ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

大峰山コミュの「鬼」との関係

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
大峰山は皆さんご存じの通り、役行者が開山したという伝説があります。
役行者の弟子だったのが、前鬼、後鬼。
そこで「鬼」を巡る考察をここでご紹介。
皆さんのご意見・ご見解もよろしく。

コメント(16)

前鬼・後鬼は夫婦だったといわれ、5人の子どもがいました。
真義、義継、義上、義達、義元。
その後、この5人の子どもは修験者の世話をするようになりました。
五鬼熊(行者坊)、五鬼継(森本坊)、五鬼上(中之坊)、五鬼助(小仲坊)、五鬼童(不動坊)です。
しかし、明治維新の廃仏毀釈で修験道が禁止され、このために五鬼のみなさんはこの地を離れていきます。
いまは、五鬼助さんだけが宿坊を維持し、修験者の方々をお迎えしているとのことです。
ところで、「鬼」というのは柳田国男によれば、山人のことが多いようですね(「鬼の子孫」)。
深い山林を自由に闊歩する人たちで、自分たちを「鬼の子孫」だと自称する人は、各地にいらっしゃるようです。

京都の八瀬には、「鬼の子孫」と名乗る人たちがいるそうです。
八瀬童子といい、歴代の天皇の葬儀で、棺を担ぐことになっている人たちです。
江戸時代には皆さやさきを剃っていたのに、ここの人たちはいまの時代の私たちのように、頭の髪を伸ばしていました。

鬼といっても、上の点のない字で、本来「カミ」と呼ぶ字のようです。
鬼といえば、現代の私たちは頭に角が生えてヒョウ柄のパンツをはいた怪物めいたものをイメージしますが、古代では神や霊を表していたようです。
中国でも鬼は霊のことを意味しています。
亡くなることを「鬼籍に入る」と今でも言うように、霊になることをいいます。
鬼というのは、神に仕える人たちを意味するようですね。

http://www.shinchosha.co.jp/books/html/303015.html
母方が九鬼姓で、九鬼も修験道に深い縁があるので、ご紹介。
後醍醐天皇が吉野に逃れようとするとき、追っ手を追い払った功績で与えられた名前が九鬼。
ただし、この「鬼」の字もてっぺんのチョンがなく、カミと呼んだようで本来の読みは「くかみ」。
以来、九鬼を称するようになった、といいます。

修験道でも重要な地である熊野の、熊野本宮。
こちらの宮司は、ずっと九鬼がつとめています。
九鬼を名乗るようになったのは上記のように後醍醐天皇の頃からという言い伝えで、先祖をたどると、中臣鎌足。
このため、九鬼を名乗る前は藤原姓を名乗っていたのだとか。
 #この辺はどうなのでしょうね。
とにかく、熊野の宮司はずっと九鬼がつとめているようです。

九鬼は熊野の九鬼水軍が有名です。
織田信長と組んで毛利水軍を打ち破った、鉄甲船はあまりにも有名。
志摩のあたりの領主だったのですが、徳川幕府に恐れられ、摂津三田に移され、明治維新に至るまで、ここの大名となりました。

この九鬼家には、昔からおもしろい風習があり、節分では通常「鬼は外、福は内」と唱えるところを、「鬼は内、福は内」と唱えます。

はい、この辺で皆さんお気づきですね。
蔵王堂(金峰山寺)では、節分に全国から追い出される鬼をお迎えするため、「福は内、鬼も内」と唱えるそうです。
http://www.town.yoshino.nara.jp/kanko/gyoji/setsubun/index.htm
九鬼は修験道と深く関わっています。
熊野本宮の宮司さんが九鬼(ただし鬼の字のてっぺんのチョンがない)姓なのもありますが、摂津三田に移封された九鬼家も関係しています。

九鬼家には、真偽のほどは分かりませんが「九鬼文書」という古文書が保存されているといわれています。
「クカミ文書」と読むそうです。
天皇家発祥以前の歴史を書いてあったり、漢字が渡来する前の神代文字で書かれていたとか、かなり眉唾な話があるのでどうかな、と思いますが、この文書は九鬼家神道のことを記述したもので、九鬼家の神道へのなみなみならぬ自負を感じ取ることができます。

