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かみんちゅネットワークコミュの台湾紀行(前編)

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先日行われました台湾巡礼の旅についてまとめてみました。7名での祈りの旅となりました。今回、台湾各地で、重要な御神事が行われましたが、その詳しい内容については、僕の書ける範囲を超えますので、かんたんに述べるに留めさせていただきます。いずれ、巫女さんがたから書き込みがあるものと思います。ですので、この紀行文は、コーディネーターとして同行した立場から書いた、旅のおおまかな流れの御報告となります。御了承ください。なお、時おり、書き手である僕の私事が顔を出しますが、その点に関しましては、御容赦くださいませ。

○1月20日【那覇】
沖縄、単身那覇空港に夜、入った。空港で、良丸さん夫妻、さよこさん夫妻、和美さんがお出迎え。みんなで食事。
去る1月19日に「ウシトラが動く」と啓示が降り、和美さんには「三蔵の経典を焼き払え。高野山は討ち払ったか?」という言葉が降りたという。なんとも大変な雲行き!!!

○1月21日【小琉球】
那覇空港の国際線ターミナルにて待ち合わせし、今回の参加者6人…良丸さん夫妻、和美さん、さよこさん、ユーナさん、僕が集まったところで、搭乗手続きを開始。
チャイナエアラインにて那覇発、台北経由で高雄着。高雄の空港で、通訳の黄さんと合流。
黄さんは、台中在住。待ち合わせのため、高雄まで来てもらっていた。黄さん含めて今回の旅は7名で動く。気温は20度は越えているだろう。沖縄と同じような感じである。
高雄からバスで東港へ向かうはずだったが、バスが満員で乗れず、タクシー2台に分乗して東港へ。黄さん、さっそく値段交渉で手腕を発揮。言葉の分からない我われだけでは出来ない業である。台湾は日本統治の影響が残っていて、中国より親日的に感じる。われわれが乗ったタクシーの運転手はずっと日本の演歌のCDをかけていた。町並みは昭和の日本の田舎街のようで、ちょっとしたタイムスリップ感を味わった。
東港から、フェリーに乗り換え。およそ40分で、沖合いにある小島、小琉球の港に着く。
小琉球という島の名の由来は、昔ここまで琉球圏だったことがあり、その名残として名が残ったのだという。島一周をタクシーでするなら2時間くらいだとのこと。
さて、宿泊先の小琉球椰林渡假村の送迎バンにて、宿へ。コテージ風のしゃれた宿だった。
夜、港で食事を採る。魚介中心に頼みすぎてしまい、食べきれず。どれも美味しかった。
宿に戻って宿のマダム、崔さんから、小琉球の伝説を聞く。たばこに火を点けようとすると、ライターの火が点かない。このわけは後に分かった。また、ここに着くまでの間に、和美さんに小人がまつわりついて来ていて、袖を引っ張るのだという。その意味もここで分かるのだった。マダムは地元の先住民族・平埔族(ピンプーズー)シラヤ人の血を引くそうだ。めまぐるしくよくしゃべる。崔さんは、小琉球の中でも、特に重要な美人洞、山猪溝、烏鬼洞にまつわる話を聞かせてくれた。美人洞は、海岸沿いにある洞窟のことで、昔、蘇州の娘が流れ着いて死ぬまで暮らしたという伝説が残っているところ。ガイドにはそう書いてある。しかし、崔さんの知る話はまた違った。数十年前まで、島の女性達は、
