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日本の城と籠城戦コミュの沼田城戦史?〜真田の血統・矢沢薩摩守頼綱勇戦す〜

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天正十年六月〜十月の上甲信州の情勢〜三ツ巴争奪戦〜

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


天正十年(1582)六月二日、
本能寺の変で織田信長が討たれると上・甲・信州に駐軍していた織田軍司令官:滝川一益・河尻秀隆・森長可らは浮き足立ちます。

滝川一益は北条の大軍に破れて上野:厩橋、信濃:小県郡・佐久郡を放棄して伊勢へ逃れ、かねてから支配地:甲斐で強固な政策をとっていた河尻秀隆は地侍に謀殺されてしまいます。
織田信忠の配下であった森長可は信忠までもが本能寺の変で自刃したことを知り海津城を中心とする川中島四郡20万石を打ち捨てて本領の美濃兼山城に戻ります。
かくして甲信は国人一揆によって陥落、上州は沼田・厩橋がそれぞれ空地となります。


ここに空地を巡っての三ツ巴争奪戦が展開されることになります。



◆◇◇◇北条の上甲信侵攻と昌幸の遊泳術◇◇◇◆


六月末、関東:北条氏政は織田の武田征伐に遅れを取ったがゆえに、温存していた軍勢を一気に上甲信州攻略に繰り込みます。
その数、56000もの大軍です。
小田原を発し上野へ進む北条氏直は小県:佐久地方を経由し北信濃へ、鉢形城からは北条氏邦が、小田原からはさらに
別働隊として北条氏忠がそれぞれ甲斐に雪崩れ込みます。


空城となった沼田城を無血開城した昌幸は矢沢薩摩守頼綱を城代に置き、自らは岩櫃に入って戸石などの支城を固め上杉景勝の動向をうかがいます。
しかし間髪いれずに北条の軍勢は勢多郡の猫城・樽城に兵を集め沼田攻略の準備を行います。
既に沼田の南に位置する猫山城、津久田城、長井坂城はことごとく北条の手に有り沼田城を守る真田の支城・砦に迫っていました。

矢沢頼綱は城を固める時間がなく中山右衛門尉を先鋒として城将:金子美濃守、恩田越前守、発知左衛門五郎、塚本肥前守を出陣させ、北条勢の先手の鋭鋒を挫こうとします。しかし北条の伏兵・挟撃を受けるとまっさきに金子美濃守は戦場を離脱(この人、困った人です;)、突出した中山右衛門尉は諸将に見捨てられて討死。
真田勢は敗走します。
頼綱はあまりにずさんな諸将の連携を危惧して沼田城の支城:阿曾・川田・長井坂をそれぞれ単独で死守するよう厳命します。
沼田に来て3ヶ月しかない頼綱は打開策として”諸将が自らの力でしか防戦できない”ように仕向け、かえって奮戦を促したわけですが、沼田城の危機的状況は加速します。


昌幸は上杉・北条・徳川の3方の侵攻を受けることを恐れ、
七月十二日に小県郡海野へ着陣した北条氏直に出仕・臣従します。
真田家は北条軍の信濃侵攻の先手を務めることになりました。

北条家は上野国の完全支配を目論む一方で、
七月十三日には甲斐国都留郡で武田旧家臣・国人衆への糾合を煽動します。冒頭でも記した様に甲斐では国人一揆が起こり川尻秀隆は排除され甲斐は空白地となっていました。氏直は川中島で上杉景勝と対陣しつつ小県:佐久地方の国人衆の懐柔を図り、万全を期していよいよ甲斐に進軍します。


