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日本の城と籠城戦コミュの第二次上田合戦 『犬伏の別れ』?

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◆◇◇◇当時の情勢◇◇◇◆
天正14年、真田家は秀吉の調停ですべからく徳川家に仕え
伏見屋敷に滞在していました。

太閤:豊臣秀吉は自らの没後、天下を狙い得る人物は
外様大名で二百五十五万石を有する実力者:徳川家康ただ一人と考え、其の封じ込めとして
?家康の伝来の領国・三河からさらに都より離れた東国へ転封する
?越後で強兵を率いる上杉景勝を百二十万石に加増し関東の牽制のために会津に配する
?東海道は豊臣恩顧の大名で固める
?政権内で最高権力を持つ五大老の筆頭には徳川家康・前田利家の二名を配置し、政務は五奉行との合議制で行うこととする

以上の四項目を行うことで後継者:豊臣秀頼を守ろうと考えます。

やがて秀吉は没し、家康は徐々に野望を露出させ豊臣政権で巧妙に影響力を高めます。会津:上杉の有名な直江兼続の”直江状”を契機に、慶長五年(1600年)六月、家康は五大老の名の下に諸大名を率い会津討伐を行います。
豊臣恩顧の旗頭、五奉行筆頭:石田三成はこの機会に家康を除こうと考えます。


◆◇◇◇『犬伏の別れ』◇◇◇◆
時を同じく、真田昌幸・信之(信幸)・信繁(幸村)も主筋:徳川家康の発した号令の下に集い、沼田を出ます。家康の三男:徳川秀忠の率いる軍勢約3万8千に合流すべく下野:宇都宮城へ向います。秀忠の軍勢は徳川家の中でも旗揚げ以来、姉川・三方ヶ原・小牧長久手を経た旗本を中心とした精鋭と呼べるものでした。
家康はまだ武将としての名を持たない秀忠に会津討伐軍の豊臣恩顧の大名を指揮するのは困難だと考え、また三成との抗争で秀忠が天下を担うに足る武功を立てさせるため合戦の主軸を譲ったのでしょう。

ところが七月二十一日、真田親子が宇都宮城の手前:犬伏に構えた陣所へ、石田三成の密使が到着します。昌幸は三成とは姻戚関係で義兄弟でもあり(三成・昌幸とも宇田頼忠の娘を娶っている)、幸村の妻は豊臣恩顧の大谷刑部小輔吉継の娘(竹林院)です。当時の昌幸は第一次上田合戦(神川合戦)の遺恨がいまだ残っており、家康を嫌っていたようです。しかし長男の信之は神川合戦の後、かねてからその人物に傾倒していた家康の下に秀吉の取り成しで仕えていました。

家康は神川での遺恨を信之には向けず、かえって寵愛し信之に妻として稲姫(後の小松殿。徳川家の重臣:本多忠勝の娘)を家康(秀忠の説も有り)の養女としてから娶らせまています。この処遇を見ても家康の信頼は明らかで、感じ入った信之は徳川親派でした。
(家康は関東・甲信州での大名間との結びつきを強くし秀吉に対抗しようという考えがあったからとも思われます。)

3人の親子は長い激論の結果、昌幸・幸村は豊臣秀頼方に、信幸は徳川方にそれぞれ袂を分かち離縁します。

(協議の途中、武将・河原綱家は様子が気になって部屋の戸を開け伺いたてたが、昌幸は『何人も部屋には入るなと申し付けたはず!』と履いていた下駄を投げつけ、河原綱家はこれを顔に受けて前歯を砕かれたといいます。)

これは昌幸が西軍・東軍どちらが勝っても真田家滅亡を防ぐ生き残りの選択で『犬伏の別れ』とよばれます。本来、この選択はおよそ武家の忠孝の道(江戸期のものとも言えますが・・・)には反しており、真田家の都合の良い考え方です。徳川家との縁戚関係と家康の信頼があればこそ信之は家康方として関係を保持できたのだと思います。

昌幸はこの戦いで徳川秀忠の主力4万余を上州に釘付けにし関ヶ原での三成の合戦を有利に導こうと考えます。勝利の暁には真田家に大封を得ようという戦国武将らしい発想を持っていたようです。




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◆◇◇◇『沼田日記』の小松殿(稲姫)◇◇◇◆

昌幸:信繁(幸村)は『犬伏の別れ』の後、直ぐに手勢を取って返し、自領に引き返します。途中、信之の沼田城に逗留しようとしますが信之の妻、小松殿(稲姫)の使者は入城を拒否します。『沼田日記』では昌幸の将兵は怒って門を破ろうとすると

『力ずくで開門とは何事じゃ 殿(信之)ご出陣の留守中に狼藉に及ぶとは曲者に違いない。女なれどもわらわは伊豆守(信之)の妻、本多中務(ほんだなかつかさ:本多忠勝)が女(むすめ)。内府御女の称号を許されている。この城へ手をかけるものあらば、一人も漏らさず討ち取れ!』

と緋縅(ひおどし)の鎧をつけ、薙刀を掲げて城より一括します。昌幸は孫の顔が見たいと小松殿に懇願しますが小松殿は頑として聞き入れず、
昌幸はかえって『頼もしきかな。武士の妻はこうありたいものじゃ』とウィットに富んだ返事をして野陣し、上田に向ったそうです。

