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トランスパーソナル心理学コミュのインナーボディとペインボディ  スピリチュアルということ

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インナーボディとは、エックハルト・トールが使う言葉ではありますが、指しているものは、神とか仏とかを表してもいます、自分の内側にある「内観」で感じる内なる身体、魂とか霊と呼ばれているものです。

 分化(仕分)の仕方によっては、理性(スーパーエゴ)や衝動(エス)や自我やペルソナ(仮面)投影やシャドー(影)等の自分の本質的側面を探そうとしていると様々な自分の内側に居るのですが、例えば「神」というのはキリスト教でいう世界の創造者であると捉える人もいますが、仏教では創造者がいるのではなくて、物理法則があって世界を創っているのは多くの人の希望や望みが世界を造り、欲望や煩悩が、心理的な苦しみを創り出して、逆に喜びや幸せの種を蒔けば何時かはそれを収穫するので、良いことも悪いことも自業自得であるという因果論を説きます。

 現代の心理学の共通認識では、顕在(表層)意識・潜在意識・超潜在意識があるとしていて、潜在意識の発見は今世紀最大の発見と言われる位、重要な事だとされています。

「思考は実現する」で有名なマーフィーの言葉は潜在意識の活動と関係が深く、考えただけでは実現する力は弱く、心の底から思うことは実現し易くなるけど、否定的な思考は、本人がそうは為りたくない、そうなったら絶対に嫌だと思考すると、「怖れや不安」は相当の集中力を持って排除する積りになっています。  嫌悪する状況には物凄い集中をするのです。
 集中したものはエネルギーが供給され、それ自体やそれに似たものを引き寄せるのです。
 これは、実感している人も多いですが、実感のない人もいるのも事実です。

生命力の根源になる「インナーボディ」を探そうとすると、考えていたインナーボディが無いんです。
 すると、瞑想とか内観に慣れていない人は、思考でインナーボディで探すのですが、出て来るのはペイン(傷)ボディなんです。  心の傷や劣等感や不安で構成されている思考で出来ている身体のことなのですが、ペインボディに焦点を合わせると、不安とイライラに支配され、更にその状態から抜け出そうと「思考」するのです。  どんどん苦しくなっていきます。 ポイントは「思考」自分自身である錯覚していることに、気付くことこれを「脱同一化」と言いまして、「自分は同一化してないよ」と、同一化していることに気付けないのが勿体ない事だと思います。

コメント(63)

日本でも韓国でもインドでも子供への競争圧力は激しい。子供の置かれた時代状況とはもちろん人間の置かれた時代状況に他ならない。この時代において、人間が生きるとはそうした競争圧力に子供時代をさらされながらサバイバルしてゆくということでもある。
もちろんすべての家庭がこの焦燥と苛立ちに蝕まれているわけではない。カルマ・ランジュンさんがおっしゃるように、実はこの時代的圧力から自由になるか否かの主導権は各家庭の親にもあるし、かろうじて子供にもあるだろう。
親の子供への愛情は、決して子供の競争の結果と交換条件でケチケチと冷酷に分け与えられるもんなんかじゃないということは、
世の親自身が愛というものの実質について深く心得るなら、しっかりと確認できることなのだ。
>>[24]

ここで仰られている「親の愛」という事に、はたしてそうなんだろうか?   と疑問が湧いてしまいます。 確かに日本でも韓国、インドでも教育の競争は激化しているようですね。

 僕が気になるのは、「劣等感」を親から子へと無意識に受け継がれていく在り方に、経済や文化の発展にブレーキを掛けるんじゃないかと言う懸念です。

 戦後日本の教育や経済を見る上で、「劣等感」というのは、バネにも抑圧にもなった大きな心理的な動因になっていると僕には思えるんです。  劣等意識をはね返そうとして、奮発して頑張り、経済が発展してきたという部分は否定出来ませんが、同時にこの劣等感ゆえに、自己卑下したり、虐めや自殺に追い詰められた人も少なくありません。  ここ数年は日本の自殺者数は、年間3万人を超えています。

 事故では4千人越え、テロでは世界の全てを集めると3万人を超えます。
これだけ多くの人が自殺で亡くなっています。 これってどういう事?  って思いませんか?

 要因は様々ですが、「劣等感」を基に、人生で追い詰められ、鬱になったり自殺してしまったりする人の数の多さに圧倒されます。

 今回、この事を書いたのは、「親の愛」と言う名の「劣等感」の代々続く連鎖を断ち切るべく、気付きを深めた方が良くありませんか? という問いでもありあます。

 親は子に、自分の劣等感を知らずに、植え付けます。
 子供の為だからと言って、怖れを植え付けます。  「これが出来ないと、皆から置いて行かれる」
「これじゃあ、良い学校に進学できない」「一流の学校や企業に行けない」と言った、doingに価値を置く教育を無意識にやるのです。  子供が良い成績を取ってくると、褒め、場合によっては鯛の尾頭付きを祝いの席を設けて、大々的に喜び。  悪い成績だと、「今回は体調が悪かったのね、次頑張れば良いのよ。」と言って励ますのですが、親の顔にはショックの表情が一瞬出ます。  親はそれを子供に見せない様に配慮するのですが、実は子供はその一瞬を見逃しません。  それで内心物凄く気づ付くのです。

 この様な些細なやり取りの中に子供の劣等感を増長させる要因が含まれたりします。
心配してあげたり、励ましてあげたり期待する事が、親は「愛」だと思っているのです。
>>[25]

劣等感ということをクローズアップしていらっしゃったのですか。確かに親の劣等感が子供の尻をたたく隠れた動機であったり、競争での敗北や不成績が子供の劣等感を助長するという側面もあるかもしれませんね。
特に親が抱えている劣等感から、子供には同じ思いをさせたくないと思って教育に熱を入れるというのは割りと広く見られる事態だろうと思います。それも間違いなく一つの、親から子への愛情ではあると思います。
決して親の我欲からだとは言い切れないこと、
どう受けとめるかの決定権は子供自身にあることなどを、子供が自己の心の成長によって包容していくことも大切ですね。
>>[26]
>決して親の我欲からだとは言い切れないこと、
どう受けとめるかの決定権は子供自身にあることなどを、子供が自己の心の成長によって包容していくことも大切ですね。



本当に決定権が子供自身にあると思いますか?
 劣等感を子供が自分で気付き、昇華できると思いますか?


