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ぶひっこ倶楽部コミュの 「別人18号、逝く。」

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ろこぶひ様の作品、日記が友人までの
公開となり、彼女のマイミク以外の人に
見る事が不可能になったので、珠玉の
作品の一つを掲載させて頂きます。
彼女の作品を堪能ください。

尚、文章の中には写真が2葉ありますが、
著作権がどうなっているのかわかりませんので
使用を控えました。

藤田元巨人軍監督の追悼文です。



「別人18号、逝く。」



「いやぁ、ありゃ別人ですよ、別人!」

角光男は苦笑いしながら語った。
角光男(現・盈男)は巨人の救援投手として一時代を築いた男である。 左腕・横手投げ。 リリースポイントが極端に捕手寄りにあり、見かけの球速よりも数段速く感じるのが角の生命線だ。 シーズン・日本シリーズでも活躍したが、日米野球時に大リーグの名だたる強打者から7連続三振を奪ったのが最も印象深いエピソードだ。

角は続ける。

「春季キャンプね、ブルペンに向かってた時ね、後ろでパンッ!って音がしたから振り向いたのよ。 そしたら若手のピッチャーがぶっ倒れててさ、藤田さんが鬼のような形相で、いやいや、“ような”じゃないな、鬼そのものの形相でそいつを睨んでるワケ。 あれは平手じゃないね、グーで殴ってるね。 何やらユニフォームのボタンが2つ外れてたらしいんだけどさ。 恐ろしいよ、藤田さんは。 普段ニコニコしてるでしょ、余計怖いよ。」


藤田さん、つまり「瞬間湯沸かし器」、藤田元司である。


「藤田」だけだと収まりが悪い。
藤田は「藤田元司」とフルネームで呼びたい。

普通は「ふじたもとじ」の筈だが、正確には「もとし」と読む。
でも、年配の野球ファンは確実に「もとし」と正確に言える。
これは日本テレビの名アナウンサー・小川光明さんが、常に「ふじたもとし」とはっきりアナウンスしていた事が大きいと踏む。「星野仙一」「藤田平」「遠井五郎」などなど、“フルネームの響き”が良い選手は、いずれも小川アナウンサーの功績が大きいように思う。 勝手な推論だ。
ちなみに「草魂・鈴木啓示」も「けいし」である。


藤田元司。 慶應義塾時代、31もの勝ち星をあげながら優勝経験がなく「悲運のエース」と呼ばれたことは有名。 50年代後半、藤田は巨人に入団、背番号21だったがすぐに18へ変更。 藤田と言えば18番だ。 新人で17勝を上げ、新人賞を獲得、3年間で70勝以上をあげ、5年連続リーグ優勝に貢献したが日本一にはなれず、「悲運」にハクを付けてしまった。 頬がこけた風貌も「悲運」に相応しい感じがしてしまう。 これがペンギン投法の安田猛だったら、同じ記録を残していても絵にならない。

でも、本人は「都市対抗(日本石油)で優勝してますしね。」と意に介さない。

が、「優勝したい」気持ちが極めて強い人である事は間違いないだろう。



巨人監督時代、「温情采配」と言われた。


打てない原辰徳を4番打者に据え続けた。
内角は詰まり、外角にはバットが届かない。
それでも藤田は、負けても負けても原を4番で使い続けた。

耐えかねた原は、藤田に訴えた。
「監督、なぜ僕が4番なんですか。」

藤田は微笑んで答えた。
「君がジャイアンツで一番の強打者だからだ。」

次の夜、原は勝負所で逆転の3点本塁打を放つ。
インハイの速球、今までは詰まって遊撃飛に終わっていた球だ。
渾身の力で振り抜いた原のバット、打球はハーフライナーで左翼ポールに向かって飛び、まるで意思があるかの如く伸び、後楽園球場の少し高くなったポール際のフェンスを越えた。
湧き上がる歓声の中、原は目を真っ赤に腫らして4つのベースを踏んだ。
ベンチ前には藤田が満面の笑みで待っていた。
感激する原に、藤田は小さな声で言った。

「な? 君しかいないんだ。」



斎藤雅樹は悩んでいた。
「僕はピッチャーに向いていないのではないだろうか。」と。
高校時代は速球派の投手だった。 実際巨人に入団しても、先輩よりも速い球を投げる事が出来た。 が、ストライクが入らない。 「斎藤は打者として育てたほうが良いのではないか。」、そんな声が2軍コーチの口から囁かれている。

真上から投げ下ろす斉藤のフォームを、藤田は目を細めて見ていた。
「私の現役時代のフォームに似てるな。 だけど。。。」

藤田は斉藤に近づき、こう言った。
「横から投げてみようか。」

高校生上がりとは思えない下半身、上体の強さ、腕のしなり。 だが、強靭な下半身と上体は横回転をしつつ、腕だけが上から出ていることを藤田は瞬時に見抜いていた。 斉藤のフォームはバラバラだったのだ。

言われるがままに斎藤は横から投げてみた。
「ぜんぜん力が入らないや。。」

しかし、ブルペン捕手が大きな声を出す。
「ナイスボール! いや本当にナイスボール!」

力が入らないのに良い回転のボールが行く。
無駄な上体の力は抜け、本来の腕のしなりが活かされた。

そして、驚くほどカーブが曲がった。
元々手首を立てて抜くタイプのカーブであり、サイドから投げる事でその特性がフルに活きる結果になったのだ。
少し浅く抜くとカーブともスライダーとも言えないような変化球が生まれた。 真っ直ぐのような勢いで飛んで来たかと思うとスッと消える。 打者のバットはクルクルと空を切った。

斎藤は勝ち始めた。
しかし、藤田は斎藤に最大の「弱点」を見ていた。
ハートが弱いのだ。

ピンチになると斎藤はマウンドから藤田を見る。
交代させて欲しいのだ。 弱気の虫がすぐ生まれてしまう。

とある試合の大ピンチ、またぞろ斎藤はベンチを見た。
藤田がベンチを出て、マウンドに向かってくる。
ニコニコしている。 「あぁ、交代なんだな。」
斎藤がそう思った瞬間、藤田はこう言った。
鬼のような形相をして。

「一回しか言わないからよく聞け。 てめぇのケツをてめぇで拭けない奴にピッチャーの資格なんてないんだ。 最後まで投げるのが先発ピッチャーの役目なんだ。 打たれてもいい。 負けてもいい。 この試合はお前に任せたんだ。 俺はお前を代える気はない。」

斎藤は我に返り、全身全霊を込めて投げた。
しかし打たれた。 逆転され、その試合を落とした。
斎藤は泣き、藤田に謝った。
「ごめんなさい。 期待に答えられなかった。」

藤田は言った。
「いや、よく投げた。 次も頼むよ。」

感激した斎藤は、見違えるようなピッチングをし始める。 「ぜったい最後まで投げ抜いてみせる! 監督見ていてくれ! 絶対に最後まで投げてやる!」 そんな気持ちを胸に、斎藤はマウンドで奮闘した。 投げ終わったあとの足を跳ね上げる独特のサイドスロー。 躍動感溢れる、技巧派ではない「横手投げの本格派・斎藤雅樹」誕生の瞬間だった。
気がつくと斎藤は「11連続完投勝利」と言う前代未聞の大記録を打ち立てていた。 現代野球において、この記録はもう破られる事はないかも知れない。 斎藤雅樹は11回も連続して「てめぇのケツを拭き続けて勝った」のだ。

最多勝利5度(歴代最多)、沢村賞3度(歴代最多タイ)。
最多勝利5度は、スタルヒン・稲尾・野茂を凌ぐ金字塔だ。
400勝投手・金田正一ですら3回しか最多勝利は獲得していない。
開幕戦3年連続完封勝利も永久に色褪せない“記録”である。
90年代、最高のピッチャーであることに異論はないだろう。

その斎藤は言う。

「本当に何もかもが藤田さんのおかげなんです。
 藤田さんがいなかったら僕はいなかった。」



今年、原辰徳が巨人監督に復帰する。

藤田と原の采配、選手起用は実によく似ている。

原は少なくとも長嶋野球の後継ではない。


当然なのだ。

原を4番として大成させたのも、

監督1年目で優勝を勝ち取ったのも、

全て藤田の教えの賜物なんだから。


あ、大事な事を忘れてた。

「読売、原辰徳、内野手、東海大学。」

パンチョ伊東の名調子が会場に響き渡る。

ドラフトで原を引き当てたのが藤田なのだ。


2006年、セ・リーグ。

原は晴れやかな表情で開幕戦を迎えるだろう。

藤田の言葉を大切に胸にしまって。


「君しかいないんだ。」



藤田元司、永く心臓病を患い、

ニトログリセリンをポケットにしまって采配を振るう男。

柔和な笑顔、鬼のような形相。

通算7年間の監督生活で、4度のリーグ優勝、2度の日本一。

Bクラスはたったの一度。 しかも4位。

名将と呼ばれた男は、照れ臭そうにこう答える。


「いやいや、素晴らしいのは選手たちですよ。

 私なんかは何もしていない。 

 何しろ私は30年以上一球も投げてないのですから。」


享年74歳。

心からご冥福をお祈り申し上げます。

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