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三浦党一族会コミュのはじめまして。

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 杉本義宗の末子義久に連なるものです。この義久という人物はいわゆる鎌倉の正史、文献、和田系図等には全く見られません。抹消されています。
 義久がみずから息子たちに書き与えたと思われる古文書(二次資料ですが)の中で、義久は自身のことを相州三浦の一族と名乗りながら、誰の子なのかを明らかにしていません。また、甲の歳の秋に生まれたことから甲秋瀬久と名を改めたと記していますが、その理由も、時期もそれ以前の名乗り〈姓)も明らかにしていません。 謎に満ちています。
 最近の調査で、このあたりの事情がかなり解明されてきました。どうやら和田合戦との関係のようなのです。和田合戦では、和田氏は族滅と言っていいほどの打撃をこうむりますが、義久がこの和田合戦に加わっていたという形跡はありません。つまり鎌倉にはいなかった、ということのようです。
 梶原景時失脚の後、美作の守護が景時から和田義盛に代わっています。梶原氏の女を母に持つ義久は義盛の代官として美作に赴いていたと思われます。
 和田合戦の終息の後、鎌倉に戻った義久は、北条氏に害意のないことを示して臣従を許されたようですが、この際に和田の名を捨てることを要求されたのだと思われます。 北条氏の和田憎しの執念を感じますね。 この時二人の息子も改名しています。秋庭重信と横見三郎兵衛です。
 和田合戦の8年後に起こった承久の乱には、義久は一門を率いて参戦します。起死回生の思いだったことでしょう。この戦功によって秋庭三郎重信は備中有漢の地頭に任じられます。その有漢で地歩を固めた重信は18年後備中支配の拠点として、大松山に砦を築きますが、その際普請奉行(縄張り)として召し出されたのが三郎兵衛の息子の三郎右衛門です。以降、秋庭氏は前・後期あわせて約180年の間この地を支配します。
 義久の血脈が、このような動乱の中で悠久の年月を経て受け継がれてきたことに思いを馳せるとまことに感深いものがありますね。
  ところでこの調査にあたって、決定的な情報を与えてくださったのが、家系図の倉庫というサイトです。ここには唯一杉本義宗の子に義久という記述があったのです。甲の歳の秋という情報と合わさって義久の生年を確定できたことから、調査は大幅に進捗しました。 
 ここの管理人さんは、この桓武平氏の項では市杵島姫さんのご協力をいただきましたと述べておられます。管理人の義秀さんの娘さんですよね。大変お世話になりました、深く深く感謝申し上げます。
 機会があれば、この原資料を拝見できればと願っております。

コメント(1)

たけじろうさん、初めまして。
ご挨拶が遅くなり申し訳ありません。
そうですか。・・・
市杵島姫・・・そうですね。うちの娘がネット上で名乗っている名前ですね。
よくわかりましたね。「私がどこかに書いたのかな・・・」
うちの娘の名付けのいわれにもなっている女神様です。
家系図の倉庫さんは娘の運営していたホームページと
お付き合いのある管理人さんのサイトですね。
私も拝見したことがありますよ。
原資料とはうちに伝わる古文書等のことですね。
しかしまぁ、うちの先祖も和田合戦後の北条の残党狩りから逃れるたびにいろいろありまして・・・
朝比奈三郎に連なりますが矢部次郎との確執もあり・・・
和田を捨てることはできませんでしたがもしも捨てても許されることはなかったでしょう。
和田合戦で直接戦いましたから。
それで朝比奈三郎にもいろいろな伝説が生まれました。
資料もずいぶん散逸しましたし、持っていて万が一身元がわかるのもまずいという時代もあり・・・
それでも何とか今も伝わっているものがいくつかありますが・・・
もちろん当時のものではありませんが残された系図にも義久さんの記述もあったと思います。
もとは同じ一族、杉本太郎義宗から続くものとして、お見せできる機会があれば私どももうれしいですが
、一応門外不出になっており
「今はもう北条を気にする必要はありませんが(^_^;)」
ネット上に公開ともいかず・・・
しかしながらこれも800年を超えるえにし。
これからもどうぞよろしくお願いいたします。

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