>>[27]

物事が起きるのは防止できないとしても、自分に降りかかってきたその出来事をどう受けとめるかの決定権は本人にこそあると僕は思います。
もちろん、未熟なうちは出来事の受けとめ方も極めて未熟で、固定観念に縛られたものになりがちです。
しかし、心が成熟・成長し、より自由に出来事の自分における受けとめ方を決定できる力がついたなら、子供というものは50歳、60歳になってからでも親の心の弱さや偏りを親以上の抱擁力で理解することができるようになると思います。
責任の所在を明確にする事よりも、サポートしあい易い環境作りにも、相の手を差し伸べる事も必要な気がしますが、如何ですか?
>>[29]

もちろん、個々の家庭のさまざまな親が抱えている心理的未熟や歪みなどをできるだけ解消するための社会的取り組みはとても重要なことで価値あることですね。
親子間の軋轢を子供の心理的成長にだけ託すというのは、大切なことではあってもこの世の一切の家庭を助けることにはならない。
個人における成長と、社会全体の成熟の2本立てで私たちはこの問題に取り組むべきだと思います。
>>[30]
ん?  78910さんの主張がだんだん見えなくなって行く気がするのですが・・・
>個々の家庭のさまざまな親が抱えている心理的未熟や歪みなどをできるだけ解消するための社会的取り組みはとても重要なことで価値あることですね。

これは、未熟さや歪みを感じ、それを直したいと考えている人だけですよね?
それを社会的な取り組みとしてやって行くのですか?
こういう自覚を持っている人って、多いのでしょうか?
殆んどの人は自分は正しいと思って生きていますよね?
劣等感を植え付ける親は、悪意も罪の意識も自覚も無いんです。 自分もそういう立場になってきましたが、劣等感は無自覚に、受け継がれます。 本人たちも気付いてないんです。
自分は劣等感を抱いていると自覚している人はどれだけ居ますかね?

 これらをどう取り組めば良いと思いますか?
>>[31]は、親が抱えた劣等感というものには着目なさるが、それに対して社会的な救いの取り組みを行うということには親の無自覚が障害となっているから悲観的だ、ということでしょうか。
僕は日常的な息の長い啓発活動だけでもゆるやかな効果が少なからずあると思います。

>>[32]

「親の無自覚があるから悲観的」と言うのではなく、自覚しづらいけど、自分を受け入れる覚悟があれば、自覚できるんだけど、認めない限りは、「劣等感」は増殖し、どんどん分かり辛くなるんです。

 「劣等感」に対処出来るようになる為には、自分を受け入れないと、自覚出来ないんです。
自分のもっとも認めたくない部分や、否定したい部分って、結構誰にでもあるんです。

 ありのままの自分を受け入れる勇気や覚悟、意外と難しいんですよ。
 それを受け容れ易い社会的な救いや制度、個人に啓蒙する事は今までも古今東西の哲学者や聖者たちもやって来ていますよね?  この社会的な現状をどう切り開いて行きますか?

  って事なんです。
>>[33]

カルマ・ランジュンさんは親が持つ劣等感というものをクローズアップなさいますが、僕自身は劣等感に特に焦点をあてることばかりでなく、親にしろ、他のすべての人たちにしろ、心理的拘束や未熟さから解放されていくことは誰にとってもとても大切なことだと思います。
そうした啓蒙・啓発は昔からさまざまな覚者、聖人たちによってなされてきたにもかかわらず依然、私たちの社会はその苦しみから脱していないじゃないかとカルマ・ランジュンさんはおっしゃいますが、確かにおっしゃる通りですね。
まだまだ私たちの取り組みは足りず、まだまだ私たちは啓発と精進に努めなければならないと思います。
>>[34]

敢えて「劣等感」に焦点を絞ってますが、劣等感から派生する問題は凄く多いんです。
心理的拘束、未熟さは、大事だからと言ってどう取り組むのですか?
言いたい事は伝わって来ますが、漠然とし過ぎていませんか?
それを頑張らなければという発想にまとめるのは簡単ですが、具体的な可能性や行き詰まりに対するアプローチに繋がらないのではありませんか?


掘り下げませんかと言う呼び掛けなのです。
>>[35]

もちろん劣等感の問題に絞り込んで、その解決のために取り組まれるのはとても尊いことだと思います。
78910は社会的に取り組むことも大事だと言いながら具体的方策が曖昧じゃないか!とおっしゃることも確かに言われてみればその通りかもしれませんね。
カルマ・ランジュンさんのような人たちがほうぼうでこれらの問題に取り組まれて、人々・親の意識がより豊かな自己改革へと向かってゆくならば、ゆるやかな変化が私たちの社会にもたらされるかもしれませんね。
>>[37]
あなたが思慮深く、謙虚な事は存じています。
否定し合ったり、褒め殺しし合うのではなく、共に考えて行きたいなと言うのが、僕の願いです。
親は自分を愛するのと同様に子供を愛しているのだけれど、どのようにすれば本当の幸福につながるのかわかっているわけではないし、そんなことを真剣に考えたこともないかもしれません。

個人個人が、どうすれば自分は幸福になれるのかを理解していないし、自分が深刻な痛みを抱えていることすら認めていない場合もあります。

だから、親の劣等感は子に引き継がれてしまうし、劣等感に限らず、制限的な思考パターンが全て引き継がれてしまいます。

でも、人類は苦しみながらも成長してきたので、苦悩が引き継がれていく人類の歴史の流れは変わっていて、ここ100年で科学技術が魔法のように発展したように、今後は精神的な幸福が加速して世界は楽園のようになる可能性があると個人的には考えています。

進化の流れを早めるためにも、劣等感は多くの人にある普通のものだ、劣等感があっても良いんだ、というメッセージがもっと必要かもしれません。
自分の苦しみを自覚して解決したいと願えば、いつか解決するけれど、自分に問題があってはならないと強く思っていてはスタートできないです。
>>[39]

