ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

ぶひっこ倶楽部コミュの「走り切るということ。」

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加

http://mixi.jp/view_diary.pl?id=543935886&owner_id=1644623〓ろこぶひ〓さんの日記より転載

金栗四三、日本マラソン界の父と呼ばれている人のお話です。詳しくはWikiで
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E6%A0%97%E5%9B%9B%E4%B8%89
殆どの日本人は彼の存在自体を忘れ去っていると思いますが、彼女の文章で一人でも多くの人が先人の偉業を知ってもらいたいと思います。
出来るだけ、ろこぶひ様の文章を再現したつもりですが、何か問題があるようならご連絡を賜れば幸いです。
以下彼女の文章です。


 世界陸上花盛りである。

 単に速く走る、単に遠くへ飛ぶ、単に高く飛ぶ、単に遠くへ投げる・・・・・思い切りシンプルでストイックで好きだ。
 自慢じゃないけど、ちゅか以前にも自慢したけど、ろこは脚が速いほうだし、高く遠くへ飛ぶのも得意だし、何故か肩も強い。 でも、得意とか言う以前に走ったり飛んだり投げたりする運動自体が好きだ。 ピューッと走って風を切るだけで爽快な気分になる。 ボールを遠くに投げれば、自分が空を飛んで行くような素敵な気持ちになる。

 昨夜のテレビではハンマー投げをやっていた。
 室伏選手はメダルに届かなかったけど、他の国々の選手たちの力強い投擲を見るだけでも実に楽しかった。
 しかし、あの、投擲競技の、投げたあとに「うぉ〜〜〜っ!!!」とか叫ぶのにはどんな意味があるのだろう。
 あの声がハンマー(など)を“後押し”して距離が伸びるわけがないけど、多くの選手が声を出すから何かしら意味があるハズだ。
 野球で言えばフォロースルーみたいなものかなぁ。 でも、野球のフォロースルーには確固たる物理的な根拠があるしなぁ。 う〜〜〜ん。。。 誰か分かり易い説明をしてくださいっ!!!

 今回の世界陸上は男子マラソンから競技がスタートした。
 マラソンと言うのもスゴい競技だなぁと思う。 なにしろ、ろこの地元から池袋のラーメン店「ターローメン」までの距離をノンストップで走りなさい!みたいな競技なんだから。 すっごくターローメンが食べたかったら走れるかも知れないけど、って走れるワケないけど、いずれにしてもスッゲーと思ってしまう。

 ちなみに前にも話したけど、ろこは短距離のほうが得意だ。 別に長距離が不得意なのではなくて、いつでも記録的には上位だった。 今でも「1500mを5分以内で走りなさい」と言われれば走れると思う。
 でも、これは性格的にヘンなのだと思うけど、とにかく「ぶっ倒れるまで頑張って走ってしまう」のが問題で、体力測定の時の1500mなどで走ったあとに「倒れなかったことが無い」。 チビの女の子がタッタカターッ!!!と先頭を走り、ダントツ一番でゴールすると寿命が訪れた小鳥のようにパタッと倒れてピクリとも動かない・・・と言う事態に毎回陥るのだ。 これは周囲の人たちからしたら怖いぞ? 本人は失神中なので、その混乱具合はわからない。(爆)
 まぁ、先生としては「君は走らなくていいから。」とも「力を抜いて走りなさい。」とも言い辛いですな。 そんな迷惑を掛けると思うと本人は苦しくて、だんだん長距離が好きじゃなくなっちゃったとさ。 ちゃんちゃん♪

 でも、マラソンを見るのは好きで、2時間強の間まばたきもせずにテレビを見ていられる。(大袈裟)
 往年の名ランナーのビデオでも飽きずにいつまでも見ていられるのだから、我ながらマラソンが好きなんだな〜などと感心したりする。
 ちゅか、マラソンって、ゴールのシーンで涙が出ません?? いや、ろこの場合は、別に日本人選手が優勝したとか入賞したとかに関わらず、どの国の選手が優勝しても涙が必ず出る。 先頭でゴールした選手だけではなくて、後続の選手、それこそ19番目で入ってきた選手にすら涙が出る。 たぶん、体力の限りを尽くして走ってきた人間にしか出来ない「顔」をしているからだと思う。

 マラソンにおける、往年の名ランナーと言うと誰だろう。
 円谷? 君原? 瀬古? 宗兄弟? 中山? 谷口? 森下?
 って、何だか男子しか出てこないのは別にオトコ好きだからではなくて、たぶん女子のマラソンを見てると胸が苦しくなることに関係があるのかも知れない。 なんか、切なくなっちゃうのよね〜、女子マラソン。

 きっと、マニアなマイミクさんは、「ふむ、ろこちゃは円谷(幸吉)さんについて書くんだろうな。」とか察してらっしゃると察する。 確かに円谷幸吉さんを書き始めたら長文必至。 「幸吉はもう走れません」と言う遺書を残し自ら命を絶った壮絶な人生だ。 まともな精神状態では書けないっすよ、円谷さんについては。

 ってコトは、誰だろう。


 当然だが、金栗四三さんですな。

 なぬっ? 金栗四三をご存じない??

 か・な・ぐ・り・し・ぞ・う、ですよ??



 金栗四三は、今から遡ること95年前の1912年、日本人として初めてオリンピックに参加した偉大なる先駆者である。
 彼がオリンピックに参加しなかったら、もしかしたら日本のオリンピック史が多少なりとも変わっていたかも知れない。

 1891年(明治24年)、金栗四三は熊本県に生まれた。
 幼い頃から遠い学校へ毎日通学したことが幸いしたか健脚だった彼は、東京高等師範(今の東京体育大学)に入学した頃には長距離走の才能を発揮、抜きん出た記録を残し始める。

 1911年、金栗は、国内の体育大会のマラソン競技に参加し「2時間32分45秒」と言う記録で優勝する。 この「2時間32分45秒」は当時の世界レコードを27分以上上回ると言う信じられないような快記録であった。
 翌1912年、とてつもない世界記録を打ち立てた金栗は、自信満々で第五回オリンピック・ストックホルム大会に参加する。
 開会式での金栗堂々たる入場行進を行った。
 当初、金栗が入場行進で掲げる国名のプラカードには「JAPAN」と書かれてあったが、金栗はこれを半ば強引に「NIPPON」に書き換えさせたと伝えられる。 日本人の誇りを胸に行進したかったのだ。 日本男児、そんな気概があっても良いではないか。

 その年の北欧は観測史上記録的な猛暑であった。
 マラソン競技には68人が参加したが、余りの暑さのために脱落者が続出、ゴールしたのはたった34人。 つまりちょうど半分の選手がリタイヤすると言う過酷な競技となった。

 日本〜スウェーデンと言う長旅のあとに競技に参加した金栗は、懸命なる力走にもかかわらず27キロ地点付近で意識を失ってしまう。 多くの選手と同様、金栗もまたゴールをすることが出来なかった。
 失神し、倒れた金栗は、その付近に住まう農家に介抱された。 遥か彼方、極東からはるばるやって来た小さな若者を、その農家の夫婦は懇切に介抱した。
 昏々と眠り続けた金栗が目を覚ましたのはレースが行われた日の翌日の朝であった。 目を覚ました金栗は、「ぼくは一体どこで何をしているのだろう?」、と思ったと伝えられる。 悔しさと失意を胸に、金栗はストックホルムを去ったのだった。
 
 ストックホルムでは惨敗したが、それでも金栗は世界レベルのマラソンランナーであり、高地トレーニングを初めて行う(その科学的効果について熟知していたかどうかは別として)など、類稀なる才能を持っていたと同時に革新的なランナーであったことは間違いない。
 1916年のベルリンオリンピックは戦争のため中止、金栗は1920年のアントワープでも優勝候補に推されながらも16位に甘んずる。 1924年のパリでは既にピークを過ぎており、力走虚しく途中棄権の憂き目を見ることとなる。

 その後、金栗は日本陸上のために尽力した。
 当時の「女子が過酷な陸上競技など・・・。」と言う風潮を覆し、日本女子に陸上競技を推奨し、競技人口を大きく増やしたのは金栗のお陰だと言って良い。 有森さんも、Qちゃんも、金栗がいなかったらオリンピックで輝かしい姿を見せることはなかったのだ。

 金栗の、絶対に外せない功績として、「箱根駅伝を作ったこと」がある。 勿論多くの方々が力を尽くした訳だが、箱根駅伝のコンセプトについては金栗の考えが色濃く反映されている。
 金栗はランナーの、特に長距離ランナーの孤独を知っている。 競技ならまだしも、練習となればたった一人で苦しさの中を戦わなければならない。
 金栗は、「どうにか長距離の練習を皆で行うことが出来ないだろうか」と切実に考え、その結果が「駅伝」だった。
 今や駅伝は「世界の共通語」であり、その中でも箱根駅伝は日本人の心を揺さぶる国民的行事である。 金栗の切実さは箱根駅伝に深く息衝いている。

 
 金栗は、生涯を陸上に捧げた。
 まさに、日本陸上界の父である。


 1967年、金栗が76歳の時、
 ストックホルムから一通の封書が届く。

 そこには信じられないような言葉があった。


 「 親愛なるミスター金栗。
 あなたは我が国で行われたオリンピックにおいてマラソン競技に参加なさいました。 当時の記録を見ておりましたら、あなたは “競技途中に失踪・行方不明”になっています。 つまり、あなたはまだ、ゴールしていません。
 わたしたちスウェーデンオリンピック委員会では、このたびストックホルム五輪55周年式典を行うことになりました。
 ミスター金栗。 この式典で、ちゃんとゴールして頂けませんか? 」

 
 金栗が1912年のマラソンで27キロ付近で倒れ、農家に介抱され、失意のもとにストックホルムを去ったが、その際に彼は正式に「途中棄権」を申告していなかった。 テレビ中継などもない時代、金栗は本当に「行方不明」になってしまっていたのだ。


 1967年某日、50余年の歳月を隔て、
 金栗はストックホルムの土を踏んでいた。


 競技場には、“たった一人のランナー”のためにゴールテープが設けられ、金栗は万感の想いを込めてそのテープを切った。

 
 オリンピックの正式記録の中に、
 第五回ストックホルム大会・マラソン競技の記録が
 書き加えられた瞬間だった。


 「 54年8ヶ月6日6時間32分20秒3 」


 紛れも無く、
 オリンピックにおける、
 マラソンのワースト記録である。

 そして、
 最高に素晴らしく、温かく、
 人々の心がこもった人間たちの記録である。


 スウェーデン五輪委員会は、高らかに宣言した。
 
 「これにて第五回オリンピック
 ストックホルム大会の全日程を終了します。」


 半世紀を跨ぐレースを終えた金栗は、
 レース後のスピーチで、こう述べて人々の微笑を誘った。

 「 まったく長いレースでした。
  なにしろ、このレースのあいだに、
  5人の孫まで出来てしまったんですから。 」



 人生はマラソンに喩えられ、
 マラソンもまた、人生に喩えられる。



 1984年。


 金栗は、93歳で永眠する。


 いや、全てのレースを走り終えたのだ。





コメント(0)

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

ぶひっこ倶楽部 更新情報

ぶひっこ倶楽部のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング