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トランスパーソナル心理学コミュの何故、トランスパーソナル心理学なのか?  全文

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そもそも、何故、トランスパーソナル心理学をお勧めするのか・・・という話をしたいと思います。

ここでの話題は、主にウィルバーの「眼には眼を」を題材として、トランスパーソナル的な観点の優れた側面を採り上げるにあたり、ウィルバーの指摘している、スピリチュアルな探求の道の途上にける様々な問題点、また、各種の伝統的心理療法、最新のセラピーなどを巡ってのウィルバーの評価などに絞り、さらに若干、周辺的な話題にも言及することにします。

さて、「眼には眼を」ですが、個人的な話をすれば、僕自身にとっては、まさにこの本が、ウィルバーとの衝撃的な出会いとなった最初の書物でした。

それ以前にも、「意識のスペクトル」をはじめ、何冊かのウィルバーの著作が話題になっていることは知ってはいたのですが、僕にとって、ウィルバーとの出会いを決定づけたのは、まさにこの本の存在でした。

ウィルバー理論の優れているところは、ひとことで言ってしまえば、人間の霊的進化の様々な異なったレベルに応じた諸課題を、全体的な視野の元に、極めて高次の観点を軸として統合することに成功している・・・という点にあると思います。
そして、歴史的にも現在的にも、心理学の様々な理論、更には、周辺分野の哲学、思想、自然科学、人文・社会科学などにおいて、一面的なものの見方の故に、しばしば、異なった次元に属する対象領域を混同してしまい、その結果、理論的にも実践的にも混乱した状況がもたらされることがあること・・・そうした指摘を、非常に広範な知的バックグラウンドの元に、極めて鋭い洞察として提示している点にあると言えると思うのです。

その辺のウィルバーの洞察に関して、若干、個人的なコメントをすることで、トランスパーソナル心理学へのご案内としたいと思うわけなのですが、僕自身の問題意識が特殊なために、少し分かりにくい点などがありましたらば、ご容赦ください。

さて、コミュニティの紹介文にも書きましたが、トランスパーソナル心理学成立の歴史的な経緯としては、ロベルト・アサジオリや、アブラハム・マズローの理論などが、大きな役割を果たしていると言われています。
特に、マズローの理論などは、アカデミズムの臨床系心理学の世界などでは、非常に高く評価されてきていて、従来の心理学が、人間の無意識の否定的な側面に焦点を当てることが多かったのに対して、逆に、精神的に健康な人間が、より人間的な可能性を開花させた状態に、むしろ焦点を当てることで、いわゆる至高体験といった特殊な精神的高揚の状態が、少なからぬ人に、しばしば見られるということ、それが、人間の潜在的な可能性として、普遍的なものであると言えるのではないか・・・といった指摘などをしていた点が、注目を浴びていたという事実があったのでした。

そうした歴史的背景があって、心理学的な意味では、その延長線上で、更に人間の潜在的な可能性に対しての洞察を推し進めて行こうとしたところに、トランスパーソナル心理学が形成されてきたわけなのですが、そこには、従来の心理学との連続という側面とともに、従来の心理学からの飛躍(ある意味では、断絶)という側面があったと言えるのではないかと思われます。
飛躍と言えるのは、マズローの人間性心理学が、至高体験などを考察の対象としつつも、そうした体験に、しばしば伴っている宗教的な側面に関しては、あくまで個人心理学の範囲で言及するに留め、個を超えた体験そのものの存在は認めるとしても、その意味を個を超えたパラダイムという地平で包括的に論じることはしなかったのに対して、ウィルバーの心理学では、もはや、従来の心理学という枠組みを超え出て、そうしたし至高体験の開示している神秘の次元そのものをも包含した、人間性の全領域を考察の対象として理論展開を図っている点に認められると思うのです。

「眼には眼を」は、そうした包括的な理論の提示という意味合いでは、まさにウィルバー理論の全貌を知るのに最適な一冊だったのではないかと思います。
その後、「進化の構造 1、2」が出版されて、ウィルバー思想の全貌は、「万物の歴史」と並んで、むしろ、こうした比較的近年の著書を通して知られることが多くなってきていると思うのですが、しかし、むしろインパクトの強さという意味で言えば、「眼には眼を」から受ける衝撃は、より強烈だった・・・というのが、僕自身にとっては、正直な感想なのです。(「進化の構造」は、個人的には、ちょっと優等生的すぎるという印象がありますね。 それに、話題として採り上げている思想・理論などへの言及が、体系的な知の構築を目指すあまり、一般的な指摘の範囲を超えていないという印象を受けてしまいます。そうした意味では、「眼には眼を」のほうが、ウィルバーのオリジナリティーがより強く出ているように思えてしまいます。)

