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三輪コミュの忠臣三輪逆物語(ちゅうしんみわのさかうのものがたり)?

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 敏達天皇14年(585年)8月15日、敏達天皇が崩御し、殯宮(もがりのみや)で葬儀が行われた。

 棺の前で誄(るい。しのびごと。哀悼の意)を述べた馬子と守屋はお互いを罵倒し合った。とげとげしい険悪なムードが漂う中、三輪逆の番になった。逆は、低いが凛とした声で「朝廷を荒らさぬよう、鏡のように浄めて平らかに治まるよう、臣は仕えます」と誄を読んだ。
 逆は、葬儀が終わるとすぐに隼人(はやと。衛兵)を集めて殯庭の警護にあたらせた。
 敏達天皇の腹違いの弟穴穂部皇子(あなほべのみこ)は自分が天下をとろうと窺っていたので、「なぜ死んでしまった王に仕えるのだ。生きている王である私には仕えないのか」と憤慨した。
 同年9月、穴穂部皇子ではなく、馬子の推した大兄皇子が用明天皇(ようめいてんのう)として即位した。穴穂部皇子はこれに対抗するため物部守屋と結託することにした。

コメント(5)

 用明天皇の元年(586年)5月、皇子は、故敏達天皇の皇后で「姿色端麗・進止軌制」と記される美女の豊御食炊屋姫(とよみけかしきひめ:後の推古天皇。聖徳太子の母)を襲って犯してやろうと思い、殯宮に押し入ろうとした。

逆は、隼人を集めて宮門を閉じ、侵入を拒んだ。皇子は七度開門を呼びかけ叫んだが逆はついに入れなかった。
 皇子は激怒し、馬子と守屋に、逆は不遜なやつだ、斬って捨ててもよいか、と尋ねた。皇子は、皇位の邪魔になっている逆を殺すしかないと心に決めたのである。
 皇子の意図に気づかない馬子と守屋はこれに頷き「おおせのままに」と答えた。皇子は守屋とともに兵を率いて磐余(いわよ)の池辺を囲んだ。

 これを知った逆は、いったん三輪山に逃れ、その日の夜に山を出て、炊屋姫の後宮(こうきゅう。前皇后の宮)海石榴市宮(つばきちのみや)へ隠れた。
 しかし、逆の一族の白堤と横山が裏切って居場所を密告した。皇子はただちに守屋に遣いを出して、逆と二人の子供を殺すよう命じた。守屋は逆を討つべく兵を率いて海石榴市宮へ向かうことにした。

 馬子が皇子の自邸へ立ち寄ったとき、門前でばったり皇子に出会った。皇子はまさに守屋のところに行こうとしていたのである。馬子は「王者は刑人に近づいてはいけない」と諫言したが、皇子は聞き入れようとしなかった。そのため馬子は仕方なくついて行ったが、磐余に至ったところでもう一度止めるよう強く諫めた。皇子はしぶしぶそれに従い、守屋の帰りを待つことにした。
(続く)
 
その当時にすでに三輪山ってあったんですが??知りませんでしたでも凄いですねぇ
 当時あったなんてものじゃないです。日本の歴史の始まりから、信仰の対象の中心だったんですよ。

Wikipediaによれば・・・
三輪山(みわやま)は、おそらく縄文時代、あるいは弥生時代から、自然物崇拝をする原始信仰の対象であったとされている。古墳時代にはいると、山麓地帯には次々と大きな古墳が作られた。そのことから、この一帯を中心にして日本列島を代表する政治的勢力、つまり、ヤマト政権の初期の三輪政権(王朝)が存在したと考えられている。200から300メートルの大きな古墳が並び、そのうちには第10代の崇神天皇(すじんてんのう)・第12代の景行天皇(けいこうてんのう)の陵があるとされ、さらに箸墓古墳(はしはかこふん)は『魏志』倭人伝(ぎしわじんでん)にあらわれる邪馬台国の女王卑弥呼の墓ではないかと推測されている。『記紀』には、三輪山伝説として、奈良県桜井市にある大神神社(おおみわじんじゃ)の祭神、大物主神(おおものぬしのかみ)、別称三輪明神(みわみょうじん)の伝説が、載せられている。よって三輪山(みわやま)は神の鎮座する山、神名備(かむなび)とされている。
皇子と馬子が守屋を待っていると、やがて守屋が帰ってきた。
守屋は「逆を斬ったぞ」、と得意げに報告した。
ついに、われらが三輪逆は、天皇への忠誠心の厚さがゆえに命を落としたのである。

馬子はこれを聞いて、「天下の乱も近いな」と嘆いたが、守屋は「おまえのような小臣の知ったことか」と言い捨てた。
 しかし、逆は故敏達天皇に深く信任され、内外の諸事を悉く委ねられていた人物であったので、炊屋姫と馬子は、逆を殺してしまった皇子を深く恨むようになった。

 用明天皇2年(587年)4月2日、用明天皇は病になった。天皇は、仏法を信奉したいと思って群臣に諮った。排仏派の守屋は反対したが、崇仏派の馬子は詔を奉じて助けるべきだとして、皇子に豊国法師を連れて来させた。守屋は自分が推していた皇子が法師を連れてきたことに大いに怒り、睨みつけた。
 しかし、その後守屋は、周囲に不穏な動きがあり、命を狙われていると知らされた。おそれをなした守屋は、河内国へ退くことにした。

 同年4月、用明天皇は崩御した。後嗣が定まらず、皇位は一時的に空位となった。
 守屋は今度こそ皇子を天皇に立てようとして、密使を皇子に送り、遊猟に出ると欺いて淡路へ来るようにと言った。
 同年6月、そんな動きを察知した馬子は先手を打って、炊屋姫を奉じて、佐伯連丹經手らに速やかに穴穂部皇子と仲間の宅部皇子を誅殺するよう命じた。
 その日夜半、佐伯連丹經手らは穴穂部皇子の宮を囲んだ。衛士は楼を登って、穴穂部皇子を襲い肩を斬った。穴穂部皇子は楼から落ちて隣家へ走り入ったが、衞士らは灯をかかげて探し出し、穴穂部皇子を殺した。翌日には、宅部皇子も誅殺された。
 同年7月、馬子は、今度は諸皇子、諸氏族の大軍を派遣して、ついに守屋を滅ぼした。

                      −終わり−

(Wikipediaをもとに作成しました。)
ハイ凄い内容で有難う御座いました。所で昔昔四人の豪族が居て三輪家は戦争に負け群馬の方に落ちて行きその戦争に勝ったのが今の天皇家って言う話って本当ですか??

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