その後、昌幸が上田の途中、正覚寺で休息をしたところ、小松殿が子を連れて現れ面会する機会を作った。昌幸、信繁父子は小松殿の才覚と人となりに感服したといわれています。

昌幸・信繁は沼田を回って鳥居峠〜真田郷を経て大笹の関所に差し掛かると秀忠の命を受けた地侍の反抗がありますが信繁が是を斬り捨て、無事に上田にたどり着きます。


◎第二次上田合戦?
【表裏比興(ひょうりひきょう):真田昌幸】
へは下記リンクへ!
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=6792614&comm_id=731999

コメント(9)

真田家は恐ろしい一族ですね。
戦国時代に生まれた一族の大半は戦上手で、しかも謀略上手の人物も何名か出ています。昌幸と昌幸の父の幸隆は戦国時代の中でもトップクラスの謀将でしょう。
昌幸の兄二人は猛将というイメージがあります。
信之と幸村は昌幸ほどあくのある人物ではないように思えますが、やはり一筋縄ではいかない人物だったと思われます。
さらに内政・外交にも長けていた一族のように思えます。

何より真田家が不気味なのは、これほど謀略を上手に扱う家柄なのにも関わらず、誠実な一面を持っているところです。
昌幸は最後まで武田家を裏切らなかったし、家康が信之を信頼したのもおそらくは彼の誠実なところに信頼を置いたのでしょう。
幸村もその真意が何処にあるかはよくわかりませんが、豊臣家のために最後まで戦ったイメージがあります。

真田一族、特に昌幸はまさに戦国武将らしい戦国武将だと言えますね。実力もさることながら、野望の大きさが見え隠れしているところ。そして武将として清々しい心意気を持っているところ。
昌幸が大阪城で采配を取って、家康と雌雄を決するところを見たかったです。
書き込みありがとうございます^^

>ハマーさん
確かに真田家の家系は戦国期ではかなり優秀ですね。
討ち死にした昌幸の兄達も武勇の誉れの高い人のようで。
内政・外交もおそらく幸隆は相当長けていたと思います。

忠義に関しても真田氏の面々は二君に使える気が無いといった感じで 。武田家滅亡以後、二度目の奉公から昌幸は人の下につく気が無い感じですね;大名としての自覚が芽生えたのかもしれません。
昌幸の不幸は一国一城の主になったときすでに上杉・北条・織田・徳川と周辺に大勢力が多かった点でしょうか。
かといって武田氏が滅亡せずに勢力を拡大していれば北信濃での景勝封じで名が残ったくらいなのかもしれません。
信幸しかり、真田氏の魅力は生き残りの美学につきますね。
幸村の討ち死は戦国時代の終焉というイメージを強く感じます。

>辻堂さん
上州領地獲得戦でいい籠城戦があれば是非紹介してくださいませ。
真田一族の篭城戦は見事ですな(^^
大好きであります。

真田親子が徳川方と豊臣方に分かれたのは、生きて死ぬのはただ一度なのだから親子といえども互いに己の信じる道を進もうと袂を分かつ事にした、という印象を受けますです。
昌幸殿は武田のお館さまが大好きだったし(だから武田家滅亡の原因になった戦いで、敵方の徳川が嫌いで豊臣方)、信之殿は武田の教えを受け継いだ家康殿に惚れこんだのですな。
謀略よりも一途さを感じます。
一度信じて決めた事はなにがあっても曲げない強情さが、それぞれの陣営で真田家のものが優遇された一因のような気がします。
信繁殿は豊臣方に参陣なさって見事に戦い抜いておりますが、安穏と暮らすことよりも華々しく戦い散ることを潔しとしたこの時代の武士を代表している感があります。
>えびっちさん
熱のある書き込みありがとうございます。
たしかに強情というのは真田に似合っていますね^^
武士の面目の重きを成す場所がほかの武将たちとは違った形で
実より名を惜しむ傾向が強いようにも思います。
そうでなければもっと昌幸も幸村も才をそれ相応に生かして安穏な余生を過ごしたと思います。

しかし名を守るためならば手段は選ばないところが一目置かれていたのかもしれませんね。
日本人はみなこのバイタリティーと高潔さに憧れるのでしょうか^^

>辻堂さん
岩櫃といえば昌幸が勝頼に退去を勧めた地ですね。
写真見ました。この絶壁はかなり籠城コミュとしてのハートを揺さぶりますね!記憶では岩櫃城も確か昌幸はうまく奪取したのではなかったでしょうか。
小松殿のエピソードを追加しました。
真田太平記での小松殿役を演じた紺野美沙子さんはひじょうに可憐です。
管理人はかなりファンです^^
ですので未見の方は必見ですよ〜!!
【犬伏の別れ】慶長五年(1600)7月21日

戦国魂トピックス
http://www.sengokudama.com/contents/060721.html
【第二次上田城の戦い】慶長五年(1600)9月6日
http://www.sengokudama.com/contents/060906.html
【第二次上田城の戦い】慶長五年(1600)9月6日
美濃へ向け中山道経由で進軍中の徳川秀忠が真田昌幸・幸村親子の籠もる上田城を攻撃するが、真田父子に翻弄され敗れる。

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