さて、話は逸れましたが、ここからは、「眼には眼を」の中身についての話題です。

僕自身にとって衝撃的だったのは、アメリカのニューエイジに、かなり良く見られる傾向として、ある種のセラピーなどの問題点、ニューエイジに一般的に受け入れられてきた思想的傾向など採り上げ、いくつかの重要な論点について、それまでその様に明確には指摘されたことがなかったのではないか・・・と思われるような鋭い切り口でもって、バッサリとニューエイジ批判をしていたことでした。
ウィルバーの批判は、当時、ニューエイジの間で一種のトレンドだったホログラフィー理論を始めとして、ネオ・ライヒ派、ネオ・ユング派などのセラピーのあり方、フリッチョフ・カプラの「タオ自然学」に対する一般的理解、デーヴィッド・ボームの暗在系の概念、更には、(ボームとの関連でですが)クリシュナムルティの教えにまで及び、そうした一連の批判が、首尾一貫したトランスパーソナル心理学の理論展開との関連で為されているという事実が、まさに驚きだったのです。
ウィルバーの批判的な観点の中心軸に位置する概念として、そこで提示されていたのが、前/超の虚偽、意識の階層構造、3つの知の様式(肉の眼、理知の眼、黙想の眼という形で概念化される、存在-認識の3種類の異なった次元のこと)・・・などで、異なった次元に属する事柄を混同することによって生じるカテゴリー・エラーの指摘ということを中心として、ウィルバーの批判は展開されていました。

詳しくは、直接、「眼には眼を」を読んでいただきたいのですが、こうしたウィルバーの批判は、ニューエイジの一般的な傾向に対して、元々、かなり批判的だった僕自身としては、非常に納得のいく内容だったのです。
直ぐには判断しかねることや、理解が困難なことなどもあったのですが、ウィルバーの提示している全体的な枠組みとでも言うか、意識の階層構造についての見取り図みたいなものに照らしてみても、なるほど、こうした一連の批判には、かなりの説得力があると感じたものでした。

個人的な理解になりますが、少しその辺の指摘もしておきます。

まず、カプラの「タオ自然学」ですが、ウィルバーによれば、この著作のニューエイジに与えた影響は非常に大きく、多くの読者が、この著作のモチーフを、物理学=東洋的神秘思想といった形で受け止めたとのことでした。
つまり、神秘思想の側としては、最先端の物理学理論が、東洋的神秘思想を根拠づけるのに大いに一役買ったというわけです。
逆に、物理学の理論の側から見れば、先端の物理学研究は、従来のデカルト的な近代科学のパラダイムを超えた、新たなパラダイムの誕生を指し示しており、それは、東洋的な神秘思想に含まれる真理の再発見であると同時に、存在の根源にせまる神秘の開示を指し示しているというわけです。
こうした形で、物理学=東洋的神秘思想という考え方が、アメリカを中心としてニューエイジ思想のなかで定着していったわけなのですが、ウィルバーは、そうした「タオ自然学」の理解に、根本的なカテゴリー・エラーが存在することを指摘します。

