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〜〜新撰組〜〜コミュの原田左之助について

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『原田 左之助』(はらだ さのすけ)
●出生日 天保11年(1840年)

●出身・家系 :伊予松山藩の足軽・原田長次の3男
●役職・肩書 :新撰組10番隊組長、副長助勤、6番隊組長
●流派: 種田宝蔵院流槍術
●武器: 江府住興友
●本名・改名 本名:忠一(ただかず)
性格・特徴:
・短気でせかせかした性格
・美男でもあった
・新撰組一の槍の使い手
・喧嘩の勢いで切腹しかけたことがある
・酔うと切腹の傷を見せて自慢していた
・満州国に渡って馬賊になったという説もあり
●池田屋事件 ○参加、褒賞金:17両
●経歴
・江戸に出て三田の松山藩邸で中間となる
・試衛館の食客となる
・文久3年、近藤勇らと共に浪士隊に参加
・三条制札事件で10番隊を引き連れて奮闘
・坂本竜馬暗殺の下手人と疑われて、度々襲撃を受ける
・甲州勝沼の戦い敗戦後、新撰組を離れて永倉新八と行動を共にする
・途中で永倉新八と別れて、彰義隊に参加
・官軍との戦いにより討死
●死亡日: 慶応4年(1868年)5月17日
●戒名: 正誉円入居士
●墓所: 円通寺 (東京都荒川区)



原田 左之助(はらだ さのすけ、天保11年(1840年) - 明治元年5月17日(1868年7月6日))は、江戸時代末の武士。伊予松山藩生まれ。
新選組十番隊組長。諱は忠一。谷三十郎から種田流槍術を教わり免許皆伝。

人物
伊予松山藩の中間で、原田長次の長男として生れる。松前藩の江戸中屋敷で小使として働いていたが、のちに脱藩。少々、キレやすい人物であったようで、国許にいたある日、ある武士と口喧嘩になり「腹を切る作法もしらねぇ下司野郎!」と罵られた。それにカッとなった左之助は、「じゃぁ、見せてやる!」と裸になり刀を抜き、腹を一文字に切った。傷は浅く、命には別状はなかったが、以来、腹に一文字の傷が残った。原田はこれをよく人に見せて、啖呵をきったという。また、紋を「丸に一ツ引き」に変えてしまった。その傷から、「死損ね左之助」と隊内でアダ名されたようである。その後、出奔し江戸に出て、試衛館の食客となり、浪士組に参加、上洛する。また京都では”休息所”などと言って妾を囲った幹部が多かったが、左之助は祝言をあげた。新選組の幹部のなかで唯一、在京中に正妻(おまさ)を娶り、一男(茂)をもうけた。かなりの愛妻家であったという。結婚後は家族を大切にしたらしい、こんな逸話がある。鳥羽/伏見に参戦するにあたり、左之助は身重だった妻、まさの所へ200両を届け、自分になにかあったら息子、茂を立派に武士として育ててくれ、と言い残したそうだ。そしてかなりの美男子だったいわれている。永倉新八とは仲が良かったようだ。
種田流鎗術を収めた原田は、試衛館組八人のなかで、唯一の槍の使い手であった。原田自身は種田宝蔵院流を名乗っていたが、この流派の存在は疑わしく、原田が勝手に名乗っていただけらしい。槍の師匠は谷三十郎であったという。