◆◇◇◇昌幸離反◇◇◇◆

しかし九月二十六日に昌幸は一転して北条家から離反、大久保忠世と旧交のある依田信蕃を仲介に徳川家に臣従します。
上野国厩橋城では北条氏が依然、国人衆の抱き込みを続け、上州沼田衆・吾妻衆も徐々に北条氏に帰属しはじめました。
しかし昌幸は徳川家康を頼りに沼田を堅守する構えを崩しませんでした。
昌幸にとって沼田は真田家が生き残るための外交の切り札と考えていたのでしょう。
上田〜岩櫃〜沼田の自領の連携だけは崩したくない思いが沼田を目指す北条より、甲信経略を目指す徳川を選んだのだと思います。
徳川家にとっても信濃の実力者:真田家が持つ沼田・小県の領国は甲信防衛の構想のためにも味方に引き入れるのは極めて有益でした。


◆◇◇◇越後:上杉景勝の南下◇◇◇◆


一方、越後の上杉景勝は六月十三日〜二十六日に北信濃諸侯を味方に引き入れて、七月初めには信濃に5000の兵を率いて出陣し
海津城を奪取、斉藤朝信を海津城にいれ川中島へ進出します。小諸城に入った北条氏直の軍勢は八幡原に陣を敷きかつて謙信と信玄が対峙したように越相両軍がにらみ合います。しかし氏直の軍勢は甲斐:若神子に向い、景勝は川中島四郡を平定、村上景国を置いて越後に帰国します。この帰国は手を焼いていた新発田重家の反乱と、越中の柴田勝家・北信濃の森長可・厩橋城の滝川一益との連戦で軍勢が疲労していたためと思われます。


◆◇◇◇家康の浜松出馬と黒駒合戦◇◇◇◆


浜松にいた徳川家康も信長の弔い合戦が秀吉によって完了したと見るや六月十二日から前年帰順していた岡部正綱に甲斐の旧武田家臣団の抱き込みを命じます。それに呼応した依田信蕃を案内に酒井忠次は3000の兵で伊那郡:高遠城を抑え甲斐に向けて進軍。家康は本多忠俊・岡部正綱を先鋒として甲斐に派遣し、自らも軍を率いて八月十日に新府を抑えました。

新府の徳川勢8000と若神子の北条勢およそ50000が対陣します。

八月十二日、小田原よりの別働隊として甲斐:勝山城に入っていた氏康六男:北条氏忠、氏康九男:氏光、氏繁次男:氏勝は10000の兵を率いて御坂峠を越えて徳川の背後を扼し挟撃を狙います。
徳川の将:鳥居元忠は黒駒でこれを捕捉し2000の兵で撃破することに成功します。

この黒駒合戦によって北条勢は約300の死傷者を出して挟撃を断念、大軍といえども徳川勢の前線においそれとは手を出せず、戦線は3ヶ月近く膠着します。


◆◇◇◇矢沢薩摩守頼綱◇◇◇◆


昌幸の離反によって沼田〜北条間で再び軍事的緊張が走ります。
北条氏邦は徳川勢と甲斐:新府〜若神子間で睨み合う中、主力より5000の兵を割き十月初旬に沼田城攻略を開始します。
沼田城最南端にある支城:長井坂城、森下城は陥落し、北条氏邦は川額に陣を布きました。氏邦は猛将:猪俣能登守に川田を、上泉主計、難波主税之介に阿曾をそれぞれ兵2千にて攻略に向かわせました。

矢沢頼綱はこのまま北条軍が勢いに乗って支城を攻略すれば沼田城の将兵の士気の低下と内応者がでる危惧を考慮し、
十月十九日、自らが最前線で一戦して籠城の士気を高めようと500の兵を率い再び出陣します。

この時、頼綱64歳。

老齢ではありながら積極果敢な勇将であります。
川田を攻略中だった猪俣能登守は頼綱出陣の報を受けて城の包囲に500の兵を残し、頼綱の布陣する阿曾の北西:沼須ヶ原に向かいました。

猪俣能登守1500、薩摩守頼綱500は激しい野戦を繰り広げます。
猪俣能登守は優越した兵力で押しまくりますが頼綱は少数の味方を督戦して陣を崩すことなく押し返します。
当初の劣勢から猪俣能登守の陣を突き崩した頼綱は首300を討ち取るまで盛り返し、ついに猪俣能登守を砥石明神の境内へ敗走させ大勝果をあげました。

