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心☆コミュの【何のために生きるのか】

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 「何のために生きるのか」誰もが、一度は考える事だろう。私も、物心ついた頃より、しばしば、考えていた。考えていると、不思議な感覚に襲われる。自分が此処にあって此処になく、どこからか見つめているような感覚だ。そして、考えすぎると、とても寂しくなる。大きな空、広い大地に挟まれ、その限りなく大きく広いはずの場所が窮屈に思える。空と大地の間に押しつぶされていくようだ。矛盾するような感覚だが、見えない何かに四方八方から、押さえ込まれそうになるのだ。答えは、存在しないのではないか。もう、答えは出ているのではないか。ふと、そう思うのである。
 時が立ち、大人になるにつれ、次第に気持ちは楽になって行くものの、拭い去れない何かがいつも残っている。恐らく、私の残っている人生の時間が短くなるに連れ、拭い去られていくのだろう。「何のために生きるのか」という疑問から、「死」を身近に感じた時、「どのように生きてきたのか」という、拭い去れないものの無い疑問に変わっていくのだろう。だが、一つ、未来は、分からない。
 このような、感覚から、レヴィナスの生と死についての考えの一部を、読み解く事にした。
 生きていてよいのか。何のために生きるのかなんて、贅沢な悩みだと批判する人がいる。余裕ある暮らしを送りながら、かすかな居心地の悪さを感じ、何のために自分は生きているんだと嘆息する。そんな問いは、贅沢な悩みだと批判する人がいる。何のために生きるのかと悩む余裕さえも奪われ、生きのびるために必死になっている人間もいるのに、というわけだ。レヴィナスはその通りだと認める。
 その通りだと私も思う。時間があった、幼少年期、考えるという時間が豊富になった。時が過ぎ、成長するに連れ考える時間というものが、少なくなって行く。今後も時が経つに連れ、今、というもので精一杯になるのであろう。何のために生きるのかと考える余裕は、贅沢なのかもしれない。その、答えは、あるのだろうか。
 レヴィナスは、言う。本当の答えはある、と。
 何のために生きるのか。何ものかのために生きる。しかし、何ものかのために生きるということを通して、自分の為に生きる。しかし、自分のために生きるということを通して他者のために生きる。しかし、他者のために生きることことを通して、人類のために生きる。ところで、人間は、肉体の愛を通して子供を生むことがある。その事を通して、再び、他者のために生きる。そして、再び、人類のために生きる。ところで、人間は死ぬ。さらに再び、死ぬ事を通して、他者のためと人類のために生きて死ぬ。総じて、奇矯な言い方に聞こえるだろうが、何のために生きるのかといえば、死ぬために生きるのである。
 これがレヴィナスの答えである。
 「こんなもののために生まれてきたんじゃない」
 何もかもがどうでもよくなることがある。何もやる気にならない。何も始める気にならない。叱咤激励されても、有り難いとは思いながら、心も体もちっとも動かされない。何事も面倒だ。「面倒」と口にするのも面倒だ。
 しばしば、このような鬱的な状況に人々は、陥るだろう。ふとしたときに、出てくるこの感情。感情とは、適切ではないかもしれない。誰にでも起こりうる症状。または、心のなかから、湧き出てくる素直な闇。それは、何かのきっかけに現れる。歩いてきた道に大きな壁が現れたとき。大きな仕事や問題を乗り越えた時。そう、誰もが経験する事だ。そして、その感覚の螺旋から、抜け出せずに苦しみ、悪循環を繰り返してしまう人もいるだろう。抜け出せたとしても、そこには、とても大きな力が必要である。大きな力を使い抜け出した場合、また、苦しみの螺旋に迷い込んでしまうのではないかと、恐怖が付きまとう。
 レヴィナスは、このような、怠惰と生きるということをこう結び付けている。

怠惰とは、重荷としての生存に対する、無力で喜びのない嫌悪である。怠惰とは、生きることの恐れである。(中略)怠惰は生存を放り出すことを欲する。ランボーの言う「皆で演ずる茶番劇」が自分抜きで演じられることを欲する。怠惰存在の否定であるが、それでもやはり存在の遂行である。怠惰の苦い本質は怠惰が脱走であることから由来するが、そのことは契約のあることの証である。(実存から実存者へ)

