ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

千葉県立千葉高校コミュの学校群世代を知ってますか?

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
1975年から1977年までの短い間、千葉県の高校入試は「学校群」という制度で行われていました。当時の東京都の都立高校の入試制度にならったわけで、千葉高、千葉東高、千葉南高、千葉市立高、千葉女子高の入試を一緒にやって、合格した受験生を各校に振り分ける制度ですが、完全に各校平等だった東京都とは異なり、上位30%の成績優秀者だけは希望校に入れるという変則的なかたちでした。

私は1976年の入学ですので、学校群以前の3年生、学校群廃止のあとの1年生を両方見た唯一の代、また学校群世代だけの1年も経験しました。

入学時は学校群以前に入学した先輩の3年生が優秀そうで眩しかった。3年生の時は学校群以後の入学生に勉強でもクラブ活動(オーケストラ)でも負けるものかと必死でした。

古い先生の中には「学校群で入った君らは本当の千葉高生じゃないよ!」なんて露骨にいう人もいた様子。

学校群以前の先輩を持っている我々は千葉高の伝統をまもらなきゃ!と結構真面目な気持ちで高校生活を満喫してたつもりです。

1976年入学の我々までは千葉高の伝統か、先輩を「**先輩」と呼ばずに「**さん」で呼び、同級生の女子は呼び捨てにせず「さん」づけでした。77年入学生は上級生を「**先輩」、同級生女子を呼び捨てにするので、なんか千葉高の校風が崩れていくようで違和感ありました。

今でいうヤンキー(当時はツッパリと言った)の生徒も結構いて、近寄りがたかったりしたものです。

ちなみに有名人ではCM音楽「たらこキューピー」を作曲した上野耕路氏、東欧で活躍するオペラ歌手の川副千尋さん(どちらも在学時から知ってます)が学校群世代です。

思い出話です。学校群世代の人、またはその前後の世代の人、さらに遠い世代や若い世代の人、自由に私たちの世代の印象など語っていただけると幸いです。

コメント(74)

くらっちさん 初めまして 二期のれちなと申します。よろしく。
36歳の再受験 並大抵のことではありません 素晴らしいと思いました。
さて、ミュージシャンの上野耕路さんのことがででいましたが、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E9%87%8E%E8%80%95%E8%B7%AF上野
僕にはゲルニカのイメージが大きいですが、とてもセンスのある音楽家と思っています。

その一つ上の学年にサエキけんぞうさんがいるのですが、
http://www.saekingdom.com/

僕の学年には、音楽家で活躍しているのはオペラ歌手となった川副さんぐらいかな・・・

ところでウィキペディア
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E8%91%89%E7%9C%8C%E7%AB%8B%E5%8D%83%E8%91%89%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1

を見ていたら、自動車部って廃部になったんだ・・・四宮先生が顧問だったような気がするけど、入学して面白い部があるなと思いました。
その後、慶應義塾高等学校で非常勤講師をしていたときに、自動車部があり、同じようなことやっていると思っていたのですが、ちなみに検索してみたら
http://motor.geocities.jp/keiohigh_automobile/
「今ではすっかり天然記念物級になってしまった 高校自動車部。全国唯一と言っても良いでしょう。」
なんて、書いてある。千葉高で復活してほしいなと思いました。
S49年卒のKosukeです。自動車部の部長をしておりました。

> 自動車部って廃部になったんだ・・・四宮先生が顧問だったような気がするけど

そうです、四宮先生と数学の林先生に顧問をしていただいておりました。何故お二人も顧問の先生がいらしたのかは謎です。

二百メートルくらいの周回コースに、クランクあり、坂道コースありと、なかなかの練習場を備え、スバル1000F、ダイハツ・コンパーノライトバン、ブルーバードセダン(Dtsun!)、トラックと、車両も豊富でした(全てOBからの寄贈(廃車?))。
廃部になったのは残念でした。
Charlesさん(コメント32)と同じ教室で音楽の授業を受けた記憶のあるトピ主です。忘れたころのコメント、失礼しました。

作曲家の上野耕路氏(学校群第1期生)はオーケストラ部の1年先輩でヴァイオリンを弾いていました。定期演奏会の準備で、千葉市コミュニティセンターへ楽器を借りに行かされたとき一緒で、新入生の私に「いつからトランペットやってたのぉ?」と独特な粘るような口調で声を掛けてくれたのを覚えています。

上野氏は、背中の真ん中くらいまである長髪と無精ひげがトレードマークでした。

生まれて初めてのオーケストラのステージ。トランペットの末席奏者として仲間に入れてもらったようなもので現実感ありませんでした。ビゼーの「アルルの女」第2組曲の最後の「ファランドール」の熱狂的な音楽。半ば呆然としてラッパを吹いている私の数メートル前方、ヴァイオリンの最後列で熱演する上野氏の長い髪が文化会館のステージライトに照らされて煌めきながら揺れる様子が、なぜか目に焼き付いています。

