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〜〜新撰組〜〜コミュの近藤勇について

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近藤 勇(こんどう いさみ、天保5年(1834年)10月9日 - 慶応4年(1868年)4月25日)は、新選組局長。晩年は幕臣。諱は昌宜(まさよし)。近藤家は藤原姓と自称するため、近藤勇の正式な名前は藤原昌宜(ふじわら・の・まさよし)。

多摩
農業宮川久次郎の三男として生まれ、幼名を宮川勝五郎という。宮川夫妻には勝五郎の他に、長女・リエ(近藤の生まれる2年前に死去)、長男・音五郎、次男・粂蔵(粂次郎)がいた。 出身地武蔵国多摩郡上石原村は現在の東京都調布市野水(北西部に位置)に相当する。

試衛館
嘉永元年(1849年)11月11日、近藤は天然理心流剣術道場・試衛館に入門する。盗人を退治するなどして近藤周助(近藤周斎)に認められ、周助の実家である島崎家に養子に入り、島崎勝太と名乗る。のちに正式に近藤家と養子縁組し、近藤勇を名乗った。万延元年(1860年)に清水家家臣・松井八十五郎の長女である松井つねと結婚。翌年8月には府中六所宮にて、天然理心流剣術宗家四代目襲名披露の野試合を行い、晴れて流派一門の宗家を継ぎ、その重責を担うこととなった。また、文久二年(1862年)には、長女・たま(瓊子)が誕生した。

文久三年(1863年)、清河八郎の建策を容れ、江戸幕府は14代将軍・徳川家茂の上洛警護をする浪士組織「浪士組」への参加者を募った。斎藤一を除く試衛館の8人はこれに参加することを決め、2月8日、浪士組一向と共に京に向けて出発した。中山道を進み、2月23日に京に到着すると、壬生村の郷士八木源之丞の邸に宿泊し、世話になった。

新選組局長
清河は朝廷に建白書を提出し浪士組の江戸帰還を提案した。異議を唱えた近藤や水戸郷士の芹沢鴨ら24人は京都に残留する。京都守護職会津藩主・松平容保に嘆願書を提出し、京都守護職配下で「壬生浪士組」と名乗り、活動を開始した。

結成当初の壬生浪士組は運営がスムーズに行かず、3月25日に壬生浪士組結成メンバーの一人である殿内義雄は客死した(暗殺説あり)。根岸友山の一派と粕谷新五郎 は脱退し、阿比留栄三郎は病死(暗殺説あり)し、家里次郎は切腹した。これにより壬生浪士組は近藤派と芹沢派のニ派閥体制となった。

長州藩を京都政局から排するために中川宮朝彦親王(尹宮)、会津藩、薩摩藩主導の八月十八日の政変が起こると、壬生浪士組は御花畑門の警護担当となった。その後、働き振りが認められ、武家伝奏より「新選組(新撰組)」の隊名を下賜された。また、近藤派は芹沢派を排除し、局長・近藤勇が主導する新体制を構築した。

元治元年(1864年)6月、新選組は熊本藩宮部鼎蔵の同志である古高俊太郎を捕縛した。古高の供述から中川宮邸放火計画を知った新選組は直ちに探索を開始し、池田屋に突入して宮部一派を壊滅させた。この働きにより、新選組は朝廷と幕府から感状と褒賞金を賜った。禁門の変出動を経て、近藤は隊士募集のために帰郷する。ここで伊東甲子太郎ら新隊士の補充に成功した。慶応元年(1865年)には幕府直参となり、永井尚志の供として広島へ赴く。また、土佐藩の参政である後藤象二郎と面談するなど政治活動が活発化する。

伊東甲子太郎は御陵衛士として分離し、藤堂平助、斎藤一(近藤派の間者)らがこれに加わった。伊東は近藤を暗殺しようとたくらむが近藤は伊東を酔わせ帰り際に大石鍬次郎に暗殺させ、他の御陵衛士たちを誘い出して夜襲し、藤堂らを殺した。その報復として近藤は伏見街道で御陵衛士の残党に銃で撃たれて負傷し、大政奉還、王政復古のクーデター後の鳥羽・伏見の戦いでは隊を率いることができずに大坂城で療養している。近藤の治療は新選組の検診医でもあった幕府典医・松本良順が行った。

戊辰戦争

三条河原鳥羽伏見の戦いにおいて敗れた新選組は幕府軍艦で江戸に戻る。甲陽鎮撫隊として隊を再編し甲府へ出陣したが、甲州勝沼の戦いで新政府軍に敗れて敗走し、永倉新八、原田左之助らは近藤と意見が合わず離別する。下総国流山で再起を謀ろうとするが、新政府軍に包囲され大久保大和として越谷(現在の埼玉県越谷市)の政府軍本営に出頭する。しかし、近藤を知る者が政府軍側におり、そのため総督府が置かれた板橋宿まで連行される。近藤は大久保の名を貫き通したが、元隊士で御陵衛士の一人だった加納鷲雄に近藤と看破され、捕縛された。その後、土佐藩、および薩摩藩とで、近藤の処遇でもめたが、結局、4月25日、平尾一里塚(現在の北区滝野川)で斬首された。享年35歳。首は翌日京都へ送られ、三条河原で梟首された。

