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〜〜新撰組〜〜コミュの天然理心流について

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↑天然理心流門人奉額(左)
八王子市戸吹の桂福寺の祠で飾られていた天然理心流門人奉納額は日野、八坂神社に
奉納されているものを模して作られたもの。

↑系図(真ん中)

天然理心流の系図です。
主要な師範を掲載しておりますが、実際には師範だけでも他にまだ多数いました。

↑天然理心流の分布図(右)

天然理心流(てんねんりしんりゅう)とは、日本の剣術流儀の1つである。

?資料
遠江国の近藤内蔵之助(?-1807年)が、寛政年間(1789-1801)頃に創始し、江戸に道場を構えた。二代目を近藤三助が継ぎ、江戸はもとより、現在の多摩地方や埼玉、神奈川まで広範囲に普及した。江戸時代後期に近藤周助の養子である四代目宗家近藤勇が京都で新選組を結成した事で知名度を上げる。

五代目は近藤勇の婿養子である近藤勇五郎が継承した。 近藤勇五郎は、その当時存命であった多摩在住の師範より天然理心流を学んだと思われる。
天然理心流は、奥義を宗家の口伝によって伝承するが、前宗家から口伝を受けたのは四代目の近藤勇までである。

天然理心流は剣術の他に居合術、柔術、棍棒術、気合術を含む総合武術であり、技量に応じて入門から切紙、目録、中極意目録、免許と進み、指南免許を得ると門人を集め道場を開く事が出来る。


現在では、近藤勇の生家である宮川家の子孫の宮川清蔵が九代目宗家道統を継ぎ、二代目の近藤三助の弟子の系統で全伝を伝承する心武館館長の大塚篤とともに茨城県牛久市で指導している。 また、八代目の加藤伊助の弟子であった平井泰輔、荒川治もそれぞれ三鷹市で天然理心流を指導している。





天然理心流歴代宗家
初代 近藤内蔵之助 長裕
二代目 近藤三助 方昌
三代目 近藤周助 邦武(近藤勇の宗家四代目就任後、通称を周斎と改める)
四代目 近藤勇 昌宣
五代目 近藤勇五郎 信休(撥雲館道場を開く)
六代目 桜井金八 義祐
七代目 近藤新吉 正行
八代目 加藤伊助 修勇
九代目 宮川清蔵 勇武


?資料
天然理心流は、流祖近藤内蔵助が古武道としては比較的新しい寛政年間に創始した、剣術、居合術、柔術、棍法(棒術)、活法、気合術等を含む総合武術です。
また、幕末期には天然理心流 四代目宗家の近藤勇と、門弟の土方歳三、沖田総司、井上源三郎らが、京都において「新選組」を結成したことでも知られております。
現在は、天然理心流九代宗家宮川清蔵のもと、天然理心流の技法と精神の伝承に励んでおります。
残念ながら、八代目の加藤伊助前宗家には僅か六本の技しか伝わらなかった為、天然理心流の技をほぼ完全に継承している天然理心流 心武館の大塚篤館長を、宮川宗家が天然理心流 筆頭師範として招聘し、技の指導にあたっております。


歴史
天然理心流の歴代宗家

流祖 近藤内蔵助長裕

天然理心流は、近藤内蔵助長裕が創始した流派です。
遠江(現在の静岡県)の人と言われていますが、生年と正確な出身地は不明です。
おそらく、諸国武者修行の末、天然理心流を創始したものでしょう。
創始したのは、寛政年間(1789〜1801)の始め頃であると思われます。
天然理心流の伝書には、鹿島神道流の祖、飯篠長威斎家直からの伝系が記されており、表木刀の型は鹿島の太刀であるとのことです。
天然理心流には、剣術の他に、居合術、柔術、棍棒術、活法、気合術などが含まれており、様々な武術の修行を積んだ上で一流を起こしたことが伺えます。
武者修行の末、江戸に出てきた近藤内蔵助は、薬研堀(現在の東京都中央区)に道場を構える一方、相州(現在の神奈川県)や武州多摩地方へ出稽古に行っていたらしい。
二代目近藤三助、三代目近藤周斎、四代目近藤勇も多摩の出身であるので、こういった出稽古を通じた人脈であったのであろう。
また、流祖の頃の薬研堀から周斎の時代には市ヶ谷柳町へ道場を移したが、一貫して江戸御府内を出ることは無かった。よく天然理心流を田舎剣法と言う方がいるが、それは当流の歴史を知らない故のことであろう。
田舎剣法といえば、NHKの大河ドラマ「新選組 !」で、天然理心流が田舎剣法なので幕府講武所の師範になれなかったという場面があったが、当流からは小野田東市が講武所剣術師範に採用されている事実があることを付け加えておく。


以下、執筆中

二代 近藤三助

三代 近藤周助

四代 近藤勇

下記の門人表には土方歳三の実兄で、下染谷村の医家に養子入りしていた「糟屋(粕谷)良循」の名を見ることができる。

天然理心流新入門人表(文久三年) 

日野 38
日野宿 奥住歌之助 奥住与吉 立川武助
  渡辺源蔵 和田惣十郎 福島菊次郎
  有山重蔵 井上定次郎 落合愛次郎
  高木吉蔵 土方吉次郎 谷 富蔵
  佐藤力之助 土方庄三郎 和田平次郎
平村 平 太郎 山崎房太郎  
平山村 大沢惣次郎 阿川金太郎 馬場島次郎
  大沢由五郎 秋間善次郎 大沢興市郎
  塩野半七 鈴木勘七 鈴木清八
川辺堀之内 増田紋之助 岸野新治郎 伊藤百平
  伊藤治郎    
豊田村 遠藤亀吉 二ノ宮岩次郎 村野百松
  二ノ宮伊太郎 村野紺次郎  
万願寺 金子万作    
新井村 土方健次郎 土方一平  
宮村 小棚弥一郎    

八王子 20
栗須村 和田忠次郎 石河茂一郎 福島春平
  石川嘉吉    
上柚木村 伊藤直蔵 伊藤房右衛門 伊藤清兵衛
  勝沢嘉十郎 佐藤松五郎 栗本斧右衛門
下柚木村 内田三吉 大室代次郎 内田定吉
石川村 守屋貞次郎 立川佐市 立川筆三郎
  立川礒之助 石川和助 内田武八
  立川き之助    
府中 15
是政村 三岡周助 八木五兵衛 高木吉五郎
  伊藤茂吉 井田武周 井田仙蔵
  影山清次郎 三岡吉六 大久保佐太郎
  横山慶次郎 三ツ岡喜重郎  
下染谷村 糟谷増三郎 糟谷良循  
上染谷村 村野貞次郎    
府中宿 矢部甚五右衛門    
立川 7
柴崎村 板谷伊六 馬場里次郎 小川源治郎
  加藤東太郎 五十嵐仙三郎 小川保太郎
  馬場幸次郎    
町田 5
小野路村 阿川伊予松 萩生田平造  
小山田村 薄井磯右衛門 中島小太郎  
上小山田村 中島一蝶    
国立 4
下谷保村 本田東朔 小川倉吉  
青柳村 佐藤荘司 沢井善輔  
多摩 4
一ノ宮村 新田佐仲 中川秀吉 宮崎文三郎
  山田綱五郎    
稲城 1
榎戸新田 榎戸重太郎    
その他 入間郡1名 相州3名 不明3名

?資料
武術とは本来自分の身を守るために考案された一種の殺法である。自分の身体を守るためには、好むと好まざるとによらず人を殺し、人を傷つけなければならない。このような殺法の流派は、いつ頃起ったのであろうか。時期的には室町時代末期、戦国時代といわれている。すぐれた武芸者が一流派を創始し、系統的にそれらの流派が後継され、さらに分派として分れて発展したのは安土桃山時代を経て江戸時代前期とされている。
武術は所謂武芸十八般といわれ、明時代の中国でこの呼称が言われはじめ江戸時代初め(1610年頃)に我が国に伝わった。この武術の十八種類は、人によって多少異なるが、次の十八の術にまとめることができよう。

剣術・居合術・短刀術・槍術・薙刀術・手裏剣術・鎖鎌術・杖術・棒術・弓術・馬術・柔術・砲術・十手術・捕縄術・三つ道具・忍術・水泳術

徳川幕府の時代となって士農工商身分制度が確立されると、士分以外の者が武術を修行し学ぶことは禁止された。武士は、武芸十八般の修行とともに文学的教養を身につけ文武両道の道をめざすことが要求された。徳川の幕藩体制が確立されると、武術はより細分化され武士階級の内部における家格、家職の確立とともに武術の中に階層性が生まれて来るようになった。武芸十八般を統括し、かつ大人数を軍事的に動かす兵学(軍学)は最上級家臣、弓術・馬術は上層武士、ついで剣術・槍術・砲術・薙刀術は上下を問わず盛んになり、特に剣術は武士の象徴ともいうべき基本武術で重要視された。そして棒術・捕縄術・十手術などは、最下級の武士というような区分が一般に定着した。これらの武術の価値観は、時代の推移とともに変遷があり、幕末期にいたりアメリカ、ロシア、イギリス、フランス等の黒船の来航による海防<国防>問題を契機として砲術・操船<舵>術が重く見られ、弓術・柔術等は次第に下火になった。

江戸時代中期以降、幕末期にかけては剣術の新流派が続々と誕生したが、関東における新流派発生の起因としては、

(イ)関東は天下の中心地たる大消費都市「江戸」の背後にあり、農村の生産力は一般に低く、田沼時代の悪政が農村に浸透し、明和(1764〜1771)、天明(1781〜1788)期の自然大災害が拍車を加えて、農村からのあぶれ者たる無宿人、博徒の横行。

(ロ)関東は幕府のお膝元であり幕府領、天領、旗本領、大名領、寺社領が入りくみ錯綜し、とくに武州を中心として幕府領、旗本領が多くその治政体制は、これらに数名の代官を置き、その支配が一任されていた。一代官で十万石前後の幕府領を統括するということも珍しくなく、それに加えて隣接する旗本領の警察権的な権限も委ねられていた。この地方支配の代官所の人員構成は三十名程度で、従って軍事力<警察力>も弱く、この広大な支配地の中で無宿人、博徒の取締り、犯罪人の逮捕は不可能に近かった。

(ハ)この地方の豪農、名主層は、苗字帯刀の特権を許され、無宿人、博徒から所有の財産を守るための自衛手段として武術を習う必要があったので好んで剣術を習った。

(ニ)また関東は関東武士の発生地でもあり、鎌倉武士の伝統をうけ、農民であっても自ら郷土と称し武士を志向する型の農民が多かった。幕府では文化2年(1805)に農民に武芸稽古の禁止令を出したが、ほとんど形骸化したものとなっていた。

(ホ)幕府は、文政10年(1827)に警察権力支配を強化するために、関東在の農村に改革寄場名主組合を設置して村役人達に協力をもとめた。このため文政10年以降、名主層が剣術を習うことが公然と認められるようになった。

(ヘ)多摩地区八王子周辺の農村に居住し農耕に従事しながら有事に備えて武術の研鑽に励んだ八王子千人同心の存在。

(ト)幕末という不安定な世の中で、国防問題や尊皇攘夷運動で世情が騒然としていたこの時代に農民や町人が剣術を習うことは一つの流行でもあった。これらの種々の理由があり、関東在の農村において剣術を習うことは、事実上ほとんど野放しの状態であった。それゆえに多くの新流派が生まれ、この10年という短い期間に関東に広く分布して、ある地域を中心として新流派が広まっていった。

このような時期に、新流派の一つとして生まれたのが天然理心流である。天然理心流は多摩の田舎剣法、多摩の「イモ」剣法などと呼ぶ軽々しいものではなかった。印可などによっても、立派に完成された剣の体系をもっている総合武術であることがわかる。(K)

コメント(2)

天然理心流

神道流の亜流とされる、新撰組で有名な総合流派です。太い木刀で稽古する組太刀加え、居合、柔術、棒術などがあったようです。切紙・目録・中極意目録・免許・印可・指南免許の6つの修行段階にわかれていました。「千変万化臨機応変」を極意とし、極意必勝「浮鳥之位」として、
荒波の水につれそふ浮鳥の沖の嵐に心うごかず
の一首があります。
現在はいくつかの伝承があり、それぞれ業が異なっています。それぞれの違いについては、おおよそ次のようなものがあります。


無明剣
・ 沖田の三段突きをいう
・ 咽仏を斬る業(組太刀・形)である
突き
・当流において、突きは自然に会得するものであり、組太刀(形)には存在しない
・ 突きを用いた業(組太刀・形)が存在する


これらに加えて、当然伝承業(組太刀・形)も大きく異なっています。集団戦用の業、居合、試合、柔術など、各伝承により存在の有無はまちまちです。しかし、どの伝承であっても、やはり根底は同じであり、天然理心流の特徴が感じられます。当流の組太刀・形は、重い木刀で稽古されていたため、小手先の技といったものがほとんどなく、非常に基本的且つ朴訥な業で構成されています。なお、天然理心流の特徴のひとつである平晴眼、これは晴眼からやや右に剣先をひらき、刃を内側に向けた構えで、突きに便利な構えであるともいわれています。


「表木刀」太刀名義
序中剣、平晴眼、車剣、手鏡、山影剣
「陰橈」太刀名義
晴眼剣、無明剣、左足剣、霞剣、虎逢剣、雲向剣、龍尾剣
晴眼剣は切り落し業、虎逢剣は下段からの突き業です。
「目録之形」太刀名義
飛龍剣、陰勇剣、虎尾剣、五月雨剣
虎尾剣は、平晴眼より打太刀の斬撃を変化してかわし、さらに小手打ちを鍔でふせぎ、打太刀が上段にとるところを胴斬りするというものです。
天然理心流の居合は、1本目は、立った状態からの、抜き付け、斬り下ろしといった居合の基本形となっています。神伝流の虎乱刀と似ています。2本目は大きく踏み込み相手の脛に抜き付け、斬り下ろします。まさに柳剛流を思わせる動きとなっています。
↑近藤勇五郎の墓は勇の墓の隣(龍源寺)

明治維新後の天然理心流

天然理心流4代近藤勇の婿養子である近藤勇五郎は、勇の長兄宮川音五郎の次男である。「勇五郎は昭和3年73歳で、近村の師弟を集めて未だに元気で家芸の天然理心流を教えている。」と、ものの本にはあるが、維新時16歳の勇五郎がどうして天然理心流の伝統<道統>を継ぎ得たのか、少なくとも勇五郎の剣の師匠は近藤勇ではない。では誰が彼に天然理心流の「天に象(かたど)り地に知(のっと)り、以って剣理を究める」という伝書を授けたのだろうか。剣師は分かっていない。
一説には、近藤勇五郎は宮川家に近い国領に道場を開いていた原田亀蔵(3代近藤周助の弟子原田忠司盛重の子)あたりに学んだのではないかと言われ、また三助の門人で、戸吹の松崎正作栄積の長男松崎和多五郎則栄がその剣師であるとも推測されている。あるいは、武州多摩の地に剣名を覇せた多くの師範がすべてその師であったのかも知れない。

初代近藤内蔵助は天然理心流を創始し、2代三助はそれを完成し、3代周助は多摩一円に理心流を広く流布させた。4代勇は剣名を幕末の天下に高め、そうして勇五郎はその剣名を永く人の世に伝えることに執念を燃やしたのである。

近藤勇の上石原の生家跡の向かいに「撥雲館」という小さな納屋のような道場がある。ここが近藤勇五郎の道場であった。加藤伊助(修勇)氏(天然理心流8代、三鷹市、物故)は、この道場で10歳の時から戦争に行く21歳まで勇五郎から天然理心流を教授されたと言う。

近藤勇五郎のあと6代目は桜井義則という人が継いだが、昭和7年に北海道にわたり、7代は勇五郎の次男の新吉が継いで警視庁剣道助手をつとめていたが昭和11年夭世した。そして長い空白期間の後に加藤氏が8代目を継ぎ、加藤氏は門人であり、宮川家の末裔である清蔵氏に天然理心流」の伝系道統を譲った。(k)

天然理心流は宗家が口伝によって奥義を時代に継ぐ秘密主義の上に成り立っている。宗家師範が直接指南免許を授けたものだけが、道統を継承することができる。そういう意味では、現在宗家は不在である。但し、現在も理心流剣術を指導している師範がいる。近藤勇五郎の弟子であった内藤忠政から指導を受けた瀧上鐡生師範と、前記宮川清蔵氏が牛久市に転居するに当たり師範役を託した三鷹市在住の平井泰輔師範の2名である。瀧上氏は真剣を使い、平井氏は真剣は使わない。

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