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汪兆銘コミュの汪兆銘が好きだ

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中国では売国奴と言われて久しい汪兆銘。日本人が彼の名誉を復活させてあげなければ誰が彼を評価するでしょうか。彼が目指した理想とは?皆さんの意見をお聞かせください。

コメント(19)

歴史を見届ける旅人さん
コメントありがとうございます。
私は研究者ではないのですが、学生時代、大東亜戦争で日本が植民地独立という問題をどのように考えていたのかという疑問から「太平洋戦争における日本の対仏印政策」というテーマを選んで学んだことがあります。
直接仏印とは関係ないのですが、やはり大東亜会議に参加した、汪兆銘という中国を代表する人物には関心がありました。この会議を主導した重光葵らとの交流もあったはずですし、彼が目指した理想は重光が考えたアジアの理想と共鳴するところがあったのではないかと思わずにいられないのです。
汪兆銘に関する資料は少ないですが、汪の側近中の側近である周仏海という人が書いた「周仏海日記(1937〜1945)」蔡徳金編、村田忠禧(ただよし)他訳、みすず書房があります。これで彼のこの間の行動や言動が少し分かるのではないかと思います。ただ値段が高い、15000円も!します。私は古書店で入手しました。あとは上坂冬子さんが書いた「我は苦難の道を行く―汪兆銘の真実」講談社があります。他には知りません。
北京飯店の王氏は汪兆銘とはどのような関係であったのでしょうか、とても興味深いです。私も汪兆銘のことはまだ何も知らないと言っていいくらいです。買った本も本棚に埋もれているような状況ですから皆様によきアドバイスを頂きたいと思いトピックを立てさせてもらった次第です。
汪兆銘はきっと再評価されて然るべき人物だと思います。
はじめまして。

私は当初、汪兆銘に対して、「どうしてかわからないけど、自民族を裏切って日本の傀儡政権の親玉に身を落としたヘタレ」というイメージを持っておりました。

しかしちょっと調べると、汪兆銘は若いころは清朝に対抗する熱血革命家で、国民党政府では「蒋派」と並ぶ勢力を持つ有力者であった、ということがわかりました。

そんな人物がどうして「漢奸」になってしまったのだろう? ちょっと関心を持ち、10冊ぐらいの書物を読んでみました。


「汪兆銘は主観的には善意だった。しかし日本側に裏切られ、結果として「漢奸」の謗りを受けるような立場に追い込まれた」という見方で、概ね一致しているようですね。特に「撤兵」問題で裏切られたのが決定打だったようです。

政権設立時には腹心の高宗武らに裏切られ、政権末期には幹部連は争って重慶政府との連絡をとりたがる始末。主観的善意はともかく、汪兆銘にとっては「晩節を汚す」結果になってしまいました。

しかし汪兆銘は、一体何を考えていたのか。いろいろな文献に当たると、「日本側に対する可能な範囲でのささやかな抵抗」は試みていたようですが、彼にとってこのような立場に追い込まれたことは、大変なストレスではなかったのか。

というわけで、「汪兆銘日記」を読んでみようと思っています。アマゾンで注文したら本が届かず結局はキャンセルした、という苦い経験がありますので面倒になっていたのですが(私の日記参照)、こちらの書き込みを見ていてまた関心がよみがえってきました。
歴史を見届ける旅人さん
こうして、たった一人の人間に関する資料が、汪兆銘に関わった人々の間で大切に保存されていることを知り感慨深いものがあります。海軍武官の方の件、その後の経過報告ありがとうございます。

ゆうさん
「汪兆銘日記」というものがあるのですね。それは貴重なものだと思います。時代的にはいつ頃に書かれたものなのでしょうか。「歴史は書いた者勝ち(日記などの著作を残した者)だからね」と大学時代の教授が言っていたことを思い出しました。彼の資料を彼の言葉を一つでも掘り起こすことができれば面白いと思います。
正しくは「汪精衛自伝」ですね(^^; 注文しようと捜してみたのですが、「日本の古本屋」「アマゾン」とも売り切れでした。

かわりに、小林英夫氏「日中戦争と汪兆銘」の巻末参考文献一覧をもとに汪兆銘関連本を数冊入手。これからせっせと読書に励まなければなりません。
Wikipediaの「汪兆銘」の項を、全面改訂中です。やっと、「汪兆銘政府の成立」まで書き終えました。「南京国民政府のその後」は、これからの作業になります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%AA%E5%85%86%E9%8A%98

