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Cafeサボ〜るコミュの北野武

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ビートたけし(本名:北野武1947年1月18日)は、東京都足立区梅島出身のテレビ司会者、お笑いタレント、映画監督、俳優、東京芸術大学大学院映像研究科教授、元漫才師(ビートキヨシとともに、ツービートとして活動)。オフィス北野に所属し、この事務所の中心人物でもある。タモリ・明石家さんまとともに、「日本のお笑いタレントBIG3」の一人にあげられ、また、映画監督としては世界的にも評価が高い。
愛称は「たけちゃん」・「殿」・「たけし」(所ジョージなどからは「おじさん」と呼ばれている)。映画監督関係では「北野武」、それ以外では「ビートたけし」を名乗ることが多い。
学生時代
塗装業の父・北野菊次郎(1897年-1977年)と母・北野さき(1904年-1999年8月)の四男(次男が夭折し、実質は三男として育つ)として生まれる。東京都立足立高等学校を卒業し、明治大学工学部(現在の理工学部)機械工学科に入学するも中退。

その後、2004年に、特別卒業認定者に選ばれる。そのため、学歴は明治大学工学部卒となっている。
学生時代はジャズに傾倒し、新宿の“LeftyCandy”を初めとしたジャズ喫茶や新宿アシベ、当時の文化人の交流の場所、風月堂にも入り浸っており、たまに来る依頼でジャズ喫茶のボーイもしていたがジャズの見識は一部で有名であった。

この頃は青春の葛藤期でもあり、プロボクサーを目指しジムに通い、また二種免許を取得してタクシーの運転手をしたりアルバイト三昧の青春時代をすごした。
羽田空港での肉体労働も経験、作家の中上健次が同僚であった。
前座時代
その後、映画を観る為に浅草へ頻繁に通ううちに東京都台東区浅草にあったストリップ劇場・浅草フランス座のエレベーターボーイのアルバイトしていたが、同劇場を取り仕切る「浅草の首領」こと深見千三郎に師事し、前座芸人・北千太(北野姓と師匠の名前から。尚名前は頻繁に変わった)としてコント(軽演劇)を学ぶ。
幕間コントに出演して腕を磨き、芸人としてタップダンスの修業にも励む。

前座仲間とのコントコンビでのデビューを目指すが、仲間の病気により頓挫。尚当時の同僚として作家の井上雅義がいる。
ツービート結成
舞台中心の昔の浅草と違いTVが台頭して来た浅草は隆盛時代と比べ物にならぬ程さびれて、観光地として以外の存在もなくなり実質ショウビジネスのメッカとしての終焉を迎えようとしていた。
当時浅草・ロック座に在籍していた兼子二郎(ビートきよし。現・ビートキヨシ)に誘われて漫才を組むも全く芽が出ない為、兼子の発案で『有名な師匠の弟子になった方がいい』と戦略的に松鶴家千代若千代菊門下に入る。

“わっかるかなあ わかんねえだろうなあ”のギャグで一世を風靡した松鶴家千とせは兄弟子にあたる。
元々はエノケンや古川緑波のように、ボードビリアンから銀幕デビュー迄を視野に入れて志も高く軽演劇を教えていた師匠の深見は『色物をやる為に芸事を教えたんじゃねえ』とたけしを破門同然に突き放す。
一方、たけしはコンビ・松鶴家二郎次郎の二代目松鶴家次郎となり漫才師。後にコンビ名を空たかしきよし(たかしが北野。きよしが兼子。)にするが、この頃はきよし主導で漫才を進行させ、きよしがボケ役であった。
さらにツービートと改名してからは、旧来のツッコミとボケのスタイルから脱却して、たけしがネタを一人で喋り続け、きよしが「よしなさいって」と時折たしなめるというスタイルにチェンジするも売れる所までは行かず行き詰まる。

そんな折に大阪で新進漫才師として頭角を現して来たB&Bのスタイルに触発され、スピードを早めて喋りまくるスタイルへ変貌した。
この頃から漫画家の高信太郎や業界人から注目される中、太田プロ所属へ。
長らく無名であったが、1980年、マンザイブーム(旧来の“漫才”と区別される為にカタカナ表記)のムーブメントが起こり、「赤信号みんなで渡れば恐くない」などの毒舌漫才と毒舌ネタを売り物に一躍茶の間でも知られる存在となる。

ブームで知られるようになった漫才師の中では、B&B、紳助・竜介、ざ・ぼんち等に続くに人気位置であったが、毒舌が故に全ての客層ではなく、新しいものを求める男性層に支持層を集める傾向を見せた。
著書「ツービートの わっ毒ガスだ」は、最初のヒット著作となった。オールナイトニッポンの単独でのDJも好評で、同様のユーザ層に支持された。
漫才ブームから成功の兆しを感じ、更なる躍進を抱いた時に相棒のきよしから『もう漫才はやめたい』と申し出があり、事実上の漫才休止状態に。

フジテレビTHE MANZAI-5 を最後にツービートは活動を止め。“タレントビートたけし”として当時の怪物番組「8時だよ全員集合」の牙城を崩すことになるオレたちひょうきん族で“タケチャンマンのビートたけし”として漫才以外でも世間に知られるようになる。
以降、単独で司会をする番組を多く持つようになる。
オールナイトニッポン
ニッポン放送系の深夜放送ラジオ番組「ビートたけしのオールナイトニッポン」でビートたけしの評価は一気に高まる。

本人が当時を述懐するに『とにかく一人で喋ると間が空く事がものすごく恐かった』と言う通り、トークの速度はものすごく密度が濃い。
当時のファンの中心層であった大学生は必ずテープに録音してから何度も聞き直さないと全内容が捕捉出来なかった程であった。
ただ横で笑っているだけのように見られていた放送作家の高田文夫は、実はたけしのハイテンションを絶妙な間合いの合いの手で支えていた。
当時は同じ事務所の(たけしが紹介した)片岡鶴太郎も共に参加していた。
この番組から出た本は今で言う“語り起こし”で構成は主に高田によるものであった。
また、ハガキ職人と呼ばれた熱心な投稿者の存在も大きく、このスタイルは後の「とんねるずのオールナイトニッポン」「ナインティナインのオールナイトニッポン」「伊集院光 深夜の馬鹿力」等、お笑い系パーソナリティの放送構成モデルとなった。
次第にそのまんま東をはじめとした弟子志願者が現れはじめ、日本一周をラジオで中継させたりする『弟子やめさせコーナー』もあり、鶴太郎と交代するようにたけし軍団も放送に加わる様になった。
放送の構成は週の出来事をおもしろおかしく話す内容が大半だが、時に三島由紀夫に傾倒するや、2時間三島を語る等の“講義モード”になったときもあった。

また、中国で日本人修学旅行生が鉄道の大事故で亡くなる等の社会的な問題が起こった際には放送をボイコットしたり、風邪による体調不良で休んだこともあった(このときは急遽軍団が番組を引き受けていた)。

ほかにも、たけしが放送中ずっとファミコンの「ポートピア連続殺人事件」をプレイしていたこともあった。
この時も基本的に軍団が放送していたが、たけしは時折ゲームについて話し、その会話の中で偶然犯人を名指ししてしまった。
オレたちひょうきん族
明石家さんま、島田紳助、片岡鶴太郎たちと出演した『オレたちひょうきん族』(フジテレビ、メインはたけし)は、当時のお化け番組『8時だョ!全員集合』 (TBS) を放送終了に追い込み、80年代のバラエティ番組の金字塔となった。

『オレたちひょうきん族』の人気コーナーで、たけしが主役のヒーローコント『THE タケちゃんMAN』は当時一世を風靡し、これにあやかって学校給食に「タケちゃんマンライス」なる料理が登場するようになった。
バラエティの黄金期
1982-1984あたりからTX気分はパラダイス等に出演している最中たけし軍団という弟子志願者(正式な門下は取らない主義の為“ボーヤ”と呼ばれる)の人数が集まって来た事から、集団で行うバラエティの展開を模索しNTV系スーパージョッキー、TBS系笑ってポン、お笑いサドンデス等と相まって各種のスペシャル番組にも取り組むも、まだファン層は新しいものを求める男性の大学生や若年層社会人に限られたコアな認知度だった。

また博識が評価されTBS世界まるごとHOWマッチ等で文化人的な出演要請も増えて来た。
1985年から過去の経験や蓄積したアイディアからバラエティの黄金期を迎える。

その他放送以外に歌手としてのレコードリリースとライブ活動、文学小説の出版、“たけしの挑戦状”等のゲーム制作も行っており、フライデー襲撃事件が起こる迄の期間はバラエティ時代の黄金期と言える。
ビートたけし登場以後、TV業界へ与えた影響
マンザイブームは、それまでドリフターズや萩本欽一などお笑いスターを中心に据えて存立していたバラエティ番組を大きく変えるきっかけになった。

