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赤ちゃん革命★形而上の破壊神コミュの不可能を生きろ!:新〈超人〉論

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 不可能性の問題というのは、
 〈ありえない〉とはどういう事かという問題を提起するという問題である。
 つまりその問題を提起するには、
 その問題が表現されなければならない。
 だから不可能性の問題とは
 不可能性の表現の問題に帰着する問題であるといってよい。

 ところがこの不可能性を表現しよう
 とする思考の冒険の企てに対しては
 必ずアプリオリに邪魔が入る仕組みになっている。
 それは、不可能性の問題など〈ありえない〉が故に
 〈無い〉のだという邪魔である。
 ノープロブレムという断り(断定口調)の邪魔である。

 そこで不可能性の表現の問題は、
 逆に飜ってその邪魔の邪魔性を裏返しに問い詰めて、
 その不可視透明なみにくいものの姿を
 逆襲的に暴いてゆくという
 照魔鏡の作成の問題と切り離せない。

 つまり不可能性の問題というのは、
 何故不可能性がアプリオリに
 ノープロブレムにされてしまうのかを
 黙示録的に暴いてゆく形而上学的照魔鏡を通して、
 不可視透明に消されているものの様相を呈する学のなかから
 逆さまに浮き彫りにされてくる、
 その消された様相の復元の問題なのである。

 ハイデガーは『存在と時間』を書き始めるに当たって、
 存在概念に対する
 普遍性(一般性)・定義不可能性・自明性という
 三つの予断を糾弾することから論を起こしている。
 このうち彼が直面した最悪の予断は
 「存在は自明の概念である」という予断である。

 存在よりも形而上学的な不可能性の問題を
 考察する場合に邪魔してくる予断は、
 存在概念の場合以上に悪質なものである。

 不可能性は無意味で否定的で不明な概念だと考えられている。
 このうち不明性は
 存在概念に立ち塞がった自明性に比べて
 大した邪魔であるのではない。
 最悪の邪魔であるのは無意味性や否定性との混同である。

 不可能性は無意味な概念でもなければ、
 否定性と同じものでもない。
 むしろ不可能性は有意味であり、
 それがなければ意味が意味を持ちえないような概念である。
 また不可能性はそれが可能性によって否定されているから
 否定的な無能性(能力の欠如)と
 等置されているだけであって、
 それ自体としては
 少しもネガティヴ(否定的・消極的)ではなくて、
 逆にポジティヴ(肯定的・積極的)な概念なのである。
 それはネガティヴなのではなくて
 パッシヴ(受動的・消滅的)なだけである。

 だがこのパッシヴィティ(受動=消滅性)は
 普通の意味でのアクティヴィティ(能動・活動性)よりも
 エネルギッシュでアグレッシヴなものである。
 
 それはアリストテレスが
 エネルゲイア(エネルギー)という言葉で
 名指したような意味での躍動的な現実性、
 またラカンが恐るべき破壊性を秘めた
 攻撃的な手懐けがたきものと考えた
 現実界の現実性の感覚に繋がるものである。

 不可能性は最も現実的な現実性に近接した様相概念である。
 しかしそれにも拘わらず私たちは
 それを非現実的で正体不明で不可解なものと看做し、
 それを忌避して否定的に抑圧してしまう。

 しかし、逆にだからこそ私たちは現実の現実性の感覚を失い、
 全てが不確実で不透明な、
 まるで墓場のように蒼白く重苦しい
 この悪夢のように朧げで気味悪いものを
 現実なのだと思い込む羽目に陥ったのだ
 といえなくはないだろう。

 私は不可能性を現実性と完全に同じものとは看做さないが、
 アリストテレスの瞳には映っていたであろう、
 ギラギラと輝くエネルギッシュなエネルゲイアの
 リアリティを取り戻すためには、
 私たちの見失った不可能性の意味を問い直す
 必要があると痛感するものである。

