1755年、(正規に出版されたものとしては)最初の論文"Allgemeine Naturgeschichte und Theorie des Himmels"『天体の一般的自然史と理論』で太陽系は星雲から生成されたと論証した。この論文は印刷中に出版社倒産により極少数のみ公刊であった。(1791年に抄録が、1797年に論文集に採録され、後にピエール=シモン・ラプラスの宇宙論とあわせカント・ラプラスの星雲説といわれる。)私講師として職業的哲学者の生活に入る。中途、ケーニヒスベルク大学詩学教授の席を打診されたが、カントはこれを固辞した。またエアランゲン、イェーナからも教授就任の要請があったが、遠隔地の大学だったせいか、それとも地元のケーニヒスベルク大学から既に非公式の招聘が来ていたせいか(後述するように翌年の1770年に教授就任)、これも断っている。
ケーニヒスベルクの奥津城1804年2月12日に逝去。晩年は老衰による身体衰弱に加えて老人性痴呆症が進行、膨大なメモや草稿を残したものの著作としてまとめられることは遂になかった。最後の言葉は「これでよい」(Es ist gut.) だったと伝えられる。偉大な倫理学者が生涯の終わりに残した名言として美化されがちだが、末期の水がわりに水で薄めたワインを口にした直後の発言であり、実際には自らの人生に対する総括というよりも「もう(十分飲んだから)結構」とか「(ワインが)うまいねえ」といった程度の意味ではなかったかと言われている。当時のドイツの哲学者は、論敵をも含めてカントの死に弔意を表した。死去から半月以上経過した2月28日になって(真冬だったことに加えて遺体は水分が抜けて半ばミイラ化しており、埋葬を急がなくて済んだためという)大学葬が行われ、市の墓地に葬られた。その奥津城は現在もカリーニングラードに所在する。
カントによれば、人間の認識能力には、感性と悟性の二種の認識形式がアプリオリに備わっており、前者の感性には、純粋直観である空間と時間、後者の悟性には、因果性などの 12 種の純粋悟性概念(カテゴリー、すなわち範疇とも称する)が含まれる。意識は、その二種の形式に従ってのみ物事を認識する。この認識が物の経験である。他方、この形式に適合しない理性理念は原理的に人間には認識できない概念とされる。神あるいは超越者がその代表例であり、これをカントは物自体(Ding an sich)と呼ぶ。(『純粋理性批判』)
超越者がア・プリオリな認識能力にとってたんに思惟の対象であることを指摘したカントは、理性が超越者とかかわる別の方法、すなわち実践理性による超越者の要請(Anspruch)を『実践理性批判』において考察する。この書はカント道徳論の基礎であり、物自体はここで「あなたの意志の格律(die Maxime deines Willens)がつねに同時に普遍的立法として妥当するように行為せよ(Handle so, daß die Maxime deines Willens jederzeit zugleich als Prinzip einer allgemeinen Gesetzgebung gelten könne.)」という定言命法として定式化される。すなわち理論理性に対して物自体である神は、実践理性にとっては人間理性の自由であり、その根拠として神・不死などの観念が要請されるのである。
悲劇 タイタス・アンドロニカス(Titus Andronicus、1593年) ロミオとジュリエット(Romeo and Juliet、1595年) ジュリアス・シーザー(Julius Caesar、1599年) ハムレット(Hamlet、1600-01年) トロイラスとクレシダ(Troilus and Cressida、1601-02年) マクベス(Macbeth、1601-06年) オセロー(Othello、1602年) リア王(King Lear、1604-06年) アントニーとクレオパトラ(Antony and Cleopatra、1606-07年) コリオレイナス(Coriolanus、1607-08年) アテネのタイモン(Timon of Athens、1607-08年)
喜劇 間違いの喜劇(Comedy of Errors、1592-93年) じゃじゃ馬ならし(Taming of the Shrew、1592-94年) ヴェローナの二紳士(The Two Gentlemen of Verona、1594-95年) 恋の骨折り損( Love's Labour's Lost、1594-95年) 夏の夜の夢(A Midsummer Night's Dream 、1592-98年) ヴェニスの商人(The Merchant of Venice 、1596-97年) 空騒ぎ(Much Ado About Nothing、1598-99年) お気に召すまま(As You Like It、1593-1600年) ウィンザーの陽気な女房たち(The Merry Wives of Windsor、1600-01年) 十二夜(Twelfth Night, or What You Will、1602-06年) 終わりよければ全てよし(All's Well That Ends Well、1602-03年) 尺には尺を(Measure for Measure、1604-06年) ペリクリーズ(Pericles, Prince of Tyre、1608-09年) シンベリン(Cymbeline、1609-10年) 冬物語(The Winter's Tale、1610-11年) テンペスト(The Tempest 、1611-12年)
神聖ローマ帝国(しんせいローマていこく、独:Heiliges Römisches Reich Deutscher Nation, 962年 - 1806年)は、中世に現在のドイツ、オーストリア、チェコ、イタリア北部を中心に存在していた政体。帝国というよりは実質的に大小の国家連合体であった期間が長く、この中から後のオーストリア帝国(当事はオーストリア大公領およびハプスブルク家支配地域)やプロイセン王国などドイツ諸国家が成長していった。ドイツ帝国とも呼ばれ、1806年帝国解散の詔勅はこの名で行われた。
名称 古代ローマ帝国の継承を称し、11世紀頃は「Römisches Reich(ローマ帝国)」、12世紀頃には神聖帝国、13世紀以降「Heiliges Römisches Reich(神聖ローマ帝国)」と称された。16世紀には「Heiliges Römisches Reich Deutscher Nation(ドイツ人の神聖ローマ帝国)」と称すようになった(ラテン語名はSacrum Romanum Imperium Nationis Germanicae。ドイツ語で「Reich」は「帝国」を意味し、ラテン語の「imperium」に対応する概念である)。「神聖」の形容詞は1157年にフリードリヒ1世がドイツの諸侯に発布した召喚状にあらわれる。 もともとは古代のローマ帝国やカール大帝のフランク王国の後継帝国を意味していた。そのため、この政体の君主は正式に言うと初期にはフランク王、後にはローマ王であり、この肩書きを得た者がローマで戴冠し、ローマ皇帝に就任したのである。