摂津九鬼家のこの文書はその領地内にある綾部に生まれた教派神道・大本教に深く影響を与えています。
大本教では出口王仁三郎が有名です。
「わにさぶろう」という読み方をされることが多いようですが、本来は「おにさぶろう」と読むようです。
「鬼」を意識していたのかもしれません。
ところで、熊野三社(熊野本宮大社、熊野速玉神社、熊野那智大社)は、出雲の熊野大社から移されたと伝えられています。
出雲は天皇家と同じくらい古い家系を誇っており、大国主をまつっています。
大国主は国津神(土着の神)の代表格で、天津神(高天原から日本にやってきた?征服民の神)に国を譲ったということが記紀(古事記、日本書紀)に書かれています。
確かに出雲大社は歴史が非常に古く、風土記(全国の歴史を書いたもので、多くが散逸)が残っている数少ない場所でもあります。

興味深いことに、熊野本宮は元々、熊野川の中州にありました。
1889年の大洪水で流されてしまったため、現在の山中に移されたそうです。
 #この大洪水では十津川村も大きな被害を受け、このために北海道への移住を余儀なくされ、「新十津川村」が誕生します。

出雲大社、伊勢神宮、熊野本宮。
これらはすべて海に面していたり、海から容易にたどれる川の中州にあったりしたことになります。
これらの神々は、海の民であったことが窺われます。
考えてみれば、天津神(あまつかみ)の「アマ」は、海を意味する「海人」(あま)という字も当たります。
天津神は海からやってきた人たちなのでしょうか・・・?
そして、出雲は国津神(くにつかみ)。
その出雲から勧請されたという熊野本宮。

このあたりで、神武天皇の東征の物語が連想されてきます。
神武天皇の東征は、古事記や日本書紀に描かれています。
九州は日向の高千穂にいた神武天皇は、大和(奈良)に進出を試みるのですが、豪族の抵抗に遭い、うまくいきません。
そこで熊野に回りこんで大和の地に侵入を試みます。
その際、熊野から大和までの道を案内したのが、八咫烏(やたがらす)。

この八咫烏、熊野本宮に行くと、三本足のカラスの幟を見ることができます。
十津川郷の人たちは、自分たちを八咫烏の子孫だと考えているそうです。
神武天皇の東征に大国主由来の出雲が助け、熊野に拠点(熊野本宮)を置き、八咫烏に象徴される山人たちが道案内をした、と考えるとおもしろいですね。
吉野、十津川は尊皇の強い地として知られています。
もっとも有名なのは、やはり南北朝時代の後醍醐天皇を助けた話です。
十津川郷の人たちは、この時代の功績を理由に免税されており、明治に至るまで免税の地とされています。
幕末には十津川郷士は尊皇の士として活躍しています。
もし、十津川の人たちが伝説通り八咫烏に関係する人たちであるとするなら、実に千数百年、天皇家と関わりを持ち続けている人たちであるということになります。

紀伊の山中には、熊野の九鬼家、十津川郷、吉野郷と、八咫烏伝説から続く天皇家との関わりがあるようで、非常に興味深いです。
京都・八瀬の八瀬童子が鬼の子孫と自認し、天皇家の葬儀の際には棺を担ぐという古来の伝統も、おもしろい。
もしかしたら、八咫烏は「鬼」の一人だったのかもしれません。

あるいは、こんな風に想像することができるかもしれません。
紀伊の山中に跋扈する鬼の一族が、修行する場が修験道であり、大峰山であった。
ところが古来の山岳信仰が衰え始めたときに中興の祖としてあらわれたのが役行者で、前鬼・後鬼はその指導に従った紀伊の山人たちだったのでは?という想像がふくらみます。
修験道が軍事訓練の一つであった可能性があります。
戦国時代、多くの築城で修験者が関わっています。
http://www.murocho.com/aji/kojyou/kojyou2.html
修験者は建築技術に優れており、大峰山の講でも、建築会社の方が多く参加しているのはそのなごりかもしれません。

八咫烏以来の伝統を守っていたのが修験道で、戦争技術を磨き上げるというのも大峰修験道のひとつの目的だったのかも?しれません。
鬼を考える際、大陸を無視するわけにはいきません。
秦漢の時代、巫鬼道というのが中国でさかんになっています。
鬼神信仰というべきもので、この場合、鬼は日本の八百万(やおろず)の神に近いとらえ方になります。
霊や、神のような存在として、鬼を捉えていたようです。

この時代、秦の始皇帝は不老長寿を夢見て、徐福に妙薬を得させようと日本に派遣した、という伝説があります。
徐福は、方仙道や巫鬼道の道者のようなものだったのでしょうか。

さて、この「鬼」信仰は、日本に渡ってきた可能性が十分に考えられます。
後漢が滅ぶのは、西暦200年頃。
戦乱が激しく、日本に亡命した人たちもいた可能性があります。
このころはヤマト王権ができはじめた頃と重なっており、神武天皇の東征伝説と重ね合わせて考えると、いろいろ興味深いです。