顔を覆って隠していたという。そして、水は大変貴重であり、真水の出る海岸の洞窟まで、水汲みに行くのが日課だったそうだ。あるとき、一人の少女が水汲みのとき、顔の覆いを取った。すると、洞窟の泉に映った顔がひどく汚れていて不細工で、ショックを受けたという。その場で少女が泉の水で洗うと、とたんに美しい顔になったという。普段は塩まじりの水(海水)でした顔を洗っていなかったため、肌が汚くなっていたらしい。少女は女性達にこのことを告げると、洞窟には大勢の女性達が集まって、そこの真水で顔を洗うようになった。これを覗き見した男たちの間で、「あそこの洞窟に行けば美人がたくさんいる」と噂になり、それが美人洞の由来だというのである。次に、山猪溝の話をしてくれた。
伝説によると、昔、山猪の精霊が、海で美しい仙女たちの水浴びに出くわした。大陸の七仙女たちだという。山猪の精霊は、彼女達の羽衣を盗んで、隠した。仙女たちは、それがないと、空を飛んで帰れない。それを知っていた山猪は、「一人だけ残って俺と結婚して欲しい。そうしてくれれば、あとの6人は帰ってもいい。約束してくれるなら羽衣を返す」と交渉した。仙女たちは、「では一人残ります」と約束したので、山猪は信じて羽衣を返した。ところが、仙女たちはあっという間に7人とも飛んで帰ってしまったという。山猪は騙された怒りと悲しみに山の上で泣き暮れた。その涙が幾筋も山肌を流れ、枯れた後に道になったという。山猪は怒りと悲しみのあまり憤死したという。
この話が面白いのは、良丸さんの家に伝わる伝説と似ているからだ。先祖は羽衣を隠して天女を妻にして子孫を残したというのである。なんとも面白い。
ちなみに台湾ではかつて、家畜の豚が突然変異で猪のような異形の子を産むと、この島に捨てていたという。また、猪は吉兆を表す場合も多い。そういえば、ハワイには豚の神カマプアアがいたのを思い出す。
次に、烏鬼洞の話。ここも、海岸沿いにある洞窟である。かつて、この洞窟のある海岸の沖合いは、東洋のバミューダトライアングルといえるくらい、船舶の消失事件が絶えなかったそうだ。ヨーロッパとアジアとの貿易の荷や金品を積んだ船が多く消えたため、オランダ軍はそれがこの洞窟に住む原住民ピンプーズー・シラヤ人の仕業と考えた。シラヤ人は小人で、成人しても身長が80センチから90センチと小さかった。顔から首の周りにかけて刺青をしており、それが鰓に見えたという。海中での活動が巧みで、海中に24時間潜っていられたという伝説もある。そのシラヤ人が潜水して船舶に近づき、船底に穴を開けて船舶を沈ませて荷を奪う海賊行為を働いていたと疑いをかけられたのだ。オランダ人がシラヤ人を追い詰めると、彼らは洞窟の中に逃げ込んだ。そこで、オランダ人は火を焚き、
煙でいぶり出す作戦に出た。いぶり出されて外に出てきた数百人のシラヤ人は皆殺しにされ、洞窟に残ったシラヤ人のうち数十名は、珍しい人種として連れ去られ、貢物にされた。
しかし、のちにシラヤ人は故郷に戻された。しかし、また船舶の消失事件が多発し、今度はイギリス人が斥候を送った。斥候は戻らなかった。シラヤ人に殺されたと判断したイギリス軍は今度もまた洞窟に追い詰め、同じように煙でいぶり出す作戦に出た。しかし、今度は誰一人外には出てこなかった。洞窟の中で死んでしまったのか、逃げたのか分からないが、これを機にシラヤ人は絶滅したと伝えられているそうだ。
この話を聞いたとき、和美さんにまとわりついてきた小人の正体がわかった気がした。そっして、たばこの火がどうしてもつかなかった理由も…。
われわれは、宿の好意で取れたての刺身を御馳走になって、それぞれのコテージに戻り、床に着いた。この夜夢を見た。明治神宮に行く。実際の明治神宮より広く、厳かで、風変わり。僕はひとりで、高所にある奥殿に向う。脇にある入り口から入ると、木造のまるでからくり屋敷のような狭いはしごのある上昇通路を、身をよじるようにしてのぼり、狭い通路に身をくぐらせて天井裏のようなところに上がると、そこが奥殿になっているのである。そこで参拝する。やっとこられたという喜び。お守りを売るおばさん(巫女?)と話すと、大国みろく大社と明治神宮の意外な繋がりを知らされる(詳細は覚えていない)。奥殿を出ると、僕は空を飛んで、門前のにぎやかなお祭り騒ぎのなかへ入っていく…。