新選組
近藤勇の江戸道場、試衛館以来の生え抜き隊士で十番隊組長となる。種田流(または宝蔵院流)の槍の名手として知られた。副長の土方歳三は、一番隊の沖田総司と十番隊の原田左之助を信頼して、よく使ったという。殿軍の組長として十番隊を指揮し主だった新選組の戦闘には原田の名が必ずあり活躍している。禁門の変に参加し、芹沢派粛清の際には山南敬助とともに平山五郎を殺害した。また、長州藩の間者であった楠小十郎殺害も原田の手によるものらしい。池田屋事件では土方隊に属し、池田屋惣兵衛が逃がした長州藩士を槍で仕留めた。この功で17両の褒賞金を賜った。(芹沢鴨一派の粛清、長州の間者・楠小十郎斬殺、大阪西町奉行与力・内山彦次郎暗殺、池田屋事件、禁門の変、三条制札事件、油小路事件など)
また元治元年(1864)8月頃には、近藤勇増長に不満を抱き、永倉新八、斎藤一らと共に会津藩に上書を提出している。
伊東甲子太郎入隊後の編成では十番隊組長に就任、その後も七番隊までのときは七番隊と、常に殿軍の組長を務めた。
伊東暗殺後の油小路での高台寺党との戦いでは、試衛館以来の同士である藤堂平助を逃がそうとしたが、事情を知らぬ隊士の手により、藤堂は斬殺されてしまう。また両手に刀を持ち、鬼人のごとく戦う服部武雄に槍で対峙し、激戦の末、槍で突き刺した。

一時は、坂本龍馬暗殺の下手人として疑われたが(暗殺現場に落ちていた鞘を伊東甲子太郎が原田の差し料と証言したため)実際は龍馬暗殺と新選組とは関係がなかったといわれている。(京都見廻組だと言われている)

鳥羽・伏見の戦い、甲陽鎮撫隊まで新選組として戦いその後、永倉新八と共に靖兵隊結成。妻子に会いたい理由から隊を離れ、京都へ戻ろうとするがなぜか彰義隊に加わり、上野戦争の傷が癒えず、明治元年5月17日に死亡する。享年29。(何故か隊の名簿に原田の名が無い。)

馬賊
原田左之助にはもう一つ、語り伝えられた最期がある。明治27年の日清戦争の折に昔語りをする老軍人がいて、これが左之助らしいという話である。左之助は上野から新潟、下関、釜山を経て大陸へ入り、そこで馬賊の頭目になったというのだ。
これが作り話なのか事実なのかは解らないが、日清戦争の折に新選組について詳しい人物がいたのは事実とされている。果たして、それは大陸へ渡って馬賊の頭目となった原田左之助だったのか。左之助は本当に助かって大陸へ渡っていたのか。もしもそれが左之助であれば、彼はまさに大陸までも駆け抜けた事になる。真実は解らない、だが。原田左之助が、人にそう思わせるだけの器量を持った男だったのは確かであろう。

その他
息子の名前は原田茂、この茂という名は江戸幕府14代征夷大将軍徳川家茂から一文字取ったといわれている。
妻まさは昭和6年ごろまで生き、沢山の孫たちに見守られる中に亡くなったとされる。

コメント(22)

上記の原田左之助についての内容、拝見させていただきました。坂本龍馬暗殺に関わったとされて疑われたと聞きました。暗殺のときに「こなくそ」という松山の方言があったから左之助が疑われたとか・・・しかし、左之助にはアリバイがあったと聞いたことがあります。とのようなアリバイだったのですかね?
大河ドラマでは盗賊のいちみで、とこで近藤と切り合い、殺意はないとのことで、なんとなく食客になった感じでしたけど、あのストーリーもどうもあいまいに思いました。原田はいつもゴロゴロ寝ていて、試衛館では浮いた存在のように思えていました。
実際はどのようないきさつで多摩にきて、試衛館に入ったか、気になります。

性格ももっと怒りっぽいと思っていたけど、いつもニコニコしていて実際の印象とは違っていました。その性格で隊長を務めていたので、いまいちピンと来ませんでした。実際のところどうだったのか気になります。

あと、師匠の谷三十朗が入隊してきたとき、喜んだとか、仲がよかったとか、師匠とどのように交流していたかも気になります。。
あまり関係ありませんが新撰組占いで私、原田左之助と診断されました。なんだか親近感がいままで以上に深まりました(^O^)
上野でも行ってみようかな(^0^)/
私も原田さん好きですね〜!あの、豪放磊落な性格が微笑ましい。そんな彼だからこそ生き延びて馬賊に・・・という逸話も生まれたのかも知れませんね。


