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感動の映画ランキングコミュの映画「許されざる者」とシモーヌ・ヴェイユ

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★ 悪に対立するものとしての善は、ある意味では、対立するすべてのものがそうであるように、悪と同質である。(シモーヌ・ヴェイユ、重力と恩寵:悪)
★ 悪が犯すのは、善ではない。善は、侵すことができないものだからである。ただ、堕落した善が侵されるにすぎない。(シモーヌ・ヴェイユ、重力と恩寵:悪)
★ あるひとつの悪と直接対立しているものは、高次の善の次元に属するものではない。それは、たいていの場合、悪とすれすれのところにあるものが多い。例として、盗みとブルジョワにおける私有財産の重視、姦淫の女と〈貞淑な女〉、貯蓄と浪費、嘘と〈きまじめさ〉など。(シモーヌ・ヴェイユ、重力と恩寵:悪)
★ 道徳と文学。わたしたちの現実の人生は、四分の三以上も、想像と虚構から成り立っている。善や悪と本当に接触するなどということは、稀れにしかない。(シモーヌ・ヴェイユ、重力と恩寵:幻想)
★ 苦しみは、過去と未来との関係を除くならば、なんでもないものになってしまう。だが、人間にとっては、この関係ほどにいきいきした現実がほかにあるのだろうか。それは現実そのものなのだ。未来。それは、明日やってくるだろうと、人は思っている。それがもう決してやってくることはないだろうと、思うようになるまでは。・・・・・。(シモーヌ・ヴェイユ、重力と恩寵:不幸)

上記は、シモーヌ・ヴェイユの「重力と恩寵」(田辺 保訳)のうちから、わたしが抜粋転記したものである。
それは、映画を観るときにとても参考になるからである。

映画をどのように観て、どのように感動するかは人によって違う。わたしは「映画は観たいようにみればいい」とおもっているが、「映画はこう観てほしいなあ」という映画制作側の期待もある。また、映画はその制作側の思いを超えるものとして「観せる場合」もある。
それはたいがい「観る側」にあるそのときの事情や問題意識などがそうさせる。
例えば、上記の「文章」をわたしが読んでいたり記憶していたり、考え方として類似していたりした場合、観る側は「驚くような観方」をするものである。
では、どのようにその映画がわたしに「観えた」かを、映画クリント・イーストウッド『許されざる者』を例にとって、かいつまんでみよう。

シーンは、イーストウッドとそのふたりの子供が“実りの少ない土地”で、亡き妻に黙祷(または礼拝)することから始まり、最後のシーンもそこに還っていく。ただし、「イーストウッドはその後、異国の地にて成功し富を得た・・・」というナレーションがつく。

物語はその「黙祷」と「黙祷」の間で展開する。
イーストウッド演じるマーニー、元は「非常のガンマン」であったが、妻に(または妻の信仰心)によって“真人間”になり、どうしようもない窮状のなか子供たちと暮らしている。“何とかしなければならない”ときっとおもっている。そこに、若きガンマン(指向者)が「賞金稼ぎの報」と「仲間誘い」にやってくる。どうもその情報によれば、娼婦がカウボーイに“切り刻まれて”、その姉貴分や仲間が賞金を出す、とのことらしい。そこでイーストウッドは『それはとうてい許されるものではない』と考えて、ふたたび「ガンマン」になる。このとき、「それはとうてい許されるものではない」というのは「ガンマン」に戻るための言い訳でしかない。

つまり、【悪に対立するものとしての善は、ある意味では、対立するすべてのものがそうであるように、悪と同質である。(シモーヌ・ヴェイユ、重力と恩寵:悪)】である。そうである。イーストウッドはこのとき、意識したかどうかは別にして、「悪と同質」になろうとしている。「悪」に拮抗できるのは、また「悪」である。現代の歴史はそのことをまざまざと物語っている。

彼は、親友であり黒人であり、いまはインディアンの女生と“ひと”として生きている、これもモーガン・フリーマン演じる元ガンマンを誘う。彼が共に去るときの、そのインディアンの女性の瞳と表情はすでに「諦め」である。

その街には、法を盾にとった保安官がいて街を牛耳っている「悪」、ジーン・ハックマンがのさばっている。シモーヌ・ヴェイユが他の項目でいっていることだが、「悪」には「隷従」しか“眼に入っていない”。つまり彼にとっては、街は「隷従の者」ということになる。そして、それは“おれが、すべての法だ”ということである。

娼婦が「切り刻まれた」のは、カウボーイのいちもつを「小さいと笑った」ことによる。(そういうことを言ってはいけないよ!)。しかし、その保安官の裁量がとても「集団」としてのカウボーイに対してあまりにも寛大であったので(悪はそのようにでるものだ)、憤慨したのである。

さて、ストーリーを追ってもしょうがない。
ともかく、イーストウッドはその「善」を全うする。
保安官を撃ち殺す。
ジーン・ハックマン演じる保安官は、「死」の状態から、イーストウッドに背後の最後の銃を向ける。イーストウッドはふたたび撃つ。
このとき、無理にわたしはもってくる。
【悪が犯すのは、善ではない。善は、侵すことができないものだからである。ただ、堕落した善が侵されるにすぎない。(シモーヌ・ヴェイユ、重力と恩寵:悪)】。
保安官は、「悪」として死んだのであろうか、または「善」に還ろうとして“自殺行為”に及んだのであろうか?ここがとても不可解な場面にわたしには観える。
でもこのとき、「許されざる者」(Unforgiven)は、イーストウッドとハックマンの「境」を無くする(または逆転する)ように観える。

途中、モーガン・フリーマンはこの「賞金稼ぎ」に“嫌気”がさし「抜ける」のであるが、このモーガン・フリーマン演じる元黒人ガンマンは、「ひと」であったために、けっきょく「隷従」しか“眼に入っていない”保安官、ジーン・ハックマンによって「なぶり殺し」にされる。モーガン・フリーマンの“嫌気”とは、このとき、「善」に還ったはずのイーストウッドが、実は未だに非常な「ガンマン」であることを、つまり、ジーン・ハックマン演じる「悪」とさほど変わらないことに気が付いたからのようにみえる。
他方、カウボーイをトイレ(わたしは釣りで行ったアメリカ西北部で何度もこのトイレを経験した。どうしても馴染めなかった)で仕留めたものの、その「経験の大きさ」(または罪の呵責?)からか、吐き気を覚えて去る。

さて、最後のシーンに至るシーン。
イーストウッドは、馬に乗り手に松明をふり、こういう。
たしか、『許されざる者よ。女子供に手を出すな。もしまた手を出したらおれが皆殺しにしてやる!』ってなものであっただろうか。
【あるひとつの悪と直接対立しているものは、高次の善の次元に属するものではない。それは、たいていの場合、悪とすれすれのところにあるものが多い。・・・・・(シモーヌ・ヴェイユ、重力と恩寵:悪)】。

見送る娼婦たち。
みんな、そのイーストウッドに感謝している。でもその感謝は、【悪に対立するものとしての善は、ある意味では、対立するすべてのものがそうであるように、悪と同質である】ことに対してである。しかし、切り刻まれた娼婦だけはイーストウッドが実は「ひと」であり「善」であるとおもっている。

最後になぜ、「イーストウッドはその後、異国の地にて成功し富を得た・・・」というナレーションがつくのだろう?
それは、それこそわたしの“読み過ぎ”なのだが、けっきょくイーストウッドは「神」に追われることになる。だから、信心深かった妻のことを鑑みて、情状酌量としての「異国の地」に“移した”か、あるいは、その後「ひと」として生きようとしたイーストウッドを神は疎んじて「送った」のかもしれない(わたしの最後の晩餐異聞、および、シモーヌ・ヴェイユの諸々を参照されたし)。


さて、わたしも去っていこう。
【苦しみは、過去と未来との関係を除くならば、なんでもないものになってしまう。だが、人間にとっては、この関係ほどにいきいきした現実がほかにあるのだろうか。それは現実そのものなのだ。未来。それは、明日やってくるだろうと、人は思っている。それがもう決してやってくることはないだろうと、思うようになるまでは。・・・・・。(シモーヌ・ヴェイユ、重力と恩寵:不幸)
】と。

映画は、とくに西部劇は物語において単調ではあるが、意外なところに製作者の「思い入れ」がある。例えばわたしが先日書いた『ペイルライダー』が、実は一方で「黙示録」をもっていたように。また、観る側の思惑はとんでもなく“膨らむ”ものである。

シモーヌ・ヴェイユのことばと『許されざる者』をだれが想像できるであろうか。

『いやあ、映画ってほんとうにいいものですね。それではみなさんさよなら、さよなら、また来週!』(古すぎるかなあ!)

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