 生きながら生きることを拒む。生きることを拒みながら生きる。死ぬ事を選ばないにしても、生きることを殊更に選ぶことなく、生きつづける。生きる事は、苦い重荷になる。この重荷は、どこからやってくるのか。レヴィナスは、「契約」からやって来るとする。
 人間は、つらい生活の中で、時折、「死んだ方がましだ」と思う事があるだろう。しかし、死を考えても、実行に移す事は、なかなかできないのである。それは、死を欲するという事はあっても、知らぬ間に人は、自ら命を絶つという事を制御するようにプログラムが組み込まれている。動物と同じだ。人間も動物なのだ。死を最大の恐れと刷り込まれている。ただ、人は、考える事により、「死んだ方がましだ」と錯覚してしまうのだと思う。
 レヴィナスは、生きていることは幸福であると言い切る。倦怠・怠惰・疲労に陥った人生であっても、生きているということは、幸福であると言い切るのである。レヴィナスは、戦死と虐殺を免れて生き残っている。彼がそう考えるのは、当たり前なのかもしれない。しかし、それだけでは無い。大切なのは、幸福と称されるときの精神構造である。その分析の鍵になるのは、享受ということである。享受されるものとは、それがなければ生きていけないもの、それによって生きていけるものであるが、食べ物とは限らない。人は、それだけでは生きていけないだろう。
 私達は、今生きている。喜びや悲しみを糧に生きている。その中には、自分の好きなこと、安心できること、それを伴っている。それらが、なければ、生きていけないのだ。例えば、様々な人が生きているが、ひきこもりを続けている人も生きているのだ。外に出かけられず閉じこもっている人間は、狭い部屋に座り込むことを享受して生きている。
 あくまで、私たちは自分のために生きている。この意味で、人生は無条件に幸福であり、「人生は人生への愛である。」レヴィナスは、この状況を「人生のエゴイズム」と呼んでいる。自分のためにいきるエゴイズム、自分の人生を享受する幸福なエゴイズムである。
 幸せに生きること。幸せに生きることも、ただ生きることも、エゴイズムである。幸せとは、なんであろうか、不幸とはなんであろうか。生きるという視点からは、エゴイズムに過ぎない。幸せに生きること。人それぞれ様々である。愛をとる、お金をとる、健康を取る、名誉をとる、なんでも良い。人それぞれ様々な価値観があり、様々な生き方、幸せの感じ方がある。それは、生きているという視点からは、ただの個人の欲求、エゴイズムである。ただ生きることも、それに同じだ。何も感じず、何にも触れず、関わらない。それで、その個人は、楽なのだ。幸せと呼べるのかもしれない。エゴイズムである。
 逃走の欲求。
 逃走についてレヴィナスは、こう述べている。
 
 逃走は、自己自身から脱出しようとする欲求である。すなわち、最も根底的で最も仮借なき鎖、私が私自身であるという事実を断とうとする欲求である。
 だから、逃走は、「無数の人生」を生きたいという欲求とほとんど共通点をもたない。(中略)私自身から、脱出しようとする私は、制限された存在者としての私から逃れるのではない。たしかに、事実上、人生は選択であり、したがって、決して実現されない多くの可能性を犠牲にしている。しかし、そんな事実が逃走へと駆り立てるのではない。可能なものをすべて実現する普遍的で無限の生存を私が欲求するのであれば、私は根底で平和を実現しているはずだし、存在を受け入れているはずである。しかし反対に、逃走は、まさにこの自己との平和に問いかけるのである。逃走が希求するのは、私を自己に繋ぐ鎖を断ち切ることだからである(「逃走論」『レヴィナス・コレクション』)