上野氏は定演を最後にオーケストラを去りましたので、その後の活躍については残念ながら「クラシック音楽至上主義」の私のチェックするところではありませんでした。千葉高オーケストラの別のメンバーから、「上野さんがバンドで目にも止まらない勢いでピアノ弾いてたよ!」って話を聞いたような記憶はありますが。

>僕の学年には、音楽家で活躍しているのはオペラ歌手となった川副さんぐらいかな・・・

川副さんとは3年生の時の「校内合唱コンクール」の審査員としてご一緒しました。(ちなみに全校が学校群だったときの優勝クラスは「山に祈る」を歌った私のクラス。私はテノールパートの事実上のパートリーダー&功労者でした。)お話ししたのは3年間でその時だけ。オーケストラ部と合唱部とは「犬猿の仲」に近いものがあったわけでした。

音楽の授業で思い出した話

3年生の時、東京芸大作曲科に在籍するオーケストラクラブの先輩F氏(もちろん学校群以前)が教育実習に来ました。普段はクラシック音楽中心の音楽の時間に新風を吹き込もうと、F氏が選んだ教材は「ピンクフロイド」でした。いきなり指名されてコメントを求められたのは顔見知りの私だったのですが、耳慣れない曲に戸惑いしどろもどろ、、、 
次に指名されたの、Charlesさんではなかったですか?「僕はこの曲知ってます!」と堂々たるコメント、、負けました、、

さとし@青葉区さん
オーケストラ部と合唱部とは「犬猿の仲」に近いものがあったわけでした。

とあるけど、顧問の先生は二つのクラブとも、同じ音楽の先生だったの?
椙山先生が、突然お亡くなりになったと思うけど、どちらも指導していたのかしら?
椙山先生の僕のかすかな記憶では、何かの会で体育館に集まっていたとき、静めるためなのか突然ショパンの黒鍵のエチュードを弾いたような気がする。

川副さんは、大学が一緒だったので、たまに校内であったりしたけど、卒業以来会っていないでしょう ということは20年以上になる 彼女はソ連(ロシアでなくて)に留学したのだけど 数年前のNHKニューイヤーオペラに出演したのを、テレビで見たぐらい なかなか彼女のコンサートに行けません。春秋社から自伝のようなものが出ています。(といっても 未読なのですが)
http://www.shunjusha.co.jp/detail/isbn/978-4-393-93499-9/

さとしさんより1年上の合唱部員です。
私は「犬猿の仲」だとは思っていませんでしたよ。
顧問はどちらも椙山先生でした。
椙山先生の思い出はつきません。先生の日本歌曲を中心としたリサイタルにも行ったなあ。
モーツァルトの2台のピアノのためのソナタをいっしょに弾いたり。
>オーケストラ部と合唱部とは「犬猿の仲」に近いものがあったわけでした。

ちょっと言いすぎだったかもしれません。失礼しました。

でも、今思い出せば、同じ音楽部なんだから、もっと交流があっても良かったのにっていう思いはあるわけです。音楽室は月水金は合唱の練習、火木土はオーケストラの練習に使ってましたけど、積極的にお互いの音楽を吸収し合おうなんて気分はあまりなかったし、合同演奏するのは定期演奏会のアンコールだけ。合唱とオーケストラの共演て、すごく素敵なものなんだけど、千葉高校の「二大音楽クラブ」は互いに自分の方が高級な音楽をやっているんだみたいな意地の張り合いみたいなもの、ないわけじゃなかった気がします。

美声を買われてオーケストラと合唱と両方を兼ねている人も数名いたけど、オーケストラの練習に来ると、合唱のメンバーの悪口を言ってたりして、いろんな思いがあったわけなんでしょう。

2年、3年で同じクラスになった合唱部の人とは、けっこう仲良かったけど、同じクラスになったから仲が良くなったわけで、それまでは口も利かず、挨拶もしなかったので、合唱とオーケストラは仲が悪いという印象が生じたのかもしれません。(校内合唱コンクールでは、合唱部のメンバーに一番協力してやったのがオーケストラ部の友人だったと思います。)

顧問の椙山先生は合唱の指導に専念していて、オーケストラの方は学生の自主的な練習と先輩部員による後輩の指導に任せていました。(定演の指揮者はOBで音楽評論家&研究家として名高い金子建志先生。普段の練習は学生指揮者や母校に遊びにきたOBのよる指揮。実は私も1978年の1月から9月まで学生指揮者をやっていました。)
椙山先生の思い出は、音楽の授業での発声指導やクラシック雑談の情熱、ピアノの即興演奏、レコードをかけながらの学生と一緒の幸せそうな表情など、ムーミンみたいな体型の全身で音楽の魅力を語り発散しているお姿でした。

川副さんは土曜の昼ころオーケストラの練習前の音楽室に気の合った仲間数名と好きな曲を「合わせて」いた姿を覚えています。

>数年前のNHKニューイヤーオペラに出演したのを、テレビで見たぐらい なかなか彼女のコンサートに行けません。春秋社から自伝のようなものが出ています。

数年前、銀座のヤマハの音楽書売り場に「平積み」になってました。私もまだちゃんと読んでないけど、浪人中に椙山先生が亡くなったので音楽の道をあきらめようとしたのを、石原先生(数学)の激励で気を取りなおした話など感動のエピソードもありました。