しかし猪俣能登守の置いた川田包囲軍は川田を陥落させて城将:加藤丹波守は討死しました。
いったんは壊走した猪俣能登守でしたがこの支城を奪ったことで勢いを盛り返しそのまま阿曾の支城へ急行・夜襲を行います。
守将:金子美濃守は合戦は川田で行われていると思い込んで宴を催し500の兵は夜襲の餌食となりました。
金子美濃守は片品川を渡って逃亡しました。(悪運強いです;)
二十一日には長井坂の要害をも失い、二十八日より裸となった沼田城に北条軍5000の総攻撃が開始されます。


◆◇◇◇真田のゲリラ戦◇◇◇◆


矢沢頼綱は寡兵で籠城、三日間城を守り抜き、北条勢は沼田の険は強襲では落ちぬと判断し阿曾に兵を引きました。
頼綱はこれを逃さず、かえって阿曾に夜討ちを掛け優勢に気を抜いていた北条軍に打撃を与え沼田城の守りを固めました。
一方昌幸は、依田信蕃と共に徳川勢として碓氷峠・松井田城などを攻めて信濃の北条軍と上野との兵站線を破壊します。
さらに前日、北条軍の退路を断つため密かに沼田〜厩橋を繋ぐ津久田城を攻略するというゲリラ戦が行われました。
北条軍はゲリラ戦に苦しみ沼田での短期決戦をあきらめ兵をまとめて厩橋城(前橋城)に退却しました。

八月二十二日には南信濃の木曽義昌が徳川方に付きます。

さらに長期対陣する北条軍不在の間に佐竹義重が関東を扼し始めます。

かくして北条家はこの膠着に利なしと判断し十月二十九日に徳川家との和議を成立させます。

和議の内容は
●甲信は徳川家康の領国とする
●上野は北条家の領有とし、
上州:沼田の真田昌幸には代地を与えることする。
●家康の娘を北条氏直に嫁がせる 

などでした。




◆◇◇◇神川の対に矢沢薩摩の軍略あり◇◇◇◆


天正十一年(1583)八月、北条氏照は上杉家の手に渡っていた厩橋城を攻め、城主:北条高広をおって、沼田攻略の機会を狙っていました。
翌年、家康は秀吉との小牧長久手合戦が膠着すると北条との盟約を強固にして後顧の憂いをなくそうと考えます。
四月、家康は昌幸にこの和睦の条件を実行するよう通告します。しかし沼田を『上田と双璧をなす最重要拠点』と考える昌幸はこれを拒絶、
徳川家との神川合戦へと突入します。
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=6396035&comm_id=731999

天正十三年(1585)八月、徳川勢は北上して昌幸と神川で合戦しますが敗れて大きな被害を出します。
その後、真田〜徳川は膠着状態〜真田のゲリラ戦へと移り長期戦に入ります。

この動きに呼応して九月、北条氏直が小田原から氏照、氏邦と共に30000の軍勢を動員、
昌幸から後詰を期待できない沼田攻略を開始します。
氏直は軍を2手に分け、氏照は吾妻:今井峠から、自らは勢多郡から沼田領に侵入しました。

頼綱は上杉景勝の後詰を得てここでも積極的に城外での奇襲〜取って返して城に籠るという真田家のお家芸:【ゲリラ戦法】をとり、
北条軍に効果的な攻撃を行います。
頼綱が再び1000の兵を率い城を出たという報を聞いた氏直は、猪俣能登守に3千の兵を与え迎撃させます。
頼綱は、猪俣能登守に攻められて多勢に無勢、名胡桃に逃走しました。猪俣勢は仇敵:頼綱を追いつめようと、薄根ヶ原まで追い立てますが、榛名の森にいた伏兵と、頼綱の反転:挟撃を受け、更に名胡桃城より鈴木主水正も門を開けて討って出ます。