 逃走する事は、生きることから逃げているわけでは無い。生きるために逃走するのだ。逃走と自殺は、結びつかないのである。逃げて良いのだ。無理しなくて良いのだ。ありのままに受け入れる事、それが、最大の自分の人生の幸福であり、生きているということなのだ。
 真の人生とは、どんな人生なのか。どんな生き方で、どんなところで成り立つのか。いま、ここで、なのか。遠い未来においてなのか。遠い過去においてだったのか。自問自答は続く。そんなことは、自分では決められない。自問自答で決められる事ではない。何のために生きるのかと自問自答し、何のために、自分のために生きるのかと自問自答を積み重ね、自分で決められると信じ込んでいる限り、真の答え、真の人生が示される事はありえない。自問自答を繰り返している限り、自分のために生きることに変わりはないからだ。では、何のために、自分のために生きるのか。
 自分のために生きるのは、他者のために生きるということでもある。または、人類のために生きるということである。それは、どういうことか。まずは、倫理というものに触れておきたい。倫理とは、人と人が生きて行く中で、必要であるがため生まれた。そして、人が人であるためにも必要だ。倫理が無ければ、どうであろう。人類は、ここまで、文明を発達させる事ができたであろうか。動物のように、本能の思うがままに生きていって、人と呼べるであろうか。人と人が繋がるにあたっても大切なのは、道徳、倫理である。
 倫理感を人がもってこそ始めて、人は、人として生きていけるのである。人は、言葉を交わす、そして、言葉には、とても力がある。ある人は、ある人の一つの言葉によって、人生が変わってくるだろう。きっかけにすぎないが、これはとても大切な事である。自分のために、他者の言葉を受け入れる。そして、自分のために他者に言葉を与える。これは、どのようなことになっていくのだろうか。言葉は、人から人へと繋がっていく、繋がっていくに従い、言葉は、成長し変化し素晴らしいものになっていく。それは、無数の人と人との間に起こり、それぞれをも成長させるのだ。そして、発した言葉は、成長して、自分に戻ってくるのだ。他者のために生きるということは、己のために生きると言えるだろう。また、人類のためにも生きているのだ。
 何のために生きるのか。言葉の受肉の深みにおいて、人類のために生きるのである。
 人生の目的と人生の意味について述べてきたが、人生の短期的な目的であれ、人生全体の目的であれ、それをどう見定めようと、人間はいつか必ず死ぬ。奇怪な言い方に聞こえるだろうが、死の目的と死の意味について考えた上で、あらためて、他者のために、人類のために生きるということについて考え直さなければならない。他者のために生きる事は、文字通りに一生懸命生きることだ。しかし、一生懸命生きたところで、死ねば終わりだ。そこで、どのように生きたら良いのか。考えたところで、どのように生きても生前の事は、無に帰する。だから、他者のために生きるという責任に縛り付けられる必要は無い。何か、生きる証が欲しいのか。そうかもしれないが、それだけではない。
 人類という、広い観点から、見てみよう。今まで、人類はどのように繁栄してきたのであろう。子を残し、今までの生きかたを伝えてきた。それによって、文明は、受け継がれ。発展し今の世の中になっているのだ。子孫を残すということは、自分の生きかたを未来に繋げるものなのだ。死してなおも、意志は、受け継がれて、言葉の様に成長していく。そして、全てのこの次元に浸透していっているのだ。今、この世にいる全ての生きている人間は、過去から、生かされ、間違いなく未来に続くのだ。どのような生き方、人生を歩いても、自然と人類の調和の中に溶け込んでいく。レヴィナスは、「死に対する勝利」をこう述べている。

 生誕と死に挟まれた人生は、狂気でも不条理でも逃避でも弛緩でもない。人生は流れてゆく。人生は人生に固有の次元を流れてゆく。人生が意味をもち、人生の意味が死に対する勝利でありうるような次元を流れていくのである。

 この次元においては、何のために生きるのかという問いに対しては、来るべき他者のために生きて死ぬと答えることになる。
 
「何のために生きるのか」確かな答えは、無いように思える。何のために生きるのかを考える事が、生きる意義のような気がする。答えは、見つからないかもしれない。しかし、今、この世に生きている限り、その存在は、後の世の人が生きるために必要なのだ。後の世の人も何のために生きるのかということを考えていくだろう。その、連鎖が私は、幸せだ。この何のために生きるのかと考えるにあたり、過去からの命を受け取り、未来に託すことができるからだ。そして、私は、何のために生きるのかを考える事により、一つ成長するだろう。どんな、人生を送っていても、自分を必ず見つめるだろう。それだけで良いのだ。自分を見つめる事で、全てと繋がりを持てるのだ。
 生死を考え、孤独を味わっていたかも知れない、しかし、それは、孤独ではなく、幸せなのだろう。幸せと感じないと思っていても、「何のために生きるのか」それを、考えて無駄な事は無い。そして、無駄な人生は、一つも無いのだ。
 
 何のために生きるのか。私は、こう答えたい。意味があるから生きているのだ。


                     参考 レヴィナス 何のために生きるのか
小泉義之 2003年 NHK出版

コメント(2)

生きることに意味なし同様死ぬことに意味なし

人は生と死と過程をもらうだだそれだけ

過程など人によって違うもの
●Nextageへ
コメントありがとう☆
いつも、Nextageは、深く物事を見据えてますよね☆☆☆
バスケ以外にも、精神の世界、心理の世界のお話、いつかしたいです♪♪♪

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