椙山先生がお亡くなりになったとき、同学年の合唱部の友人たちが大泣きしていたのを憶えています。NHKの合唱コンクールに出場できたのは椙山先生のご指導のおかげ、、、と。
椙山先生といえば、音楽室で、いきなり不思議な感じで歩き出して、「身体をほぐさなくちゃ」と言ってみたり、耳がどうにかなってしまうぞ!というほどの音量でレコードを聴かせてくれたり、といったことが記憶に残っています。たしか、まだ3才のお子さんを残して逝かれたのですよね。

千葉高の先生方には、今思えば、いろいろな贈り物をいただいたように思います。

田所先生(古典)が担任だったことがあり、その当時は、なんか杓子定規な先生で、、、ってけむたく思っていましたが、彼の授業はある意味格調高く、カラマーゾフの兄弟について熱っぽく語られたことがあり(古典の先生なのに、なんだカラマーゾフだったのか謎ですが、、)、それがきっかけで私はこの小説を読み、その世界に圧倒された記憶があります。

夜間の先生から昼間の普通部に移られた和敬先生(苗字は坂本?現代国語)からは、「男女の交合を文学の世界でこれほど浄化して現した人を知らない」と紹介された吉野秀雄の和歌にふれることができました。

越川先生(世界史)は、いつも本題よりも脇道にそれた世界史のよもやま話をうかがい、それがほんとうに面白くて、そっちばかり一生懸命ノートにとっていた気がします。

機会があれば、先生方に、「ありがとうございました!」とお礼をいいにうかがいたいです、、、。
少し別の話題を
前に自動車部の話をしたときに、廃部になったのをウィキペディアで知ったと書きました。
ウィキペディアには、人物一覧みたいなのもあって
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E8%91%89%E7%9C%8C%E7%AB%8B%E5%8D%83%E8%91%89%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E3%83%BB%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E3%81%AE%E4%BA%BA%E7%89%A9%E4%B8%80%E8%A6%A7
それをみると、小説家の海堂尊の名前がありました。
本名は公開していないそうなのですが、61年うまれ、まさに学校群世代の二期か三期のどちらか、もっともウィキペディアの情報が正しいとは限りませんが
少し気になったので、海堂さんの画像を検索すると
http://tkj.jp/kaidou/
とか
http://book.asahi.com/author/TKY200802130204.html
http://medical.nikkeibp.co.jp/inc/all/blog/kaidou/
などにあるのだけど、見覚えがないので、同級生ではないのだろうと思っています。
42の自己レスなのですが
非公式ファンサイトに本名が出てました。
http://kaidotakerufan.blog24.fc2.com/blog-category-5.html
これを見ると、一学年下だったのでしょう。

私の学年では、建築家と小説家をこなしている才能あるひとがいます。
http://www2u.biglobe.ne.jp/~sdn/
さとしさん

音楽の授業一緒でしたっけ?そういえばピンクフロイドの話、なんとなく覚えているような気もしますね。私はあまりプログレ・ファンじゃなかったんですけど…。

そういえば上野耕路さんは私が一年生のとき同じバンド(ウッドペッカーていう名前でした)でキーボード弾いてたと思います。確か彼の実家は稲毛かどこかで医者を開業してたはずです。私はベースでしたが二年になる時にリーダー(ボーカルで名前忘れちゃった)が卒業し、彼はドラマーと喧嘩してバンドは崩壊したわけです。多分その後81/2に移ったと思います(あるいは掛け持ちだったかな)。ウッドペッカーはデゥービー・ブラザースやシュガーベーブ(山下達郎がいた)の曲を演奏していたポップよりのバンドでしたが8 1/2(ハッカニブンノイチ)は確かReturn to Foreverのスペースサーカスを演奏していたりフィージョン系でした。
まだ続いてるのね(笑)

実は昨年の10月に20年放置してきた家を売ったら
屋根裏からイロイロ出てきまして。

所属していた自動車部の『ロータリーエンジン』講義録だの
川崎公害訴訟応援カンパ冊子(ガリ版!)だの
副担任だった越川さんの写真や
ワンゲルの引率だった近藤センセとの写真だの
上野くんに作ってもらった曲の入ったカセットテープだの
伊藤センセからのお手紙だの、だの、だの(笑)

で。
110周年記念の『同窓生名簿』も出てきたわけで。
それによると海堂さん確かにS55卒でらっしゃいます。
ウィキには笑っちゃいましたけどねええええ。
「誰が作ったの? これ」な石器時代っぷりでぇ(*_*;
われら学校群世代の物理の先生を覚えている人いませんか??。
稲葉先生・・・かな?。
修学旅行の新幹線の中で、気圧の実験やった先生ですが。

最近、高校の頃の記憶がまったくゼロです。
いやはや・・。
 桜井、関 先生も居られましたよ。
私はS55卒ですが、確か3年の時の物理の先生が
名前は忘れてしまったのだが、印象に残っているのです。
実験が大好きな先生でした。
たしか昔から千葉高にいた先生ではなかったような
記憶がします。歳は当時で40代半ば位・・??
稲葉先生かな、やっぱり。

桜井先生って地学の先生でしたっけ??。

地学の先生が「千葉は断層がよく見える」とかで、
授業で野外実習に連れて行かれた気がする。

そのとき誰かが崖から落ちて木の枝に引っかかって
助かった、という記憶は事実か否か・・・記憶が薄れてる。
ふ〜みんさん 初めまして。わたしもS55卒です。
確か、養老川岸の土手ではなかったっけ?意味もなく上に上り墜落。
崖に生えた木に引っかかったんだか、バウンドしたんだかで事なきを得た。
現場を見ていた一人だが、30年も前のことなので誰だったかまでは思い出せません(笑
Debbyさん。はじめましてです。

そうそう、養老川でした。川向こうの崖によじ登った奴が、落ちて枝でバウンド
していたのを思い出しました。

合唱部とオケが仲悪かった、ってのは初耳です(単にボクがKYだったからかもしれませんけど)

と、書きたくて、コミュに参加させていただきました。
はじめまして&今後ともよろしく

合唱部で伴奏していた、○倉先輩に着いて合唱コンクールの譜めくりに出かけたことのある
オケ部員(学校群の最後の学年)です

つまり、両方の部活に出入りしていましたけど、そう言う空気を感じるに至りませんで
そう言う空気が本当にあったのなら、紛れもなくKYですね、ボク(苦笑)


皆様、お元気でしたでしょうか。 オーボエマンです。
海堂尊

今話題の作者が同級生だったとは驚きです。 そうですか彼が・・・(笑)


自動車部にも、一時期入っていたことがあります
校長先生が寄贈された310ブルはオートマで(先生が少し足がお悪かったからでしょう)
正門のまん前のコースで砂埃上げていたものです

あな なつかしや
オーケストラ部の1年後輩のおなじみのearlgrey8(紅茶ん)さんに、16年ぶりくらいの再会で感激しています。

合唱部とオケが仲悪かったというのは、私の勝手な思いこみだったようですね。

定演でオーケストラがシベリウス「フィンランディア」をやることになった時のこと、有名な讃美歌のメロディーのところで合唱部が参加したいと申し入れてきた。合唱部の参加を受け入れるかどうか、オーケストラ部のミ−ティングが開かれたけど、私は「受け入れ反対派」の中心として論陣を張ったつもり。
でも話し合いで「合唱部がせっかく参加したいって言ってるんだから」との声に負けて、考えを改めて「合唱部受け入れ賛成!」に挙手したのも私。
結局大差で合唱つきのフィンランディアが千葉文化会館に響くことが決定しました。earlgrey8(紅茶ん)さんは、どちらの立場に立ってましたっけ?

懐かしい話題を思い出したので、久しぶりのコメントとなりました。
もうすっかりアルツってて、どっちだったか覚えてませんが
参加賛成 だったのではないかしら、合唱部へあぞひに行ったりしている方だったし

しかし、よく覚えておいでですね>さとしさん

定演の出し物も、ベト7と運命は覚えているものの、ドボ8とか9とかやんなかったっけ? くらいで
フィンランディア そういえばやったような気がする 程度(^^ゞ

それより、別の音楽祭か何かで、力がなくて ペールギュント組曲の「朝」だけ
あっさりやって、いまひとつ盛り上がらないままステージ降りてきたことの方が
印象に残ってます

後輩が、頭の良いヤツばかりで、馬鹿(学校群)な先輩 って立場も
結構微妙でしたよ、部活ではね・・・
その割には、大学に入ってからも高校の部室に入り浸っていたしもしましたね
良くわからないやつだったなぁ
>別の音楽祭か何かで、力がなくて ペールギュント組曲の「朝」だけ
あっさりやって、

千葉文化会館で11月初めにやっていた「芸術祭」でしたね。2年生の私たちの代が京都・奈良へ修学旅行へ行ってしまって不在なので、1年生だけでステージに立ったんでしたね。椙山先生(まさか2年後の同時期に急逝するなんて)が「昔取った杵柄(大学の副専攻?)」でチェロで参加したんですよね。千葉の音楽界で有名だった先生が学生オーケストラに参加したわけです。

そういえばその年の夏、野球部がベスト8まで進みましたね。オーケストラ部は臨時の「ブラスバンド」を組んで応援。ヴァイオリンやチェロをトランペットに持ち替えてやってくる先輩もいたものでした。ところが野球部が勝ち進んでいる間にオーケストラ部は夏合宿で、しばし留守に。帰ってきてベスト8になったのを応援に行ったら、専大松戸にあっさり負けてしまった情けない話がありますね。
オーケストラ部が合唱で不在の間、クラリネットをもって球場に来て、剣道部による臨時の応援団と一緒に応援してくれたのは、私の同級生で合唱部のK谷君でしたが、覚えていますか?

>後輩が、頭の良いヤツばかりで、

学校群が終わった次の代、学年1位と2位がオーケストラ部の生徒。担当はそれぞれホルンとトランペット。トランペットの美少年は3年生の私よりはるかに上手かった。「今年の一年生は可愛げがない」なんて声もなかったわけじゃないけど、個性的な新入生たちはそれなりに先輩を慕って、いい奴らでした。

>大学に入ってからも高校の部室に入り浸っていたし

私もそうでした。よくお会いしましたね。自分が現役の頃も大学生の先輩がよく遊びに来たので、自分もああいう風に後輩の憧れとなりたいなんて思ったりもしてたし。卒業式では「憧れのOB」になれたっていう変な満足感がありました。
専大松戸に0-1という情けない負け方をしたきっかけは、何を隠そう私のエラーからです…あせあせ(飛び散る汗)
それから巡り巡って監督を10年もさせていただいたのに、なかなか上位進出もままならず申し訳なく思ってます。
ただ、その間には全てに精力的な千葉高生と本当に充実した時を過ごせました。

そういえば、生徒会を再建すべくご尽力された加藤富士夫先生や梶原先生、鳥海先生の意思を受け継ぎ、迷走していた頃も懐かしいです。
結局、生徒活動顧問としては力不足でしたが、ある時、卒業式実行委員会なるものが立ち上がり、その顧問として生徒を背中にして、先生方と会長会との合同会議まで漕ぎつけた時がついこないだのように思い出されます。学園紛争以来その学年の式次第だけが変更されたのです。
自由とは何かといった内容の卒業生代表挨拶が読まれている間、講堂の二階から窓の外の紛争時に拠点となった図書館を涙しながら眺めていました。なんか浪花節的ですが教師冥利に尽きる瞬間でした。

今現在はベネッセの模試を校内でやっているといった危機的状態らしいですが、千葉高生はに学校のシステムになど呑み込まれず、凛として胸を張っていて欲しいと願っています。
こんなトピが立てられていたのですね♪
参加させて下さい!

もろ『学校群』世代の私
いろいろ魅力的な人間が集まっていて、
私は、大好きですよ、この世代!
もちろん海堂くん(元剣道部)の大ファンです^^

多分「さとし」さんの一年後輩です。
オケラ(この言い方、懐かしい〜)では、FLでした♪
(でも辞めてしまった根性無しの私ですよ、私!)
天台にも行ったなあ…
管の人だけ楽器持ってったんですよね〜!
○田先輩(コンバス)がFLを吹いてらした記憶がありますよ♪

椙山稔先生には、個人的に進路相談に乗っていただいたり
本当にお世話になりました。
今も夫人の由美子先生の「ノイ・フィル」を応援しています♪
もちろん、高校の定演にも行ってますよ!
自宅の生徒さんがオケラなので^^

もうすぐ同期会です♪
高校時代には一言も口をきかなかった人と知り合い、おしゃべりできるのを
楽しみにしています^^
学校群真ん中の代が4人になって嬉しいです。先日、実家に寄った際、
卒業アルバムを見たら、この4人が三年A組、B組、C組だったことを
確認できました。

めいママ1031さんは、メガネを掛けてない方の女の子でしたっけ?
1年下のフルートの女の子、二人とも途中でやめちゃったけど、
1977年の文化祭の体育館のステージにはいましたよね?
コミュニティのメンバーの少なくとも3人が、共演してたってことわかって
何かの縁が嬉しいです。

海堂さんは日曜の朝のNHK番組に出てました。出身中学の轟中に「課外授業」として、
「人間の内臓の配置」を教え、最後に「内臓の気持ち」の作文を課して、
けっこう面白い文章が集まったみたい。医者や作家としてだけじゃなくて、
人生の先輩としても立派な人のようでした。
2年間、一緒の学校にいたはずだけど、姿かたちは記憶にあるようなないような、、 
千葉高校ってああいうタイプの秀才って多かった気もするし、、
海堂くんとは、「放課後ナポレオン」やってたような気がする(笑)

つい最近ここのコミュで彼が同級生と知って、顔を見て大笑いしました



先日、娘が千葉中の受験に行き、その付き添いで本当に久しぶりに千葉高に行きました。
娘と本千葉駅から歩きながら、あっ、ここそのまま! って娘に言ってたけど娘は??(笑)

学校に着くと、塾の人たちが大勢迎えていて異様な雰囲気。
付き添いの親の中にもきっと千葉高の卒業生多いんだろうなって思いました。

娘は、おやじが行った高校を意識しているようで、今回落ちても高校受験で入るって言ってます。


え〜と、文化祭の時は、確か○○谷先輩がピアノ曲をオケアレンジした
「亜麻色の髪の乙女」他数曲でしたよね!
覚えていますよ♪
クリスマス会(?)までは、いたと思います…
あ、メガネをかけてなかった方のFLです^^;
さとし先輩って、合唱コンクールで「山に祈る」を歌ったクラスじゃないですか?
すごく強い印象を受けたので、鮮明に覚えています♪
>海堂くんとは、「放課後ナポレオン」やってたような気がする(笑)

海堂さんにも「放課後ナポレオン」を一緒にやる「素敵な悪友」が
いたんですね! 医者は生身の人間を相手にする職業だから、
悪友も必要ですね。

オーケストラ部の夏の合宿の休憩時間の定番も「ナポレオン」で、
K先生(当時から有名なクラシック音楽評論家&研究家)が率先して
部員とナポレオンに興じていました。
学校群2年目の遊び人の「H見」という男が「ナポレオン」が得意で、
彼が「副官」になるとどんなに弱い「ナポレオン」も勝たせてしまうので、
T橋先輩(学校群のひとつ上)から「副官」のあだ名を頂戴しました。

「H見」は予備校でも一緒。「インベーダーゲーム」につきあわされたけど、
私がプレイしたのは後にも先にもその時だけ。あまりの低得点に「H見」が
呆れて、千葉高の同級生に振れまわり、Y野M恵ちゃん(美人で有名、
今は私立大学の文学部で源氏物語など講じている)にも散々馬鹿にされました。

放課後と言えば、「紙マージャン」も流行ってましたね。さすがに学校に
麻雀牌は持ち込めないので、ボール紙の「牌」のセットで代用するわけです。
雀荘に通っている奴もいて、体育の先生に雀荘で出くわしたことがあり、
翌日の授業中は罰として4人で校庭を走らされていました。

ナポレオンもほとんどできず、麻雀も覚えそこなった私の青春って、、、
ちゃんと遊んでないから「中途半端な大人」の人生を歩んでしまう結果に
なったんだなと思うことしばしばです。

>文化祭の時は、確か○○谷先輩がピアノ曲をオケアレンジした
>「亜麻色の髪の乙女」他数曲

中途半端な腕のトランペット奏者だった私です。
実は定演よりこの時の曲目が一番楽しかった思い出です。
○○谷先輩作曲の「開幕ファンファーレ」(ラッパ3本)を
体育館に響かせたときの一番奏者が私でした。
体育館での文化祭のステージはこれが最後、
翌年からは「100周年講堂」にて。
その時の指揮者は私です。(自慢話ができて嬉しい、、、)

>合唱コンクールで「山に祈る」を歌ったクラスじゃないですか?

その通りです。優勝したクラスです。私は事実上のテナーの
パートリーダーでした。私は高い声が出るだけが取り得でしたが、
合唱部の有力メンバーやら、天性の低音の魅力の男とかいて、
さらにナレーター役のハマり具合も決めてとなったのでした。

その時の審査員だった3年生の一人は、コミュニティのメンバーです。


倫理社会って科目を覚えていますか?少なくとも学校群の時代、倫理社会の時間の大部分は、生徒が一人の思想家、哲学者を責任持って担当して一時間のセミナーを行ってクラスの生徒が質問し、先生が講評するというスタイルでした。

オーケストラ部だった私なら音楽で生計を立てていたルソーか、ロマン派の音楽と関わりのあるニーチェを選べばいいものを、早く片付けてしまおうと魔が差してソクラテスを選んでしまいました。定期演奏会を控えた6月に地獄の発表。「ソクラテスはどうして死刑になる決定を受け入れたんだ?」という先生からの質問に参考書の棒読みみたいな受け答えしかできなくてみじめな思いをしました。英語が得意で数学も好きだった私が劣等生意識を高めた出来事の一つでした。

私の失敗を反面教師にしたのか、その後は優れた発表が続きました。アリストテレス、JSミル、デカルト、レーニンの担当者は思想家にどことなく風貌が似ていました。特にデカルトの発表をしたA光君は長髪と無精ひげなど生き写し、発表もまるで教育実習生の授業のようだったと先生からお褒めの言葉もありました。

一方、修正社会主義についての発表を担当したのは文化祭で千葉高の歴史の映画を作成したときのリーダーだった男でしたが、ソビエトの現状についての批判的な記事を紹介したところ、マルクス主義者であろう先生が激怒しました。先生は日教組に共鳴している人だったかもしれません。

教室の窓際の後ろの方になぜか東大に進学する連中が固まっていたのですが、倫社の授業の後や昼休みは社会主義や共産主義国の将来についての議論が聞こえてきたものでした。劣等生の私は倫理社会というより世界史の宮島先生の話に魅了されて、ルソーの「エミール」、ニーチェの「ツァラトゥストラ」、モンテーニュの「エセー」などの哲学書を17歳にして読みだしたのでした。

