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【FREE TIBET】チベットコミュのチベットと日本は国交があったというのはガセです

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かつて日本が大東亜戦争中、「同じ仏教国だから」という理由だけで羊毛を
送ってくれたのがチベットです。

チベットは一貫して「中立」を守り、日本との国交は変わらず続けられていました。

当時の日支戦線において、支那はアメリカから武器弾薬等をビルマ経由で輸入
していましたが、このルートが日本軍によって絶たれた後、連合軍側はヒマラヤ
越えのチベット・ルートを開こうとたしました。

しかし、先代のダライ・ラマ13世はあくまでも「中立」を貫き、アメリカ大統領特使の
強硬な度重なる要求にも断じて応じませんでした。

日本との国交を継続していたチベットは、なんと国際舞台で「敗戦国扱い」をされる
ようになってしまいました。

それが支那の共産党につけこまれ、皆さんもよくご存知の現在のチベットの状況に
つながっています。

あれから日本は魂を抜かれた国家と成り果てました。
・・・・・・・・・・・・
という文章や
それをもってくだいた文章を

http://yeisu.hp.infoseek.co.jp/matome/tibet/tibet.html

ネットなどで目にしますが、ガセネタなので注意しましょう。

残念なことに日本とチベットはいまだかつて国交(国交とまでもいかなくても、それに準じるほどの交流も含め)をもったことはありません。
こちらをどうぞ

http://anond.hatelabo.jp/20080322120813

羊毛ネタのもとネタは木村肥佐生のチベット潜行十年」(中公文庫)でしょう。木村氏はすでになくなられましたが、第二次世界大戦中〜後、日本政府の特務としてモンゴルからチベットに潜行されていた方です。戦後にもチベット難民のためにいろいろ尽くされました。

以下引用
******************
日本に帰国後、多田等観先生から伺った話によれば、多田先生がツァロン大公宛の手紙の中に、
「支那事変が始まって以来、日本に羊毛の輸入が途絶えて困っている」と書き送ったところ、カルカッタからアメリカ向けに輸出していたチベット羊毛を、彼は解約して、無償で横浜に積みおろさせたため、汽船一杯の羊毛の引取り手を探して大変な思いをした、とのことであった。(文庫版p223)
***************

チベットから羊毛が送られてきたのは事実ですが、ツァロンというチベットの大富豪(セブン・イヤーズ・イン・チベットにも出てくる)が多田等観というチベット学者とのつきあいのなかで、義侠心にかられて個人的にやってくれたことです(汽船一杯分ね)。

別に恩返し云々でなくても、チベットをサポートする理由はいくらでもあると思います。

コメント(33)

そしたら
チベットが「第二次世界大戦の敗戦国」になったって話もデマってことですよね
なーーーんだ

仏画美術館
http://homepage3.nifty.com/~dennoji/t_gallery.htm

このサイトのチベットの小学校の生徒に対して出される宿題、「殺生の実践」もやはりデマなんでしょうか。
本当だったらとても恐ろしい話だと思います
>このサイトのチベットの小学校の生徒に対して出される宿題、「殺生の実践」もやはりデマなんでしょうか。

私個人はこのエピソードそのものは聞いたことはありませんが、
酷い拷問の話は被害者の方々(文革や1989年のデモ当事者など)から直接聞きました。
う〜ん。なるほどです。
するとやはりここは国が動かないなら民間で☆
というところですね。

なんとかチベットの人たちに、日本のみんなはチベットの独立を応援してるよ!って言うことを伝えられたら、きっとすごく心強いでしょうね〜。
みやさん

89年だかのデモで投獄された尼さんが、アムネスティや世界の人権団体が自分を支援(良心の囚人としてリストアップ)されているのを知って、すごく励まされたといってました。手紙や署名は無駄にはならないようです。
成る程。

しかし個人的なやりとりであっても、ありがたいことには変わりないですね。

確かに羊毛云々の出来事があろうがなかろうが、
チベットを支援したいという気持ちに変わりはないです
活動ももちろん変わらず続けたいと思います。
羊毛なんかより、ダライ・ラマ十三世が多田等観に持ちかえることをゆるしてくれたデルゲ版西蔵大蔵経のほうがずっと日本のためになってますよ。日本のチベット学の源のひとつ
これはもう少し書き方を工夫してもらいたかったような気が‥

確かに「国交があった」というのはガセでしょうが、元ネタはいくつもの事項がセットになって一群としてイメージされる文章なので、独立していたことや中立を守ったことまでごっちゃにガセだったのかと思ってしまいます。
チベットの個人がかつて日本に手を差し伸べてくれたように、日本政府が何もしなくても、日本の一個人である我々がチベットに出来ることをすればいいと。
国交はなくても、それだけの交流があった、と。
チベットが実質的には独立国家だったことは確かです(それを認めてた国がほとんどなかったのが悲劇ですが)

確かに第二次世界大戦中、チベットは中立を保ちましたが、特に日本を支援するために
はではありません。
当時のチベットは半鎖国状態あり、外国文化の影響により自国の文化が汚染されることをいたく恐れて

いました。ダライ・ラマ十三世による近代化政策も、僧院勢力の抵抗で骨抜きになりました。
西洋人がチベットに足を踏み入れるのは、チベット政府から特別の許可なくては不可能な時代であり、チベットで英国人が病気にかかったとき、病人をインドに運ぶために飛行機をとばしたいと英国政府が交渉しても、断られる時代でした(結局死亡)。そんな半鎖国の国チベットが武器輸送の飛行機を自国の領土を通過することを許すはずもありません。

>しかし、先代のダライ・ラマ13世はあくまでも「中立」を貫き、アメリカ大統領特使の
>強硬な度重なる要求にも断じて応じませんでした。

まずダライ・ラマ13世はすでに亡くなってます。現ダライ・ラマの幼い時代(摂政の時代)でした。
要求に応じなかったのも、特に仏教国・日本を支援したかったからではなく、半鎖国状態だったからなのは以上のとおり。
「アメリカ特使の強硬な度重なる要求」とあるますがアメリカ特使がチベットを訪れたのは一度のみ(1942年末)。でもまあ、中国と英国がかなりうるさく圧力をかけたのは事実。

>日本との国交を継続していたチベットは、なんと国際舞台で「敗戦国扱い」をされる
ようになってしまいました。

ここの部分はまったくガセです。

ちなみに第二次世界大戦がおわるとチベット政府は、
連合国側の勝利を祝すために使節団をインドに派遣して、イギリスとアメリカに祝辞と贈り物をおくってます。これをみても、チベットが特に連合国側ととくにことをあらだてる気はなかったことはわかるはずです。

ネットに流布している文は、

?第二次世界大戦中、チベットは日本を助けてくれた(結果的に日本は助かったかかもしれないが、チベットに特にその意図があったとは思えない)
?そのためにチベットは国際社会から準敗戦国扱いにされ、ついには中国に占拠されるにいたった(ガセ)
?その恩を日本人はどうして思い起こさないのか、さあ、日本人もチベットのために立ち上がろう

という趣旨だとおもいますが、ちょっと調べれば間違いだとわかるような事実のならんだ文章をインターネット上にまきちらすのが真のチベット・サポーターとはとても思えません。



ああ、それと、まったく関係ない話で申し訳ありませんが
ちまたではやっている「チベット体操」なんつーものは、実はチベットにはありませんので。


先日、ペマ・ギャルポ氏の講演を聴きましたが、このようなことを話してました
(記憶とメモ書きなので詳細は曖昧ですが)。

・太平洋戦争中に在上海アメリカ領事館は、日本がチベットに武器を送ったという日本人の書いた書簡を保持していた
→何に対してのものかはペマ氏は話していたけれど忘れた。
→現物or記録が現在アメリカの○○大学にあるとのこと(失念)。
→機関銃140丁、鉄砲の弾1000個etc...数は少なかったが、日本とチベットには確かに国交があった証拠、とのこと

・チベットはずっと中国の一部だというのなら、太平洋戦争時にチベット人が出兵していたはずだが、実際は誰も行っていない(チベットは独立国であるという証明)
→第3次インドシナ戦争時はチベット人は中国軍として出兵した(侵略後だから)
→矢島保治郎氏とチベット人である婦人との間の子供は太平洋戦争で亡くなっている
(半分チベット人の矢島氏の息子は日本のために戦争で死んだ)
→チベット人は日本人を殺していない。

ペマ・ギャルポ氏の本は「チベット入門」しか読んでないのでわかりませんが、
他の著作本にはこのことが書いてあるのでしょうか?

チベット国旗については、雪獅子が描かれたチベット軍旗にもともとある図柄で、青木氏は背景の赤と青の放射部分などを考案した、とのことです。

沖縄については、月刊「中国」の編集長の方が「今、沖縄は中国人だらけです。中国人は沖縄の占領はほぼ完成したと思っています。次はあなたたちの番ですよ。いいんですか?」と言ってました。

私は純粋に『free Tibet』です。
ペマ氏の話を聞きたかったので、行きました。
中国のことを「シナ、シナ」「歴史的呼称で差別ではない」という人たちには
違和感があります。チベットが関与しない日中問題をfree Tibetに重ねるのは違うと思っています(記者協定には異議あり)。

余談ですが、他のパネラーの方は、それぞれの立場で、しっかりとチベット問題について主張されてましたけど、聴衆(95%ぐらい)と西村真悟議員、チャンネル桜の代表の方はFree Tibetというよりも、反中共を主張していました。
>各国自分の所も綺麗しなきゃ

歴史的事実に目を向けることは重要ですが、
過去に行ったことを「きれいにする」って、いったいどうしろと?

アイヌの事を持ち出して
「日本人はかなり汚い国民性」
っていうレッテル貼りはいかがかと思います。
「日本人も含めた、人間という種類の動物は」ってんなら話は別。
どこの民族だって、歴史遡ればみんな、人の皮はいだり首切ったり
そういう歴史を持っているのは事実でしょ。

つまらないレッテル貼りのせいで

>この事とは別に中国にはしっかりクレームつけましょう

最後のこの言葉が、非常に説得力を欠いているように思われます。

本屋で目の前の子どもが万引きしてるのを注意するに当たって、
自分の先祖に万引きの経歴があるかどうかを調べることは
全く重要ではないし、
ある家系に万引き常習犯が何人かいたとして、
「あの家系は万引き家系です。」
って決め付けることに、意味があるのか?そういう話に思えます。

アイヌの歴史は重要かもしれない。
けれど、それを、今ことさらに持ち出して
「日本人は汚い国民性」
とか
「各国自分の所も綺麗しなきゃ」
とか
なんだか、ものすごい違和感感じます。

客観的な自己分析は重要です。
自虐には百害あって一利なしです。
(ギャグの技法としてはおもしろいかもしれませんが・・・)

Freeチベット
私は、チベットが好きだからそれを叫ぶのではありません。
目の前の犯罪行為を見てみぬ振りをして、それでいいのか。
そういう思いに動かされています。
22さん ありがとうございます。

まぁ、私も、昨日今日このコミュニティーに参加したばかりの新参者で
ろくに知識もないくせに感情論だけを書きなぐってしまったわけですから
馬鹿よばわりされても致し方ないですね。
申し訳ありませんでした。

ひとまず、お知らせいただいたトピックはざーっと拝見させていただきました。

私は現在鹿児島県の離島に住んでいます。
過去、琉球王朝の支配下にあり、薩摩の侵略を受けた歴史を持つ地域です。
歴史的な背景からだけいえば、今、地元の方言も、文化も、習俗も
確実に消えようとしていて、地元民にとっては、大きな大きなジレンマです。
大和民族による、現在進行形のソフトな文化侵略、同化政策・・・
っとも言えないわけでもない現場で暮らしているわけです。

申し訳ありません、アイヌの方のお気持ちは察することなどできかねますが・・・

うちの島の50代以上の方は、今でもみんな家族同士、友人同士の間では
方言で会話しています。
多くの親が、子どもに琉球舞踊やエイサーを習わせています。

同時に、多くの家が、祭日には門に日の丸を掲げます。
行事の際には、君が代を歌わない生徒はいないし、
不起立なんてありえません。

侵略を受けた歴史・・・消えていく島の文化・・・

けれど、島の人たちは、決して日本を恨んでなどいない。私はそう思います。
少なくとも、私が住む島の人たちの多くは、胸を張って、
自分は日本人だと言うでしょう。

チベットとうちの島は、同じようには語れない。
アイヌとうちの島とも、同じようには語れない。

それは当たり前だと思います。

ただ、現在進行形で行われている虐殺
これに対しては、決して、妥協する余地の無い問題なのではないかと・・・

長くなってすみません。
また、馬鹿者扱いされてしまうかな。ははは・・・
途中まで読んで工作員かと思いましたが

>別に恩返し云々でなくても、チベットをサポートする理由はいくらでもあると思います。

の一文を読んで安心しました。
今、地球上で殺戮が行われている。
それを何とかしたいと思うのに理由はいりませんよね。
「ダライラマの政治哲学」という本に、たしかルーズベルト大統領とのダライラマの外交文書のやりとりが掲載されていたと記憶します。

とすれば、チベットは、少なくとも外交の意思を持った主体であるとは、アメリカ等に認識されていたのではないでしょうか。

「国交があった」という文言を厳密に解釈するとしたら、いろいろ議論の余地はあるかもしれませんが、チベットが戦時中に日本に中立を保とうという意図を持った民族であり自治組織だったのは事実と思います。

その恩義や歴史は、やはり日本人として認知しておくべきではないでしょうか。

なお、トルコも、第二次大戦の折、中立を保ってくれたそうですよね。
その恩義は、忘れてはならないと思っています。
チベットと日本に国交があったかについて

ウィキからのコピペですみませんか゜
国交は、互いの国が相手国を主権国家と認める国家承認を前提として行なわれ、その結果互いの国に自国の大使館を開設し、大使を始めとする外交官を駐在させるのが通常である。

だそうですが、そこまでいかなくても、

?共産中国がチベットを占拠するまで、ラサに代表部をおいていたのは
英国・ネパールなどです(ブータンとモンゴルもあったかもしれないか忘れた)
?中国国民党の代表部あったが1947年に追放されてしもた(それまであった)。

チベットは半鎖国状態とはいえ、英国やネパールの代表部をおくことを認めていたので
国交とまではいかなくても、もしそれに準じる交流が日・チベットにあったら、代表部くらいラサにおいててもいいはずです。また、あまたの資料が双方に残されているはずです。
しかし、1951年まで、チベットにはいった日本人は今まで確認されているだけで十人しかいません。
 だから、1951年までのチベット人と日本人の交流は国交といえるほどのはなかったといっていいとおもいます。
 
軍旗について

「秘密の国 西蔵遊記」青木文教(中公文庫)p114に青木自身がそのことを書いてます。
趣旨を書いておきます。

?以前からチベットには三角形に赤地・獅子・日月の軍旗があった。
?軍司令官(羊毛を日本におくってくれることにななるツァロン)と青木がたわむれに、旧軍旗をもとにしい軍旗をつくったらたまたまダライ・ラマ13世のめにとまって、採用
?ちなみに風にひるがえると、日本の軍旗のようにみえるので、あとで改定の予定もある

 これが今のチベット国旗とまったく同一かどうかは、青木が図案をのっけてないので、完全に断定はできないが、文章からするとそっくりですね。改変はされなかったのかな

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