>ガトリングさん
私もです、それで少しお話しましたよね^^
>ハルカさん
そのセツはどうもヽ(^o^)丿原田左之助の関係する場所はどこですかね?私は東京に住んでいますので京都はすぐに行けませんし、ましてや四国は遠すぎてすぐには行けません。上野戦争のあった上野なら容易に行けそうですが、上野の山には原田左之助に関する碑等はあるのですか?以前に訪れたときは彰義隊関係の説明の看板があっただけなのですが・・・もしご存知ならご教授をお願いします。
>ガトリングさん
原田のアリバイについてですが、私が知っているのは
というか、読んだ(新人物往来社「坂本龍馬101の謎」)
中には2つありました。

1つは結城礼一朗の記述『お前達のおぢい様』等で、
礼一郎の父結城無二三が「あの晩は己達は近藤の処
に集まっていた。(中略)原田左之助も一緒に居た」
と語ったとされているものです。
ただ、結城無二三が新撰組と関わりを持つのは鳥羽
伏見の戦いの後、新撰組が江戸に戻った慶応四年の
二月頃と言われているので、あまり信憑性はないと
思われると言うことです。

2つ目は、新撰組の「金銀出入帳」の記載で、事件
当日の支出が
 一同(金)五両也  角楼払
と記載されている事。
この日、新撰組は島原の「角屋」で宴会、もしくは
会合を開いていたという事になります。
隊の費用を使った集まりに、幹部の一人である原田が
同席していなかった可能性は、低いと考えられます。

また、新撰組は日常活動にともなう給金の他に、事件
などの出動手当ても支払われていたそうで、油の小路
での伊東他殺害の折りは19日に出動隊士17名にあ
てて十七両が支払われているそうです。同様に12月
には伏見で都城兵と衝突した際には、隊士11名に対
しやはり一両ずつ計十一両の支出があったそうです。
この事から、もし竜馬暗殺に原田をはじめ新撰組が関与
していたとすれば、事後に何らかの手当てが出されて
いなければならないと、考えられるそうです。

この事から、原田には当夜のアリバイがあったと考え
られるのではないでしょうか…
>たんちゃんさん
ありがとうございます。なるほど、新選組の出納帳に動きが無かったということは少なくとも龍馬暗殺という命令は無かったと考えられますね。
私もこんど「坂本龍馬101の謎」という本を読んでみます。大変、参考になりました。
本日、西暦と旧暦の違いはありますが、5月17日は原田左之助の命日ですね。大陸に渡って馬賊になっていたら別ですが…

以前、新選組占いで私は原田左之助と診断されてから、何だか原田左之助に親近がわきまして、このような程度の低いことを掲載させて頂きました。

本当に気になる人物です。
自分は原田は無実と考えます。刀の鞘も下駄も、左之助と証言したのは伊東甲子太郎だったといわれています。ちなみに原田にはきちんとアリバイがあるし、そもそも坂本龍馬さんという重要人物を斬るのに下駄を履いていくはずがないとも言われています。

個人的には、下手人の張本人は佐々木只三郎を初めとする見廻組だと思います。
でも明治になってからの様々な軌跡を見ると、黒幕は薩摩だったとも思えます。
 原田の馬賊説は事実であってほしいです。源義経がチンギス・ハンになったのはありえないとして、原田が大陸に渡って馬賊になったのには可能性がありますよね。

 なんかどっかで聞いた話だと、日清戦争で日本軍を助けた以外にも、何十年ぶりかに親戚か何かと再会を果たしたという話を聞いたことがあります。ホントかどうかわかんないですが・・・
>デクさん
親戚に再会を果たしたということは大陸から日本に戻ってきたのでしょうか?