ついでに言及すると、八咫烏も日本独自のものではなく、中国では太陽には三本足の烏が棲んでいるとして、太陽の象徴であり、朝鮮半島の古墳にも太陽に三本足の烏を描いた壁画が発見されています。
八咫烏は、もしかしたら大陸から渡ってきた巫鬼道を行う人たちなのかもしれません。
だとすると、出雲大社や熊野本宮、伊勢神宮など、もっとも古い歴史を持つこれらの神社が海辺、あるいは海から航行が簡単な場所にばかりあるのは、もともと海外から来た人たちだから、という推測もできるかもしれません。
「天」(あま)が「海」(あま)と同音なのも、「天津神」(あまつかみ)がどこから来た人たちなのか、想像すると非常に興味深いことです。
後漢が滅んだ時代あたりに思いをはせると、興味深いことに思い当たります。
朝鮮半島の南の端にあった、任那の地です。
歴史の教科書でも、任那はヤマト王権の領地であり、それを守るために軍を派遣したという話も残っています。

しかし、これは考えてみると非常に不思議なことです。
兵法の基本から考えれば、日本からはるばる海を渡って、朝鮮半島の一部を支配したということは非常に難しいことです。
むしろ、任那の地にいた人たちが日本に亡命し、ヤマト王権を頼ったと考えた方が自然かもしれません。

日本と任那の関係で類似しているのではないかと思われるのが、イギリスとフランスの関係です。
イギリスは昔、フランスの一部を領有していました。
フランスからイギリスが追い出される原因となったのが、あの有名なジャンヌ・ダルクですが、イギリスはどうして、海を隔てたフランスの地を領有できていたのでしょうか?
実は、イギリスがフランスを征服したのではなく、フランスの一両種がイギリスを征服し、そこの王となって、フランスの領地もそのまま維持していたためです。
このヨーロッパの歴史の一ページと、任那と日本の関係を対比して考えると、おもしろいです。
任那をヤマト王権が支配していた時代は、ヤマト王権が成立したであろう時期と重なっており、ヤマト王権の由来を考える上でも、非常に興味深いことです。

任那と同時代に存在した高句麗の古墳壁画に八咫烏が描かれており、八咫烏と渡来人の関係は見るべきものがありそうです。
ヤマト王権の大陸との結びつきの強さは、今の私たちの想像を超えています。
ヤマト王権の貴族の内、3割が渡来人・帰化人であったといわれています。
秦氏(はたうじ)などもその例で、京都一帯を領し、後に平安京造営に深く関わり、建設・土木業に優れていた一族です。
渡来人、帰化人は大陸の優れた学問・技術を持っていたため、ヤマト王権は積極的に受け入れています。
大阪には百済神社というのがあり、ここは代々百済王の末裔が受け継いでいます。
百済から亡命してきた人たちは、大阪の百済郡を与えられてすんでいたのですが、洪水に見舞われたので、大阪・枚方市に移り住んだようです。

このように、ヤマト王権は大陸からの亡命者を積極的に受け入れていました。
ヤマト王権の成立、大陸での国家の興亡、大陸での巫鬼道や八咫烏、熊野などの紀伊山地で「鬼」(ただし上のチョンがない「カミ」)にまつわる話が多いことなど、考えてみると興味深い話が転がっています。
ヤマト王権が朝鮮半島から完全に手を引くことになった事件が、白村江(はくすきのえ)の戦い(663年)です。
ヤマト王権は早くに任那を失っていました(562年)が、滅亡寸前の百済がヤマト王権と結び、何とか国を立て直そうとしていたのですが、結局この戦いで百済・倭国連合軍は敗れ、ヤマト王権は朝鮮半島から完全に撤退することになります。

ここで疑問になるのは、どうやって朝鮮半島に軍勢を派遣することができたのか?ということです。
それなりの水軍をヤマト王権が整えることができなければなりません。
神武天皇東征の伝説が本当であれば、河内(大阪)から熊野まで移動する水軍が当時すでに存在していたということになり、それなりの水軍力が早くに整備されていたことになりますし、後の九鬼水軍に成長する水軍が、古代から熊野に存在したということになるかもしれません。
熊野が修験道の重要な地であるのは、水軍の兵士が陸上での戦闘技術を磨き上げる修行の場であったから?と考えるのも、おもしろいことです。

白村江の戦いの後、鬼室集斯という名の百済の貴族が日本に亡命し、近江蒲生郡に居を構えた、とされています。
この渡来人の名前にも、「鬼」の字があります。
いったい、「鬼」はどういった人たちなのでしょう・・・?
役行者の活躍した時代(634年伝-706年伝)を考えると、白村江の戦い(663年)とあながち無縁ではなかったのかもしれません。