猪俣勢はまたしても壊走し頼綱は首200を挙げる快勝を収めます。
猪俣能登守の敗退を知った氏直は怒り、沼田城に総攻撃をかけます。

しかし頼綱は、城下の出入り口7箇所に木戸を設けて北条軍を誘い込み木戸を落として火を掛け、孤立した先手を包囲殲滅します。農民までも動員して徹底されたこのゲリラ戦はまたも北条軍に打撃を与えました。

吾妻:今井峠から沼田に向った氏照の軍勢は沼田の支城:川田城に攻め寄せます。ですが城壁まで近付くと川田城はもぬけの殻で、寄せ手は北条の大軍を前に城を放棄したと考え入城しました。

ところが川田城の要害:大竹に突如沼田勢が出現し北条軍は不意を突かれてここでも損害を出してしまいます。
北条氏直に続き、氏照までも戦果無く大きな損害を出してしまい、士気の低下と共に小田原に退却しました。


◆◇◇◇沼田の守護神:矢沢頼綱〜沼田明け渡し◇◇◇◆

天正十四年四月、
沼田城奪還に燃える北条氏直は攻略に本腰を入れるため
上野、武蔵、下野、常陸、安房、上総、下総の各支配下から
約70000の兵力を興し出陣します。
対する矢沢頼綱は率いる兵は2000のみしかいませんでした。

厩橋を経由し北条氏直はまず氏照、氏邦、氏規を先手として沼田を攻撃させます。
その頃、長雨が続き利根川・片品川の水量は増し、片品川の橋は全て流されていました。北条の先手隊は橋架・渡河しますが大雨・洪水の中での行軍は難行し、北条軍は段丘上から沼田城を威嚇する構えを取ります。

すると北条の陣所に頼綱の矢文が射掛けられました。

内容は、


【北条はこの小勢の沼田に大軍で攻めてくるというが未だに攻撃の気配はない、早々に合戦なくば兵が退屈して困る】


という大胆で挑発的な内容でした。

5月11日、氏邦は怒りを押さえて頼綱の投降を促す返書を送ります。がついに頼綱が投降する気配はなく
5月25日、北条先発隊は劣悪な戦場を尻目に一斉に滝棚の原から沼田城に突撃しました。

この際も天正十三年と同じく、深入りした北条軍は橋を落とされ、木戸によって退路を失います。頼綱は鉄砲を一斉に撃ちかけて北条勢を殲滅します。
北条勢は混乱して同士討ちを起こし、また増水した片品川に落ちて溺死者が続出しました。またしても大きな痛手を被った北条軍は退却の途をとらざるをえなかった。

この頼綱の3度に渡る戦いぶりは神川合戦での昌幸に酷似しており、頼綱の兄、一徳斎:幸隆譲りなのか、甥の昌幸と示し合わせたものなのか・・・ともかく真田一族のゲリラ戦術の実戦指揮能力はおそらく武田・上杉と並んで戦国最強と謳われる島津氏のそれに匹敵すると思われます。


天正15年2月、北条は4度目の正直で猪俣能登守と太田金山城の由良国繁に沼田攻略を命じますが
頼綱は片品川にて由良の軍勢を撃破し、猪俣勢を手玉にとって孤立させています。

頼綱、この年、69歳。

上州には信玄を二度撃破した村上義清と長野業正といい、真田幸隆・昌幸・幸村・矢沢頼綱の真田一族といい、かくも城塞戦・ゲリラ戦の有能な将が多く輩出している。おそらく険しい山野を知り抜いているからこそある土地勘が戦術に第六感を共鳴させ、そして一族:国人衆の結束が困難な作戦を可能にすることができるのでしょう。



昌幸は頼綱に勝利のたび恩賞を贈り、天正十三年の合戦では上杉景勝も頼綱に感状を送っている。

天正十七年(1589)、豊臣秀吉の命により、沼田城は真田の手から北条へと明渡すこととなる。
頼綱は昌幸より所領換えの通告を受け、沼田を去り信州吾妻郡岩櫃城へ入る。


第二次上田合戦 『犬伏の別れ』?
へは下記リンクへ!
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=6602566&comm_id=731999