新選組には謎がつきもの、原田左之助が大陸に渡った根拠を知りたいですね。
 根拠はわかんないですが、大陸から日本に戻ってきて日本軍を助け、そのときに親戚と再会を果たしたみたいなことを聞いた覚えが・・・

 大河で山本太郎くんが演じた原田のイメージが強いため、原田=自由奔放、な印象が俺の中ではあります(笑)
彰義隊に関係あるお寺『円通寺』さん、2003年10月に
近藤勇と土方の墓碑探しでこのお寺を訪ねました。
門を入り、正面建物内に事務所があり、お墓の写真を撮らせてくださいと頼み、建物左の柵の鍵を開け、中に入り写真を撮らせてもらいました。
檀家さんたちは、建物の裏手にある墓地に建物内を通っていった記憶があります。

遺族がいれば、先祖代々の墓でも有るのかしら。・・・・
事務所で確認すればわかりそうですね。

とりあえず、証拠の写真を貼り付けて置きます。
この写真は、ホームページ「私は新選組局長だ」に使う機会が無かったなぁー。
>デクさん
私も山本太郎さんが演じた原田左之助のイメージがとても強く印象付いていますよ。実際の原田左之助もとても明るい感じの方だったようですね。

>近ちゃんさん
彰義隊関係といいますと上野戦争に関わるお寺なのですか?
原田左之助も上野戦争に参戦してたのなら何らかの資料等が『円通寺』さんにあるのですかね・・
ガトリングさんの質問に答えます。

以下に2つのwebページをご参考に。

http://bushidou810.gozaru.jp/entuji.htm
このページで、原田の名前が出てきます。

次のページでは、円通寺にある特殊な墓を説明しています。
http://www6.plala.or.jp/entsuji/newpage1.htm

円通寺に彰義隊の文献は無さそうです。

彰義隊士の墓
慶応4年・明治元年(1868)五月十五日
上野東臺において戊辰戦争で戦死した
彰義隊士の遺体を当寺二十三世「大禪佛磨大和尚」の決死の覚悟にて供養した事により、当寺に官許が下り、遺骸二百六十六体を上野山内にて荼毘に附し当寺に埋葬した。

もう一つの墓について。
彰義隊の供養に尽力した三河屋幸三郎が向島の別荘に秘そかに立てて、鳥羽、伏見、函館、会津などの各藩士の戦死者の氏名を彫って供養をしていたが、当寺に移築されたもの。
やはり賊軍にて、おおぴらな供養が当時は出来なかった為と思われる。しかし官許のある当寺に移築する事により、彰義隊と合わせて供養が出来ることになった。

土方歳三、近藤勇、など九十七の名前と「神木隊二十八名」と彫ってある。
>近ちゃんさん
サイト拝見させていだだきました。原田左之助のことを知るためにも一度、訪れてみたくなりました。

> ムネさん
なかなか興味深い考え方ですね。原田左之助が試衛館とどれだけ関わりがあったか・・・疑問がありますね。
原田左之助のトピックに
情報を付け加えて、編集し直しました。

なぜか原田左之助は彰義隊士の名簿の中に名前がなく、戦死者のリストにも載っていませんでした。

しかし当時
江東区森下にあった 神保山城守の屋敷で
「彰義隊原田左之助が上野戦争にて被弾、この地に運び込まれる。
 苦しみながら息を引き取った」
との情報がありました。
原田左之助が大陸に渡ったかどうかの真偽は知りませんが、彰義隊の総大将輪王寺宮は、請願して日清戦争に出陣しています。
義に厚い男、原田左之助が、もし大陸に渡っていたなら、きっと輪王寺宮(日本軍)を後押ししたと考えられますよね。
ロマンですね〜。
原田左ノ助、キャラがたまらなくカッコいいですね!

写真が残っていないのが残念です。

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