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古事記・日本書紀コミュの聖徳太子

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厩戸皇子の他、色々な名前で出てきます。

専門的知識に乏しい自分にとって
記紀からだけでは計り知れない、
その様々な事績や伝説などは、
とても興味深いです!

その真偽も含め、みなさんは、
どの様な人物だったと思われますか?

みなさんのご意見を伺いたく書かせて頂きましたm(__)m

コメント(69)

天皇号が天武天皇が初めて使われたということですがそれは間違いだと思います。隋に送られた国書に日出処の天子というのが出てきます。天子という思想がすでに日本にあった証拠ですね。天子の思想があったということは道教でいう天皇のことも知っていたのではないでしょうか。まさか不比等たちが隋書まで改ざんしたとは考えられませんからね。天武天皇に初めて使用されたというのは、制度化されたのが初めてということではないでしょうか。現に元号を法制化したのはつい最近の話ですから。
太子という言い方ですがすでに応神天皇の時に日嗣という後継者を天皇が決めているのが見えます。ですから太子(日嗣)の制度はあったのです。それが蘇我氏の権勢のもとで大兄制となり大兄の中から天皇を決めるようになっています。これは蘇我氏が天皇を決めやすくしようとした制度ではないでしょうか。そして天皇は兄弟相続になっていますこれは天皇が直接後継者を決められなかったあらわれです。聖徳太子は用明天皇が幼少時にわざわざ上宮に住まわせ天皇後継者として世間に知らしめようとしていたのです。
天皇が太子(日嗣)を決める事と大兄制度の二重構造になっていたのだと思います。
聖徳太子の肖像画や聖徳太子が厩戸というふうに教科書が変わってきているらしいが、伝承をくつがえすほどの証拠がまだみつかってもいないのに変えられていくのは我慢できません。伝承は真実かどうかわからないが現在は証拠がない以上教科書を変更するのは早すぎると思います。確実な証拠がないかぎり伝承が正解なのです。ですから聖徳太子はいたのです。
聖徳太子の正体を推理します。

聖徳太子は6世紀末〜7世紀前半に活躍した、蘇我氏の功績を反映した象徴的な人物で、一個人ではありません。
モデルとなったのは高向王という蘇我系皇族で天皇に即位していた人物です。
本来は推古天皇の御世ですが、推古天皇は日本書紀が捏造した架空の人物で実在はしていません。
推古天皇は皇極天皇の分身であり同一と考えられる天皇で、日本書紀を編纂した藤原不比等の捏造が織り込まれています。

藤原氏は蘇我氏を滅亡させることで権力を手に入れました。
そのため蘇我氏の功績を抹殺したのです。

高向王は皇極天皇との間に漢皇子を授かっています。
漢皇子は蘇我氏の血を引く皇子で、後の天武天皇です。
高向王の政権を支えていたのは蘇我氏でした。
しかし、なんらかの不幸で高向王が早くに崩御してしまいます。
皇后の皇極天皇は漢皇子を即位させたいと考えますがまだ幼く、成長するまでの間、暫定的に皇極天皇が即位するのです。
この時、政敵の反発を抑えるため蘇我系ではない皇族と政略結婚をしたのです。
こうして生まれたのが、中大兄皇子、天智天皇です。
中大兄皇子は葛城皇子とも呼ばれているので、かつての王権、葛城氏の血を引いているのかもしれません。

皇極天皇が即位し、月日が流れ漢皇子が成長します。
しかし、三韓を廻る外交問題から蘇我氏と中大兄皇子との勢力が激しく対立し、蘇我入鹿殺害事件が起きてしまうのです。
中大兄皇子、中臣鎌足らは近江へ追放、皇極天皇は漢皇子=天武天皇に皇位を譲り、同じく近江へ隠居します。
天武天皇は中大兄皇子より長生きしたので、天智天皇は存在しないことになります。

中大兄皇子は中臣鎌足と共謀して、なんとか朝廷への復帰を目指しますが叶いません。
娘の持統天皇を天武天皇に嫁がせたのも、政略のひとつだったと思われます。
中大兄皇子が蘇我入鹿を殺害してまでしたかったのは、百済救済でした。
理由は分かりませんが、百済出兵をしたぐらいですから思いは強かったのでしょう。
しかし、天武天皇が出兵を拒んだため、中大兄皇子は隠居した皇極天皇を総大将に私兵を使い、勝手に百済に向かってしまいます。
結果は惨敗、九州から戻ることも許されず、中大兄皇子は窮地にたたされます。
天武天皇は怒りを抑えるきれませんでしたが、母である皇極天皇がいたため中大兄皇子を討つことができません。
しかし、程なくして皇極天皇が亡くなったため天武天皇は兵を率い中大兄皇子を討ったのです。
これが壬申の乱の正体です。