さて倫理社会の生徒がセミナーを担当するという有意義なスタイルって学校群時代の前後にもあったのでしょうか?皆さんの知る範囲での思い出をご紹介いただけると幸いです。

あと気になるのが社会主義思想。教科書や参考書にはレーニンと毛沢東の思想がうやうやしく紹介されていますし、授業でも生徒による研究発表の題材として扱われていたわけです。ソビエト崩壊でレーニンは英雄の地位を追われたはず。毛沢東は英雄どころか革命のために人民を1000万人殺した人物だそうです。そんな今では常識の認識が倫理社会の教科書や現場の教育にどのように反映しているかに大変興味があります。

オーケストラ部の合宿の帰りのこと、毛沢東死去のニュースがあり、3年生の先輩が新聞を手に涙を拭っている写真が撮影されて文化祭の写真展に出展されました。もちろん「ウソ泣き」ですが、偉大な人物の死去の報道に反応したというのは事実でした。

私は文系から理系に転向した変わり種ですが、政治オンチ、経済オンチに関しては救いがたいほどのレベルです。以上の私の疑問に対しては、世代を超えた回答、情報をお寄せいただけると幸いですが、私の理解力が及ばない可能性があることも予め申し伝えておきます。
>>[69]

ものすごくご無沙汰してます。
私はさとしさんより確か1年上で学校群世代ですが、その倫社のセミナー形式授業って、全く記憶にありません。もう忘れてしまったのか、それとも違う形式だったのか。

左翼的な先生が多かったのは事実ですね。まあ、当時一般的に日教組は今よりはるかに強かったのでしょうけど。
ここのところ3年続いて高校の同窓会が開かれてます。今年は諸事情により欠席しましたけど、あれは実に盛り上がりますね。
>>[70]

「倫社の発表」をお忘れですか?西田幾多郎とか和辻哲郎などを担当したので、三学期のおしまいになってしまい、研究発表の機会にあぶれてレポートでの代用になった人も数名いたと思います。

「善の研究」を読んだのは大学の理系学部に入ってから、「古寺巡礼」を読んだのは哲学の教養とは無縁の会社の研究員時代ですので、倫社の科目のその後の影響恐るべしって感じです。

千葉高で倫社の担当だった川島先生の授業はわかりやすく説得力もありました。生徒の発表への講評も真剣だったと思いますが、生徒から見ていい発表だったのに先生からめちゃくちゃに酷評されたこともあったりしたのです。日教組の視点から見て許せない内容だったりしたのかな?と今思ったりしてます。

また倫社の最初の方の授業で「日教組では教師を労働者と定義している」みたいな話もあったと記憶しています。別に日教組の主張を紹介しただけで押し付けるものではないので良心的だったと思いますが、社会科オンチの私は「教師は労働者」の主張に反発も共感もしなかったような気もします。

そういえば千葉高で国旗が掲揚されたり、始業式などで「君が代」を歌った記憶がありませんね。

1978年にやってきた尾形先生。年配のマルクス主義者でした。最初の授業でいきなり「アンチ天皇」の主張。また何かにつけて福田総理をこきおろして止まない。当然、成田空港に対してもアンチでした。建設途中の成田空港の管制塔を左翼が破壊した時に、心の中で快哉を叫んだ私は反体制気取りでした。

ダッカでの日本赤軍によるハイジャック事件が起きたとき、尾形先生の政治経済の授業で福田総理が「人の命は地球より重い」と犯人の要求を飲んで刑務所に入っている同志を解放したことへの討論があり、いきなり指名された私はあやふやな意見で恥を掻きました。そのあとオッサンくさいK君とバイクで補導されたO君が、人の命と正義を安易に天秤にかけることへの疑問を呈して先生をうならせてしまったことがあったけど、政治経済オンチの発覚した私は恥じ入るしかありませんでした。
学校群の中央の世代、県立千葉高校2年D組の3人。東大に進学した後、各界で大活躍です。1977年4月から1978年3月まで教室の窓側の後ろの座席で、社会主義国の将来についてなど休み時間に盛んに議論していたものでした。彼らより4人くらい置いて前の席だった私は圧倒されるばかり。3人とも教師からも一目置かれる存在で、栴檀は双葉より芳しの例に他なりませんでした。

今村朗 駐ユジノサハリンスク総領事
http://www.sanspo.com/otacul/news/20160826/otc16082615220002-n1.html

有光秀行 東北大学文学部教授 歴史科学 ヨーロッパ史学 ヨーロッパ史
https://www.sal.tohoku.ac.jp/staff/03030103_arimitsu.html

半田禎 東京海上日動 執行役員
http://www.tokiomarine-nichido.co.jp/company/about/yakuin/shikkouyakuin.html
http://www.hakone-ekiden.jp/s/record_player_detail.php?r=60&u=33&p=3722

3人とも親しい友人(のつもり?)でしたので、以下は敬称ぬきで話をさせていただきます。

今村と有光はロックが大好きでした。校内合唱コンクールで優勝したあとの打ち上げで千葉駅近くの馬酔木という喫茶店でご一緒しました。砂田重民文部大臣が大のフォーク、ロック好きなのを嬉しがっていましたが、オーケストラ部の私はクラシック好きだったらもっと嬉しいのにと思ったものでした。三週間前の京都の修学旅行の宿で掛かったホテルカリフォルニアがBGMで掛かっていました。