ウィルバーの挙げている比較的分かりやすい例に即して説明すると、例えば、悟りとは何か・・・ということを説明するのに、脳波の周波数やら波形やらで、悟りの内容そのものを説明することは、当然のことながら不可能であり、そうした説明を試みようとする自称科学的なアプローチ自体が、根本的に異なった知の様式(この場合には、自然科学が<肉の眼>に関わるものであるのに対して、瞑想・悟りといったことは、<黙想の眼>に属する対象である・・・ということになる。)を混同し、<黙想の眼>に関わる対象領域を、<肉の眼>に還元することで説明してしまおうとする、悪しき還元主義であり、悪しき科学主義であるということ。
そして、物理学=東洋的神秘思想という発想は、<肉の眼>に属する代表的な学問である物理学と、<黙想の眼>に属する神秘思想とを、同一の次元で論じるという根本的な誤謬を犯しているということ。
そうした誤謬は、多くの場合に脳波研究の根底にある、上記のような還元主義的発想と、思想的に同一のカテゴリー・エラーであるということ。
そうした批判を、ウィルバーは展開しているわけなのですが、物理学=東洋的神秘思想という誤解は、まさに、カプラの「タオ自然学」に対してのミスリーディングであり、カプラ自身は、そうした主張を明示的にしていたわけではないということで、カプラ自身については、ウィルバーは批判の矛先を向けていませんでした。
そして、カプラに関しては、「タオ自然学」を執筆していた段階では、確かにスピリチュアルな理解が、まだまだ不十分だったけれども、その後、カプラ自身のスピリチュアルな理解も格段に進歩したということを指摘しています。
ウィルバーのそうした指摘ですが、その後のカプラに関しては、他の本を読んでいないので僕自身は何ともいえないのですが、「タオ自然学」段階でのカプラが、スピリチュアルな理解という点で、ほとんど初心者レベルに過ぎなかったことに関しては、全く同感出来ることです。
ある友人が、8年ほど前に、カプラの「タオ自然学」を読んで非常に失望したと語っていたのですが、それには僕も全く同感でした。
話がやや脱線しますが、「タオ自然学」という本の中身自体は、先端の物理学理論を学びたいと考えている科学の素人向けには、とても有益な本であり、とても要領よくわかりやすい形で先端物理学の理論をまとめていると言えると思うのですが、科学の啓蒙書としては素晴らしいといえても、スピリチュアルな観点から見たら、頭の良い科学者が、様々な東洋思想の文献を調べ、悪く言えば、そこに書かれている内容と自らが専門とする先端物理学の知識とをつき合わせて、実証的な立場から、その類似性を論証しているに過ぎない・・・といった印象がどうしても拭えない感じがしたのです。
そうした経緯があり、ニューエイジの一部で、スピリチュアルな立場から、まるでカプラの「タオ自然学」の受け売りをしているかのような議論がなされているのを知ったときには、非常に違和感を覚えたものでした。
そして、その後、ウィルバーの「眼には眼を」を読んだときには、逆に深く納得したという次第なのです。

次に、デーヴィッド・ボームの暗在系の概念についてですが、ボームのこの概念は、量子力学の解釈として、ボーム以前に提示され、その後も主流派の考え方として通用してきたコペンハーゲン解釈に対抗して、量子力学の新たなな解釈として打ち出された彼自身の理論のなかの重要なキー概念として提示されてきたものでした。
それ自体は、ウィルバーの批判するところではないのですが、問題は、単なる物質世界レベルの概念を超えた次元で、暗在系という概念をボームが定式化していることを巡って、それはカテゴリー・エラーであり、暗在系という概念は、物質世界レベルを超えた次元では、決して適用できるものではないという点にありました。
ウィルバーは、そうした批判によって、量子力学における意識の役割といった、一部の物理学者の間でも話題となっていた問題について、スピリチュアルな観点からの一定の判断を指し示そうとします。
そして、そのこととの関連で、ボームがクリシュナムルティの影響を受けていたこと、ボームのカテゴリー・エラーの背景には、クリシュナムルティの哲学の「平板さ」が介在していたということをウィルバーは指摘します。
僕自身にとっては、量子力学の解釈を巡っての歴史的経緯などについての多少の知識はあるものの、専門の物理学者にとっても非常に難解だといわれるボームの理論は、全くお手上げなのですが、やはりニューエイジの一部での、その辺の理論や概念の受容のされ方を見るにつけ、かなり疑問に感じていたという経緯があり、ウィルバーの指摘は、とても納得のゆくものだったのです。
クリシュナムルティに関しても、これは一部の方々からの反論があるかもしれませんが、彼の教えが、ある意味ではウィルバーの指摘する通り平板であるという印象は、僕自身も感じていたことでした。
クリシュナムルティについて言えば、僕自身は、「人物」とその「教え」とは、分けて考える必要があると思っています。
クリシュナムルティその人は、紛れもなく偉大な人物であり、彼の教えが平板だったとしても、その偉大さが損なわれることはない・・・というのが、僕自身の考えです。
むしろ、非常に卓越した宗教的な人物であったが故に、逆に、教えが平板になってしまったとも言えるのではないか・・・そんな風に思うのです。
クリシュナムルティは、人間の心(マインド)に対して、極めて深い洞察を語っています。
その洞察の深みには、まったく頭が下がる思いなのですが、しかし、ウィルバーの言うような「意識の階層性」という観点から考えた場合に、クリシュナムルティが、通常の心理学的な洞察のレベルの事柄に関しては、無知だったとも言えると思うのです。
同じマインドの分析でも、通常の心理学の洞察とクリシュナムルティの洞察とでは、ウィルバーの言葉を借りれば、<理知の眼>の次元を扱っているか、<黙想の眼>の次元を扱っているか・・・といったような、扱っているレベルの差があるように思われるのですが、ウィルバーは、そうした差異を、意識の階層構造における次元の差異として扱っているのに対して、クリシュナムルティは、悪く言えば、心理学的な洞察のレベルの事柄を、より高い次元での自らのマインドの分析に解消させてしまっているとも言える。
ハッキリした形ではそうした指摘はしていないのですが、ウィルバー自身にとっては、その辺が「クリシュナムルティの哲学の平板さ」という風に見える点なのだと思うのです。