敵対する勢力を倒したことで天武朝、蘇我政権は栄華を極めます。
しかし、その繁栄も長くは続きませんでした。
天武天皇が崩御したのです。
天武朝を引き継いだのは、子の孝徳天皇でした。
しかし、天武天皇があまりにも優れた天皇であったため、力不足は否めず、蘇我政権は少しずつ勢いを失っていったのです。
日本書紀で孝徳天皇は皇極天皇の弟とされていますが、身内で中大兄皇子側の天皇であるはずが、かなりひどい仕打ちを受けています。
しかし中大兄皇子にそれほどの技量があるとも思えません。
これは藤原不比等が持統天皇を即位させるときに起こした無血クーデター、政権交代の出来事を利用したエピソードではないかと思われます。

蘇我政権の衰退を見た藤原不比等は、政権に攻撃を仕掛けます。
藤原不比等は中臣鎌足の子で、中大兄皇子の百済出兵の際、持統天皇(天武天皇の皇后とされていますが、正妻ではなかった)と共に追放されていました。
しかし、孝徳天皇の無能さを逆手にとり、天武天皇と持統天皇の子、草壁皇子を利用して、政権の奪取を画策します。
後に持統天皇の正統性を示すため、天武天皇の皇后として同じ陵に埋葬するという演出もしています。
ところがこれからという時に、草壁皇子が亡くなってしまいます。
草壁皇子の子、持統天皇の孫にあたる文武天皇はまだ幼く、即位できません。
そこで持統天皇が文武天皇が成長するまでの間、暫定的に即位したのです。

しかし、持統天皇の即位には大きな問題がありました。
政略的な権力で即位が可能でも、正統な天皇の即位はできないはずなのです。
本来、皇后は即位できません。
そのうえ天皇に即位できるのは天皇の子と決まっています。
中大兄皇子は天皇に即位していないので、持統天皇は天皇の子でもないのです。
この二つの問題を解決するには、皇后が夫の意志を継いで即位するという前例と、中大兄皇子が天皇に即位していたという事実が必要になります。
藤原不比等は日本書紀を編纂することで、この理由を捏造したのです。
皇極天皇が夫の意志を継いで即位しているのですが、初の女帝の皇極天皇がその理由で即位してしまうと、即位できないはずの皇后がなぜ意志を継いだのかと勘ぐられ、漢皇子を即位させるためという理由に行き着きます。
疑われ怪しまれる状況を避けなければ、中大兄皇子の即位が不自然になってしまいます。
これでは天皇の子という条件がクリアできません。

そこで藤原不比等は皇極天皇の前に、夫の意志を継いで即位した初の女帝を置くことにしたのです。
それが推古天皇です。
皇極天皇の分身のような存在で、本来の天皇、高向王の御世に当てはめられました。
前例があるわけですから皇后の皇極天皇が夫の後を継いで即位したというのが、不自然でなります。
これにより天武天皇の即位を皇極天皇の即位理由に縛られることなく自由に動かせるようになり、天智天皇を先に即位させることができたのです。
勝手に行った百済出兵を皇極天皇を斉明天皇で重祚させることで、朝廷の意志だったとしたのもうまい捏造です。

問題は天智天皇が即位できた理由付けです。
蘇我入鹿を殺害し追放されていたのですから、かなり大胆な捏造を必要としました。
藤原不比等の考えた方法は、蘇我氏を徹底的に悪者にすることです。
しかし蘇我氏の功績は大きく優れていたため、完全に消し去ってしまったのでは歴史の繋がりがガタガタになってしまいます。

やっとですが、ここで聖徳太子が登場します。
蘇我氏の功績、高向王の存在の痕跡、十七条憲法、冠位十二階、法隆寺、墓などなど、多くの史跡が存在しそれを簡単に捏造するのは不可能です。
それらを一手に引き受けるべき登場したのが聖徳太子です。
人物像を高向王になぞらえ、蘇我氏の多くの功績や痕跡を与えました。
しかしあまりにも多くの功績が存在するため、聖徳太子は人智を超えてしまいました。
蘇我氏の一族の功績を一人に集中させれば当然、超人になります。
聖人にも程があるというわけです。
それでかどうかは謎ですが、藤原不比等は聖徳太子に多くの名前、呼び名を与え、一個人の印象を薄めようとしています。
少なくとも一人の名前で記述するよりは、偉大さ、功績が散漫になっています。

藤原不比等はこうして捏造した歴史に、蘇我氏の悪行を加えていきます。
夫の意志を継ぐ推古天皇を捏造するため、崇峻天皇の死を蘇我馬子が殺害したことにしました。
蘇我入鹿には聖徳太子の子、山背大兄王を死に追いやり、上宮王家を滅亡させたことにしました。
神格化した聖徳太子の一族を滅ぼしたのですから殺害される理由は充分にあるというわけです。
元々、聖徳太子という一個人はいないわけですから一族が滅亡したといっても誰も困りません。
現実に山背大兄王の墓はなく、死んだとされる時代に祀られた痕跡もありません。
こうして実在の人物と聖徳太子という虚像をうまく組み合わせ、歴史を繋いだのです。