コメント(17)

自分は沼田市出身のものですが、
やはり地元で起きた戦いってリアルですね。
面白すぎます。

そして沼田城の合戦を書き込んでくれた事に感謝です。
>LMKENJIさん
書き込みありがとうございます^^
地元の方にそういっていただけると嬉しいですね!!文章を書いていて矢沢頼綱の戦上手に感心していたのですが地元では矢沢頼綱のことは知られているのでしょうか?やはり昌幸のほうが有名でしょうか?
いやぁ恥ずかしい話ですが、

真田氏は紙一重で知っている人がいると思うのですが

昌幸や頼綱となると
多分若者は百人いて一人知ってるぐらいじゃないかと…
沼田城はもう無いですからね。

自分は昌幸、幸村が好きな感じですが
伊達政宗もいいと思ってますよ(^_^)v
>LMKENJIさん
ありゃりゃ、1%くらいって感じですか;
幸村はともかく城主だった信幸のこととかも・・・ですかね・・・・寂しいでスナァ〜

政宗はいいですね!
小浜城での悪鬼羅刹の城攻めがエピソードとしては有名でしょうか。
●駒ヶ嶺城籠城戦
☆伊達政宗 ☆相馬義胤 
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=7021732&comm_id=731999
がかなり熱いですよ!オススメです!
北条方はかなりやられていますね(笑)。
元ネタは沼田町史ですか?
知らなかったことも多いので驚きです。
特に猪俣クンの活躍(?)が出てくるので、たいへん興味深いです。
南方衆サイドの資料では全く出てこないものも多いので、出展を教えていただければ幸いです。

いずれにしても、今更ながら口惜しくって眠れません(爆)。
>桜町中将さん
あらら眠れませんか^^;
しかし、この沼田戦役は北条家はいいとこなしですね。関東では謙信などと合戦して強兵を抱えていたと思うんですが・・・
(個人的に猪俣能登守邦憲のような猛将は好きです^^天正10年の10月の合戦では一度は敗れても勢いを失わず2つの支城を落としていますし。)
北条家は領国で鉄砲を作るなどしていましたが
品質も悪かったようでやはり上方の動きに遅れがあったみたいですね・・・
軍政などももっと改善すれば自然と戦術論も高いレベルになっていたのかもしれません。
(上甲信侵攻の戦略は基本的には間違ってはいなかったと思います。失敗してしまったのは黒駒の敗戦よりも真田昌幸の抱きこみに失敗した点が大きいのではないでしょうか。昌幸が味方であったなら兵站線も確保できて越後を牽制できたので徳川家と雌雄を決することも出来たと思います。家康は長く北条家と戦うわけには行かなかったはずなので。
いずれにせよ武田旧臣の抱きこみを早くから行って信用を得ていた家康が1歩先を進んでいましたね。たとえ黒駒で北条家が鳥居元忠を撃破しても甲斐の国人が味方に付かないと小田原からの兵站を遮断される恐れも有ります;
関東の領国は土地も広大なので自然と北条家には真田家のような風前の灯のような家名存続の必死さにかけるのでしょうね。関東に執着しすぎたのでしょうか・・・
惜しむらくは小田原征伐で北条家が小田原城の堅牢さを頼りに大坂冬の陣の豊臣方のような戦いぶりがあればと。
きっと株の上がった武将もいたと思います・・・
やはり信玄・謙信としのぎを削った氏康の時代が戦国大名としての評価も高いみたいですね。

ところで南方衆とは?? すみませんわかりません;


今、出展などは整理の準備をしているところですが
本に関しては歴史読本がメインですね。

籠城コミュニティ・参考文献一覧
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=7322040&comm_id=731999

あとはネットで年表などを確認したりしています。
沼田の戦いも歴史群像の真田三代とネットで照合して私の所見を含めて書いているといった感じです。(たしかに群馬県史を見たと思いますが・・・あとは鉢形城の年表も見ましたね。鉢形城は上州攻略の北条家の前線基地ですので軍勢の動きがかなり細かく記されているみたいです。)