自分の中の苦しみに正直であることはとても大切なことですね。
その苦しみを見たくないから、お金や知識や物やどんちゃん騒ぎや薬物やらで覆い隠そうとするのが人間ですね。
正直であろうとする心の姿勢がとても大切だと思います。
>>[39]
自分を愛するのと同様に子供を愛しているのだけれど、どのようにすれば本当の幸福につながるのかわかっているわけではないし、そんなことを真剣に考えたこともないかもしれません。
・・・・・・・・・・・

多くの人は、自分の経験の中で得た価値観で「幸せ」を定義して、人に分け与えたり、提供しているのではないかと思います。
それは思想や文化の影響を受けているので、当然偏りや偏見もあるとは思いますが、例えば親が「絶対に良いものだ」と思って子供に強要しても、子供には子供の都合や選択もあって、「押し付けられる」事に強い不快感を感じる時もあります。
でもそれは、状況や環境によって常に変化します。 気分でも変わります。


ここで、一つだけ、頭の片隅に置いて置いた方が良いかも知れないのが、二元論的視点と状況や環境にも左右され辛い根源的視点の二つがあるのではないかという事なんです。 大乗仏教では「勝義」と「世俗」とに分けてますが、厳密には「勝義」の視点は使えないのですが、哲学的に考えた時には、使える視点です。

このトピックの名にあるペインボディーと言うのは、比較認識で他と比べる認識の有り様は、完璧主義になればなるほど、満足(足を知る)事にはならず、劣等感を増やし続けるという自体になります。
比較認識では幸せにはなり辛いという現実があるのです。
なので、自分の根源に触れる・感じる ことが推奨されるのです。 それは魂とか、神とか、インナーボディーと呼ばれますが、自分自身を感じる事なんです。


劣等感(コンプレックス)は比較認識の賜物です。その反対の優越感も競争の勝ち組を求めている限り平安な気持ちになることは、非常に困難なことです。
劣等感(コンプレックス)は、理性(スーパーエゴ)によって自分自身が強化していきます。
別名、「悪徳裁判官」とも言われています。
合理性よりも、深い意識の中にある「罪悪感」や「なんか悪いな」という気持ちです。
この劣等感が思考を無意識が恐れに対する反応として、止められない「思考」になるのです。


最後の方は、読みづらい文章になってしまいました。
インナーボディーとペインボディーは、自分(存在・魂)を感じる事と、理性による比較認識の自分の感じ方の違いとも言えます。 自分を感覚的に感じると、「今」という感覚に還元されて行きます。 そして深く感じれば感じるほど、潜在意識や魂を感じる様になって、更には大いなる存在(大我・神)を感じる事もあるのです。  それに対し、ペインボディーというのは「痛み」によって構成されている一時的なポジティブな時もあるものの、基本は比較認識による劣等感や理性によって限定付けられている、広がりの無い窮屈な「自分観」で出来ています。
 
 それとは違った視点で「感謝」という感覚や喜びに焦点を合わせると、日常の幸せ感も広がり、喜びも楽しみも広がり深まって行くという話も良くするのですが、話を聞いていると、それは知っていますとか、解っていると言う人も多いのですが、殆んどが頭で解っている、知識として知っている事を言っているのです。

 「境地」と言う事も同じで、知識で知っているのと、その状態に至っているのは雲泥の差があるのです。
そういうのは、知識で知っていると言うのは、余り役に立ちません。 それどころかその知識が障害になって思い悩むことが多くなってしまい勝ちです。

 しかし、実感し易い「感謝」でもそうなのですが、知識よりも感情が伴った修習がとても大事なのです。
意識の状態や段階は、ウイルバーの提唱する進化の発達段階でも言われている様に深まるのです。
 なので現時点で感じている「意識の状態」は変化するので、それに捉われず、喜びや感謝の修習を沢山やった方が得策なのです。



ヨーガの八支則では精神集中が進んで行く段階がパタンジャリの説によると、以下の様になっています。

○プラティヤハーラ(Pratyahara)/感覚の制御
  感覚への意識を深め、繊細に感じること。外側に向いている五感の知覚を、内側に方向づけ、内的感覚を高める。
感覚を内側に向ける練習をしなければ、瞑想の境地に到達することはできない。感覚に意識を向け続ける。
アーサナを実践していても、決して、感覚を我慢したり抑えつけたりするのではなく、それを感じている自分を常に冷静・
客観視していく。これは、日々起きてくる様々な出来事や問題に、感情を振り回されるのではなく、何が起ころうともブレない
自分を作る精神の鍛錬につながっていく。



この先の「ダーラナ」「ディアーナ」「サマーディ」の3段階は、区切りの付けられない一連の心の流れとなる。
それぞれ、瞑想状態の深さの程度が異なります。

○ダーラナ(Dharana)/集中・精神統一
 意識を特定の対象物に長時間留めておくこと。心が集中すればするほど、一点に向かう大きなパワーが生まれます。

○ディアーナ(Dhyana)/瞑想
  仏教の〈禅〉は、サンスクリット語で〈瞑想)を意味する、このDhyanaが語源だ。意識が積極的な努力なしに一方向に深く
集中している状態。プラティヤハーラ(感覚制御)とダーラナ(集中)が深まっている状態。自分と他を分け隔てなくなった
意識の状態。 雑念から解放された無我の境地。

○サマーディ(Samadhi)/三昧、超意識、悟り
  ヨガの最終目標。悟り。梵我一如。煩悩からの解放。解脱。
  瞑想がさらに深まり、集中の対象との一体感を感じている状態。瞑想の状態をかなり長い時間維持できるようになったら
サマーディの状態に入ります。
感覚と知覚、解釈。感性と知性の違いをWikipediaなどで見てみると



◎感覚:

現在、広く認められている感覚の定義は、「特定の物理的エネルギーに応答し、脳内におけるシグナルが受容・解釈される決められた部分に一致する、感覚細胞の型(またはそのグループ)を含む一つのシステム」だろう。論争が起こるところは、多様な細胞の正確な分類と脳に於ける領域のそれらのマッピング(位置づけ)である。
アリストテレスは霊魂論でヒトの感覚を初めて分類し、視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚の5つがあるとした。これが広く知られる五感であるが、現在は実際にはそれ以上の数の感覚があることがわかっている。
ただし、現代の生理学では感知される情報の内容、感知機序、伝達様式などによって多様に分類されており、その分類自体も確定してはいない。かゆみをはじめとする未だに仕組みが詳細には解明されていない感覚も多く残されている。
いわゆる第六感は、五感にあてはまらない超越した感覚という意味だが、これは勘や直観といった心理的な動きを感覚で比喩したものであり、通常は感覚に含めない。


◎知覚 - Wikipedia

知覚(ちかく, 英:Perception)とは、動物が外界からの刺激を感じ取り、意味づけすることである。 視覚、聴覚、嗅覚、味覚、体性感覚、平衡感覚などの感覚情報をもとに、「熱い」「重い」「固い」などという自覚的な体験として再構成する処理であると言える。



◎解釈 - Wikipedia

文章や作品や物事の意味を、受け手の視点で、理解したり説明したりすること。 技法的な理解。 或る表現に対して ...



◎かんせい【感性】とは。
意味や解説、類語。1 物事を心に深く感じ取る働き。感受性。「―が鋭い」「豊かな―」2 外界からの刺激を受け止める感覚的能力。カント哲学では、理性・悟性から区別され、外界から触発されるものを受け止めて悟性に認識の材料を与える ...


◎ちせい【知性】の意味 - goo国語辞書
dictionary.goo.ne.jp/jn/141787/meaning/m0u/
ちせい【知性】とは。意味や解説、類語。1 物事を知り、考え、判断する能力。人間の、知的作用を営む能力。「―にあふれる話」「―豊かな人物」2 比較・抽象・概念化・判断・推理などの機能によって、感覚的所与を認識にまでつくりあげる精神的能力。ちせいじん【 ...


高学歴の彼なのに知性を感じない…「知識」と「知性」はどう違うのか
私の彼は高学歴なのに、「知性」が感じられない。まぁ確かに頭はいいんだろうけれど…実は、学歴と知性の間に因果関係はありません。従って、高学歴 ⇒ 知性がある ではないのです。
>>42

ヨーガや仏教の核となるのは、「精神集中」で、集中する事で身体や潜在意識を思うように統御することは、大きな狙いの一つです。

ヨーガの瞑想と、仏教の禅は、共通点は多く、「同じなの?」とか、「違いはあるの?」と思った事のある人は非常に多いと思われます。

共通の単語である「ディアーナ」とは瞑想状態の事を指します。 座るだけじゃなく、踊ったり、唄ったり、歩いたり、と様々なバリエーションがあるのです。 宗教や宗派の違いによる相違もありますが、こころや意識に対するアプローチであることは共通しています。

仏教では、シャマタ(止)とヴィパッサナー(観)は、併せて「止観」とも言います。

テーラワーダの取組みは、大乗(マハーヤーナ)になって「空」という認識が強調されて、横に広大に広がりました。 その中で様々なバリエーションが生まれ、仏教のアプローチは豊かになって行きました。
そんな中、大乗は真言乗や金剛乗という密教が出てきます。 マントラやエネルギーをどう扱うかというアプローチです。 インドにある時から生まれた問題なのですが、ゾクパチェンポ(ゾクチェン)とチャクチェン(マハームドラ)と深い境地に至る視点の違いも出てきました。 その違いはヴィパッサナーの違いにも現れますし、「観」の境地の違いや幅の違いも感じさせてくれます。チベット語では、「ラントン」と「ニャムニー」と言った言葉も、「観」と「不動」と言った境地の違いにも現れています。
この様に、文化は同じスタートでも様々な変容を遂げて来た仏教の「止観」ですが、実感して味わうと、大変な悦びのに繋がりますので、是非、実際に味わう様にした方が良いと思います。
今日は二元論(比較認識)の事を考えて見ましょう。

チュギャム・トゥルンパという活仏がお亡くなりになって、その転生体の話も聞きませんが、彼が盛んに語っていた事の一つに「精神の物質主義」というのがあります。

基本となるマテリアリズムと言うのは、「唯物論」が基底にあり、昔インドにもローカヤータ(順世)という考え方がありました。
「知覚」のみが確かな認識手段として目に見える地・水・火・風の四元素のみが、実在で解脱も天界も無く、快楽の追求こそが正しいとする
宗教家批判と快楽主義の傾向を持つ人もたくさんいるのも事実です。

ヘーゲルも言ったように「唯心論」も「唯物論」も事態の一面を見てるに過ぎないと断じましたが、「唯物論」は社会主義・共産主義に随伴したしたものでは無いと、検証されてきましたが、哲学・心理学・認知科学の専門家の間では「時代の宗教」と目されました。
唯物論は「行動主義」に昇華され、方法論的行動主義と論理的行動主義の二種になったんです。

これらも、「行動」と「欲求」に還元されるのですが、分析が必要な「欲求」が残ってしまうので「信念」が登場しますが、これは堂々巡りになってしまうと言う問題点が出て来てしまうのです。 行動主義の難点は、思考や感情、痛みやむず痒さまでも「行動」に等しいとして取り敢えず「知覚麻痺(感じないふり)」をするとか、正常な知覚をしない事によって、自分を保つという変な事をやってしまうのです。

敢えて簡単に物質主義を言うと、様々な事態に対し、表面的なものしか見る事しか出来ず、それに至る難点や苦労を見る事が出来ず、憧れだけしか無い社会や人間関係しか見れなくなるので、実際に自分が社会や人間に関わろうとすると、膨大な問題点が立ち上がってきます。
それが大変な事だとしか見えないので、環境や職場を変えることで解決すると勘違いしてしまうのです。

これらは、ペインボディー(痛み)の身体を形成することに密接な事なんです。
>>45

#45において、精神集中の話でヴィパッサナー(観)は深まって行くという話をさせて頂きました。
シネー(ネパ-蔵)は静寂の境地です。  しかし静寂な境地はサマディ(三昧)ではありません。