なお、「高宗武」という人物にも関心を持ちましたので、こちらについては新記事を立ち上げてあります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%AE%97%E6%AD%A6

関心を持つ方も少ない項目ですが、記事作成・編集の上で何かアドバイスでもありましたら、よろしくお願いします。

汪政府の特務工作機関に関わった晴気慶胤の「謀略の上海」を入手、ちょっと読んでいるのですが、これが実に面白い。


夜の上海で、国民党「藍衣社」と汪政府特務工作機関「76号」が繰り広げる、凄惨な暗殺合戦。

「76号」幹部の丁黙邨の愛人となり、重慶政府に種々の情報をもたらした、「藍衣社」の美人女スパイ。丁黙邨はこのスパイに殺されかけ、挙句の果て、このような「愛人」を持ったことを責められて失脚します。

「藍衣社」勢力が衰退した後でも「76号」側は勢力を保持するが、雇ったゴロツキどもの腐敗が始まり、婦女子誘拐、押し込み強盗、詐欺恐喝などのし放題。

さすがに見かねた日本側はそのリーダーの「追放」を命令するが、李士群は「追放」だけでは後を引くと考え、暗殺を計画する。

豪華な食事に毒を盛って毒殺するわけですが、何も知らないリーダーは、死に瀕しながら李士群に忠誠を誓う、という涙の場面。


これ、全部実話なんでしょうね。いや、下手なスパイ小説よりずっと面白い・・・といえば、不謹慎でしょうか(^^;

昭和26年発行、入手困難な本かも知れませんが、もしご覧になる機会がありましたら、お勧めします。
ゆうさん
ウィキペディアの汪兆銘の項を改訂中なんですね!お疲れ様です。
頑張ってください!!「謀略の上海」とてもおもしろそうな本ですね。
興味深い内容です。歴史に埋もれたドラマがあるんだなあ・・。
高宗武の話が出ていたので、汪兆銘から話題はちょっと横道にそれるのですが‥
犬養健の『揚子江は今も流れている』では、高宗武のことを「康紹武」と表記していますよね。これは何故なのでしょうか?執筆当時(1960年)の政治情勢から言って、本名で書くと、アメリカ住まいの高宗武の所に万が一国民党、もしくは共産党からの刺客が行くことを恐れての措置なのでしょうか?
確定的な理由をご存知の方がいらっしゃったら教えて下さい。
私もそれを疑問に思いました。別に高宗武のことを「康紹武」なんて書く必要、全くないのですよね。おかげで最初この本を読んだ時、「高宗武」が登場していることに全く気付かなかった記憶があります。(^^;


いろいろな文献を当たっているうちに、すっかり高宗武のファンになってしまいました。

国民党の亜州司長になったのが28歳。汪兆銘と訣別したのが34歳。若い時にこれだけの活躍をしているのに、これで彼の表舞台での「人生」は終わってしまうのです。

一緒に訣別した陶希聖は、戦後しっかりと国民党中央委員の地位に復帰しているのに、ちょっと驚きますよね。
>高宗武のファン

レアですね〜:)
でも、高宗武たちが最後の最後に汪側を離れた気持ちは、私もすごく理解出来ます。自分が彼の立場だったらそうしたかな、と‥。日本の出した条件が悪過ぎましたからね。
彼が復職出来なかったのは、もともと蒋委員長にすごく目をかけられていた人だったから、それだけに怒りを買ってしまい戻れなかった、或いは、高宗武の中に汪精衛への筋を通す気持ちがあった、或いは或いは、なかなか敵も多そうな性格なので、復帰を阻む動きがあったのかも知れないですね。
本当にこの時代に興味はつきません。

あと、ゆうさんが最初に書かれていた「傀儡政権の親玉に身を落としたヘタレ」という言葉に笑いました〜。
犬養健氏の本を読み返して気がついたのですが、「荘知正」って一体誰だ、と思ったら、明らかに「陶希聖」なのですね(P286)。「仮名」を使われたのは、高宗武ばかりではなかったようです。


いろいろと文献に当たってみて何となくわかってきたのですが、汪兆銘の善意は認めるにしても、「行動」として認められるのは「重慶脱出」までではないか、という気がしています。日本の傀儡政権の長に収まったのは汪の失敗でしたし、政治家としての判断ミスであっただろう、と思います。

例えて言えば、旧ソ連が東北北海道地区を武力占領してしまった時、自民党のNo2が突然ソ連側に逃げ込んで、そこの「人民政府」の長に収まるようなものです。彼がどんなに善意であれ、ソ連との戦闘を続ける残りの地域の人々から見れば、明らかに「裏切り者」です。