有光は校内合唱コンクールでは「山に祈る」のナレーターを務め、低音の魅力で優勝に貢献しました。テナーの事実上のパートリーダー(高音がよく出た)が私でした。音楽の学期末の発表会にエマーソン・レイク・アンド・パーマーの「ナッツクラッカー」(くるみ割り人形のロックアレンジ)をやって椙山先生を呆れさせました(有光はドラムで熱演)。倫理社会の時間、生徒が1人の思想家を受け持ってゼミを行うスタイルでしたが、デカルトを受け持った有光は川島先生から「まるで教育実習生が授業をしているようだ」とお褒めの言葉をいただきました。長い髪と無精ひげの風貌もデカルトに似ていました。

1977年と1978年の文化祭に千葉高校の歴史を語る映画を作成して発表したのですが、今村はブレインの一人、有光はナレーターを務めていました。私ですが1978年の映画にオーケストラ部の練習の指揮をする姿が映されました。

私は三年生になったとき今村と同じ文科系コースに進んだのですが、村越先生の化学IIの面白さに取りつかれて一浪後に理科系の国立大に進むことになります。化学が面白いと言ったら、今村にどこが面白んだと変人扱いされたことがあります。先ほどの合唱コンクールの打ち上げの帰りに、電車の中でロックンローラーっていつまで現役でやれるんだと今村に問いかけて、人によってさまざまだと聞いたような記憶があります。当時はクラシックオタクに他ならない私がぶつけた素朴な疑問でしたが、ロックに目覚めたのは6年後でした。

三年生になった時、政治経済の尾形先生が千葉東高校から移ってこられました。バリバリのマルクス主義者、福田首相をこき下ろしてやまない反体制派の先生との出会いの衝撃を3年B組から私のいた3年A組に真っ先に報告にやってきたのが今村でした。

半田は陸上部のエースで校内のマラソン大会の第1位を2年間キープしました。2年D組には女子の1位もいたのですが、他のメンバーが軟弱だったので全体では最下位。学期の残りの時間は罰ゲームもどきのランニングに費やされ、半田には申し訳なかった。1984年に東大が箱根駅伝に出場。5区の最後の登りを走り抜いた半田は東大でもエースでした。新聞で読んだ記事により東京海上に内定していることも知りました。

宮島先生の世界史の授業が好きだった私が中央公論の「世界の歴史」シリーズ(編集人は後に鉄道旅行の本で知られるようになる宮脇俊三氏)を読み始めたのは、半田の真似でした。本千葉駅で電車を待つ間に新聞の社会面に目を通していたのも半田でした。でも社会科がちゃんと理解できていない私は共通一次では2回とも世界史を選択しながら100点満点で50点台しか取れず、敗北感にひしがれ、東大に願書を出すのも2年連続で断念するという経過をたどりました。半田、今村、有光との差は高校以来、一度も縮まることはありませんでした。
>>[72]
こんにちは!初めまして船高出身の学校群の真ん中世代です。中学のクラスメイトの有光君の名が出て来てびっくりしました。中学生の時も教師より教え方が上手で予備校の先生のようでした。
学校群二期生が全員還暦を迎えました。3月の最終土曜日の新聞に千葉県の教員異動特報が掲載されています。定年退職者の名前に星久喜小、葛城中、千葉高のそれぞれの同級生の名前を見つけて感慨に耽っています。

柏井高の校長先生と本町小の校長先生は千葉高の三年生の時に同じクラスでした。千葉商の歴史の先生はオーケストラ部の相棒でした。千葉高の社会科の先生は葛城中の同級生でもあります。市原緑高の先生は野球部が千葉県でベスト8になったときのメンバーで卒業後も野球の指導で活躍していました。5名とも1年前に同窓会で再会を果たしています。

英語か世界史の「デモシカ先生」になってオーケストラも続けるつもりだった私は、浪人中に理系に転向し、教員免許の取得は二年生の時に早々に断念、オーケストラも二十代で引退しています。早期退職優遇支援制度(リストラに他ならない)の適用を受けいれて、5年前に27年の会社生活に終止符を打って「内職生活」になり、ひと足先に終活を決め込んでいます。高校二年生の秋の修学旅行で京都・奈良に行ったのが関西初体験だったのが、平成時代は連休を旅行に費やし転勤で合計10年近い関西生活を満喫しました。高校時代はクラシックオタクに他ならず流行りの映画にもドラマにも興味が無かったのが、コロナ禍のステイホーム中にBS放送で古今東西の名画を見まくって、高校時代の思い出を回想しつつ味わうシーンもあったりします。

千葉高校全体の同窓会の幹事学年は還暦者が担当することになっていたのが今年はコロナ禍で延期、来年は昭和54年と昭和55年卒の合同での開催となりました。学校群三世代の再会の前にコロナ禍が終息していることを心から祈念しています。

ログインすると、残り38件のコメントが見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

千葉県立千葉高校 更新情報

千葉県立千葉高校のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング