言われるほど「まだまだ愛情が足りないとでも
いうの?」なんて‥‥。自分を追い込みそうになります。

だから‥がんばり過ぎずにがんばりましょう!
家族みんなで楽しく!!
月さんのお話、一気に読ませて頂きました。
障害者を持つ家庭の大変さは話には聞きますが
本当には解っていませんでした。
読んだ感想は・・只々、凄いとしか言い様がなく・・・
私だったら、どのように対処していたんだろうと考えてしまいました。
私は父が高齢でアルツハイマーです。
障害者ではないのですが、毎日、同じ事を何度も聞いたり
意味のない言動も多く…段々、酷くなってきています。
でも、月ちゃんに比べたら…恥ずかしくて大変だなんて
言っていられないと思いました。

月ちゃんのご家族の絆が何とか切れずに此処まできたこと…
本当に凄いと思います。
これからも色んな人の力を借りて、ご家族で手を繋ぎあい
ゆっくりと進んでいって下さい・・・影ながら応援しておりますねm(__)m
障害を持つ親の気持ちと、その子自身の気持ち
障害があるがゆえにうまく伝え合えないんですね。
そのすれ違いがいろいろな問題を引き起こしていって
しまうのでしょう。
これから子供をもつことになる者としては考えさせられます。


ところで、このコミュは
感動【FLASH】倉庫なので、テキストだとちょっと
コミュとずれているのではないかと思います。
とても感動的なお話に水を差すのは心苦しいのですが、
ちょっとだけ気になりましたので・・・。
誰かがFLASHにしてくれると良いのですが(^^;)
初めて拝見させて頂ました。

私は障害者の方の介助をしています。
うちの施設では入所と通所があり、日中はデイサービスを行っています。

うちの施設にもプラダーウイリー症候群の方がいらっしゃいます。その方は入所の方なので、栄養士、看護師の指導の下、食事の管理をしています。

3時のおやつでは、他の方と同じものを食べさせる為に、他の方もおやつは1個だけ。周りのみなさんにその方の為に合わせてもらってます。

私は、3年ほど障害者の方の介助の仕事に就いていますが、同じ障害の方でも症状は全く違います。
確かに重度軽度の問題かもしれませんが、私は同じ障害は無いと思っています。

それは、その方の家庭環境、性格など色んなものが交じり合ってその方特有の障害になると思っています。

ですから、私達は一人一人接し方を変えています。
時には優しく、時には厳しく。叱咤する事もあります。

障害は治る事はありませんが、きちんと向き合ってコニュニケーションをとれば、信頼が生まれます。

信頼関係だけでも、どんなに手の付けられない方でも、根気よく一緒にいれば何か通じるものが出来てきます。

今日、こんな事がありましたとご両親に毎日報告していますが、そんな事もできたの?とビックリされています。

ご両親にはどーしても甘えてしまう部分があるのは仕方ないとは思いますが、他人との繋がりはとても大事だと思います。

妙ちゃんに、早くいい入所施設が見つかる事を願います。

適切な事が書けずに申し訳ありません。
不快に思われましたら削除されて下さい。
自分は本当に幸せな環境にいるんだなぁと痛感させられます
こんな事と書いてしまうのは失礼だとは思うのですが、こんな事を考えずに日々を過ごしていけることが本当に幸せなんだと
思います。色々な想いがごちゃごちゃになっていますが、
これだけはいえます。読んでよかったと!
これからも大変な事がたくさんあると思いますが頑張ってください!

こんな文しか書けなくてすいません
適正でなければ削除してください
たとえばね。

ちっちゃな子供が本棚の上のほうにある本をとりたそうにしている。大人がさ、「これかい?」ってとってあげる。

一緒に歩いていた友達がさ、何かのはずみで転んだとする。「おいおい、大丈夫かよ」って手を貸す。

前を行く人が何か荷物を落としたときに、「なんか落ちましたよ」と声をかける。

これって自然なことだと思うんだわ。理屈だとか損得勘定の外。

障害者っていうものは、その本棚の上のほうに手の届かない子供だったり、すっ転んでもんどりうってる友達だったり、物を落としても気付かずに歩く前を行く人だったり、ってことだと思うのね。

社会ってのがヒトの集まりだとすれば、このちょっと手を差し伸べるってことは、社会というものにとってたいした負担感は無いはずなんだよ。

障害ということに対する我々の意識の改革や、保証の体制化を、社会というものはもっと充実化していかなきゃならんのでしょうね。

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