もし「漢奸」との謗りを免れたいのであれば、日本との交渉の中で、誰もが納得するだけの「成果」をあげなければなりません。しかし汪のあげた成果は、人々を十分に納得させるものではありませんでしたし、汪はそんな「成果」などが得ようがないことを承知で「政府」を樹立してしまったのです。やはり汪の失敗、といわざるをえません。


当初汪兆銘工作に携わったメンバーの大半が、「政府樹立」には批判的な立場に回ってしまいました。汪政府は傀儡ではない、と主張する影佐ですら、「和平政府樹立の形式に依つたのは失敗であつたと今日では考へてゐる」と発言しています。「政府樹立」なんぞやらずに、フランスあたりに外遊して「和平運動」を続ければ、まだしもだったのではないか、と思います。

外交官の田尻愛義など、痛烈でしたね。彼は高宗武に請われて香港総領事に就任したのですが、ここまで言うかあ、と思うくらい、汪批判を繰り広げています。
http://www.geocities.jp/yu77799/siryoushuu/tajiri.html

>汪が重慶脱出前には占領地の傀儡政府を嫌いながら今になって占領地の政府を統合して自分がその長になろうというのは一体何と解釈していいのか。
>私に言わせれば、彼には自分の一身の利害があるだけで、もう中国、中国人のための平和幸福の目標をすてている


・・・あまり書くと、「汪兆銘が好きだ」というトピのタイトルに反することになりますし、トピ主さんにご不快をおかけすることになりかねませんので、このくらいにしておきます。次は、何か汪を弁護できる材料を探しておかないと(^^;
ゆうさん
いえいえ気になさらないで下さい。様々な意見を聞いた方が勉強になります。汪兆銘政府は日本の傀儡政権という評価は覆らないかもしれません。そして晩節を汚したという見方も。しかしそれは日本が大東亜戦争に敗れたが故の歴史的評価であるのかもしれませんよ。あの時点でどちらが勝つか分かってはいませんでしたし、汪の選択は結果的には貧乏くじだったかもしれません。蒋介石と袂を分かったのはどちらが勝っても中国の将来を安泰にするための布石となるためだったとは考えられないでしょうか。もし日本が大東亜戦争に勝利したなら、その立場は逆転していたのですから。そして、ここからが重要ですが、日本の主張してしかるべき理念、世界の不合理(植民地解放)を正すという行為があったのならばそれに殉じた政治家が出てきてもおかしくないと思うのですが、いかがでしょう。
昭和17年1月21日79議会での演説において、東條英機首相は「大東亜共栄圏」建設が今次戦争の目的であり、その根本方針は「大東亜の各国および各民族をして各々その所を得しめ、帝国を核心とする道義に基づく共存共栄の秩序を確立せんとするにある」と発言しました。これは「各々その所を得しむ」という言葉に集約されるように、各々の民族や国家が「分」に応じて忠実に役割を果たし、指導国家に奉仕することによってのみ「独立」も保障されるというものでした。例えればソビエト連邦のようなものだったのかもしれません。そして一般的にはこの思想が日本の悪しきイメージとして定着しているようです。
 が、昭和18年4月20日、外相に就任した重光葵は、「主権尊重と平等対等の関係の樹立をもって、シナを始め東亜諸国に臨むのでなければ、この戦争は日本にとって無意味である」とする認識に立って、前年から中華大使として推進してきた「対支新政策」を直ちに東亜全域に及ぼすことに着手、その政策理念は11月に開催された大東亜会議において、「大東亜共同宣言」として明示されます。ここではこれまでの「大東亜共栄圏」の理念は捨てられ、