聖徳太子の正体、それは6世紀〜7世紀にかけて活躍した蘇我氏と蘇我系皇族のことであると想像しています。

多くの歴史の推理がそうであるように、考古学の発掘や発見による裏付けがなければ正解は出てきません。
宮内庁が天皇陵の調査を拒んでいるのも真実に近づけない理由の一つです。
日本書紀が編纂されたのは、編纂した人物に編纂する理由があったからです。
それは編纂者、持統天皇と藤原不比等の近年に起きた出来事が、必要としていると考えることが自然だと考えています。

あくまで独断と偏見による推理ですので、カスリもしないくらい間違っているかもしれません。
しかしこれも古代史の楽しみ方の一つですよね。
>>33,34

日本書紀を編纂して歴史を捏造することによって不比等は持統天皇即位の正当性を得た、と書かれていますが、私にはその当時不比等があることないこと(即位の順番を変えたり存在しなかった天皇を挿入したりなど)を何でも書けたほどに権力があったとは思えません。

それは不比等が右大臣になっているときに左大臣になっているのが物部石上麻呂でつまり物部氏だったからで、左大臣って今でいう総理大臣とかに匹敵するらしいです。

いくら不比等が権力を独占していたとしても日本書紀が編纂されていたときにそのライバルとなる人物が存在していたので、何でもかんでも捏造は出来なかったと私は思うのです。
ぼくは毎日世界中の人とインターネット経由のアマチュア無線でおしゃべりを楽しんでおります、、が、時々、宗教のお話をする人がいて、、世界を眺めてみれば、イスラムとキリスト、ユダヤ、、など争いが絶えません。オバマ大統領はモスレムのアフガニスタンにまた3万人以上のキリスト教徒を送るとか、、世の中は荒れに荒れます、、

で、ぼくは時々話すのですが、、、

日本では1500年前に仏教と神道が醜い宗教戦争を起こし、そこに聖徳太子という偉人が現れ「仏教も神道も良いものはよい、和をもって尊しとなす」と17条の憲法を作り日本を平定した。それから日本には宗教戦争なるものはなくなった。世界中の人々はこの聖徳太子の遺業を学ぶべきだ、、、と、、

聖徳太子はこれからの世界を救う救世主ですね、、、わーい(嬉しい顔)
>>37
マリオさんの聖徳太子への宗教上の平和を尊ぶ姿勢への理想は大変素晴らしいと思うのですが、いささか誇張が含まれていると思います。

仏教と神道が対立して宗教戦争を起こしたのは事実だと思いますが、聖徳太子は仏教側に味方してその神通力を持って神道に与する輩をやっつけています。
また、十七条の憲法以降も宗教戦争はなくなったかもしれませんが宗教が起因する事件が起こっていないわけではありません。
島原の乱や一向一揆など和を以って貴しとしていないことが頻発しています。

宗教だけに目を向けず日本史全体を俯瞰したとき、聖徳太子の十七条の憲法は百年もしないうちに歴史から風化しているのが悲しい実状です。
仏教の宗派間で戦争在りまくりでしたよね。
信長秀吉頃までは。
>37 もんぶらんさん
>39 Hissa@vaiala楽座

こんばんは! コメントありがとうございます。
ぼくは歴史と言うものは重箱のすみっこを突付いていると
見えるものが見えなくなってしまうという考えを持っています。

虹を見るごとく、遠くから、100年、200年、800年あたりが
好きです。

宗教に関して細かい点はその通りですね。
でも、現実には子どもが生まれた時とか七五三とかお正月とか神社、
最近の若い人はクリスチャンでもないのに教会で結婚式をあげたり
死ぬとお寺へ、、一神教の人からは信じられないでしょう、、、

キリスト教の学校も最初は日本へキリスト教を広めようとしましたが
人が集まらず、仏教、神道に関係なく入学を認めていますよね。

ぼくは海外の歴史、特にシルクロード、イスラムの音楽や舞踊が
好きでちょっと歴史を覗いてみたりしていますが、日本人が
考えるような甘っちょろいものではないですね。

島原の乱とか信長の焼き討ちとか、、世界の壮大な歴史から見れば
PCのバグレベルですね、、と、ぼくは非常にラフな考えで聖徳太子を
見ています。

数年前外務省関係の人からちょっと聞いた話で、シリアの現大統領の
父、アサド前大統領が言った言葉、「アメリカ、250年の青二才、
今にみていろ1000年先」と言ったとか、、まぁ、日本は島国ですので
1000年とは言いませんが、おおらかな気持ちでぼくはみたいですね。

聖徳太子の17条の憲法には、、詳細は忘れましたが、、確か、普通の
人より早く出て仕事をしなさい、、とか、、金持ち優遇の裁判をしない
ようにとか、、それから、、いまでも官僚に読ませたい条項がいっぱい
書いていますよねぇ、、 風化はしていないと思いますが、、

また後でちょっと調べてみますね、、
梅原猛「隠された十字架」を読んでみました。法隆寺は蘇我氏や聖徳太子のたたりを封じるために立て直されたというのには共感します。

聖徳太子や蘇我氏が普及してしまった仏教を神道派である藤原氏が聖徳太子を利用して死者のものにするために日本書記に書き加えそして法隆寺を作ったのではないかと思います。(日本書記は改ざんではなくて書き加えたとします。)

本来仏教は現世で生きていくための哲学ですから神道と共存できない。
そこで今までは死者の世界はスサノウであったのを仏教としたのでしょう。

現世は神道あの世は仏教としたのではないでしょうか。

そしてその布教方法にキリスト教の布教方法を利用したのではないかと思います。
それが今の日本に残る太子講や死者は仏教というのが残っているのではないでしょうか。
この講演会、行ってみようかな?

飛鳥学講演会 
6月30日(日)午後1時〜4時
東京都千代田区有楽町1の11の1よみうりホール

「飛鳥と古事記」をテーマに奈良県明日香村教委が「最新の発掘成果と飛鳥の遺跡」を報告した後、作家の加来耕三氏が「飛鳥と聖徳太子」と題して講演する。
日本書記にのる聖徳太子の仏教とは景教のことでキリスト教のようです。
聖徳太子の夢殿、信長の八角天守、三成の大一大万大吉、これらは亡ぼされています。
神道との攻防があったのではないかと思っています。
何故、厩戸皇子が聖徳太子と呼ばれたかを問題にすべきでしょう。『日本書紀』に擧げられている業績を同時代史料で実証することができないため、後世の捏造とされ、厩戸皇子すら実在が怪しいとされますが、そのように歴史上の人物を消していくと歴史がブツ切れ状態になり、歴史の流れが見えなくなってしまいます。

確かに七世紀の文字史料がほとんどないので、史実と断定できないとしても、せめて歴史像として歴史物語としてでもいいから、妥当と思われる形を了解しておく必要があります。ひとまずは一応実在したとして、その業績などもどういう事情で成立したかなど考えるのです。そうしますと、七世紀はじめに主神・皇祖神を天照大神に差し替える神道の大改革があったことが分かり、冠位十二階制、憲法十七条などもその改革を成し遂げるために必要だったことも分かります。

大山誠一さんたちはまだ文字を習い覚えたばかりの頃にそんな凄い文章が書けるはずがないといいますが、必要に迫られて、渡来僧の全面的な協力もあり、エリート集団が取り組んだ結果とすれば決して不可能ではなかったでしょう。

その上で神道改革が主神・皇祖神の差し替えという瀆神的要素を含んだものだったので、神罰を総責任者の摂政厩戸皇子が一身に引き受けたので、改革の合意ができ、その捨身飼虎の行いで聖徳太子と崇められるようになったと考えられます。

なにか後世の捏造によって聖者を作ったのではなく、自己の犠牲で太陽神の国や天皇号の採用など日本国の礎石を築かれたという業績によって、聖徳太子と呼ばれたとする方が歴史の了解としてはいいのではないでしょうか?それを裏付ける完全な物証を求められても、いくらでも疑えるでしょうが、疑えることはなかったことではないわけですから、せめて物語としては信憑しておいて問題はないと思います。
聖徳太子という名前は、すごく良いですね。まるで蘇我入鹿を理不尽に殺したあとの祟りを恐れて「聖徳太子」という徳の高い名前を祭り上げてお寺などを多く作り敬って安堵した時の権力者の自己満足の世界。当時は、仏教が根付く前は、自然界の気候変動への恐れと恵みをもたらす敬いと疫病からの恐怖を祟りだと信じた時代。権力者といえど所詮人間。良からぬことをしたら自責の念はあろう。菅原道真公を学問の神として祭り天満宮を建てたのもそういう真理が在ったかと思われる。
そうそう、俺の住む京都市山科区には、天智天皇の御陵と中臣鎌足の遺跡があり、隣りの滋賀県大津市には、天智天皇が築いた大津京の跡地がございます。
歴史としては

聖徳太子がいたとされる時代に天皇記国記が書かれた。

現存しませんが、多分文字にされた最初の日本歴史書。
蘇我氏主導。

と、いう事は、それより前の事は文字化されていないのでわからないと思います。

大君、君、大連、連、大臣、臣がいて
有力豪族が壬申の乱で滅び
天武の時大君は天皇と名を変え
天皇と藤原氏主導で書かれた歴史書が
古事記日本書紀。
歴代天皇の尊牌(位牌)を安置する御寺(みてら)の泉涌寺(せんにゅうじ)が我が家から車で10分のところにある。天智天皇から昭和天皇まで(南北両朝の天皇も含む)の位牌だ。
しかし、渡来人ではと云われている天武天皇の位牌は、泉涌寺には、無いと云われている。不思議だ。
「日本書紀」「古事記」を編纂して国家神道や国家仏教を推進して日の本の「日本」を国号とした天皇だと云われているのに出生などは謎だ。妃の持統天皇の藤原京の造りに天武天皇への深い愛情を感じて涙する。まずは、再度、談山神社参拝から始めるか...。

「日本書紀」「古事記」は、天武天皇の都合の良いように編纂されているかもね。もっとも完成したのは、天武天皇が亡くなったあとだし、どこまで信用できるのかな?歴史は、闇だ。
天智天皇の妃は、蘇我家出身。天武天皇の側室も蘇我家出身。
>>[49] それ以前は口誦伝承だったわけです。それを文字伝承に聞き移した際に、改変があったのです。それがはじめから天照大神が高天原の主神で、大王家の祖先神だったことにするという大改変です。そして文字で記されたものが正しいとされ、それと食い違う口誦伝承は間違っているから、伝えてはならないとされたのです。文字という新しいメディアによって、歴史が改変されたわけです。
>>[52]
言い伝えも真実かどうか。

多くの勢力があったのに
天皇主体の国だった事にされ
本当の事を書いて欲しかったと思います。
>>[51]
持統天皇も母が蘇我です。

彼女の祖父は美化されています。

持ち物全部に皇子のものと書くのは不自然。
>>[54] もちろん口誦伝承もいろんな事情で改変されますが、大切なことを伝承しようとした面もあったわけです。口誦から文章にされた時に、改変によって、元の口誦の自然さがなりなり、文章に矛盾が生じます。

父伊邪那岐は三貴神に誕生プレゼントするところ、天照だけに、勾玉ネックレスを贈っています。これは元々は、天照大神ー鏡、須佐之男命ー剣、月讀命ー勾玉だったはずなのに、後の宇気比の場面を想定して、天照大神にだけ勾玉というように改変されたわけです。

そこから宇気比が須佐之男命さ月讀命で行われたこと、従って、天皇家の祖先は実は月讀命だったことが分かるのです。つまり文章化したときに、改変した事がバレて、すごい真実が浮き彫りになるのです。ごまかしがあるから分からないと決めつけないで、ごまかしから生じる矛盾を手がかりに、元の姿を推論していけば、ある程度歴史が顔を覗かせるということが重要なのです。
>>[56]
私はそもそもスサノオは出雲にあった神話で

出雲を従える時に取引したので弟になったと思います。

明治に主祭神の変更がありましたから
天武の時も同じようにしたと思います。

本当にわかってたのは蘇我なら稲目ぐらいで
あとは長く見せる為の創作だと思います。

神道信者じゃないんでなんちゃら神は良くわかりませんが

まあ神武とか、天から人が降ってくるとはありえない。

日本人は神様の子孫というのもありえない。
神というのをユダヤ教、キリスト教、イスラム教のような神観念で捉えて、神と人間を別ものとして捉えるから、神が祖先は可怪しいと思うのです。日本神話を理解しようと思ったら、日本人の神観念にもとづいて理解すべきです。

倭人は自然物をそのまま神として信仰します。太陽・月・嵐はそのまま、天照大神、月讀命、須佐之男命として神なのです。しかし自然神だけでは歴史を作る神にはなれません。そこで自然神と自己を同一視した人間が儀礼によって、自分を自然神の現れと思い込み、人々もそれを信じ込みますと、その現人神の神威にすがろうとする人々の社会ができます。これが大八洲における国の始まりなのです。ですから神話抜きで国の起こりは説けません。神話なんかインチキだらけだから、そんなことあり得ないでは国の起りを説けないわけです。

伊邪那岐の三人の子どもたちが海降りして大八洲に三つの倭国をつくったのか、三つの倭人の国があって、交易をして助け合うために、祖先が兄弟だったことにしたのか、今となってはどちらとも決めつける物的な証拠はありません。ただ歴史の流れとして、壱岐・対馬の海原倭国を仕切っていた伊邪那岐大王の息子たちが大八洲に進出して三倭国を形成したという話は歴史物語としては、納得できるものです。

全部、後世の人が元になる伝承もなしに勝手に創作したのなら、だれも歴史として信憑しないでしょう。ある程度口誦伝承があり、それを後世の事情で改変を重ねたと考えるべきです。
>>[58]
カトリックの学校では日本の神話も教えますよ。

自然崇拝として習いますが。

文字が無いから発掘が頼りですが、縄文時代からの祭祀の跡に神社があったりする。

交易があったのも判明してます。

しかし、中央集権国家を目指した形跡は白村江の戦い敗戦後、防衛施設の建設になります。

ここでは説明の必要はないと思いますが、色々な伝承が併記してあり、ひとつの神話が言い伝えられていたわけではない事がわかります。

また、日本オリジナルの神話というよりも、外国にも同様の神話が残されており、誰かが日本に持ち込んだ神話を日本の風土に合わせてアレンジした事がわかります。

NHK特集でやってた話ですが

古事記の中に出雲と交渉する話があり
日本で一番高い神殿を建てる約束をしています。

つい最近まで、まさかそんな建物ありえない
と思われていましたが、
柱が発掘され、事実だと判明しました。

なので、出雲の神話をはめ込んだかなと推定します。

日本の歴史で考えるなら、どこかから人が渡ってきたと考えるのが自然ですし、武力を持っている人が権力を握り、権力の正統性を主張する為に神話を一つにまとめ、アマテラスを最高神にしたと考えられます。

なので、神が先祖というのは、科学的分析が出来ない時代には、権力者の権威を証明できたかもしれませんが。

アマテラスは持統天皇説もあり、孫に位を譲る話も、数多くいる皇位継承権を持つ皇子の中で孫である軽に位を譲る事を正当化する話で

実在した事が確認出来る斎宮も天武から。

その天武系天皇と今の天皇は他人なのですから、皮肉というかなんというか。
>>[59] だから私は記紀の叙述を丹念に調べて、いろんな矛盾点から、元の伝承を炙りだすことができないかということで、やってると、三貴神が三倭国を建国したという「三倭国伝承」が浮かび上がってきたのです。

その際に鍵になったのが三貴神のオカルト的な力を増幅する器物神ですね。「三種の神器」です。アマテラスー鏡、スサノヲー剣、ツクヨミー勾玉がそれぞれの個性的な呪術に相応しいわけです。

ところが宇気比で、アマテラスがスサノヲと宇気比をしたことにするために、アマテラスに勾玉を授けたことに改変されているので、これはアマテラスを大王家の祖先神だったことにするための七世紀の改作だということが分かるわけですね。

それでよく調べてみると、六世紀末まではアマテラスはどうも主神でも祖先神でもなかったらしいことが分かります。そうなると三貴神はそれぞれ建国して大八洲を支配すべき「御宇の珍子」だという位置づけだったことが見えてきて、アマテラス自身が海(あま)降りして太陽神の国を作ったことも浮かび上がります。

ですから持統天皇の時代にアマテラスを作ってる場合ではないのです。神話伝承の中で、古い部分なのですから。それを古い時代の話ほど新しい時代に加上されたという加上説が何の根拠もなしに幅をきかしてきたということなのです。
>>[60]
そもそも私は、大和朝廷は豪族連合だと考えています。

なぜなら、おおきみ
だからです。

大王は当て字です。

蘇我馬子は天皇を殺してますが
殺しても良かったんじゃないかとすら思います。
豪族連合をまとめ上げるのに神政政治が行われたということが三貴神伝承から窺えるということです。その際に海原倭国の伊邪那岐神の血統が日本海の制海権をもっていたので、重んじられたということが想像できます。ただ宗教的な権威は高くても、経済的あるいは軍事的には大王家を凌駕するような豪族があってもおかしくないのです、そういうことは高句麗でもみられたようです。
>>[62]
聖徳太子の時代には、必ずしも伊勢神宮一辺倒ではなく、斎宮も実在したかわからない。断片的に存在が記されているだけ。

祭祀は物部もやっており、物部の神社、石上神宮は日本最古の神社と自称しております。

大君、君、大連、連、大臣、臣

おおきみが特別というわけではなく
横並びの名称です。
>[63] てれじあGさん 七世紀前半の史料はほとんど文字で書かれていません。聖徳太子や推古天皇ですら架空の人物ではないかと疑われているぐらいですから、当時の神道改革の史料も意図的に抹殺されています。

伊勢神宮には天皇の参拝はタブーでした。旧来の陋習を打破したのは明治天皇です。御神体の八咫の鏡について明治天皇はこれは後世の天皇は見てはいけないものだとされています。元々アマテラスが主神や祖先神だったら、むしろ参拝は義務だったはずです。主神・皇祖神になってからもタブーだったのは、天皇家の祖先だったことにするために、スサノヲと宇気比をしたことに無理にされて、その際に女神にされてしまったからです。これにはアマテラスだけでなく、その正妃だった瀬織津姫も夫を女神にされたので怒りのあまり八十禍津日の神になっています。

饒速日神が神武東征で退位し、磐余彦大王の臣下になって、物部氏の長になったわけです。朝廷は太陽神信仰をできないので、物部氏が太陽の祭祀を朝廷の外でしていたわけです。その際はアマテラスを祭祀していません。アマテラスは祟り神として恐れられていて、物部氏が祭祀すると物部氏に朝廷にそむかせるのではないかと危惧されたからです。

それでも農業中心の産業なので、太陽神信仰を中心にせざるを得ない事になり、むりに大王家の祖先神にしたのが七世紀初めの改革です。

大君あるいは大王というのは君の中でも有力と認められればそう呼ばれるのであり、偉い王様ぐらいの意味です。最高権力者には「天の下知ろしめすすめらみこと」と呼んでいたのです。厩戸王と書いて「厩戸のおほきみ」と呼んでいました。その最高権力者になれる血統は決まっていて、蘇我氏の方が勢力的に強大であっても「天の下知ろしめすすめらみこと」には成れなかったのです。
『「日出処の天子」は誰か ――よみがえる古代の真実――』(ミネルヴァ書房)
 より。

はじめに
   ひいずるところのてんし、しょを、ひぼっするところの てんしにいたす、つつがなきや。
   日出処の天子、書を、日没する処の天子に致す、恙無きや。

   てんしのせいはあま、なはたりしほこ、つまのなまえはきみ。
   天子の姓は阿毎、名は多利思北孤、妻の名前は鶏彌。(『隋書ずいしょ』)

 私たち日本人は長い間「日出処の天子」は聖徳太子であると信じてきました。しかし、それは何の根拠もなく作り上げられた虚像だったのです。それを信じ込まされていたのです。

『隋書』のどこにも聖徳太子の名前は書かれていません。また、『隋書』だけでなく、『古事記』『日本書紀』を開いても、厩戸皇子(聖徳太子)が隋に使いを出したとは一切書かれていません。にもかかわらず、千三百年間、日出処の天子「阿毎・多利思北孤」は聖徳太子のこととされてきたのです。
 聖徳太子ゆかりの寺と言えば法隆寺でしょう。聖徳太子の冥福を祈って作ったとされる釈迦三尊像がある寺です。が、その像の光背銘には、聖徳太子の名前も推古天皇の名前も一切ありません。そこに刻まれているのは「上宮(法皇 じょうぐうほうおう」のためにこの像を作ったという文言です。この「上宮法皇」も何の根拠もなく聖徳太子であるとされてきたのです。

 歴史上の出来事は、同じ時代、もしくは近い年代に書かれた史書や金石文、そして出土物に基づいて調べていきます。「日出処の天子」の場合は、その名前が記されている『隋書』に基づいて、どのような人物であったかを調べます。「法隆寺釈迦三尊像」に関しても光背銘に書かれている文言と他の文献・史料を比較検討して調べていきます。その時、そこに書かれている名前「多利思北孤」を無視したり、刻まれている名前「上宮法皇」を「聖徳太子」である、とすることは、よほどの確実な根拠がないかぎり、行ってはいけません。ところが「日出処の天子」も「上宮法皇」もいとも簡単に「聖徳太子」とされてしまっているのです。

 この千三百年の誤りの基となった原因は、「神代の昔から日本列島を支配してきたのは天皇家・大和朝廷だけである」とする歴史観にあります。この歴史観に照らせば、「日出処の天子」の国書を送ったのは西暦六〇七年、この時代の天皇家側の該当人物は厩戸(皇子(うまやどのおうじ 聖徳太子)であるとなるのです。
 さらに、中国史書に出てくる「倭国」「倭」もまた「日本国」の古い呼び名である、とされてきました。私たち日本人は、長い間、そう信じてきたのです。しかし、中国史書『旧唐書 くとうじょ』は、「倭国」と「日本国」は別の王朝であると証言しています。古代日本列島には、近畿の天皇家だけでなく複数の王朝が存在していたのです。

 中国は古代から周辺諸国に関する記述を残しています。おかげで文字を持たず興亡していった国々でもその存在、歴史を知ることができます。日本についても、中国史書の『後漢書』『三国志』『宋書』『隋書』『旧唐書』に詳しく描かれています。それらは同時代、もしくは近い時代に記述された信頼すべき一級史料です。これら中国史書にはどのような古代日本が記されているのでしょうか、詳しく読んでいくと、そこには『古事記』『日本書紀』とはまったく違う古代の日本の姿が描かれています。 

 私たちはいままで「日出処の天子=聖徳太子」や「倭国=日本国」だけでなく、日本の古代史全体にわたり、作られた歴史を教え込まれていたのです。

 本書では序章において、中国史書に描かれた「倭国」の興亡と歴史から抹殺された経緯、「日本国」の誕生を簡単に述べ、「日出ずる処の天子」は「倭国」に実在した阿毎・多利思北孤であることを示します。第一章では、聖徳太子を巡る様々な謎を日本・中国の歴史書を比較検証し、かつ法隆寺にある釈迦三尊像の光背銘や古文書の分析から、聖徳太子の数々の業績が実は「倭国の天子」阿毎・多利思北孤のそれの盗用であることを述べます。そして第二章から五章まで、弥生時代から「日本国」の誕生まで、時代を追って古代日本列島に起きた出来事を詳しく説明していきます。終章では「倭国」滅亡と『万葉集』の歌に隠された「倭国」の風景、そして九州王朝の舞楽「筑紫舞」について語り、現代に蘇える「倭国」の姿を示します。
 その際、特定の先入観や史観によりかかることなく、史書、金石文などを丁寧に読み解き、これらの史料が客観的に語ることに耳を傾けるという姿勢に努めました。そして、最新の科学的成果と知見を取り入れて、できるだけ分かり易く語ることも心がけました。 〜〜

これが中国史書等が証言している古代日本の真実の姿なのです。//

『「日出処の天子」は誰か ――よみがえる古代の真実――』(ミネルヴァ書房)
 より。

あとがき

 本書では、中国・朝鮮史書の数々の証言から輝かしい歴史を持った倭国が、白村江の戦いを境に衰退し、滅亡し、遂には日本列島の歴史から抹殺されるまでの歴史を描き出すことができたと考えています。

 本書の第一の眼目は、「隋書イ妥国伝」に出てくるあの「日出ずる処の天子 -- 阿毎・多利思北孤」と『日本書紀』の聖徳太子とを比較検討した結果、両者は別人という結論に到達したことでした。
 その結論を切り口として、日本の古代史を見ていくと、濃い霧に包まれていた実像がくっきりと姿を現してきたのです。近畿天皇家以外に九州にも「イ妥国 たいこく)(大委国=倭国)」という国家が存在していました。しかも、その国は一世紀の「漢委奴国 かんのいどこく」から三世紀の女王・卑弥呼の「邪馬壹国」、五世紀の倭の五王の国、六〜七世紀の阿毎・多利思北孤の「イ妥国(大委国=倭国)」、そして七世紀後半の白村江の戦いを戦った「倭国」として、中国史書に一貫して描かれていたのです。中国や朝鮮半島の国々が「倭国」として交流していたのは、実は北九州に存在したこれらの国々です。決して近畿天皇家ではなかったのです。

 このことは必然的に、日本列島の古代の正確な姿を理解する為には、「神代の時代から日本列島は天皇家が唯一の支配者として君臨してきた」という『古事記』『日本書紀』の「一元史観」ではなく、「多元史観」の視点を導入しなければならないということです。近畿以外にも、九州や関東にも近畿天皇家の支配の及ばない王権(国)が存在していたのです。多元史観に立てば、古代史の数々の矛盾や謎、理解不能な事柄が合理的かつ矛盾なく理解できます。しかし、『古事記』『日本書紀』の記述が正しい歴史とする「近畿天皇家一元史観」の大多数の学者はそれを認めていません。そして日本政府もそれを認めてはいないのでし。
「一元史観」から「多元史観」への転換は、ちょうどプトレマイオスの「天動説」から、コペルニクスやガリレイの「地動説」への転換と同じような困難を伴うのかも知れません。しかし、やがて科学の力が宗教の力に勝って現在では誰も地動説を疑うものがいないように、「多元史観」が古代史の正統な主流になって行くだろうし、古代史のコペルニクス的転回が進行していくだろうと確信しています。

 本書は、平成二十六年八月に出版された『日出ずる処の天子 -- 阿毎・多利思北孤』(ドニエプル出版発行、文化創造倶楽部・古代史&歴史塾編以下、ドニエプル版とします)を一般向けに書き直したものです。ドニエプル版は、主として結論部分を重視して、詳細な論証は他の文献(主として古代史学者・古田武彦氏の著書等)を参照して貰うとの観点で書かれました。
 一方、本書では古代史研究の最新の新知見をも取り入れて、「史料をして客観的に語らしめる」手法を取り入れるとどのような古代史像が描き出されてくるのか、という観点からドニエプル版の編集に参加した大下、山浦が共同で執筆にあたり、最終の取りまとめを大下が行いました。本書は、先行するドニエプル版がなければ、決して刊行できなかったと思っています。ドニエプル版の製作に尽力された木村賢司氏はじめ多くの人々に感謝いたします。

 最後に先生と生徒との間にいつかこんな会話がかわされる日が来ることを楽しみにして待ちたいと思います。

 生徒「先生、日出ずる処の天子をご存知ですか」
 先生「それは聖徳太子のことだよ」
 生徒「先生、それは違います。阿毎・多利思北孤という人です」
 先生「阿毎・多利思北孤は聖徳太子だよ」
 生徒「阿毎・多利思北孤には皇太子がいます。聖徳太子は自身が太子ですから、それは違います」
 先生「聖徳太子でなければ誰なんだね」
 生徒「北九州に『倭国』という王朝が『日本国』よりも前に存在していました。阿毎・多利思北孤はその『倭国』に実在した天子で、聖徳太子とは別人だった人です」//
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