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癒しの森コミュの手書きのはがきメールを年に4万通も書いてる人が・・・!

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私の2009年07月17日の日記からの転載ですが、『生涯青春の会』のみなさんにも紹介したいと思い転載しました。
 世の中には、一つの事に熱中している人がいるものですねぇ。
このミクシィにもハマりますが・・・、現代の若者から携帯電話を奪う事ができないといわれています。四六時中携帯とにらめっこしてメールのやりとりをしているのをみかけますよね!
ところが、69才の老人がメールにハマっているのです。
つい最近のNHK-BSで放送されていた『熱中夜話』でその人の熱意に感服しました。
広島県安芸市に住む坂田道信(家業は専業農家)さんは、携帯とかパソコンではなく、手書きのはがきによるメールを年間に4万通近くも書き続けているのだそうです。
一日の平均でいくと、3・40通のはがきを知人に書き送っているのです。毎朝午前1時頃から起床し、はがきを書きはじめ、数十通を書き、書き終われば、近所にポストがあるのに、マイカーに乗って4K先にある地域の親郵便局に持っていって書いたはがきを投函するのです。そうすれば少しでも早く相手に届くからだというのです。帰ってきてから、奥さんと朝食(8:00)をとるのです。
 午前10時半、坂田さんの家にも郵便局からはがきが届かられますが、その数も毎日30通以上も届きます。
その届いたはがきの1通1通を11時近く迄丁寧に読むのです。
そんな生活をしている坂田さんの自宅の屋根裏部屋には、ところせましと、これまでに届いたはがきがきちんと整理されて保管されてあるのです。
 過去40年間に届いたはがきの数やなんと50万通だというのです。昼からも時間があればはがきに眼を通します。こうして午後8時には床につきます。そして、夜中の1時に起きて・・・・の連続なのであります。
 たくさん送るのが趣味なら電子メールがあるのに、どうしてはがきにするのかと言うと『時間と手間をかける事が値打ちがあるのではないか』と考えての手書き通信を選んだというのです。ふだんはがきや手紙を書かない人でも年賀状は出すという人も世間にはいますが、坂田さんともなれば、年賀状の数も半端ではありません。その年賀状の数たるや2万枚だとか・・・!2万枚ですよ!そいういうことですから、自分に届く年賀状も多く、配達されてくる時には段ボール箱にいれられてくるのだそうです。来た年賀状に対しても、きちんと返事を書くので、年賀状の礼状を書き終わるのがいつも4月になってしまうそうです。
 年賀状のために、毎年5月から貯金をし、その年賀状の購入費が100万円以上かかるそうです!企業等の宣伝や営業でもない一個人で、年賀状費用に100万円を使う人が他にいるでしょうか!?その費用の捻出の為に、他の無駄遣いは一切しないそうです。
 もっと驚いたのは、出しっ放しではなく、書いている通信文はカーボン紙を敷いてボールペンで書き、その写し文もこれまた全部保管してあるというのですから徹底していますよね。
『何でそこまでするのですか?』の問いには、『はがきこそは自分のこころ歴史の記録になるからです』とのことでした。はがきの文章の内容は、どれもこれも、毎日の出来事をしるした日記のようなさりげない素朴な文章なのです。1通のはがきの所要時間も3分程で書けるとのことです。
 では、広島の山奥に住む坂田さんが、「はがき熱中人」になったきっかけはと訊くと・・・
 農協の講演にきた哲学者森信三の話に打たれたからだというのです。

*森信三=出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
森 信三(もり しんぞう、1896年9月23日 - 1992年11月21日)は、哲学者・教育者。
人物 =1896年(明治29年)、愛知県、知多半島の武豊(たけとよ)に父・端山(はしやま)俊太郎、母・はつの三男として生まれる。2歳で岩滑(やなべ、現在の半田市)の森家に養子に出され、以来森姓となる。1920年(大正9年)広島高等師範学校英語科に入学、福島政雄・西晋一郎に学ぶ。1923年(大正12年)、京都帝国大学哲学科に入学し、主任教授西田幾多郎の教えを受け、卒業後は同大学大学院に籍を置きつつ天王寺師範学校(現大阪教育大学)の専攻科講師となる。1939年(昭和14年)に旧満州の建国大学に赴任するが、敗戦後の1946年(昭和21年)に帰国、1947年(昭和22年)個人雑誌「開顕」を創刊、1953年(昭和28年)、神戸大学教育学部教授に就任。同大学退官後の1965年(昭和40年)には神戸海星女子学院大学教授に就任。1975年(昭和50年)「実践人の家」建設。1992年(平成4年)逝去。おもな著書に『修身教授録』『哲学叙説』『恩の形而上学』などがある。 半田市名誉市民。半田市がつくった新美南吉記念館の一室に森信三記念室が設けられている。
森信三はその生涯から「人生二度なし」の真理を根本信条とし、「全一学」という学問を提唱した。
「全一学」とは、
・ 東西の世界観の切点を希求するもの
・ 宇宙間に遍満する絶対的全一生命の自証の学
・ 世界観と人生観との統一の学など12項目以上の定義にもとづくもので、要約すると「宇宙の哲理と人間の生き方を探求する学問」となる。 森はこれらの思想をもとに全国各地で講演を行なうとともに自ら実践を重ね、日本民族再生に大きく働きかけた。森の理論は実践から生まれた具体的なものが主で、「立腰」論はその最たる例の一つである。「立腰」論とは「腰を立てる」の意で、森はこれを「人間に性根を入れる極秘伝」としている。
語録=人間の一生(読み人知らず)
 職業に上下もなければ貴賤もない。世のため人のために役立つことなら、何をしようと自由である。 しかし、どうせやるなら覚悟を決めて十年やる。すると二十からでも三十までには一仕事できるものである。それから十年本気でやる。 すると四十までに頭をあげるものだが、それでいい気にならずにまた十年頑張る。すると、五十までには群を抜く。しかし五十の声をきいた時には、大抵のものが息を抜くが、それがいけない。「これからが仕上げだ」と、新しい気持ちでまた十年頑張る。すると六十ともなれば、もう相当に実を結ぶだろう。だが、月並みの人間はこの辺で楽隠居がしたくなるが、それから十年頑張る。 すると、七十の祝いは盛んにやってもらえるだろう。しかし、それからまた、十年頑張る。するとこのコースが一生で一番面白い。
 この森信三が、『人には声をだして挨拶をし、返事をすること。そして、はがきを書く事です』という言葉に坂田さんは感動し、「それぐらいなら自分でも続けられる」と思ったのだそうです。
 坂田さんは、生まれた家も貧しく、虚弱体質で大人になる迄もたないとも言われていた境遇だったそうです。家業を継いだときでも家にテレビがなかったのは自分の家だけだったとか。先妻には先立たれましたが、29才の時に森信三の講演で彼の人生がかわったのです。最低限の生活以外は、はがきを書く費用にあてていろんな人にはがきを書くようにしていったのだそうです。周囲の人も最初は「はがきばかり書いてなにしてるんだろうねぇ」と笑っていたそうです。坂田さんにとっては、多くの人と、はがきで心の交流ができることが掛替えのない喜びになっていったというのです。最近では、「はがきを書き続ける人」として有名になり、あちこちで講演依頼がくるようにもなり、そのおかげで、親しくなった文通相手の女性と再婚もできたというのです。

 この『熱中人』という番組でとりあげられていた森信三という哲学者が、関西の教育界でも有名な人だったことをおかげで知る事ができました。
森信三研究会( http://web1.kcn.jp/syushin/ )

みなさんも、手書きとは言わず、このミクシィのブログででもいいですから、できるだけ多くの人と交流をしていきましょう!

コメント(2)

りゅうぞうさん

「その年賀状の数たるや2万枚だとか・・・!2万枚ですよ!そいういうことですから、自分に届く年賀状も多く、配達されてくる時には段ボール箱にいれられてくるのだそうです。来た年賀状に対しても、きちんと返事を書くので、年賀状の礼状を書き終わるのがいつも4月になってしまうそうです。 」

 凄い人もいるものですね。私はアメブロに1日5題の情報を配信していますが、
この人の葉書の分量からしたらたいしたことではありません。
 りゅうぞうさん
 「年賀状の購入費が100万円以上」ですか、、、、。
 年賀状以外にもハガキを書いているのですから、総費用は何百万円もかかっているのでしょうね。さすがにマネをしたくてもできない境地です。

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