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宮本武蔵コミュの武蔵と武士道

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武蔵はいわゆる武士道の人ではないと思う。五輪の書で彼自身が言うのは「戦いに勝つのが武士である」ということだ。「死を覚悟するなどということは誰にでもできることだ。」とも言う。忠義について語っているところも全く無い。

江戸幕府が出来上がってからの武士と、それ以前の武士とはかなり違うのではないだろうか。武士道というのは、江戸時代以降、武士が戦争屋を辞めて官僚になってしまってから、幕藩体制を安定させるために出来上がった思想のようだ。

江戸幕府というのは世界でも稀な自主的軍縮をした政権だ。戦国時代にどんどん使われるようになった鉄砲を、減らしていっているのだ。鉄砲方と呼ばれる集団は江戸後期には植木屋のような仕事をしていたという、笑える話しだ。

本来の戦いの専門家であるなら、鉄砲の使い方、製造方などを発達させるはずだが、辞めてしまったのだ。そしてかろうじて戦闘者としての名残りをとどめておくために「刀は武士の魂」などといって刀術を奨励したのだ。

「刀は武士の魂」などという考えは武蔵は持っていなかったと思う。彼にとっては単に使い慣れた戦闘用具だったのだ。「使える物は全て使う」というのが二刀を使う理由である、と五輪の書で彼は言っている。石ころ、槍、手裏剣、なんでも使って勝つ、それが武蔵の言う武士なのだ。

官僚化していく武士、それを押し進める幕府を武蔵は苦々しく眺めていたに違いない。「何が武士道だ!」と、思っていたに違いない。

コメント(2)

戦闘時代は「道」だとかなんとか理屈をつける余裕なんてなかったのかもしれませんね。
「武士はくわねど高楊枝」なんてのも、食い詰めた浪人の単なる負け惜しみなんでしょう。
戦国時代は、「家」に仕えるのではなく、その時代の権力者個人に仕えたわけですから。
武蔵も飄々としたスケベオヤジだったら面白かったかもしれませんな。
武蔵がスケベ親父であった可能性がないとは言えません。

島原の乱の際、武蔵が江戸の遊廓から、当事入れ込んでいた下級の芸娘に見送られて出発したという話があります。もっともこの話は武蔵の死後かなり後に書かれている話で、信憑性には欠ける、という説もあります。

またこの当事の武士の間では男色は広く行われていたようで、武蔵にその気がなかったかどうか、誰にもわかりません。

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