熊野にすでに水軍が存在し、白村江の戦いのために兵士を送るのにも熊野の水軍が関係し、その修練の場が熊野・大峰山系であったと仮定したら、役行者の登場の意味が見えてくるような気がします。
白村江の戦いに敗れた倭国(ヤマト王権)は、大陸からいっさい手を引き、防備に努めるようになります。
太宰府に防人(さきもり)を置くのは、この頃です。

もしかしたら、白村江の戦いをきっかけに、熊野の水軍の活躍の場が失われ、存在意義が低下するといった事態が起きたかもしれません。
そうなると、大峰山系で軍事教練していた風習も、その意義を失ってしまうことになる。
方向を見失っていたこのときにあらわれたのが役行者で、山岳での修行を軍事訓練ではなく、山岳信仰として組み立て直した中興の祖だったのではないか、と考えられないでしょうか。
前鬼・後鬼はもともと熊野の修練場を司る人たちだったのが、役行者のこの指導に従い、山岳信仰としてこの地の活動を生まれ変わらせるのに助力したということではないでしょうか。
以上、「鬼」に関わる考察(連想?)を書き連ねましたが、まとめますと次のようになります。

・「鬼」は大陸と何らかの関係を持つ人たちで、古代に出雲の地に渡ってきた。
・「天津神」がその後、やはり大陸から渡ってきたとき、土着化していた出雲の人たち(国津神、大国主)が国譲りをした。
・神武天皇になぞらえられる王が九州の地から奈良・大和盆地へ進出する際、いったん大阪・河内から侵入しようとしたが失敗し、熊野からの侵入を試みた。この際、出雲から「鬼」が派遣され、熊野に拠点(熊野本宮?)を構え、「八咫烏」として先導、大和の地の征服に成功した。以後、熊野、大峰山系を基盤として、「鬼」は活躍した。
・任那を拠点として大陸との関係を続け、白村江の戦いでは熊野も水軍を派遣したのかもしれないが敗北、ヤマト王権は鎖国政策をとるようになった。このため、熊野、大峰山系の軍事訓練の風習は危機に陥り、方向性を見失った。
・そんなタイミングで役小角(えんのおずぬ)が現れ、大峰山系の軍事訓練を山岳信仰に立て直し、修験道を確立した。この際、「鬼」の人々の代表者であった前鬼・後鬼がその指導に従って修験道成立を助けた。
・「鬼」は天皇家との関係を忘れず、後醍醐天皇が吉野に移る際、十津川郷士や熊野本宮の中臣家が助力し、その際、中臣家は「九鬼」(くかみ)の名を賜り、以後、九鬼を名乗るようになり、熊野本宮の宮司はずっと九鬼が継ぐようになった。
・熊野の九鬼と縁の深い摂津三田の大名、九鬼家では、自分の出自を忘れずに修験道と深く関係し、その神職としての意識が大本教のような新興宗教にも影響した。
・「鬼」は修験者として各地の山岳地帯を根拠地として活動し、そのうちの八瀬童子も「鬼の子孫」として自認し、天皇家の葬儀の際には、棺を担ぐ役割を担い続けた。

以上のように、「鬼」は非常に古い起源をもつようです。
 面白いね。少し補足したいこともあるが、今日は、編集中なので、また、書き込みます。
 仁木、仁木、三木、三城、志木、磯城、五木、五城、久喜、久木、後城、善城、なども、元々ニ鬼、三鬼、四鬼、五鬼、九鬼、後鬼、前鬼などから転じた姓だと言われるね。

 今では、洞川の資料館からも姿を消してしまっているが、昔は、五大講の謂われから、その変遷についての資料も展示されていたものだが、それらは、今、どこに行ってしまったのか…?

 それともう一つ。天河弁才天社の宮司さんも、代々、九鬼姓の人がなさっているね。「天河弁才天社」は、芸能の神様で、今でも、歌舞伎役者や能の楽師が襲名したときなど、ここで奉納の演技を披露するそうだよ。

 それで思い出したが、「能楽師」は、白装束の山伏集団が築城術集団だとすれば、演舞しながらスパイ活動をしていた集団だったとの言い伝えもあるね。

 何れにしても、大峰山は、謎に包まれた部分が多い上に、後醍醐天皇や義経伝説まであって、興味の尽きない山だね…。

ログインすると、みんなのコメントがもっと見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

大峰山 更新情報

大峰山のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。