 「空」と言うのもサマディではありません。 静寂な境地を通じて「空」を発見します。
そして空の経験を通して「リクパ(明知)の境地」を悟るのです。



 ネパを通じて三昧に入って行きますが、ネパや「空−シュニャター」自体は三昧ではありません。
ただの経験です。 ネパ(シネー静寂)を通じて三昧に入って行くことは出来ます

 チベット仏教のゾクチェンでは、静寂(シネー)の後に、ミヨーワ(不動)という状態になりますが、ラントン(観)に大変似ています。 ラントンは洞察です。  これは顕教のやり方の中では、静寂の境地に入ったら、無限にその静寂(空)に留まっていると「洞察」が沸き起こってきます。

 明晰な意識が出てきて悟り(気付き)を得られるというやり方をします。
 しかしこれは、ゾクチェンの観点からすると受動的なやり方なのです。
 空と言うのは一つのエネルギーの経験です。



 静寂であろうと、動きの中にあっても、受け身ではなく能動的に、自分という主体が動きそのものになるのです。 座って瞑想していようが、踊っていようが、一体となって何の問題もありません。 それがミヨーワ(不動)なのです。 ここまでがゾクチェンのセムデ(心の部)の第二段階のミヨーワです。

第三段階は「ニャムニー」という二元論を超えた段階です。
 これは、#46で書いた物質主義的思考と関連しているのですが、「覚醒を保つ」事に関わっています。
 スンジュウ(スンジュクとも言う−合体)、ヤブユム・スンジュウ(歓喜仏)というセックスしている仏像が知恵と慈悲を表わすとか、水とミルクをかき混ぜると、区別が出来なくなるという状態になります。


  空−思考、空−思考、空−思考、と経験しながら現れる相に惑わされるのではなく、覚醒を保つようにしていると、「空」とはなく「光明」の経験になって行きます。 リクパ(明知)に留まっていると、空であろうが、リクパ(明知)であろうが、マハームドラであろうが何の区別もありません。 そこにはリクパが最初からあるだけなのです。 その自覚を得ることが「ニャムニー」なのです。


セムデの最後に4段階目の「ルンドップ」という境地があります。
最初から完成されたという意味なのです。
ゾクチェンでは、「原初の境地」と言い、斬悟と頓悟の統合の境地ですが、普通の人はそこまで行くことはない可能性が高いので、そこに至っていない僕からの説明は省略させて頂きます。



>>[39]

わが子を幸せにしてあげたいという問題はすんなり上手く行けば言うことありませんが、
さまざまな家庭で、さまざまな事情から生じる問題に目をやると、考えれば考えるほど難しいものですね。
でも親自身、さまざまなこだわりや制限に縛られた身でありながらも、深く真実の愛をわが子に対して持っていたならば、必ずやそれはあたたかな最終的な力となって子供を包むことだろうと思います。
>>39 窪田さん

劣等感は、感じると良くないとか良いとかの問題では無くて、「使いよう」の問題だと思うのです。

 劣等感があると、それを感じな様ように奮起したり、頑張ったりします。

 この時、大事なのは、コンプレックスを感じない様に認識を作り変えだり(思い込む)事で、有るものを、有ると認識できない状態を作ってしまう事だと思うのです。

 コンプレックスは利己的段階の意識にはとても有用に働きます。
例えば、身体的なコンプレックスを感じた女性が、それを乗り越えようと、自分の身体が評価されるように鍛えたり、シェイプアップしたり、綺麗な洋服で飾ったり、化粧を上手くなったりで、自分を磨きます。

 それが評価されることで、自信を持ち、利己性を強める様になって行きます。  美貌の権化となったマリリンモンローの様に利己性を磨き、あらゆる地位と評価を得て、物質的には何でも手に入る状態になりました。 大統領とベットを共にする様にまでなったマリリンは、美貌を自分で頑張って磨き、全てを手入れを手にしたけれど、とても虚しかったと感じていたと言われています。  実際の所は分かりませんが、彼女は自殺してしまいました。  
 彼女は努力して、意図的に生まれて来た訳ではありません。
 親の営みの結果として、この世に生を受けたのです。
 赤ん坊が自分の努力だけで、オッパイを呑み、オムツを自分で替えていた訳ではありません。
周りの人たちに愛され、愛くしまれて育って来たと思うんです。

 逆に言うなら、自分一人が勝手に育った訳ではありません。
周りの人が居て、愛が在って、育まれて、やがて自分の利己性(モテル)が発達したはずなのに、自分の利己性の発達だけにしか思いが届かず、女性としての能力の開花させてきた所しか、人間存在(自分の事)として見れなくなって、意味が無い、無意味だ!と感じたのかも知れません。

 しかし、利己的段階は、意識の発達の中では、一部に過ぎません。 呪術的段階〜利己的段階とマリリンは利己的段階に長い時間を掛け、狙いを達成しましたが、それが全てではないのです。  その後、神話的合理性段階、合理性段階、相対的段階、統合段階と発達します。


 この様に劣等感は力強い、原動力になる事もありますし、自分を否定する最悪の悪徳裁判官であるスーパーエゴ(理性)として猛威を振るう事もあります。  劣等感を感じる時、思考はペインボディとして立ち上がりやすい傾向があります。 しかし、劣等感を感じている事と、自分の本質が同じであると無意識は思い込んでしまいます。  その時に目覚め居る事、ワンネス(自覚している事)、観察(観照)していることを気付いていれば、それこそが瞑想であり、マインドフルネスの状態でもあります。
懺悔と言うのは、今、ニュースで報道されているASUKA容疑の薬物依存と同じだと感じます。僕はチャゲ&飛鳥の唄は好きだったので、昔は良くカラオケで歌っていたので残念に思っていますが・・・

麻薬などの強度の依存を作る「依存症」を作りだり身体を蝕む薬物依存は、自分が「依存症」である事を認める事が出来ないと、脱却が出来ないと、薬物依存の支援団体の施設長は、自らの依存症からの脱却経験から語ります。 自分の意思で脱却出来ると思い込んでいる限り、ほんの一瞬の気の緩みで瞬く間に、元に戻ってしまうと言う。

実は自分の劣等感を作り出す心の癖も同じなのです。 その心の癖は悪業を作る心の習慣になっているのです。 悪業自体は大した事ないと感じるのですが、自分を客観的に見れなくなっている事に気付かないのです。 その時点で認識に歪みを作っているのですが、そう言う自分を認める事は出来ず、客観的に自分を観れないので、そう言う自分を正当化す心に歪みを作ります。 その歪みの為に同じ事を何度もやってしまいます。 そうやって更に自己否定を強めます。 必ずしも悪業を作るとは限りませんが、自己正当化する為の歪みを形成することが劣等感の障害になるのです。

懺悔は慚愧(自分の内側の恥じる気持と、外に向けて恥じて反省している事を表明すること。)で成り立ちます。 恥じる気持が無かったり、自分の行為を客観的に観れなければ、永遠に劣等感を作り続けてしまうのです。

それが懺悔を推奨する理由です。
しかし、潜在意識のレベルで自分を許す事は難しいという現実があります。 それを手助けしてくれるのが「放流の儀」なのです。
ベイン(pain)とは「痛み」の事ですが、エックハルト・トールが、「ペイン・ボディ」と使う場合は、「感情的な痛み」の事を指しています。

この感情的痛みは、身体の苦痛と病気の主な原因になると考えられています。 感情的な痛みとは「怒り」「嫌悪」「自己憐憫」「罪悪感」「憂鬱」「嫉妬」「ちょっした苛立ち」などがあります。

私たちは苦しみの殆どを自分自身で作り出しています。 何を言っているの?と感じる人もいるかも知れませんが、「思考」が作り出しているのですが、背負う必要の無い苦しみを自ら背負ってしまいます。

目の前にある物事を「拒絶」したり「決め付け」をするのですが、それが必然的にネガティヴな感情を湧き上がらせます。 この事は後に、痛みを作り出す好悪の「感情の起伏と、劣等感」として言及します。

苦しみの度合いは自分がどれくらい「今、この瞬間」に抵抗しているかかに比例します。 仏教を中心にあらゆる精神世界の教義の中には「全ての痛みは、究極的には幻である」という洞察があります。
こんなはずじゃ無い、理想的な自分はもっと素敵な筈だと、今の自分を否定し、自分を嫌悪してしまいます、これが「今、この瞬間」に抵抗することで、この瞬間ではない幻想や理想的なイメージになっていない自分を否定するので、ペイン(感情的な痛み)は強くなって行きます。


人間の深い意識はポジティブとネガティヴを観照すると「快楽」や「感情の高ぶり」は、「痛みの種」が含まれていることを見越します、コインの様に物事には表・裏があり、ハイとローはセットなんだという事は静かに洞察していれば解る事です。

ですから、ポジティブもネガティヴもエゴ的思考に不可欠な「感情の痛み」の一種に過ぎないもです。

ペイン・ボディには二種のレベルがあるとエックハルトは言います。
「今、ここにある」事を否定する痛みが一つ。 二つ目が「過去の経験を引きづる事による痛み」です。

この過去の経験を引きずる事による痛みの真の原因は、過去を美化したいという欲求から、認識を作り変えているから認識を美化しているので、分かりづらいのですが、自分に着地できないと言うデメリットが生じるのです。 何故なら、過去を美化して見たいと言う欲求と、自分を否定したいと思う身体・言葉・心の行為の積み重ねがあるので、善行に溢れている人は、インナーボディに繋がり易いのですが、劣等感や自己否定が強い人でも、自分自身を透明にありのままに観ることが出来れば、自分の特性として、自分を許し信頼する事が出来る様になります。
ペイン・ボディとは何か?

簡単に言うと、「感情的な痛み」なのですが、二つの状態があると目されています。 自覚されている痛みの場合と、意識の深い所に沈んでいる場合があります。
普段は意識の深い所に沈んだ痛みは、出てこないのですが、ふとした切っ掛けで浮上する事があります。

過去の悲しい体験(見捨てられる、失う、肉体的・感情的に傷つくなど。) 意識の隅っこに追いやられているのですが、これも影(シャドウ)を形成し、それが重なる場面や状況になると、ペイン・ボディが目覚めたり、誰かの悪気の無い一言でさえも、それを活性化させる切っ掛けになる事もあります。

ペイン・ボディは自覚を保ち、自分をちゃんと感じていれば、消えて行くものですが、痛みを感じ、劣等感でいっぱいになっている自分を「本当の自分」だと思い込んでいたり、過去の痛みに愛着心があったりすると痛みから解放されないのです。

だから、痛みを感じている自分を本当の自分ではないと気付いていれば、痛みと自分は同一では無いという自覚が生じ自分を癒す状態になるのです。

ペイン・ボディには比較的、害の少ないものや肉体にも有害なものや感情にとって有害なものもあります。
自分を攻撃し、ネガティヴになり自滅的なものもあり、ペイン・ボディが本人を自殺に追い込んでしまうケースもあるのです。

突然悪意に満ちた性格を露呈することもあり、それを眼にして大きなショックを受ける事はありませんか?

あなたはペイン・ボディが牙を剥く瞬間を目撃すると大きなショックを受けます。 普通の人間関係では社会性を意識しているので滅多にはお眼にかかれませんが、肉親や信頼関係が出来ている関係性では「私のもの」という我執が働くので、ペイン・ボディが出やすいのです。

ほんの僅かでも、「惨めな気持ち」が湧き上がって来たなら、注意深く観察して見て下さい。 それはペイン・ボディの目覚めのサインかも知れません。「いらだち」「怒り」「落ち込み」「鬱状態」「誰かを傷付けたいという欲求」などはペイン・ボディに無意識の内に同化してしまう事なんです。 普通の時は絶対にそんな事をしないのに、ペイン・ボディと一つになると、ペイン・ボディの衝動が出て来ます。

ペイン・ボディが存続出来る道はたった一つなんです、ペイン・ボディは「栄養」を必要とします。 それは痛みを感じるものなら何でも構わないのです。 「被害者」か「加害者」
となって栄養を欲します。 ペイン・ボディは「喜び」を食べても消化する事が出来ません。 栄養になるのは痛みだけなのです。

ペイン・ボディと一つになるともっと痛みが欲しくなります。「被害者」も「加害者」も大差はありません。 自分から好んで痛みを欲しがるなんてあり得ないと反論するかも知れませんが、ペインというのはそう言う性質があるのです。 その混乱しているペイン・ボディが自分の本性なんだと錯覚を起こす人も少なくないのです。 ペイン・ボディをしっかりと自覚出来れば自分の中のネガティヴ性は消え失せてしまうのです。 自覚しようと思っても恐れやネガティヴな感情が出て来て見抜く事は難しく感じます。ペイン・ボディに栄養を与えるのは劣等感(コンプレックス)が大きな要因ですが、その大元は理性という時には完璧主義者になる特性なのです。
ペイン・ボディを操り、自分の劣等感をコントロールしていい所だけ利用して、都合の悪い部分を切り捨てる勇敢な気持ちでペイン・ボディを探求しようとする猛者が数人居ます。
しかしその目論見は疲れてしまい、諦めることが殆どです。 そしてこう言う結論に落ち着きます。「ペイン・ボディは、刺激しないで、静かに眠らせれば、乗り越えられる」という結論で落ち着こうとします。
しかし、残念ながらそれはペイン・ボディを休火山状態にしているだけで、ペイン・ボディは常に刺激を求めて、優越感に浸ろうとしたり劣等感を感じない様にしていても、友人との会話や仕事でペイン・ボディを刺激されると、瞬間的に活火山の状態になってしまうのです。

強い劣等感は見ない様にする事は出来るのですが無数の地雷がある戦後の土地の様にいつ手足が飛んでしまうかも知れないという非常に高い緊張状態に置かれます。


そうじゃないんです。 ペイン・ボディは動く前に「惨めな感覚」が起こります。 そうなったらペイン・ボディを良く見て、じっくり観察してれば良いのです。 ペイン・ボディは「痛みという栄養」を与えない様に細心の注意を払っていれば、落ち着いて行きます。
思考(主に理性)が完璧主義にならない様に気を付け「今、ここに生きる」様にすれば、今を感じる様になります。 ある脳生理学者が、楽しかった時を思い起こし、喜びの感覚をフィードバックして喜びを再現すればいいという様なことを書籍で書いてますが、ペイン・ボディをたくさん積み上げて来ている人には、それは逆効果で、目の前の現実から目を逸らし、過去の喜びを夢想して、今の自分に着地出来なるのです。

ペイン・ボディはしっかりと自覚し、見抜く積りで良く感じようとしていると、やがてペイン・ボディを見失ってしまうことが多くなって行きます。 そしてやがてペイン・ボディは消滅してしまうのです。

余りにペイン・ボディを薫習(クンジュウ)してしまった人は、瞑想とか懺悔と放流と言った一見、呪術的な要素が強いのですが、心理学的要因に裏付けられたアプローチは、非常に効果的なのです。

この世界は、全て希望のものが揃ってそこにあるのではなく、
これから自由発想で素晴らしく作り上げることの出来るようにして下さってある材料の世界だと捉えた時に、

消費者としてただ求めるだけでは不足になり不満になるのは当然でもあり、
私達はその求める気持ちを生かして自分という切り口からこの世界を素晴らしく形作って行く創造者になり、その発想を与えあうことでお互いが生かし合い高めあって行けるのだと、

目の前の現世的なことにしか視野が無いまま生きていても、大きな歴史の流れの中ではそうやって進歩して来れた現実があるのだと、

そんな生き方の認識の切り替えが起きて行く、

その囚われた不自由な意識をペインボディ、
自由な発想と創造の意識をインナーボディという捉え方に纏めてみようかなと思いました。

ありがとうございました。
>>[55]

初めまして。 コメントが遅くなりましたが…

世界と自分の関わり方で、受け身になると言うことは、相手や状況に合わせる柔軟性を持っていると言う場合も多いので、柔軟性を基盤にしている人は敢えて、自己主張をする必要は無いのですが、与えられて当然だと思っていたら、嫌な事や不足や不満は増えますよね。

図の絵にあります様に、我々の根元に戻る様な動機や感覚を感じているのがインナー・ボディ(魂、真我・大我)。
逆に、ペルソナやシャドウを形成して行くプロセスの背景に横たわり易いのが、劣等感やペイン(痛み)だと
使われています、
先月、カルマさん主催で、このコミュニティのイベントで「宝生の儀(劣等感)を克服する為に。」で告知してあった懺悔と放流の儀>>[50]があったのですが、それに参加した感想です。

また、ペインボディ・感情の苦しみの問題と、仏教の浄土信仰の阿弥陀仏に委ねるということに関する考察です。


懺悔と放流の儀は、とても役に立ちました。
自分の欺瞞が明らかになってきた感じがします。

一番の葛藤は、僕は悟ることよりも、多くの人の幸福よりも、幻のようなプライドを守ることを重視しているということで、こんなんで本当に悟れるのかな?っていう恐怖です。

でも、我執や恐怖と戦おうとしても、勝てる気がしません。
戦おうとすれば、どんどん我執も恐怖も強まるし、全部が我執に基づいた思考なので戦えません。

今は病的になっています。
こんなに悪意や劣等感や恐怖に支配されているとは思っていませんでした。

出来る限りの努力をして幸福になりたいし、成仏したいけれど、無力と欺瞞ばかりで、行く末の不安は尽きないけれど、最終的には、そんな自分を全面的に委ねたいと思っています。

僕は浄土に行きたいです。とにかく苦悩から救済して欲しい。
でも、浄土に行くってことは、仏の導くところに何処へでも行って、自分の修行をし、皆の幸福に貢献するということのような気もして、それって今の人生を生きるってことです。
仏の恩寵で、邪悪や苦悩や欺瞞も全て理性を超えて、幸福の因になって欲しいと思っています。

苦悩からの無条件の救済というのが、魅力を感じる思想です。
忘れていても背いていても、無条件の救済があると思うんです。


実際の問題として、僕は非常に病的な理性の働きを持っているので、思考を静める方向へ行かないと、幸福に生きられないと思うし、自分で苦しみを創り続けるのは嫌なので、何とかして思考を静めたいと思っています。
>>[57]

>懺悔と放流の儀は、とても役に立ちました。
自分の欺瞞が明らかになってきた感じがします。


* その後の報告ありがとうございます。 mixiに余り来ない二人の報告は細かく聞いていたのですが、窪田さんの報告は嬉しいです。



>一番の葛藤は、僕は悟ることよりも、多くの人の幸福よりも、幻のようなプライドを守ることを重視しているということで、こんなんで本当に悟れるのかな?っていう恐怖です。

>でも、我執や恐怖と戦おうとしても、勝てる気がしません。
戦おうとすれば、どんどん我執も恐怖も強まるし、全部が我執に基づいた思考なので戦えません。

>今は病的になっています。
こんなに悪意や劣等感や恐怖に支配されているとは思っていませんでした。



赤裸々な報告感謝します。
多少恥ずかしかったかも知れませんが、洞察力は深くなりましたね。
そうなんです、上京や環境、ブッダや神の存在に委ねる事はとても難ししいことです。 なんせ、自分を信じられませんからね。 理性が強くなれば完璧主義になり易いです、それでいて観照の力が強まっていれば尚更です。 よく自分を客観的になれる様になりましたね。 後は行動する事に焦点を合わせれば良い流れになるんじゃないですか。
来週、再来週の日曜に劣等感(コンプレックス)に関する勉強会と儀軌をやります。



コンフォートゾーン(居心地のいい場所)から出たくないという静かだけど、とても頑固な欲求があります。

自信について
 多くの人は、自分に自信を持っていはいません。

 それは、先延ばしの根本原因、情報過多の根本原因にもなっています。自分を前進させる行動をとらない根本原因でもあります。
幻想があります、安全という幻覚世界を出て、不確実という現実世界へと入って行くことがとても大切です。

 これはとても怖いことです。この何の保証もない不確実の現実、つまり「今を生きる」為には、「自信」が必要です。 

 自分に自信があれば、未知の世界に入って行くことも厭わなくなっていきます。自信があれば、自分の行為がいずれ報われて良
い結果につながると信じていますから自分の力を信じることになって行き、もっと沢山の事をやりたくなって行きます。
 この事がより沢山のリソース(資源。資産)を獲得し、うまくいく循環(上向きのスパイラル)が生まれ、自信は更に深まります。
 自分の経験とチャレンジが、更なる自信を深めて行くのです。

 「勇気」と言うのは恐怖がない状態ではなく、「恐怖」がある中でこそ、自信に繋がる要因になるのです。
 「恐怖」から逃げ回り安全基地に閉じこもっていたら、窮屈で退屈な檻の中にいるのと同じです。
サティ=マインドフルネス

欧米の教育研究機関の中枢であるマサチューセッツ大学- オックスフォード大学 - バージニア大学- マイアミ大学- ハーバード大学でも気付きは重要視され「マインドフルネス」という言葉はよく聞くようになりました。
 マインドフルネス「(英: mindfulness)は、今現在において起こっている内面的な経験および外的な経験に注意を向ける心理的な過程である。 瞑想およびその他の訓練を通じて開発することができる。」
 
◎ マインドフルネス(mindfulness)という用語は、パーリ語の サティ(sati)の翻訳であり、サティはいくつかの仏教の伝統における重要な要素である。近年の西洋におけるマインドフルネスの流行は、概してジョン・カバット・ジンによって起こされてきたと考えられている。

◎ パーリ語でサティ(巴: sati、梵: smṛti:スムリティ)とは、特定の物事を心に(常に)留めておくことである。日本語では念(ねん)や気づき、英語ではマインドフルネス(mindfulness)[1]などと表現する。漢訳で念。仏教の実践において正念(しょうねん、sammā-sati)とは、八正道(はっしょうどう)の一つとして重視される。正しい念は、三十七道品のなかの四念住(しねんじゅう)などにおける「念」とあるように、基本概念の一つである。対象に執着あるい嫌悪などの価値判断を加えることなく、中立的な立場で注意を払うことを意味し、仏教における瞑想の基礎的な技術の一つであり、念を深めると心が固定され、何事にも惑わされない定(じょう)の状態に至るとされる。


これらは、エックハルト・トールが良く使う「今 ここに」と言うことと、同じなのですが、「今、ここに」の反対の事を表す言葉が、「エゴ」と「無意識の反応」なのですが、これは気を付けないと混乱するので、心に留めておいてくさださいませ。
心理学では「エゴ」というのは「エス(衝動・欲求)」と「スーパーエゴ(理性)」のバランスを調整する機能で、成熟させることを狙います。

エックハルト・トールの言う「エゴ」とは?
すべての心の活動の核心は繰り返ししつこく反復される思考、感情、反応パターンでできていて、人はそこに最も強く自分を同一化している。それがエゴそのものである。


インフォリオリティ・コンプレックス(劣等コンプレックス、卑慢)は持っていないようでいても心の内部に巣食っていたり、その逆のシュペリオリティ・コンプレックス(優越コンプレックス、驕慢)も心地よいものとして意識されるばかりでその弊害が知られないことが多いですね。
仏教による内面観察はどちらもしっかりと見つめるもので、それぞれの対治に鋭く取り組む点が素晴らしい所でもありますね。
>>[61] &皆様

様々なコンプレックスは、本人はそんなものは自分には無いと思っている人が多いのですよね。

パーリ語の「サティ」は、心を静めることを指しますが、「止」の事を言います。
最近はあらゆる人間関係の改善にも、ビジネスにも非常に有効だと言われている「マインドフルネス」と言うのが「サティ」のことです。
「マインドフルネス」から「アウェアネス」の展開のことを「気付き」の事を指しますが、気付きを得る為には心を静めて、ものごとをありのままに見る(観る)事が必要です。

その為の簡単な瞑想会を五反田で行いますので、興味のある方は参加して下さい。 参加費は3千円。
9時に五反田駅で集合して、皆んなで五反田教育文化センター(3階)に向かいます。 資料をお渡ししますので、参加希望の方は申請して下さいね。

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