コメント(22)

勝五郎。近藤勇昌宣。島崎勝太。島崎勇。東洲。大久保大和。 生誕〜多摩・江戸
武蔵国多摩郡上石原村の農家・宮川久次郎の三男として生れる。幼名を勝五郎という。

軍談好きの久次郎の影響を受け、関羽や加藤清正に憧れて育つ。

また剣術好きも父から受け継いだ。久次郎は自宅に道場を建て天然理心流の近藤周助を招いて、剣術指導を受けた。勝五郎は嘉永元(1848)年、16歳の時に正式に修行を始め、翌年には目録を授けられた。子のなかった周助に才能を買われた勝五郎は、養子となり、天然理心流四代目を継ぐこととなる。

若いころの勇は、いつしか酒色を覚えると、元来一途な性格が災いし、八王子の遊郭に入り浸ることもあったという。

万延元(1860)年、つねと結婚する。この前に美人ばかり5,6人と見合いしたが、気に入らず、あまり器量の良くないつねを選んだ。近藤には「醜女は貞淑。貞淑な女性を妻にしたい。」という持論があった。

浪士組参加〜新選組黎明期
文久3(1863)、浪士組募集に応じ、上洛の途へ。勇は道中先番宿割という役職が与えられた。

京都に到着すると、浪士組の黒幕であった清川八郎の陰謀が露見する。浪士組を倒幕の運動のために利用しようとのだ。そのため、浪士組は江戸へと帰されることになる。

近藤は芹沢鴨らと共にこれに異を唱え、京都に残留した。京都守護職・松平容保のお預かりとなった近藤らは壬生浪士組を結成し京都の警護にあたった。近藤は芹沢、新見錦と共に局長となった。

しかし、芹沢一派は暴挙が目立ち、近藤・土方らにより粛清される。これは、会津藩による指示であったとも云われている。

池田屋以降
池田屋では、愛刀虎徹を手に自ら先頭に立って戦った。

池田屋での活躍により、その名がが世に広まり、新選組は最盛期を迎える。それと同時に勇の立場も重くなり、現場で剣を振るうこともなくなる。主な仕事が政治向きな事となっていく。

慶応3年、新選組は正式に幕府直参となる。

四候会議でに同席した際「親藩たる以上、幕府に非があろうと、これを庇護するべきである。」と松平春嶽を批判した。

同年12月18日、高台寺党残党に狙撃され肩を負傷する。この傷のため翌年の鳥羽・伏見の戦いには参加できなかった。
鳥羽・伏見の戦いに敗れた幕軍は賊軍の汚名を着せられ江戸へと撤退する。新選組も幕艦にのり江戸へ向かった。

甲陽鎮撫隊〜最期
3月1日、新選組は甲陽鎮撫隊として出陣する。傷の癒えていない勇も指揮を取った。甲府城はすでに新政府軍の手にあり、勝沼で戦うも一日と持たずに敗れる。下総の流山に陣を移すが、4月3日昼、新政府軍に包囲される。勇は自刃を決意したが、土方に反対され思いとどまり、正体を隠して投降する。

だが、すぐに見破られ、4月5日、板橋の総督府に送られた。正式な裁判にかけられることもなく、切腹も許されなかった。

4月25日、板橋の刑場で斬首された。享年35歳。

首は板橋で3日間、京に運ばれ三条河原でも3日間晒された。
138年前の今日は近藤と土方の「永遠の別離」の日。
流山にいるのだから、近藤勇陣屋跡に行くのが人の筋というもの。
いつにも増して感慨深い。
本当は昼間に行くつもりだったけど、やたら忙しくて夜になってしまった。
ちゃんとデジカメを持って行けば良かったんだけど、昼に行くつもりだったから・・・。
流山市民に物申す。
「4月3日は喪に服せ!」

p.s.来年リベンジします。
>スズキさん
流山に近藤勇陣屋跡なるところがあるのですか?一度、流山に行こうとは思っているのですが、なかなか機会に恵まれません。
しかし近藤勇はどんな思いで単身投降したのでしょうか‥
近くにある流山博物館には、「陣屋の階段」が展示してあります。
もしかしたら、その階段を近藤勇や土方歳三が使ったかと思うと身が引き締まる思いがします。

「永遠の別離」って、新選組後半の最大の見せ場だし、まさに作家にとっては作品の良し悪しを左右する腕の見せ所ですもんね。
「燃えよ剣」もあれはあれで良かったし、大河も「流山」は涙がじわじわ溢れてきました。
私ですら涙無くしてですから、「近藤勇と土方歳三の思い」ってのは想像できないくらい強烈なものだったんでしょうね。
流山博物館には陣屋の階段なるものが展示されているのですか!行ってみたいですね。
私も新撰組が再起を図った五兵衛新田に関する史料館で近藤勇や土方歳三等の頓所の写真を見たことがあります。たしか流山には五兵衛新田から行ったと思うのですが近藤や土方にはまだまだ希望があったのでしょうかね?
流山での永遠の別れ、「燃えよ剣」でば袂別と章していましたが辛くて悲しい別れですよね…流山へ行ってみよう!!
ひょっとして本日は近藤勇の命日ですか?たしか西暦では5月17日だったと思うのですが…間違っていたらすいません…
兄ちゃんさんガトリングさん局長情報どうもありがとうexclamation ×2
そうです、本日5月17日(旧暦4月25日)は近藤勇先生の命日です!
RaLaが知る近藤勇の最期の情報です↓

慶應四年(明治元年)4月25日桜汚名を着せられ武士の切腹を許されぬまま、板橋平尾一里塚にて、斬首。首級は京、三条河原でも晒された涙 その首級の行方は今もなお謎である。享年35歳チューリップ

↓近藤勇の随筆が遺されているえんぴつ

富貴利名 豈羨む可けんや
悠悠として 官路は浮沈に任す
此身更に 苦辛在るに有り
飽食暖衣は 我心に非ず
>RaLaBowさん
間違っていませんでしたか…私が解せないのは近藤勇が処刑されたことです。どう考えても土佐や長州の恨みによって殺されたとしか考えられませんが、いかがなものでしょうか?
メモ
近藤勇局長のお墓

東京都北区滝野川7−8−10
●JR埼京線板橋駅東口から徒歩1分。
近藤勇局長の命日4月25日は、慰霊祭が行われる。

余談なのですが、近藤さんのお墓参りに先に4月までに一度訪れようと思います。
横には墓建立の発起人の二番隊組長永倉新八さんの墓碑もありますし。
今年の勇忌は4月12日ですね電球
近藤勇墓所では愛知県の法蔵寺が良いです。
>新撰組二代目副長さん

情報ありがとうございます。
今年は2週間ほど前の日曜日に行われるんですね。

チャペル岡崎市の法蔵寺が墓所の中でオススメなのですね。
「近藤局長の首塚」と「近藤勇胸像」があると、以前から聞いているので、一度は訪れたい場所のひとつです。
法蔵寺の近藤局長のお顔を是非見に行きたいです。
岡崎市にはしょっちゅう行っているのに全く知りませんでした〜。
さっそく行ってみようと思います。

新撰組二代目副長さん、ララさんありがとうございます♪
ポリさん 

凄い静かな所にあります電球自分行った時は周りに人の姿が見えませんでしたむふっ
>>ポリさん
しょっちゅう岡崎市に行くということはお近く?
ぜひ来訪した際は感想をお待ちしていますかわいい

>>新撰組二代目副長さん
◆とても静かな所なんですね。
山門になっていて落ち着いた雰囲気しますね。
徳川家康も縁の地でしたよね?
ララさん 

そうですわーい(嬉しい顔)

実は法蔵寺の近藤局長の墓所の上には徳川家の墓が沢山ありましたよexclamation
確か家康の父がいたような??
>新撰組二代目副長さん
家康の父なんですね。確かに家康がいたお城が岡崎とか近辺にあります。
でも局長と父が同じとこにいるとは全然知りませんでした。
まさか局長も思ってもみなかったでしょうね(笑)

>ララさん
車で一時間くらいですが姉がいるので結構行ってます。
行ったら報告させていただきます♪
>新撰組二代目副長さん

徳川家康のお父上ということは、岡崎城主の松平広忠ですか。
徳川幕府のために忠義を尽くした近藤勇の上に徳川家の墓所、良いですね。

>ポリさん
家康のお父上の松平広忠の死亡については幾つかの説がありますが、
もしお寺でその事に触れていたら、ぜひ見ていただきたいのですが。
報告待ってまーす。
ララさんわーい(嬉しい顔) 

たしか近藤局長の首塚は当初は京都にあり当時の住職が法蔵寺に移動した際に京都から法蔵寺に移動したんですよね電球
偶然なのか…不思議です。

ぽりさんわーい(嬉しい顔) 
法蔵寺の感想えんぴつお待ちしてます手(チョキ)
近藤勇の命日を供養する

板橋 近藤勇143回忌

今年は 4月25日(日曜)午前11〜12時 に決まったそうです

参加申し込み等は不要でして電球
詳細は↓

http://www.jutokuji.jp/page03.html
> JJさん

ポスターの情報ありがとうございます

当日参加いたしますので
お会いしたらどうぞよろしくです

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