私は歴史が好きなだけなので
見解はしょせん子供だましです;
ですので強力な突っ込みは
支えきれませんのでご勘弁を^^;
(この沼田城戦史を書くのにも時間かかりました;籠城愛というやつです;しかし頑張ったせいでいろいろ判らなかったことも判ったので(上甲信のこの頃はほんとにややこしいですね;)充実した気持ちです^^)
太陽さん

まさにその通り!
私の見解もほぼ同じです。
南方衆とは北関東国人が使った当時の北条家の呼び方のようですね。

まあ、わたしは合戦祭り系の血も入っているので、つっこみはいたしませんよ。
ネットでよくいる知識自慢の輩とは違います。
やはり、オリジナルの見解を持っているか否かが大事でしょう。
その点、「埋もれた古城」というサイトは凄いですよ。

それにしても、昨日も口惜しくて眠れんかったな…。
>桜町中将さん
南方衆は北条家のことでしたか。関東では南方と呼ぶんですね。

つっこみのご容赦感謝です。
具体的にどこか間違っているところがあれば言ってくだされば直せる限り頑張りたいですね。

北条家の動員兵力を持ってすれば甲信制圧は可能なはずでしたが・・・・景勝もこのころはアップアップですし家康も長陣になれば秀吉が動き出しますので。
泥沼を覚悟すれば少なくとも甲斐はもぎ取れたのではないかなと思います。
しかし北条家の見解で甲斐を領国にするとかえって国土の維持に国費がかかると考えたのかもしれませんね。甲斐は経営大変そうですから・・・北条家は信濃が欲しかったんでしょうね。難しいですね・・・
武田家と北条家は旧知の間柄なので甲斐の国人衆が味方してくれればもうすこし展開も変わったと思いますが・・・
甲斐の国の衆は、やたら血気盛んなので御するのが大変だろうと思うです。
自分は元々北条氏のお膝元に住んでおりましたが、あちらのほうが気質穏やかですな。
甲斐は、道祖神祭りで若い衆が徒党を組んで喧嘩をしたり商家から金品を強奪したりするのを黙認する風習もあったりしました。
街も攻め込まれた際に敵軍が真っ直ぐに進めないよう、道が直進せずにずらしてあったりするので現代では通りにくいこと甚だしいです(笑
>えびっちさん
おおお、さすが現役の甲斐国人衆ですね^^
そんな風習があったとは!なんて腕っ節を誇る国なんでしょうか!

甲斐の衆は北条家に仕官しても自分達が外様扱いになるのがイヤだったのかもしれませんね。
その点徳川家はまだまだこれからの大名家だったので仕官すれば処遇も働き次第でよくなりそうですし、武田家の威風を敬うところもあったみたいですので・・・北条家は気位が高そうなんで家康みたいに腰が低い方がかえって甲斐の侍は仕え易かったのかも知れませんね。
太陽さん、えびっちさん
天正壬午の乱の頃は、北条家内部の分裂が始まった頃でした。
鷹派とハト派の対立により、よくわかりにくい外交政策を取るようになっています。
特に家康つながりで氏規の力が強まり、氏直―氏規ラインが形成されます。
この時の対立は切実だったようで、家康が氏規に「もしもの場合は逃げて来い」とまで言っています(黒田基樹先生の最新学説でこの文書がこの時のものとわかりました)
また、氏規は武田追討戦でも陣頭指揮を執っています。
まさに、いやいや出陣した氏政の鼻面を引き回すようにして、武田追討戦での実績を信長と家康にしめそうとしています。
こうした動きが最終的には、北条家の力を弱めることになっていきました。