次に、ネオ・ライヒ派、ネオ・ユング派などのセラピーのあり方についてのウィルバーの批判ですが、前/超の虚偽という視点こそが、ウィルバーが様々なセラピーについて論じる際に依拠していた最重要な考え方でした。
自我が十分に確立していない段階の様々な心理的問題を、従来の心理学では扱ってきたわけなのですが、そうした伝統的な心理学の有益な知見が、しばしば無視されるような形で、新しいセラピーが人々に紹介され、しばしば個の次元を超えるパラダイムの枠組みの中でそれが提供されてきているという現状に対して、前個的な領域の課題をないがしろにして、それを超個的な課題へとすり替えてしまう・・・そうしたことが、セラピーの現場において、頻繁に行われているということを、ウィルバーは鋭く指摘し批判します。
具体的には、ネオ・ライヒ派、ネオ・ユング派が批判の対象とされ、しかも、そのふたつの潮流が融合する傾向が見られることを指摘し、それに対して、ウィルバーは強い警鐘を打ち鳴らしています。
この辺のアメリカのセラピー事情は、日本とは異なる側面があると思うし、日本の現状からは、見えにくいことだと思うのですが、多少、個人的な体験等からも、ウィルバーの言わんとしていることが、やはりそうした点でも、僕なりには理解できる気がしたものでした。
実際、ネオ・ユング派やネオ・ライヒ派のセラピストを、僕自身、何人か個人的に知っていますし、確かにウィルバーの批判と同様の印象を、僕自身も多少は抱いていたものでした。
また、一般的な傾向としても、従来の心理学に対しての軽視だけならまだしも、前個的な領域の課題を超個的な領域に重ね合わせてしまうような、そうした傾向が精神世界の一部に見られることは、僕自身、身をもって痛感してきた経験もあり、ウィルバーの指摘は、全くもって他人事ではないといった感じがしたものでした。

更に、ニューエイジ批判として、ウィルバーが「眼には眼を」で語っていたことですが、ビー・ヒア・ナウ・イズム(訳文では、確か「いまここ主義」となっていた?)の危険性をウィルバーは指摘しています。
これも非常に良くわかる指摘なのですが、ビー・ヒア・ナウという発想は、個を超えるレベルの課題に至った時には有効でしょうが、そうした意識の階層構造についての認識無しに、不適切な形でイズムとなってしまった時には、霊性の開発にとって非常に有害な影響をもたらしうるということなのです。
そして、実際にそうした悪影響が無視できないことをウィルバーは指摘しているという訳です。
この辺も全く同感で、ウィルバーの指摘の鋭さには、眼を見開かれる思いがしたものでした。

さて、何故トランスパーソナル心理学なのか・・・について、専ら理論的な側面からやや詳しく論じてきましたが、最後に、日本の心理学の専門家で、ウィルバーの理論を紹介すると同時に、東洋的霊性と西洋的霊性との差異という観点から、ウィルバー批判を展開しているウェブサイトを公表している人がいるので、その方のウェブサイトの紹介と共に、そこで展開されている議論についての、僕なりの感想を簡単に述べたいと思います。

以下のウェブサイトです。
http://www.nct9.ne.jp/mandala/  霊性学入門

まず、「霊性学とは何か」続いて、「トランスパーソナル・ベーシックス」を読んでみてください。
「トランスパーソナル・ベーシックス」は、トランスパーソナル心理学についての優れた初歩的なガイドと言えると思います。
その後、「トランスパーソナル大批判」という論考がありますので、こちらの方も一読されることをお勧めします。

※この後、「トランスパーソナル大批判」についての簡単なコメントを掲載しますが、その前に、関心のある方には、そこで展開されてているウィルバー批判について一緒に考えていただけたらと思いますので、僕自身のコメントは、少し間を置いて、数日後に掲載したいと思います。

コメント(4)

Yanさん
ありがとうございます。
素人同然の僕にも分かり易い流れで、嬉しいです。
そんな僕が感想を書くのも・・・・という感じなのですが、

そもそも学問というのは弁証法的な批判の止揚によってより真理へと導かれていくものだと想います。その意味においては、ウィルバーまでの流れにしても、ウィルバー批判にしても意味のある歴史的な系譜といえるでしょう。
しかし、そもそもこの霊的な次元の問題を言語や文字、記号や図形に置き換えて交換することにはやはり限界があるのではないでしょうか。カテゴリーエラーやミスリーディングは当然起こりうるもので、しかもそのことをネガティブに受け取る必要もなく、むしろ僕はポジティブに受け止めます。(この辺は言語学やコミュニケーション学の領域かな。)そして、今後さらに賢者・覚者たちによって、この弁証法的な相対、止揚が繰り返され、言語化(一般化)された叡智がより真理へと導かれることを楽しみにしています。
しっさん、こんにちは。
書き込みありがとうございます。

そもそも学問というのは弁証法的な批判の止揚によってより真理へと導かれていくもの・・・というご指摘、全くその通りだと思います。

しかし、そもそもこの霊的な次元の問題を言語や文字、記号や図形に置き換えて交換することにはやはり限界が・・・というご指摘も、確かにその通りですね。

東洋的霊性という観点からのウィルバー批判の文脈に関しては、また改めて論じたいと思いますが、僕も、しっさんと同様に、賢者・覚者たちによって、この弁証法的な相対、止揚が繰り返され、言語化(一般化)された叡智がより真理へと導かれることが楽しみです。(しっさんの言葉をそのまま使いました。まさに言い得て妙な上手い表現だと思い、感心しました。)

ウィルバー批判については、ある意味、当然出るべくして出てきた感があります。
マンダラ浩氏のウィルバー批判の観点は、僕にも事実認識の次元では良くわかるつもりです。
その先は、改めて書きますが、では、果たしてその批判に普遍的な意味合いで妥当性があるのか・・・という問題を追及していくと、重要な疑問に突き当たる感じがするのです。
理論モデルは所詮、理論モデルに過ぎないのですが、ある意味では、そうであるが故に、逆にマンダラ浩氏の提唱する新たな理論モデルには、疑問があるのです。(しかも、それはトランスパーソナル心理学を巡る、重要な論点であるように思えるのです。)

詳しくは、また改めて論じます。
Gyanさんのとても丁寧な論述は、ケン・ウイルバーの諸著作が私たちに豊かな恩恵となったことをあらためて思い出させてくれました。
私たちの一人一人は、読者として、またひとりの求道者として、とても大きな援助をケン・ウイルバーから得ていたなあとあらためて思い知らされます。
>>[1]

私たちお互いがそれぞれの学びや思索によってそれぞれにおいて持つようになった世界や人間の姿に関する考えや歩むべき方向性の意見などは、お互い自分においてはかつての自分よりずっと考えが深まった、かつての自分を乗り越えたという実感があることだとしても、ではそれを自分限りの満足に終わらせるのではなく人とそれを分かち合ったり、自分にあるかもしれない独り善がりや盲点や歪みをさらに乗り越えようと思ったなら、他者との意見交換や話し合い、さらには深い討議に心を開かなければなりませんね。
自分の考えを他者にとって理解しやすい形で伝達するとなると、言葉も磨かなければならないし、図形化や図式化もある程度有効かもしれません。
しかしいずれにしろ、言いっ放し、呈示したっきりでそれに対する他者の受けとめ方を聞いたり、他者による解釈のされ方を聞いたり、疑問や反論を聞いたりしなければ、図形や図式はもちろん言葉・概念でさえ、あるいはその向こうの当人の心の真実でさえ、本当の伝達のプロセスを終えたとは言えませんね。
私たちがお互いに対して話し合いや討議の心を開くことはとても大切なことだと思います。

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