○1月23日【小琉球―恒春】
朝、コテージのフロント前のバルコニーで朝食。曇り空に顔を出した朝日を拝む。
コテージで用意してくれたバスで移動。海岸に聳える奇岩、花瓶岩へ。小琉球の守護神だそうだ。自然の造形で、不思議な形をした岩だった。そばには霊山寺という仏教寺院が建っていた。ちなみにこの島には観音信仰が根付いている。小琉球そのものが、観音様の足跡の形をしているという。花瓶岩で祈り。和美さんには、女性の首を締め上げる僧侶の姿が映じたという。花瓶岩から少し離れたところに亀岩というのがあった。伸ばした頭部が海中に没した形になっていた。良丸さんが、尻尾もあることを確認。この浜には、石笛になりそうな石がごろごろしていた。
徒歩で美人洞入り口へ。けっこうな広さを持つ公園になているようだが、観光客はほとんどいず、静かだった。入り口で、望みなら無料のガイドが付く、と聞き、お願いする。蝙蝠洞を経て、仙人洞へ。仙人洞の奥に洞中洞というのがあり、これがかなり深い。ここで祈り。さらに進むと仙人泉というところがあり、泉が湧いていた。ここでも祈り。巫女さんたちにはかつて貴重な資源であった水をめぐる争いのビジョンが見えたとの事。
そこから、聳え立つ岩棚に囲まれた景観の良い浜へ出る。ここで、いわゆる「美人洞」とはどこを指すのかガイドに聞いてみた。すると、公園全体を美人洞というという。女性達が顔を洗ったというところはどこかと聞くと、実はそこは封印されていて、立ち入り禁止になっているというではないか。何でも10年ほど前に、園内にお整備工事をしたときに、柵で入れなくしたそうだ。理由は、そこに3つの魔物が巣食っていて危険だからだという。
地元のシャーマンが自動書記や霊感によって啓示を出したそうだ。そして、祈祷によって魔を封じ込め、観光客が入れないようにした。今でも魔物は巣食ったままであり、地元の人は怖がって近づかない、というのだ。しかし、ガイドはどうしても入りたかったら、柵を越えて入ってもよい、といってくれた。もちろん、ガイドは怖いので中には入らないで外で待つという。そこに着くと、麗池、と書かれた場所であった。観音様が飲み水として恵んでくれた場所であり、足などをいれてはならぬ、と書かれている。そして、柵によって入れなくなっていた。10年前までは入れたのだろう。古くなったベンチや休憩所が柵の向こうに見えていた。近くの海で大学生が溺死するなどの海難事故が多発し、ここの祟りが原因とされたようだった。見れば、石の階段が真下の暗闇に続いている。その奥に泉
が湧いているようだった。和美さん、さよこさん、りかさん、僕の4人で、柵を越え、和美さんを先頭にして石段を降りた。それほど深くはない。すぐに泉に行き着いた。水がめのようになっていて、少し白く濁った部分もあるが透明な水をたたえていた。地面からも湧いているのだろうが、泉のうえに巨大な蓋のように覆いかぶさっている岩からも、ぽたぽたと水が滴っていた。ここで、さっそく祈りを始める。和美さんや巫女さんたちのビジョンによると、さるぐつわをかまされた女性がここに連れて来られ、奇形の子供を産んだという。他にも、さまざまな形での女性の怒りや悲しみや無念や怨念がうずまき、救いを求める餓鬼のようにわらわらとうごめいているのだという。救いを求めているのに、祓ったり封じ込めたりされて、まったく救われず、可哀相なままここに縛られている魂の姿が