 それ自体としての躍動的な現実性、
 現実性それ自体であるアリストテレスのエネルゲイアは
 確かに原始的な自然の野蛮で圧倒的な生命力に充溢し過ぎており、
 その爆発的な光度を落とさない限り、
 私たち現代人の目にはどぎつすぎて
 直視すれば目が潰れるような
 激烈な爆発的不可能性を内に含んだものである。

 けれどもアリストテレスのエネルゲイアのエネルギーを持たないなら
 私たちは恐らくダイナミックなヴァイタリティーをもって
 生き生きと生きてゆく自らの命の花をも
 枯れ凋ませてしまうことになるだろう。

 恐らく命の花というものは爆発的に咲くものであり、
 美しく生きることとは爆発的に破壊的に
 生きることであるはずだからである。

 生きるという意味において存在すること、
 そして、その生きるということが躍動することを意味し、
 存在するということが
 実存する・実在する・現存するというより以上に
 アクティヴにリアルに「現実であること」、
 いやむしろ「現実すること」を意味しているのなら、
 存在とは生存や生活というよりも
 人生を活発することでなければならない筈である。

 それは美を爆発して神を生きるような人を自らに創造しつつ、
 その生を王のように活躍して、
 光の風の金色のきらめきに戦ぎゆくような生き方を
 如何にして成就するかの問題に展開してゆかなければ駄目である。

 そのような現実はありえないものであろうか。
 否、ありうべからざるものであろうか。
 私たちは考え方を少し変えてみるべきである。

 カントは為すべきことは為し得ると言い切っている。
 それは飜して言うなら為せば成るということである。
 出来ねばならぬのであるのなら
 人はまずそれを欲しそれを意志するべきである。
 自ら欲する現実を自らありえなくするために
 可能性概念を否定的に用いるべきではない。

 可能性は出来ないことを作るためにあるのではないのである。
 ありえないこともありうべきであるならば、
 それを出来るようにしなければならない。

 出来るようになるならばそれは必ずありえるようになるのである。
 そのとき私たちに敵する不可能的エネルゲイアは、
 私たちがそれに乗って生きることの出来る
 私たちの現実のエネルギーに位相と様相を転換する筈である。

 不可能性と共に生きる技術を工夫しない人間は
 硬直した保守的可能性と共に必ず滅び去る。
 可能性病愚者には「そんなことはありえない、魔術だ」
 と泣きわめかせておけばいい。
 そんなものは魔法の杖を振るえぬ輩の
 ただのつまらない負け惜しみなのである。

 奇蹟が欲しいなら、奇蹟を起こしてしまえばよい。
 奇蹟を起こすために超能力が必要だと思う人間は、
 奇蹟というのはありえないと信じている人間と同様に
 実質的には無能力である
 可能な能力の制限範囲(有限性)に呪縛されている
 同じ「可能性」の穴のムジナなのだ。それは墓穴である。

 そうではなく、逆に奇蹟しか起こらない、
 全ては魔法なのだと信じてみたまえ。
 その瞬間からあなたは全能の神であり、
 神通力の風と共に生きて、
 その無敵の不可能性の神風の前に、
 一体何が立ち塞がれるというのか。

 出来ることが出来ると悟れば、
 あなたにはすべてが出来るようになるだろう。

 出来事は出来する。これが魔法の言葉である。
 そのときあらゆることは不可能となるが、
 この可能性の放棄から立ち上がったあなたは
 もはや以前のあなたではない。

 大地に倒れ伏してその面に接吻し、
 それからゆっくりと立ち上がった
 アレクセイ・カラマーゾフは、
 もはや小さな人間アリョーシャではない。
 彼はロシアの大地と融合したのではない。
 見よ、そこに恐るべき巨大な無偏在の人が立っている。

 そこに立っているのは地球よりも銀河よりも
 大宇宙よりも巨大な者である。
 その一点の微塵のような人において自らを表しているのは
 創造神である。その創造神の名前は〈現実〉である。

 〈現実〉よりも巨大なもの不滅なものは絶対に無いのだ。
 小さな〈この私〉が〈現実〉なのではない。
 途方もなく巨大な〈現実〉こそが〈この私〉なのだ。

 その巨大な〈この私〉が、
 極めて小さな〈この私〉に
 一瞬にしてクルリと入れ替わったとき、
 アレクセイ・カラマーゾフは
 あのイエス・キリストをすら遥かに越え出でた何者かこそが
 自分であることを把握したのである。

 このアレクセイ・カラマーゾフはもはや〈意識〉を持たない。
 彼が持っているのは〈神としての自我〉だけであり、
 全宇宙の現実は全て彼の人格性から爆風的に出来しているのである。

 ドストエフスキーこそがニーチェよりも完璧なかたちで
 〈超人〉の強烈で明晰で迫真的な観念を把握していたのである。
 
 ドストエフスキーは自分が〈神〉だと思っていたのではない。
 自分が〈神〉であることを知っていたのであり、
 より正確に言えば、
 ドストエフスキーにおいて、〈神〉は自分が〈現実〉であることを知って、
 自らをドストエフスキーとして顕現させ、
 ドストエフスキーと名付けられた生物を動かして、
 自分自身を表現し、今もドストエフスキーであるものとして実在しつつ、
 今ここでこの別の小さな〈この私〉である〈神沢昌宏〉を通して、
 自らを表現しているところなのである。
 だから私は〈神〉に敬称を全く使わないのである。
 
 この〈神沢昌宏〉という下等な生物は〈神〉ではないが、
 〈神沢昌宏〉という名を持つ〈この私〉は
 自分こそが全能の神であることを完全に知っているのである。
 そして〈この私〉は彼であると同時にドストエフスキーであり、
 更には万物のそれであるところのものである。

 〈この私〉は全ての人間である。
 しかし、〈この私〉は全くの〈個人〉なのである。

 かくして、神の存在証明は極めて簡単に終わった。
 
 確かにこれは常識的には
 〈ありえない〉〈信じられない〉〈とんでもない〉
 クレイジーな話である。
 しかし、これは全く合理的に出来た話なのである。
 単に通常の現実の感覚からは全く把握出来ないだけである。

 ところが現実はこういう論理をも許容するものなのである。
 〈この私〉は〈神沢昌宏〉であるがままにおいて、
 その背後において万物である。

 私は通常の意味での自己同一性を放棄しているが
 それを喪失しているのではない。
 やはり私はどっちにしたって〈神沢昌宏〉なのだ。

 しかし〈この私〉があれだろうとこれだろうと
 何だっていいのだと言っているのであり、
 どの物が私であるのか、どれが私か、
 そんなことはあなたが決めることではないし、
 私の知ったこっちゃない、
 どうだっていいじゃないかと言っているのだ。

 私が何であろうと誰であろうとこの私が仕合わせだったらそれでいいのだ。
 何であろうと私は存在する。
 私があなただろうと、ドストエフスキーだろうと、
 アリョーシャだろうと、そこらの犬っころだろうと、
 石ころだろうと
 私がそれを私であると判断すれば、それは私なのだ。

 何も鏡に映るあの痩せっぽちの変な生き物だけを
 どうしても〈この私〉と看做さねばならぬいわれは何も無い。
 しかし、だからといって
 この自他共に認める〈神沢昌宏〉という名前の生物を
 〈この私〉は所有することをやめないし、
 またこいつを私の部分として
 生かすことを当分の間やめるつもりはないのである。

【ブログ】
http://ameblo.jp/novalis666/entry-10000852095.html
【関連日記】
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=8781153&owner_id=251214

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【赤】まあ、これが下僕と俺様の不思議な関係の実存的真相にもっとも肉薄した文章であるといっていいでしょう。或る意味、この俺様も〈神沢昌宏〉という名を下僕と共有する人物でもあるのです。

【僕】はいはい、どうせ僕は〈何も鏡に映るあの痩せっぽちの変な生き物〉ですよ。

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