一、大東亜各国は共同して大東亜の安定を確保し、道義に基づく共存共栄の秩序を建設する。

一、大東亜各国は相互に自主独立を尊重し、互助敦陸の実をあげ大東亜の親和を確立する。

一、大東亜各国は相互にその伝統を尊重し各民族の創造性を伸長し大東亜の文化を昂揚する。

一、大東亜各国は互恵の下緊密に提携し、其の経済発展を図り大東亜の繁栄を増進する。

一、大東亜各国は万邦との交誼を篤うし人種差別を撤廃し広く文化を交流し、進んで資源を解放し以て世界の進運に貢献する。

という内容が謳われました。ここでは日本の戦争目的が「東亜の解放、アジア復興」であり、「東亜民族が植民地的地位を脱して各国平等の地位に立つこと」が世界平和の基礎であり、この実現こそが日本の戦争目的であると確認されたのです。そしてこの会議に参加したのが、他ならぬ汪兆銘であったという事実を忘れてはならないでしょう。勝てば官軍、負ければ賊軍と言いますが、まさに歴史は勝者によってのみ語られているという事に注意しなければならないと思います。
長々とすみません。ですから、汪兆銘は必ずしも傀儡に甘んじたのではないし、日本も汪政権を正当に評価していた(しようとしていた)と言っていいのではないかと思います。
初めまして。
汪精衛(汪兆銘)については、自分のライフワークである平沼騏一郎研究の上で、気になる存在となりました。
平沼騏一郎は日支事変中の昭和十四年に、八ヶ月間内閣総理大臣を務めたことで知られますが、彼はかねてより「日支精神文化の提携」を訴えていた人物です。
彼は汪精衛に関して、こう言っています。

「国民政府要路の諸賢が全面的和平を達成して、四億の同胞を戦乱の渦中より救出し、共存共栄の根幹を固うすべく、幾多の障碍を排除し来り、現に大東亜戦争完遂に積極的協力をされて居ることは、私の夙に佩服する所であるが、今、御国を訪れ、眼のあたり新興国民政府の偉容に接し、諸般の躍進的施設を見るに及んで、敬意を新にする次第である。

顧みれば、汪精衛閣下が抗戦建国は中国を救ふの道に非ずとせられ、中国を救ふの道は、日本と提携して亜細亜の復興を図るの外に其の道なしといふ信念に基き、決然重慶を脱出せられ、日華国交調整に関する日本政府の根本方針に呼応して、和平建国の歴史的通電を発せられてから、早くも四年に垂んとして居る。爾来汪閣下並に同志の諸賢は、有らゆる身辺の危険を冒し、同志の壮烈なる殉節に遭遇しては、一層其の決意を鞏固にせられ、中華民国再興の為に、延ては大東亜共栄圏確立の為に、其の身命を捧げ来たられたのである。私は昭和十四年、即ち中華民国二十八年の六月に、東京に於て始て汪閣下並に同志御一行と会談したが、其の烈々たる憂国愛民の気魄に打たれ、今こそ中華民国に更正躍進の日が来たと喜んだのでありました。汪閣下御一行の此の訪問は、恐らく日華国交史上に、永久に記念されることであらう。

当時私は内閣総理大臣の職を奉じて居り、政府としての責任に於ても、汪閣下の御企画に対して満幅の賛意を表し、其の御活動に能ふ限りの協力を惜まぬことを決意し、絶大なる期待を寄せたのであつた。汪閣下が御帰国後は殆ど寧日なき御奔走の有様と、事に当つて勇往邁進せらるゝ風采とを望見して、中華民国の為に、大東亜新秩序の為に、心から其の成功を祈つた次第であつた。

汪閣下が其の後重慶政権に対して、容共の迷夢より醒め、米英の走狗たる恥辱を自覚し、全面的に邁進することが、中華民国更正の道である所以を力説されたのであるが、重慶政権は毫も反省の色を示さぬ結果、愈々之を断念し、改めて同憂具眼の士を求め、之と共に中国の復興を図るべく決意せらるゝに至つたことは、既に国民諸君の御承知の通りである」

「我が日本帝国は中華民国の復興に対し、又国民政府の発展に対し、今後も有らん限りの協力を惜しむものではない。中国四億の国民諸君も亦我が国の真意を了解せられ、汪主席以下国民政府要路と協力して、速に和平の目的を達成し、日本及満州国と共に、大東亜共栄圏の中枢たるべく、更に一段の決意を新にせられんことを切望して已まざる次第である」

(平沼騏一郎「中華民国国民諸君に告ぐ」『東洋文化』通巻二百十一号)

またこの中で平沼は

「五年前、不幸にして日支事変の勃発するや、両国の反目を得策とし、其の提携親善に脅威を感ずる米英二国は、有らゆる術策を弄して重慶政権を扇動し、その抗日策を援助して日本を圧迫せんとし、重慶政権も亦自己打算と面目とに拘泥して、四億の民衆を犠牲として顧みず、社稷を滅亡の淵に導いて覚らず、無益の抗戦を継続して、今や全く窮地に陥りつゝも、騎虎の勢奈何ともすべからざる状態となったのである」と言い、

「今や日華満三国が東亜本然の精神に基き、道義を第一用件として、同甘共苦の人生観、共存共栄の世界観を着々現実に具体化せんとするに至つたことは、正に人類史上に一新紀元を劃する一大事実であると謂はねばならぬ」