多く残っているのだという。3つの魔物とはそういうものだという。祈りにより、救われぬ御霊たちを和らげ、天に昇らせた。そのためにりかさんを御霊の媒介にして、泉の水を指先に付けて水がめに垂らし、一滴を口に含む儀式を行った。ここには男女絡みの念もあるため、清めのために僕は祝詞を挙げさせてもらった。他にも、水の奪い合いなど、さまざまなビジョンがあったらしい。美人洞のコース全体を巡る時間が今回はなかった。次回来るチャンスがあったら、他の場所もぜひ訪れてみたい。
バンに乗って、山猪溝へ。案内板には、山猪の精霊が「脅迫求婚」した仙女は一人だと書いてあった。伝説にはさまざまなバリエーションがあるようだ。入り口の案内板にはいくつかの散策コースが書かれていた。山の頂上からの眺めはすばらしいとの事だったが、行程に50分要するという。その時間がないので、最短15分の散策に出た。ここでも無料のガイド付き。黄さんに道々、通訳をしてもらう。道は網目のように山内に張り巡らされているようだ。山猪の涙の跡と思うと、不思議な感じだ。原生林と巨岩のハーモニーで、御嶽の森である。一線天と名づけられた道などは、割れた巨岩の間を一直線に山頂に伸びた細い道である。良丸さんいわく、ここが沖縄だったら、「神の通り道」に当たるそうだ。
山猪溝を下り、峠の茶店でアイスクリームやジュースで休憩。売店のおじいちゃんは片言の日本語を話す。「ここ座っていいよ。さあ、休んで。アイス、美味しいよ」そして、日本統治下の軍隊の怖さなどの話をしてくれるのだった。
バンで烏鬼洞へ。ここも公園になっている。シラヤ人が隠れていたという洞窟は、思ったほど広くなかった。よくわからないが、奥に通じる抜け穴があるかもしれない。何しろ真っ暗なので、懐中電灯の明かりでようやくお互いの位置を確認。それにしても、入り口も出口も入り組んでいて狭く、通り抜けるのに苦労した。小人ならではの住処である。中の大広間になっているところで、巫女さんたちによる祈り。絶滅した民族についての祈りは、かなり重いものであったようだ。

バンに乗り込み、古い由緒ある建物などを見せて回ってもらい、コテージに戻る。これから荷物をまとめて、港へ。港は店も少なく、のんびりしているような寂れているような感じで、時間が経つのがゆるやかだった。お弁当を買い、フェリーに乗って、東港へ。そこからバスで、恒春を目指すのだ。東港に着くとバス乗り場まで距離があるとのこと。荷物を持っての移動はけっこう面倒だった。ここで黄さんが大活躍。白タクと交渉し、適価で恒春まで乗せて行ってもらえることになった。2台に分乗して、2時間くらい走った。
途中、間違って四重渓温泉に行きかけたが、なんとか恒春に着く。宿である隆徳旅客之家に荷を降ろして、出火奇観へ向かう。恒春は台湾最南端の街で、かつては城砦都市だったようだ。東西南北に門があり、外と内の区別がはっきりしていたようだ。われわれは徒歩で、東門を出て小雨のぱらつく中を歩いた。墓地の草原の横を通るので、なんとなくさびしい。しばらくすると、公園に着いた。懇丁国家公園に属する出火奇観のある場所だ。出火というのは、地中から天然ガスが噴出すおかげで、一年中火を吹いている場所なのである。ここで焼肉や料理などをするなと書いてあって、笑える。入ると、ポップコーンを温めている人がいた(笑)
真っ暗な夜。満月なれど、曇っていて月は見えなかった。火がごうごうと燃えている。キャンプファイヤーのようだが、雰囲気はもっと厳かだった。火に向って、巫女さんたちの祈り。シラヤ人はここで火の番をするはずだったが、その役目を捨てて海に移動した、という過去がビジョンとして見えたそうだ。宿に戻る途中で、鴨肉の店で夕食。春雨スープに鴨肉が入っていた。そこから甘味処に移動。台湾の飲み物は味付けが甘い。
就寝。

○1月24日【石門古戦場跡―琉球藩民の墓―阿里山】
