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STOP自己欺瞞コミュの自己欺瞞関連の文章

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自己欺瞞関連の文章やセリフで心に残るものがあればあげてください。

コメント(4)

福田恆存氏は、昭和51年に三百人劇場で行った連続講演(「処世術から宗教まで」)の中で、われわれの行為をすべて処世術に還元して考えてみることを勧めている。われわれは処世術を卑しいものとして軽蔑するが、それは往々にしてわれわれを浅薄な理想主義に閉じ込め、低次元の正義感や道義心と現実との間に齟齬を生じさせ、結果として自己欺瞞に陥れるということになる。だから、道徳の問題を一旦括弧に居れ、身の回りの問題をすべての処世術の、損得の問題に還元してみてはどうかと言うのだ。あらゆることを、自分にとって損か得かという観点からのみ判断し、それだけを指針として行動する。これをぎりぎりまで推し進めると、われわれはそこに荒涼たる光景を見て耐えられなくなるだろう。そのときに初めて、処世術だけでは片のつかない問題の存在を感じ取ることができるのではないだろうか。

香西秀信 議論術速成法 あとがきより
同じく香西秀信の今回は「修辞的思考」より。

第四話ー自己欺瞞の文法的特長:中島敦「山月記」

そのものずばりのタイトルである。この章に限らず、全体にとても面白くためになるので、ぜひ、実際手にとっていただきたい本だが、私が自戒を込めて、印象的だった部分をあげてみる。

---以下引用---
 そもそも人はなにゆえに告白ということをするのだろうか。その動機は様々なかたちをとって表現されるかもしれないが、根本の理由は、自分の「真の」姿を誰かに知ってもらいたいということではないか。動物ならば、ただ生きているだけでいいだろう。が、人間の場合は、それだけでは満足できない。自分が生きたという事実を他の者に知ってもらいたい、自分の存在を他人に認めてもらいたいのである。なぜなら、自分の存在の確認というのは、ただ他人によってのみ可能だからだ。つまり、他人に認識されなくては、自分という人間は存在しないことになってしまうのである。
が、ここでひとつ問題がある。人が、告白という形式で他人に知らせようとする「真の」自分とは一体何なのだろうか。おそらくそれは、現実の、「あるがまま、あったがまま」の自分ではないはずだ。なぜなら、「あるがまま、あったがまま」の自分であれば、それは他人によってすっかりお見通しであり、わざわざ告白する必要もないからだ。だから、告白という形式によってしか語られない「真の」自分とは、他人の目には見えない「本当の」自分、あるいは、現実には存在しないが、本来ならばそうで「あるべき、あるべきだった」自分であろう。彼らにとっては、これこそが「真の」自分の姿なのである。つまり、自分の「真の」姿というものは常に他人の目には見えないものなのだ。だからこそ彼らは告白を必要とするのである。(中略)柄谷行人氏は、次のように書いている。
「・・・なぜいつも敗北者だけが告白し、支配者はしないのか。それは告白が、ねじまげられたもう1つの権力意思だからである。告白はけっして悔悛ではない。告白は弱弱しい構えのなかで、『主体』たること、つまり支配することを狙っている。」

---引用終わり---

私はすべての告白がこういう意図のもとに行われるとは思わない。しかし、告白には自己欺瞞の誘惑がつきまとうものだ、という認識は必要かと思う。

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