と言っています。
大変長い引用になって申し訳ありませんが、このような動乱の時代に、汪精衛(汪兆銘)の様な人物がいたことは、貴重であったという気がします。
横浜中華街と汪兆銘

中公新書クラレより今年7月に田中健之著『横浜中華街』が出版されております。
暇つぶしにと思い、帰宅途中の書店で目についた同書を買って読み始めたのですが、これが中々面白い。

著者略歴を見ると、田中健之氏(岐阜女子大学南アジア研究センター特別研究員・昭和38年生)は孫文等辛亥革命の志士を支援した初代玄洋社社長平岡浩太郎の曾孫にあたり、黒龍会内田良平の血脈を継ぐという。その血筋と、幼少の頃から横浜中華街に親しんだという根っからの「中華街ファン」だけあって、横浜中華街の歴史・文化を詳細に語る筆致には思わず唸らされました。

同書の主題は横浜開港150年の歴史とともに激動の時代を歩んだ中華街と華僑の物語であり、本コミュのテーマとは直接関係はありませんが、第3章「中華街炎上―大地震と戦火」では日中戦争下での在日華僑の苦難の歴史に若干ながら触れられております。

私がこの中で大変興味深く感じたのが、在横浜華僑の汪兆銘に関する評価でした。
中国並びに台湾に於ける汪兆銘の評価は、現在も「祖国の裏切り者」「漢奸」であることには異存はないかと思いますが、著者によれは、当時を知る横浜中華街の有力者の一部には肯定的な評価が存在するとの事。汪兆銘の「和平、反共、建国」路線が、日中戦争下の在日華僑の運命を救ったとの認識が、「漢奸」とは全く別の見方として中国人社会に存在することは大変興味深いところです。但し、上記認識が在日華僑の一般的認識かまでは定かではありません。

汪兆銘再評価の動きは中国本土では未だ見られませんが、歴史に於ける人物の評価ほど変わりやすいものはないのも事実であると考えます。
嘗ては蒋介石を徹底的に批判していた中国に於いても、現在では、蒋介石は一般民衆から「愛国者」であったとの揺るがぬ評価を受けていると聞きます。
時代に翻弄され、晩年は日本陸軍に徹底的に利用された汪兆銘は失意の中で病没したと想像しますが、この本を読んで、将来彼が功罪併せた冷静且つ客観的な再評価を中国国内で受けることを期待したいと思います。

大変面白い本ですので、皆様是非読んでください。
「歴史を歩く 魯迅と周作人(中国)」
※朝日新聞2010年2月27日外岡秀俊編集委員記事より一部引用


(周作人の)再評価のきっかけの一つとなったのは晩年の書簡集だ。香港に住む鮑耀明さん(89)が60年から66年にかけ、周(作人)と文通を続けたもので、2004年に中国の出版社から刊行され、402通の周の手紙が公開された。周の老境を伝える貴重な史料だ。

「周作人に同情していた。私自身の生い立ちと重なって見えた」

貿易商の子として横浜に生まれた鮑さんは、中国人街の小学校で広東語を、中学では日本語を学んだ。37年の日中開戦直後、地元警察が一家に「72時間以内に中国に退去」するよう命じた。
祖父の郷里の広東省に戻って数年後、再び機会が訪れる。
40年3月、国民政府幹部の汪兆銘(精衛)が南京で、日本と協力する「新政権」を樹立。政権のために働くことを条件に、日本への留学生を募った。合格して慶応大に学んだ鮑さんは43年、大東亜会議に出席するため来日した汪と大使館で会った。

「汪は『戦争はたやすい。和平は難しく、失敗すれば漢奸と非難されようが、自分はこの道を進む』と涙を流した。汪も漢奸の汚名のうちに死んだが、当時の知日派には、簡単に断罪できない事情があったのではないか」

知人の紹介で周(作人)と文通を始めたのも、対日協力の理由を知りたかったからだ。周は「なぜ教育総署督弁※になったか」の問いに「教育に関しては、誰が出るよりもいくらかは、反動的な行為を少なくやってゆけるだろうと信じられたから」と答えた。<以下、略>

※周作人(魯迅の実弟)は北京大学教授であった1941年1月、日本に協力する華北地方政府の「教育総署督弁」(教育行政機関)のトップに就任。翌42年、毛沢東は延安で周作人を名指しで「漢奸文藝」と批判。1967年、周作人は紅衛兵による軟禁下死去。

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