「牡丹が咲くころ、桜散る。どんな意味かしら?」昨日あたりから、和美さんに言葉が降りてきていた。
昨夜のうちに黄さんが前日の白タクと交渉し、この日も適価で目的地まで乗せてくれることに。2台に分乗して、恒春をあとにする。一路、石門古戦場跡を目指す。恒春からは1,2時間ほど北上し、四重渓温泉に近い位置にある。恒春の街を出るとき、大きな虹が出た。
きれいなアーチがはっきりと分かる。われわれの車は、そのアーチを抜けるようにして目的地へ向うのだった。
石門古戦場跡というのは、「牡丹社事件」にたちなむ。1871年、明治時代のこと。台風で琉球の民(八重山の漁民)が台湾の懇丁近くに漂着した。原住民パイワン族は、シナ人が攻めてきたと勘違いして虐殺。54人が殺され、生き残った12人が逃げ帰った。これを牡丹社事件という。牡丹は地名。日本は清国に抗議。しかし、清は「琉球は清国の属国で、我が国の国内問題」としてはねつける、。日本は、「琉球国王尚秦を入朝させているので日本の領土」と主張。清は「漢文化を受け入れない『毛外の民』が勝手にやったこと」と知らん顔。こっれを受けて明治政府は西郷従道率いる「征台軍」を派兵。1874年のことで、これを「征台の役」という。われわれの車は、多少迷いながらも、古戦場跡に着いた。
迷ったついでに、おみやげ物屋が軒を連ねる通りで休憩。買い物。お店のマダムが、昔日本人の彼氏がいたとのことで、愛想がいい。お店においてあった台湾原住民の写真集に、かつての首狩りの様子が写っていて、衝撃的であった。
さて、お土産も買い、再び車を走らせて、古戦場跡地の駐車場に着いた。
他に観光客はいず、ひっそりしていた。雲行きが怪しく、小雨がぱらつく。風も出てきた。
原住民が建てた石碑は、小高い丘の上にあり、緑の中を階段が続く。階段の上り口にはいわれを記した碑が建っていた。それによると、征台の役によるパイワン族の死者無数。対する日本兵の戦死者は12名。しかし、風土病での死者は561人にのぼったという。
見晴らしのよい丘の上には、堂々たる石碑が建っていた。土台には「台湾民族」の文字が。
そして、石碑の正面には「澄清海宇還我河山」と書かれていた。近くには、土台に「台湾魂」と書かれた土台のみ残された石組みもあった。今の石碑は一度建替えた新しいもののようだ。さて、ここで、風が吹き、やや雨も強くなってきた。
石碑に向って、巫女さんたちの祈りが始まった。
巫女さんたちの霊感により「たばかったか!」という言葉が聞こえたという。どうやら、パイワン族が琉球民を殺したのは、誰かに仕向けられたものだったようだ。さらに、琉球民たちは、清国に渡す密書をたずさえていたらしい。琉球は清国の属国か、日本の領土か、はたまた独立か…国の命運を左右する密書だったらしい。西郷の台湾出兵も、兄・西郷隆盛と明治政府との「西南の役」をめぐる複雑な政治的背景が裏にあるといわれているだけに、一筋縄ではいかない。この事件をきっかけに、日本・中国・台湾・沖縄の歴史が大きく変動しただけに、感慨深いものがある。
古戦場での祈りを終えて、車で移動。今度は、「琉球藩民の墓」を目指す。牡丹社事件当時、沖縄はまだ「琉球藩」であった。しかし、征台の役後には、「沖縄県」となった。大きな節目となった。そのきっかけとなり、殺された54人の墓が残されているのである。西郷が引き上げるときに建てたとされ、墓の前には石碑がある。
この墓は分かりにくいところにあった。表の通りとなる199号線沿いに標識もない。「統埔」という街の小さな地元の店の脇のあぜ道を入っていくと、畑の真ん中にあるのだ。日本からプリントアウトして持ってきた台湾の日本人学校の記事に、その小さなお店が写っていたのが幸いした。地元に詳しい方が、車でその場所まで先導してくださったのだ。見ず知らずのわれわれへの親切に感謝である。先ほどの古戦場跡から30分も経っていないのに、すっかり天気は晴れた。石碑の前で、巫女さんたちの祈り。僕は祝詞を奏上させていただいた。墓は、真ん中に亀裂が入り、修復の後があった。この地で長い時間を越えてきたのが分かる。ここには、沖縄と台湾の双方が、平和を願うドラマがあるようだ。2007年12月にも、宮古島島民(殺された54人のうちに島民が含まれていた)と牡丹郷の祈祷師が「愛と平和」の祈りを行っている。
祈りのあと、車に戻ったわれわれは、高雄を目指した。時間があったら四重渓温泉に寄りたかったが、無理だった。
車で高雄に着いたわれわれは、白タクのふたりの運転手とお別れし、鉄道で嘉義へ。嘉義は阿里山観光の拠点となる、台南第3の都市である。ここから、現地ガイドの黄さんと合流。われわれのガイドの黄さんは、若い女性だが、阿里山ガイドの黄さんは年配の男性だ。
用意してくれていたバンに乗り込んで、阿里山へ向けて出発。
阿里山は、地元原住民ツオウ族の英雄の名前アパリがその名の由来だという。勇猛で知られるツオウ族もかつて首狩りの風習を持っていた。若者の成人の儀式だったそうだ。
阿里山は、独立した山のことではなく、2000メートル級の山々の総称。
さて、山の中腹で、すばらしい夕日を見ることが出来た。高度が上がるほど、肌寒くなってきた。途中、りかさんが、輪になって踊る原住民のビジョンを見た。阿里山は、お茶と檜が有名だ。大正時代から鉄道が通っているが、これは日本統治時代に、切り出した檜を麓まで下ろすために敷設したのだという。切り出された檜は日本に運ばれ、靖国神社をはじめ有名な神社仏閣に使われているそうだ。
さて、われわれは、翌朝の日の出を、祝山で拝む予定にしていた。しかし、ガイドの黄さんが、祝山でなく、玉山での日の出を勧めてきた。「祝山」か「玉山」か、どちらにするか話し合ったが、結局、流れに乗って「玉山」にした。あとで黄さんに聞いたら、「玉山」は日本統治時代には「新高山」と呼ばれていたそうだ。明治天皇が名づけたという。標高3952メートルあり、富士山より高い日本一の山、という意味だ。「ニイタカヤマノボレ」は太平洋戦争での日本開戦の暗号として有名な言葉である。その山で、朝日を拝むことになった。ちなみに、祝山というのも日本人が名づけたそうだ。頂上から一年中、日の出が拝めるということから、その名が付き、国家安泰や家内安全を祈願する日本人が多かった
という。
海抜2170メートルの高さの山中にある登山別館に宿泊。阿里山の宿には夜に着いたのだが、みやげ物屋の明かりなどが幻想的で、ユーナさんが、「千と千尋の神隠し」の世界のようだと言ったが、なるほどそんな感じで、さながら夢の世界に迷い込んだ感じがした。夕飯には、鍋。おみやげ物屋を物色し、阿里山のお茶などを買う。昔、実際に履かれていた纏足靴などが売られていたのが興味深い。
この夜、夢を見た。良丸さんたちと巡礼をしている。ある茶屋に立ち寄る。みんなが先に行ってしまい、僕一人になる。その茶屋の主人と弟子(実はふたりとも導師か何からしい)が、僕にアドバイスをする。「借り(金)はもう済んだ」と生活上のことをいい、神事にかかわることに関しては、「虚断慎行で行け」と。それから「チェンインチャンリェン」と中国語らしい言葉を伝えてきた。意味は分からなかった。
(後編へつづく…)


写真
左から、小琉球・花瓶岩、阿里山での夕日、七星山頂上での祈り

【台湾紀行(後編)】
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=27696050&comm_id=75209

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