関東に覇権を確立しようとする農本国家の北条家としては、山国の統治はあまり関心がなかったことも事実です。
また、信濃は地勢的に守りにくいので、どうしても欲しい国ではなかったと思います。
どうして守りにくいかは、武田家の瓦解が表していますね。
ただ、まず何よりも、織田政権の代行者の一人であった家康に甲信統治の正当性があったこと、仮想敵と後詰の容易性を考えた場合、徳川につくのは当然ということだったのでしょう。
北条家は戦前の日本がロシアの南下を恐れたように、佐久郡と郡内あたりを抑えるだけでも十分と考えていたのかもしれません。
そうした結果、北条家は「まあいいっか」になったのでしょう。
言葉足らずですいません。
わからないところがあったらご指摘下さい。
>桜町中将さん
さすがお詳しいですね・・・
北条家が一枚岩であればもうすこし違っていたかもしれないということですね。
氏規の行動が滅亡を早めていたというのはとても寂しいですね・・・
佐久郡を抑えてよしとするというのは非常に北条家らしいというか、納得できました^^
ただ”後詰の容易性”というところからが少し判らないです;

北条家は徳川家が巨大になることを恐れてはいなかったのでしょうか。

信玄時代の甲信のみならともかく、この頃の家康は東海道を抑えていますよね。さらに甲信を手に入れれば北条家に匹敵する大名になると思いますが・・・
それとも北条家は家康が豊臣家の防波堤になるとしてこの和議を認めたのでしょうか?
>氏規の行動が滅亡を早めていたというのはとても寂しいですね・・・
タカ派とハト派の綱引きがあり、また、氏政→氏直の代替わりもあって、方針や行動に一貫性がなくなり、北条家は軍事・外交ともに後手に回り続けることになります。
特に、山中城攻防戦の前夜、松田康長から箱根権現にあてた文書に「もうすぐ和議がまとまり敵は退いていくよ」とあるのですが、これなどは象徴的です。
西伊豆水軍が城に籠ったまま、敗れてしまったのも同様です。
徹底的なタカ派の氏照とその正反対の氏規のどちらかがいなければ、北条家は大名として生き残ったでしょう。
このあたりは拙著で、それぞれの立場から描いています。

>後詰の容易性”というところからが少し判らないです
駿河遠江から甲信に軍を進める場合と関東から軍を進める場合の困難さの違いを申したまでです。
仮に梅雪でも誰でもいいですが、徳川家の支店的武田継承政府が新府に出来た場合、富士川を遡ればすぐに後詰できるのと、御坂峠を越えていくのとでは時間も量(兵数)も違いますよね。
三増や檜山道からでは郡内経由、笹子峠経由なので、なおたいへんですね。ですから、太陽さんがおっしゃるように北条家は甲信の維持が出来ないのです。

>北条家は徳川家が巨大になることを恐れてはいなかったのでしょうか。
天正壬午の乱後の和睦の時点では、徳川家が強大になろうが、縁戚になるので、あまり心配はしていなかったでしょう。
氏規―板部岡江雪ラインが、徳川絶対追従の外交方針を立てたのでしょうが、珍しく北条家としては徹底した外交方針を立てていますね。
それにしても、氏規という男は困難な舵取りを懸命に取っていました。
たいしたものです(拙著『虚けの舞』でも書き足らなかったくらい)。

おっと、始業時間ですわ。
今日はここまでにしときましょ
>桜町中将さん
非常に判りやすい解説ありがとうございました^^全ての疑問は解消されました!
いずれ書くことになる【小田原の役】のイメージもしやすくなりました!
ただ氏康の河越城夜戦は勇壮に紹介したいですね^^
【家康、甲斐侵攻を開始】天正十年(1582)7月9



http://www.sengokudama.com/contents/060709.html

本日は家康が甲斐に侵攻開始した日にあたります。記事には詳細な出来事が書かれておりますので是非是非ごらんくださいませ^^
ほんとに真田の血には感動しますよね
矢沢頼綱については全くといっていいほど、その戦闘について知らなかったので勉強になりました。
書かれていたように、やはり真田は「籠城→挑発→ゲリラ戦」が光る籠城させたくない一族ですね。
野戦・籠城問わず決死の覚悟で向かってくるイメージの島津氏とは違う「うるささ(←この場合には誉め言葉)」の一面がありますね♪

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