「オレたちひょうきん族」で茶の間に認知されたビートたけしは、その「ひょうきん族」自体では明石家さんまへの突っ込み役に徹することが多かったが、「お笑いサドンデス」「笑ってポン」等でそれまでの平和型のコントやギャグよりも、むしろ過激で無謀な方向性のギャグを志向した。

そして1985年以降のバラエティ黄金期では一般視聴者(素人)を重要な役割で参加させる番組を提示する。

それまでバラエティ番組は(欽ちゃんファミリーの「気仙沼ちゃん」などごく一部の例外を除いて)あくまで芸人主導のものとされていた常識を覆し、ビートたけしは素人とたけし軍団を対抗させる形で、素人も主役に据えているのが最大の特徴である。
「風雲!たけし城」では、たけしと軍団が構える『たけし城』に様々なゲーム形式の障害を乗り越えて行くという「攻略ドラマ」を中心に据えた番組構成を示した。
考え抜かれた各ステージにおける参加者のリアクションの面白さは世界的な普遍性を持ち、世界各国で吹き替え版はもとより、権利を購入して現地キャストで製作した番組が放送されて人気を博した(一方本家のTBSは、同じ緑山スタジオを舞台に「筋肉番付」「SASUKE」等、「たけし城」をヒントにしたフォロワー番組を作り続けている)。

「スポーツ大将」では陸上競技、草野球、ママさんバレー、サッカー、水泳等の『昔取った杵柄』自慢の素人とたけし軍団が競う趣向をとった。
たけし軍団では歯が立たない場合は100m走ではカール君、水泳ではトビウオ君、野球では球道君といった機械仕掛けのキャラクターが登場し、シュールな笑いを喚起した。「天才・たけしの元気が出るテレビ!!」では様々な素人を『街の話題』的に取り上げたり、ダンスが若者に浸透してきているニーズをいち早く察知し「ダンス甲子園」のコーナーを設けるなどの企画が光った。

象徴的なのは番組内の企画コーナー「たけしサンタ」であり、子供が寝静まった枕元にサンタの扮装をしたたけしがプレゼントを届け、気づいて起きた子供のリアクションを愉しむというもの(この「元気が出る…」のスタイルは「ねるとん紅鯨団」や「浅草橋ヤング用品店」へ引き継がれる。いずれも制作会社がIVSテレビ制作、テリー伊藤の演出)。

これら各局視聴率トップを誇った番組のほとんどがビートたけし本人の企画と構成であり、そのキーワードは『夢』であるといえる。
一般視聴者が様々な形で参加し愉しむというコンセプトはどれも一貫したもので、ファミリー参加型の家族リレーや家族大会等、視聴者が後々までも自らの語り草にできるような良質な番組であった。バラエティの中でビートたけしが用いる言葉も業界で浸透した。
オープントークで『と、言うわけで』から始まる独特のフレーズは当初「どういう訳なんだよ!」と突っ込みを貰う為のものであったが、今では疑問を持たずにそれ以後のタレントが当たり前のように用いている。
『肉付けされた白骨死体みてぇな顔じゃねぇか』のように『〜みたいな〜』の例え表現形式もツービート時代にビートたけしが使い始めたもので、以後のお笑い系タレントがやはり当たり前に用いている。『わけのわからねぇ事言ってんじゃねえ!』の『わけのわからない』の表現も以前は日常で用いられる事はさほど無かったが、常用されるようになったのはビートたけし以後である。
余りに浸透しすぎて居るが故にこれらの言葉を現在では誰も意識する事がない。

映画監督
当初は売れっ子芸能人であることで撮らせてもらっていたが、現在では国際的な賞を得ている。

ビジュアル面での最大の特徴は、「キタノブルー」と評される青の色使い。

また、多くの作品で登場人物の「死」が描かれ、青みの深い画面のもたらすひんやりした映像感覚とあいまって、全編に静謐な不気味さを醸し出している。

こうした一貫したカラーを持つ一方で、撮影時のアングルや編集のリズム、自身の絵画の導入、CGによるエフェクトなど、一作ごとに新たなチャレンジや創意も感じさせる。

映像に一層の格調高さを与えている久石譲の音楽(3作目以降)も重要な存在である。 (各作品の詳細は「監督作品」の項参照のこと)
家族・縁戚
父の叔母で実質の祖母である北野うし(1877年生)は明治時代に娘義太夫の花形であった。
長兄が宇野製作所取締役営業本部長の北野重一、姉を挟んで、次兄がタレントで明治大学教授、工学博士の北野大。

妻は元漫才師の北野幹子(旧姓・松田)、娘は北野井子(しょうこ)。レーシングドライバーの松田秀士は義弟である。
事件
1986年12月9日に、たけし軍団とともにフライデー襲撃事件を起こし逮捕。

懲役6ヶ月、執行猶予2年判決(東京地裁、確定)。たけしのレギュラー番組で人気だった天才・たけしの元気が出るテレビ!!や痛快なりゆき番組 風雲!たけし城、スーパーJOCKEYへの出演を謹慎のために半年間欠席した。

襲撃した理由は、当時たけしが交際していた女子大生にフライデー記者が校門で急襲取材をしたための報復と言われている。また、たけしを弟子の様に可愛がっていた横山やすしは「悪いのは、たけしやない!悪いのは雑誌『フライデー』や!」とフライデーの取材方法に対して痛烈に批判をした。

1994年8月2日午前1時40分。東京都新宿区の都道で飲酒運転での原付バイク事故を起こし、入院生活などで半年間ブラウン管から姿を消していた(反則点数7点、免許停止30日)。

酒気帯び運転にて書類送検されるも起訴猶予。退院時、顔面は半分麻痺した状態だったが、リハビリにより回復し、復帰当時は「頭にボルトが入っていて飛行機の金属探知機に引っかかる」「顔面麻痺が治らなかったら芸名を顔面マヒナスターズにします」と自らの怪我をネタにした。

また、たけしが司会を行っている番組は他の出演者が司会代理を行っていたが、平成教育委員会はたけしと仲の良い明石家さんま、所ジョージ、大橋巨泉が代理講師をつとめた。

上記事故で生死の境を彷徨っていた時、たけしの夢の中に故・逸見政孝が出てきたという。

たけしは、「あれは、まだ俺が死んじゃいけない。って逸見さんが言いに来てくれたんだろうな」と、退院後のインタビューで答えた。

人物
ドラマ、映画に出演し、コメディアンとしてだけではなく、俳優として深みのある演技を見せる。

また、情報番組の司会を数多くこなす他、ピアノ、タップダンスも行う。
また、立川談志の門下生でもあり、「立川錦之助」という高座名ももつ。
日本の映画監督故・黒澤明とも会った事があり、たけしは黒澤を敬愛している。たけしのベスト映画は『七人の侍』である。
某ビールメーカーの某ビールのCMに出演し「一歩進んだビールです。」とキャッチフレーズを口ずさんでいたが、某番組中において話が及ぶと、「あの、まずいビール」などと平気で語っていた。
そのせいか、ビッグネームであるのにCM出演は極端に少ない。
スポーツは野球・サッカー(Jリーグより以前の国内・海外選手に詳しい。)を愛好している。
特に草野球チームとしての「たけし軍団」ではピッチャーを務めマウンドに立つこともある。

野球をする時の彼は真剣で、軍団に本気で恐れられた。ファン感謝デーの余興の試合(軟式)とはいえ阪神タイガースに勝ったこともあり(1991年)、「阪神13位」とスポーツ紙をにぎわせた。
2004年9月7日、明治大学は、100単位以上を取得しながら何らかの理由で大学に行くことが出来なくなった人物(母さきはたけしの中退後も明大に学費を納入していた)に与える「特別卒業認定証」の第1号認定者とし、ならびに明大の知名度アップに貢献したとして「特別功労賞」を贈ると発表した。

東京芸術大学に2005年4月に新設された大学院映像研究科の教授および映画専攻長に就任した。

監督領域の教授は北野武と黒沢清の二名のみである。
また、次兄の北野大も淑徳大学の教授だったので兄弟で教授となる。
大学が理系であった事からも分かるように、数学に対する造詣が深く、「もし道を間違えなかったら、数学の研究者になりたかった」とも語っている。

また、かつて「ここがヘンだよ日本人」に出演した少女の、「数学なんか学んで何になる」という言葉に対し、「世の中の全ての現象は数学に支配されており、数学で説明できる」と反論した。
しかし「平成教育委員会」の算数の授業で、「数学は答えさえあってれば良い」との理系出身者とは思えない理由で、論拠が誤っている正解者を優等生に選出した事もある。

もっとも、このような発言は、「解答した理由もあわせて答えよ」という設問ではない為、入試突破の為にはこう言ったウラワザ的な解答方法を用いて試験をパスする事も1つの選択肢である、という考えを示したと言う功績を作ったとも言える。

2004年10月に長女の北野井子が調理師と入籍し、2005年3月9日に女児を出産し、たけしは「おじいちゃん」となった。しかし同年6月、離婚調停中であることが発覚した。

また長男の北野篤もオフィス北野所属のタレント・たかだゆうことできちゃった婚をした。
最近は自宅にちょっと顔を出して、娘の住む家に帰宅。

孫をおんぶしたりと面倒をみているそうだ。
「オレたちひょうきん族」の収録をしょっちゅう休み、そのたびに明石家さんまや島田紳助にネタにされた。
来なかった理由を「オバケが出たから」と言い訳したのは有名。
「タモリと俺って言ったら20年くらい前なら嫌いな芸人のベスト3に必ずいる芸人だった、さんまもかつてはそうだったね。けど、今はみんな好きな芸人ベスト10に入っている。世の中不思議なもんだね。」と以前番組中に述べたことがある。

たけしの物真似をする際の動作として定番化している頻繁に首をひねる動作(ただし、たけし本人は90年代以降はあまり見せなくなっている)は、癖ではなく若手時代に負った怪我の後遺症である。
『週刊ポスト』での連載コラムの一節で本人が明らかにした。それによればツービート時代、「トランポリンで飛び跳ねながら漫才をやってくれ」と頼まれ、稽古中に頭から落下してしまい頚椎を負傷。

幸い大事には至らなかったが、しばらくの年月にわたり首に違和感があったとの事。
長年、パンツはブリーフ派であったが、体型を気にしてか、近年トランクスを履くようになった。
田代まさしが不祥事を起こした際には、「そんなに追い詰めないほうがいい」「たけし軍団に入団させようか」などしばしば擁護するコメントを寄せていたが、判決で実刑が下された時には「あんな野郎に関わりたくは無い」と厳しく批判、以降、救済する意向がない事を示した。

2007年、第60回カンヌ国際映画祭に招待された。その際、マスコミをシャットアウトした上で松本人志(同じくカンヌ国際映画祭に招待された)と対談を行った。

松本は、自らの初監督作品である『大日本人』の上映途中で席を立つ観客にショックを受けたと語り、たけしは「こんなことは当たり前だ。
10年も映画監督をやればどうにかなる。他の監督より才能がある」と慰めた一方、同じくカンヌ映画祭に来ていた(招待は受けていない)木村拓哉等に対しては「ん? キムタク? あんなのただの観光客だろ」と切り捨てている。
2007年8月、カンヌ映画祭にて「GLORY TO THE FILMMAKER」賞が新設されることとなった。
これは「監督!ばんざい」に基づいてつくられたもので、現地時間の8月30日に行われる表彰式に出席する予定。
監督作品
基本的に出演しているが、していない作品もある。
出演の際は、ビートたけし名義で出演。原則として映画監督としての活動は北野武名義となっている。

『その男、凶暴につき』(1989年)
『3-4×10月』(さんたいよんえっくすじゅうがつ)(1990年)
『あの夏、いちばん静かな海。』(1991年)
『ソナチネ』(1993年)
『キッズ・リターン』(1996年)
『HANA-BI』(1998年)
『菊次郎の夏』(1999年)
『BROTHER』(2001年)
『Dolls』(2002年)
『座頭市』(2003年)
『TAKESHIS'』(2005年)
『監督・ばんざい!』(2007年)

コメント(2)

北野武名義
余生(2001.2.25 ロッキングオン)
孤独(2002.7.26 ロッキングオン)
時効(2003.9 ロッキングオン)
異形(2004.12 ロッキングオン)
光(2005.11 ロッキングオン)
武がたけしを殺す理由 全映画インタヴュー集(2003.9 ロッキングオン)
イチロー北野武キャッチボール(2003.7 ぴあ)
ビートたけし名義
たけし! オレの毒ガス半生記(1981.11.20 講談社)
ビートたけしのごっくん日本史(1982.10.25 リヨン社)(ゴーストライター作と言われている)
ビートたけしの変態志願(1982.12.5 KKベストセラーズ)
恐怖びっくり毒本(1983.8.5 KKベストセラーズ)
ビートたけしの幸せ独り占め(1981.12.5 オールナイト・ニッポン サンケイ出版)
ビートたけしの幸せになってしまいました(1982.10.20 オールナイト・ニッポン サンケイ出版)
ビートたけしの三国一の幸せ者(1982.12.5 オールナイト・ニッポン サンケイ出版)
ビートたけしの無条件幸福(1983.12.20 オールナイト・ニッポン リビングマガジン)
ビートたけしのニッチもさっちも(1984.12.15 オールナイト・ニッポン&高田文夫編 扶桑社)
ビートたけしの幸か不幸か(1985.12.16 オールナイト・ニッポン&高田文夫編 扶桑社)
ビートたけしの不幸中の幸い(1986.12.16 オールナイト・ニッポン&高田文夫編 扶桑社)
ビートたけしの全面幸福(1988.5.9 オールナイト・ニッポン&高田文夫編 扶桑社)
ビートたけしのその男幸せにつき(1990.1.5 オールナイト・ニッポン&高田文夫編 扶桑社)
ビートたけしの幸せ丸十年(1990.11.22 オールナイト・ニッポン&高田文夫編 扶桑社)
ビートたけしのウソップ物語(1983.9.1 話の特集)
ビートたけしのしまいにゃ笑うぞ(1983.4.10 スコラ/講談社)高田文夫との共著
ビートたけしのみんなゴミだった(1983.11.27 飛鳥新社)
午前3時25分(1983.12.10 太田出版)
ギャグ狂殺人事件(1984.2.25 作品社)(ゴーストライター作と言われている)高田文夫との共著
たけしくん、ハイ!(1984.5.1 太田出版)
たけし吼える!(1984.9.23 飛鳥新社)
あのひと(1985.8.20 飛鳥新社)
午前3時25分増補改訂版(1986.6.13 太田出版)
新・坊ちゃん(1986.6.19 太田出版)
KID RETURN(1986.12.8 太田出版)
少年(1987.11.12 太田出版)
浅草キッド(1988.1.24 太田出版)
教祖誕生 第一部(1990.12.10 太田出版)
仁義なき映画論(1991.11.25 太田出版)
場外乱闘(1992.9.12 太田出版)
こんな時代に誰がした! 場外乱闘2(1993.10.17 太田出版)
漫才病棟(1993.5.30 文藝春秋)
落選確実選挙演説(H6.6.15 新潮社)
顔面麻痺(1994.12.9 太田出版)
女につける薬(1993.2.10 祥伝社)
女は死ななきゃ治らない(1994 祥伝社)
それでも女が好き(1995.8.5 祥伝社)
愛でもくらえ(1999.2.10 祥伝社)
毒針巷談 (北野武名義)(1984.8.10 太田出版)
続毒針巷談(1985.9.30 太田出版)
続々毒針巷談(1986.10.1 太田出版)
新毒針巷談(1988.7.31 太田出版)
ビートたけしの世紀末毒談(1991.11.10 小学館)
ビートたけしの世紀末毒談 目には目を毒には毒を(1992.5.20 小学館)
ビートたけしの世紀末毒談3 (1996.5.1 小学館)
だから私は嫌われる(1991.6.10 新潮社)
やっぱり私は嫌われる(1991.12.20 新潮社)
みんな自分がわからない(1993.5.25 新潮社)
たけしの死ぬための生き方(1995.3.25 新潮社)
みんな〜やってるか!(1995.1 扶桑社)
たけしの20世紀日本史(1996.2.29 新潮社)
草野球の神様(1996.10.20 新潮社)
ザ・知的漫才 ビートたけしの結局わかりませんでした(1996.9.25 集英社)
私は世界で嫌われる(1998.2.20 新潮社)
たけしの「号外」!!(1998.5.11 洋泉社)
コマネチ!ビートたけし全記録 (1999.6 新潮文庫)
菊次郎とさき(1999.12.5 新潮社)
偽善の爆発 時事問題講義(2000.10.30 新潮社)
頂上対談(2001.10.20 新潮文庫)
ビートたけしの黙示録(2001.11.30 徳間書店)
もう十何本も撮っているから、もう少し細かい部分にも気を使う映画を撮らないといけないんじゃないか。音楽に関してはもうちょっとちゃんとやろうかと」。
 
映画製作と並行して後進の育成も精力的に行っている。05年から東京芸大大学院の映像研究科映画専攻の教授に就任。現在1年生8人、2年生5人の指導に当たっている。「テクニックを教えるばかりじゃなくて、本質的なこともね」と、“課外授業”も行う。
1人約5万円もする銀座の高級レストランに学生を連れて行き、ボーイの動きや店の雰囲気を見せた。
 「高級な店を知らないと高級な料理が出てくるシーンを撮れない。そういうのを知らないと映画を撮れないから見せるようにしてる。本当はヤクザも見せたいんだけどね」。

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