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開発経済学コミュの近代資本主義と開発

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■近代資本主義と開発

経済学者小室直樹は「近代資本主義」について、その「発生以来、百数十年でそれ以前の総ての時代を総計したよりも遥かに巨大な富を作り上げ、世界を一つに結び合わせてしまった」、歴史的に見て極めて特殊な、驚嘆すべき制度であるとし、続けてこう述べています。

「経済学の扱う対象はただ一つ『近代資本主義』だけである」と。

しかし実際のところ、「近代資本主義」の本質とは何かという問いについて、その答えは経済学者間でも一致してはいません。今、世界各地で行われている多くの「開発」の根っこに資本主義が据えられているにも関わらず、です。

率直に言えば私は、「近代資本主義」の本質について、経済学のみを用いてそれを明らかにすることは到底できないだろうと考えています。社会学や文化人類学は勿論、自然科学や文学、あるいは芸術や音楽、そしてサブカルチャー等が「近代資本主義」の本質について、ある部分で実は経済学より遥かに接近できているのではないか。

そう考えるようになった理由を含めて「近代資本主義」について、また皆さんの意見を貰いながら、私はポツポツと話していこうと考えています。

コメント(129)

自由民主主義は資本主義と極めて親和性が高い、ということが指摘されています。それはJ.S.ミルの言う「自由」の概念が共通の駆動原理となっているからだと思います。しかし民主主義という概念もまた、世界を見渡せば非常に多義的です。アフリカのとある国の貧民街を取材した番組の中で、そこに住む青年に取材スタッフが政治について質問しました。 その貧民街では、食べ物でも何でも他者と分け合っていかなければ生きていけません。そういう環境に育った青年は答えて言います。「わたしにとって<民主主義>とは、"分かち合うこと"なんだ」と。
■論理学について

次の三つの原理が論理学の三大基礎原理です。これら基礎原理が仮定されることによってはじめて論理学が成り立ちます。

同一律 「AはAである」
矛盾律 「Aは非Aでない」
排中律 「AはBであるか、非Bであるかである」

フィヒテの知識学:第一原理と第二原理は、論理学の同一律と矛盾律に対応しています。

第一原理:A=A
自我は自我である。(自我は自己自身を定立する。)

第二原理:-A≠A
非自我は自我ではない。(自我に対して非自我が反定位される。)

近代資本主義を駆動する「自由」が成立する為には、「自己」の固定的な、そして極めて厳格で確定的な、社会的同定が必須であると述べました。「私」はこの身体を持つ「私」であって他の何者でもない、という仮定が必要でした。それは論理学の同一律や矛盾律に類比できます。ここで私が論理学の基礎原理を持ちだしたのは、論理学(あるいは社会科学)においても、成立形式だけを見れば近代資本主義と類比的な関係が見て取れると思うからです。

このような排他的「自由」に対し、逆に、他者を媒介とする<自由>をベースとした社会関係を重視しているのが、例えば宮沢賢治です。
■民主主義と資本主義

民主主義が成立する為には、必然的に、その及ぶ範囲(例えば、国民国家)に、平等で均質で統一性を持った一階級、すなわち"人民"なるものの存在を社会的に同定しなければなりません。(例えば、"国民")これは極めて厳格で確定的な、社会的同定でなければならない。そして彼ら"人民"が主権を持つ、ということになるわけですね。
しかし平等で均質で統一性を持った、例えば「日本人」という階級が確定されれば、と同時に、「日本人ではない者」が国内外に必然的に出現します。フィヒテが上記にて定義しているように、同一律と矛盾律はコインの表と裏、不可分だからです。民主主義をどこまでも徹底していけば、逆説的に、ナチズムが出現してしまう危険性は常にあります。

資本主義も民主主義と同様のジレンマを抱えていると言えなくもありません。例えば市場取引内部には回収できないような追加的な費用や便益を、経済学では"外部性"と呼びます。

資本主義について考える前に、K・マルクスが唱えた「プロレタリア独裁」という概念について上記の民主主義の課題を踏まえながら簡単に論じておきたいと思います。民主主義とは対極にある「独裁」というとナチズムが思い浮かんでしまいますが、マルクスの言う「プロレタリア独裁」こそが実はナチズムの対極にあると考えられます。
■プロレタリアート

「プロレタリア独裁」の本質を理解する為には、まず「プロレタリアート」という一階級についてのマルクスの定義を押さえておく必要があると思います。下記マルクスの定義をそのまま受け取るならば、一般に理解されているように「プロレタリアート」は単なる"労働者階級"という意味ではないと考えられます。

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それでは、ドイツの解放の積極的な可能性はどこにあるのか。解答。それはラディカルな鎖につながれた一つの階級の形成のうちにある。市民社会のどんな階級でもないような市民社会の一階級、あらゆる身分の解消であるような一身分、その普遍的な苦悩のゆえに普遍的な性格をもち、なにか特殊な不正ではなくて不正そのものをこうむっているためにどんな特殊な権利も要求しない一領域。…(中略)ひとことでいえば、人間の完全な喪失であり、したがってただ人間を全面的に救済することによってのみ自分自身を達成することができる領域、そういったひとつの領域の形成のうちにあるのである。こうした解消をある特殊な身分として体現したもの、それがプロレタリアートである。

K・マルクス『ヘーゲル法哲学批判』
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■プロレタリア独裁

ある特定の階級ではないということ、そのことにおいてのみ定義し得る<階級>。いかなる階級でもない<階級>。それが「プロレタリアート」です。
いかなる階級でもない<階級>の「独裁」。言い換えれば、階級を越えて集まり、また霧散していく流動的な<階級>の「独裁」。そこからは決してナチズムは生まれないと思います。 何故なら、特殊な利害を持つ、平等で均質で統一性を持った諸階級の同定そのものから流れ出ていく者がプロレタリアートだからです。そのような特別な<階級>が生まれ大きな力を発揮する時というのは、例えば大きな災害が起こった時です。階級を越えて支援の輪が広がっていくという事象がそれです。まさに全体としては"階級ではない"という消極的定義でしか捉えられない人々が、集まって大きな力を発揮し、そしてまた霧散していく。

近代資本主義や民主主義が身分や階級の社会的同定から生まれる排他的「自由」を原理とするのに対し、「プロレタリア独裁」はまた全く別の原理に基づいていると言えると思います。
マルクスの説くプロレタリア独裁とは、"囲い込む"ことによって達成される「民主主義」ではなく、"分かち合うこと"によって達成されるという、あの貧民街の青年が体験している<民主主義>のほうに概念的には近いと考えられます(コメント90)。
「民主主義」と「自由」、そして<民主主義>と<自由>はそれぞれ結びつけて考えることができる概念だと思います。理解しやすく、現在、開発の現場で力を持っているのは、「自由」と「民主主義」のほうです。
■近代資本主義の生誕と、その驚異的な加速には一体何が必要だったか

マルクスは社会の経済構造(下部構造)の上に形成される政治的・法律的・宗教的観念や制度の体系などを上部構造と定義しました。そして下部構造が上部構造を規定し、その逆はないと仮定しました。

それにはっきりと異を唱えたのがマックス・ウェーバーです。彼は『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』において、営利の追求を敵視するピューリタニズムの倫理が、実は近代資本主義の生誕に大きく寄与したとする画期的な説を唱えました。

近代資本主義の誕生と、その驚異的な加速には一体何が必要だったのか。「自由」と<自由>の概念を区別して、この問いを考えてみたいと思います。
私自身、近代資本主義は多元的諸要因によって誕生したと考えています。言語、教育、宗教、社会倫理や慣習や法、よく発達した都市や国家、学校や地域コミュニティや共同組合、メディア、公共インフラ、文学や音楽、さらには平和といったものさえもが近代資本主義を支えていると考えています。

従ってマックス・ウェーバーが次のように指摘したとしても、別段驚きはありません。曰く、長年の宗教教育の結果として、ある行動様式(資本主義の精神)を身に付けるに至った労働者が大量に与えられてはじめて、厳密な意味での近代資本主義は誕生したのだ、と。問題は、彼が言う「資本主義の精神」の内容です。マックス・ウェーバーは、何とそれを営利の追求を敵視するプロテスタンティズムの倫理の中に求めたわけですね。反営利的な倫理的諸信念、いわば"金を儲けるな"と言わんばかりの禁欲的倫理が強力に働く社会の中から、営利を追求する近代資本主義の成長を人間の内面から推し進める「資本主義の精神」が生まれたのだ、という逆説を唱えたわけですから、彼の説は驚きを持って迎えられることとなりました。

マルクスは近代資本主義の成立には「自由」な労働者が不可欠だと述べるに留めましたが、ウェーバーはそうではなかった。労働者は<自由>でなければならなかった。彼の言葉で言えば、資本主義の精神、すなわち"禁欲的プロテスタンティズムの天職倫理"を身に付けていなければならなかった。

以降、簡単にマルクスとウェーバーを比較しながら、近代資本主義を誕生せしめるに至った"労働者"の性質について、「自由」と<自由>の両面から、上記についてもう少し詳しく論じてみます。
■「自由」な労働者―K.マルクス

よく知られているように、マルクスは資本主義的生産様式における剰余価値の発生の秘密は、生産過程において、自らの価値を超える価値を生み出し続ける"労働力"という商品にこそあると主張しました。そして、この魔法のような"労働力"という商品を提供する労働者がいなければ、資本主義は成立しないと考えていました。

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資本は、生産諸手段および生活諸手段の所有者が、みずからの労働力の売り手としての自由な労働者を市場で見いだす場合にのみ成立するのであり…

K・マルクス『資本論』第一部第四章三節
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では、マルクスの言う"自由な労働者"とは、どのような意味においての"自由"なのかという問いが重要となってきます。それは下記の引用で明らかになります。

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労働力の所有者が、労働力を商品として売るためには、彼は、労働力を自由に処分することができなければならず、したがって自分の労働能力、自分の人格の自由な所有者でなければならない。…

―中略―

…したがって、貨幣を資本に転化させるためには、貨幣所有者は商品市場で自由な労働者を見いださなければならない。ここで、自由な、と言うのは、自由な人格として自分の労働力を自分の商品として自由に処分するという意味で自由な、他面では、売るべき他の商品をもっておらず、自分の労働力の実現のために必要ないっさいの物から解き放されて自由であるという意味で自由な、この二重の意味でのそれである。

K・マルクス『資本論』第一部第四章三節
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つまりここでマルクスが言及している"自由"とは、これまでこのトピックで言及してきた「自由」とほぼ同じ概念だと考えられます(コメント83)。

しかし、マルクスは労働者たちが「自由」でいられるのは商品交換の部面(市場)においてのみだ、と考えます。労働者たちが資本家(労働力の買い手)と対等で平等であり、「自由」に"労働力"商品を交換することができる部面、それが市場という領域です。

しかし、資本主義のもう一つの部面、つまり"生産過程"においては、もはやそうではないとマルクスは考えました。次の引用がそれを表しています。

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この部面(市場)を立ち去るにあたって、わが“登場人物たち”の顔つきは、すでにいくぶんか変わっているように見える。さきの貨幣所有者は資本家として先に立ち、労働力所有者は彼の労働者としてそのあとについていく。前者は、意味ありげにほくそ笑みながら、仕事一途に。後者は、まるで自分の皮を売ってしまってもう革になめされるよりほかには何の望みもない人のように、おずおずといやいやながら。

K・マルクス『資本論』第一部第四章三節
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資本家は、労働力価値(賃金)を超える価値(剰余価値)を労働力が生み出すからこそ、市場で労働力を購入し、工場で目一杯彼らを働かせるわけですが、それは労働者にとってみれば「自由」の喪失、剰余価値の搾取を意味するかもしれません。
■<自由>な労働者―マックス・ウェーバー

では、資本主義社会における労働者は生産過程において自由を失って、資本家から支配されるだけの哀れな主体なのか? 必ずしもそうではない、と私は考えます。マックス・ウェーバーの答えも否、です。彼は、近代資本主義が誕生する前夜、プロテスタンティズムの世俗内的禁欲の文化の中で、あたかも世俗的職業が絶対的な自己目的、自らの天職であるかのように日々の労働に励む、という行動様式が広く社会に広がっていたことに注目します。この厳しい世俗内的禁欲の倫理、特に自らの職業を"天職義務"とみなす文化のなかでは、「自由」は一旦否定されています。しかし<他者>(ここでは神)の召命としての"天職"をあたかも自らの選択であるかのように引き受ける<自由>が再来しています。この<自由>こそが、ウェーバーが指摘した、近代資本主義の誕生に大きく貢献したという"資本主義の精神"の正体です。

ウェーバーは、労働者が"おずおずといやいやながら"働いているという社会環境の中では、 不可能とは言わないまでも近代資本主義は誕生し得なかったと考えていたわけです。
■ミヒャエル・エンデ「自由の牢獄」

人は、「自由」であるだけの環境下においては、逆説的に閉じ込められてしまう可能性があることと、その状況を打開する為には<自由>が必要であるということを、社会学者の大澤はミヒャエル・エンデの寓話「自由の牢獄」を例に分かりやすく論じています。

「自由の牢獄」は、ある傲慢で冒涜的な男の物語です。彼はたいへん成功した商人で、その成功を、自身の賢明さと能力によるものだと信じてうぬぼれていました。あるとき、彼は美しい女に化けた魔王にそそのかされて、「以降、自分自身の意思以外の何ものにも従わない」ということを誓わされる。その直後、彼の身体は宙に浮き、気がついたときには、巨大な円形の建物の真ん中にいました。その部屋には無数のドアがあります。彼はただちにそこから脱出しようとします。が、結局、どうしても脱出することができない。何故か。無数のドアには鍵がかかっているわけでもなく、開けようと思えば開けることができる。脱出路はいくらでもあるわけです。困難はむしろ、ドアが多すぎることにこそありました。あのドアを開ければ、血に飢えたライオンが待ち受けているかもしれない。このドアをあければ、楽園が待っているかもしれない…。しかしドアの形状は皆同じで、彼は自分自身の意思のみに従って、開けるドアを選ばなければならない。彼はあれこれ思案しますが、結局、このドアを開け、あのドアを開けない根拠を見い出すことができなかった。彼は開けるドアを選択することがどうしてもできませんでした。彼は疲れ切ってしまい、やがてドアを開けるということから逃げだしてしまった。こうして、彼はこのあまりにもドアの多い部屋に閉じ込められてしまいました。

この男は「自由」でした。自分自身の意思による選択ができたし、選択肢(ドア)も無数にあった。しかし「自由」であるがゆえに、彼は閉じ込められてしまった。この「牢獄」から脱出する為に必要だったのは何か。大澤は、それは<他者>による<自由>だと指摘します。例えば、あのドアを開けろ、という<他者>の命令がありさえすればよかった。それを大澤は次のように指摘します。

「個人の内面に帰せられる自由な選択は、同時に、その個人に対して外在する、超越(論)的な他者―第三者の審級―に帰せられる選択としても現れることにおいて、まさにいっこの自由な選択たりうるのである。」

「自由」の条件は、まず他者からの干渉がないということ(消極的自由)、そして他者ではなく自ら自身を、自らの行動を決定する源泉とすること(積極的自由)です。近年の、「自己選択」や「自己決定」を強調する言説も「自由」の擁護から出てくるものです。

余談になりますが、バブル崩壊後の日本経済が"失われた10年"と言われるようになって久しいのですが、ウェーバーの著作を振り返れば、「自己選択」や「自己決定」を叫ぶだけでは近代資本主義社会は拡大再生産を続けていくことが難しくなってくるのではないかと考えざるを得ません。経済成長を続けていく為には、例えば"プロテスタンティズムの天職倫理"のような、近代資本主義にとっての新たな"第三者の審級"(他者)がどうしても必要となってくるだろうと私は考えています。それが"成長神話"ではない他の何かである可能性も、まだあるわけです。日本社会がそれを見つけられない限り、失われた10年は20年、30年になっていくだろうと思います。
■すべての文化様式を同時的に生きる手段

『グーテンベルクの銀河系』の著者、マーシャル・マクルーハンは、その中で、ジョイスの『フィネガンの宵祭』を評し、次のような興味深い言葉をのこしています。

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『宵祭り』の表題が示唆しているように、人間の進歩という宵祭りが、再び聖なる人間、すなわち聴覚型の人間という闇の中に消えていく可能性をジョイスはみたのであった。フィン伝説に歌われた部族的社会慣習の円環は巡り巡って再び電気時代に甦える可能性がある。しかしできるならばこれを宵祭りでもあり、同時に目覚めでもあるようにしたいものだ。それぞれの文化の時代の中で夢見るごとく、恍惚状態で閉じ込められていることに対してはジョイスはなんらの利点も認めない。彼ははっきりとした意識の目覚めの中で、すべての文化様式を同時的に生きる手段を発見したのだった。

(Marshall McLuhan『グーテンベルクの銀河系―活字人間の形成』(森常治訳)(みすず書房,1986年),118-119頁。)
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アイルランド出身の小説家であるジェームズ・ジョイスの著作『フィネガンズ・ウェイク』(原題 Finnegans Wake)は、伝説の大工であるティム・フィネガンが屋根から転げ落ちて死んだが、その通夜に生き返ったという話から始まります。
タイトルにある"Wake"は、"通夜"を意味するとともに"目覚め"を意味する二重含意の言葉です。また、"Finnegans"という複数形になっていることから、これが一人のフィネガンではなく複数のフィネガン、すなわち単に特定の個人(ティム・フィネガン)についての物語ではなく、可能性としての不特定多数についての物語でもあることを暗示しています。

ジェームズ・ジョイス自身、ヨーロッパを遍歴する生涯を送っており、様々な文化様式を経験した稀有な作家でした。マーシャル・マクルーハンは、この観点からジョイスの著作を高く評価しています。そして、ある特定の文化様式に支配されず、すべての文化様式を同時的に生きる手段としてのコリデオールスコープ(Collideorscope)というものについて言及しています。

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それぞれの文化の時代の中で夢見るごとく、恍惚状態で閉じ込められていることに対してはジョイスはなんらの利点も認めない。彼ははっきりとした意識の目覚めの中で、すべての文化様式を同時的に生きる手段を発見したのだった。このような自己覚醒状態のために、また文化上の偏見を是正するために、ジョイスが採用する手段が彼のいわゆるコリデオールスコープ(Collideorscope)である。この名称は人間の技術を構成するすべての要素のコロイド的混合の中で生じる相互作用、技術がわれわれの五感を外へ向けて延長し、文化衝突の社会的な万華鏡の中で演じる五感の比率を変化させるときに生じる相互作用を示唆する。コリデオールスコープのうちデオールは野蛮なるもの、聴覚的なるもの、もしくは聖なるものを、スコープは視覚的なるもの、もしくは俗なるものにして開花されたものを示す。

(Marshall McLuhan『グーテンベルクの銀河系―活字人間の形成』(森常治訳)(みすず書房,1986年,119頁。)
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マクルーハンによれば、グーテンベルグの活版印刷技術が登場する以前の古代及び中世時代は話しことば社会であり、五感の同時的使用によって特徴づけられる社会でした。しかしグーテンベルクの印刷技術は、人間の五感の切り離し、特に"視覚"のみを切り離し、強調し、延長する文化を推し進め、"近代"という銀河系を創りだしました。

(例えば、古代及び中世時代において、「読書」とは"音読"、すなわち目と口と耳の営みでした。目だけで文字を追うこと、すなわち"黙読"が一般的となるにはグーテンベルクの活版印刷技術の普及による活字人間の形成を待たなければならなかった。近代とは、言葉による思考を口の動きから解放した時代でした。)

マクルーハンは言います。
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もしわれわれが住む世界のすべての面を単一の感覚のことばに翻訳しつづけてやまない装置が作り出されたとする。するとそこに現れるのは、首尾一貫し内的統一を持つがために科学的と呼ばれるのにふさわしい歪曲である。

―中略―

ひとつの感覚だけに支配をゆるすのが催眠術のABCである。文化についても同じことがいえるのであって、単一の感覚のなかに閉じこめられて眠りに陥ることがある。眠れる文化は他の感覚によって挑戦をうけるときはじめて目覚めるのだ。
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K.マルクスは、上記"人間の五感の切り離し"と同じ構造を、資本主義の中に発見していました。それが、次に説明する"分業"です。
k.マルクスは、資本主義的生産様式の中で発展してきた分業(マニュファクチュア的分業)について、それが生産力を大きく増大させることを認めつつも、次のように指摘しています。

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単純協業は、個々人の労働様式を一般に変化させないが、マニュファクチュア(的分業)は、それを徹底的に革命し、個別的労働力の根底を襲う。それは、生産的な衝動および素質のいっさいを抑圧し、労働者の細目的熟練を温室的に助長することによって、労働者を不具にし奇形者にしてしまう。…

…特殊的部分諸労働が、さまざまな個人のあいだに配分されるだけでなく、個人そのものが分割されて、一つの部分労働の自動装置に転化され、…。

…マニュファクチュア労働者は、その自然的性状のうえから自立的な物をつくることができなくされており、もはや資本家の作業場への付属物として生産的活動を展開するに過ぎない。…

…生産上の精神的諸力能は、多くの面で消滅するからこそ、一つの面でその規模を拡大する。部分労働者たちが失うものは、彼らに対立して資本に集中される。部分労働者たちにたいして、物質的生産過程の精神的諸力能を、他人の所有物、そして彼らを支配する力として対立させることは、マニュファクチュア的分業の一産物である。…

K・マルクス『資本論』第一部第十二章五節
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先ほどこちらのコミュニティに参加させていただいた者です。

開発経済学に興味があり、このトピックも拝見しました。トモさんの話はいろいろな引き出しから話が出てきておもしろいです。

コメント34のRacquimさんの議題は、私も同じような問題意識を持っているので、非常におもしろそうだと思いました。

私はコメント34の議題を元に議論がしたいのですが、もしこのテーマで話をしたい方いれば、別にトピックを立てた方がいいと思います。トモさんのアプローチとRacquimさんのアプローチとそれぞれで建設的な話になっていけばいいなぁと思いましたが、いかがでしょう?
サラハグさん

ありがとうございます。サラハグさんの話をお待ちしています。
■グローバル化時代の開発のパラダイムを構想できるキーパーソンに求められる重要な資質。

マクルーハンが指摘するような、"複数の文化様式を同時的に"生きられる主体、例えば資本主義社会の中においてただ恍惚状態で閉じ込められてしまうのではなく、越境することによって<自由>であると同時に「自由」であるような主体、そういった資質が次の時代の開発パラダイムを構想し実践できるキーパーソンに求められる、極めて重要な資質の一つだと私は考えています。

そのような資質を発揮する開発の主体のなかで最も分かりやすい例は、国連だと思います。
一例として、1987年に国連ブルントラント委員会が打ち出した「持続可能な開発」というパラダイムが当時の世界情勢に対して持っていた意味について、簡単に考察してみたいと思います。
■東西南北

第二次大戦以降、米ソを頂点とする二極対立、すなわち東西冷戦構造(資本主義と共産主義のイデオロギー対立として現れた)のなかでは、開発援助すら、それぞれの陣営の影響力の強化(軍事的・経済的援助)の一手段として露骨に現れていました。一方、この米ソを頂点とする二極東西対立とは別に、アジア・アフリカの新興諸国は第三の勢力としての非同盟ブロックを誕生させました。これら諸国は先進国との経済格差が増大するにつれ、先進国からの開発援助を求め、さらには国際経済体制そのものを変革しようとする動きを見せ始めました。それが今も続く、"北"の先進国と"南"の発展途上国の対立、すなわち南北問題の始まりでした。

世界が東-西、南-北という三次元的な地政学的対立構造のなかで硬直する中、そこから開発援助を何とか救い出すために、国連は全く新しい開発パラダイムを求めていたと考えられます。「持続可能な開発」という概念は、そういった時代背景の中で生まれました。

「持続可能な開発」とは、1987年の国連ブルントラント委員会(環境と開発に関する世界委員会)の最終報告書"Our Common Future(われら共有の未来)"の中で打ち出された概念です。 「持続可能な開発」はそこで次のように定義されています。

「将来世代が自らのニーズを充足する能力を損なうことなく、現在の世代のニーズを満たすような開発」
■"Our Common Future"

「資本主義と社会主義」 「先進国と途上国」 「人間と自然」―
当時の世界が抱えていた難しい対立軸を悠々と越えていく、そんな開発の可能性。

上記定義が画期的であるのは、硬直している東西南北の三次元的空間に「時間軸」を導入したからだと思います。つまり時空間のなかで開発を再定義しようとした。これまで開発援助の主体として考えられていなかった、「将来世代」という未来の主体を導入することで、現在の東西南北の対立構造を越えて開発を考えていこくことが可能となります。
■可能性の評価

例えば物理学のフィールドが遥か昔から"時空間"であったことを考えると、開発学のそれはまだまだ発展途上にあるのではないかと思います。「持続可能な発展」という概念は、しかし、一つの難しい問題を提起することにもなりました。「将来世代」つまり未来の主体というのは、完全に、可能性としてのみ存在する主体です。一人の人間が可能性としての不特定多数として現れるのは、例えばこのような未来の主体として、です。アマルティア・センが試みたのも、"可能性の評価"です。宮崎駿監督が好む言葉の一つが「失われた可能性」です。あり得た/あり得るかもしれない可能性を開発の評価対象にするというのは大変難しいことですが、しかし、とても大切なことだと思います。
■「開発」という言葉の定義について

私自身は「開発(development)」という言葉を、もっとも広義には、いつも次のように簡単に定義することにしています。即ち、「明日は今日よりも良くなると信じて行う人間の行動すべて。」
これだけに留めておく理由はいくつかありますが、主要な理由は、まず「開発」という言葉自体が価値判断から自由であるべきだということ、また、開発する側・される側という問題も取り敢えず避けて定義しておきたかったこと、そして、可能性としての未来というものを前提にしてはじめて成立する概念であるということを強調しておきたかったからです。近代資本主義も「未来」という時間概念を極めて重要とするシステムです(これについてはまた別途検討しなければならないと思っています)。以前のコメントで私は、今日の開発を駆動する最も主要な動力は近代資本主義である、と断定しました。その是非を検討するためにも、やはりもう少し近代資本主義の本質について検討することは必要だろうと考えています。取り敢えず、次のような問から話を始めてみようと思います。即ち、なぜ近代は、社会主義ではなく資本主義を選んだのか?



資本主義の社会主義に対する相対的な勝利については多くの文献があるので、ここで一々それを繰り返すことはやめておきたいと思います。ただ一つ指摘しておきたいことは、その勝利は、資本主義が社会主義よりもシステムとして優れていたからというよりかは、近代という時代にとって、より魅力的であったからだというほうがより正確だということです。言語や民族や文化を越えてグローバルな広がりを獲得した社会システムに共通しているのが、人々を魅きつける魅力だろうと思います。近代資本主義、近代国家、世界宗教と言われるキリスト教やイスラム教、どの地域にも必ず存在する小学校、図書館、世界中で驚異的な広がりを見せるインターネットや携帯電話。これらは近代資本主義と同様に、あるいはそれ以上に、すでに世界中に広まり受容されています。近代資本主義の実存的本質を解き明かす方法としては、些か遠回りに思えるかもしれませんが、これらのようなすでに世界中に広まり受容されている他の社会システムとそれを、最終的には抽象化した地平において比較し、それらに共通する特徴を発見する方法が有益であるように思います。これは殆ど私の直感に基づいた方法論ではありますが、取り敢えず話を進めたいと思います。
■開放系

世界中に広まるシステムというのは、まず当然のことながら、それが"開放系"でなければならない、ということをまず指摘したいと思います。資本主義においては、それは商品交換の部面(市場)に最も顕著に現れていると思います。例えば、労働力という商品は誰もが持っており、それは誰でも「自由」に市場に売ることができる。貨幣をさえ持っていれば、誰でも市場で様々な商品を買うことができる。そういう意味では、誰もが資本主義というシステムに参入ができ、そのプレイヤーとなることができます。まず前提としては、開かれたシステムであるということが必要条件になっていると思います。近代国家、キリスト教、小学校、図書館、インターネットや携帯電話。いずれもが条件付の開放系であると思います。
資本主義は最初は解放系として人々に現れるシステムです。それは近代国家やキリスト教や公共図書館やインターネットでも同様に見られる特質ではないかと思います。しかし、単に解放系であるという理由だけで世界中にそのシステムが広まったことを説明できるのかという疑問は当然出てくると思います。例えば、公共図書館が「自由」な解放系であることの魅力を伝える絵本として、パトリシア・C・マキサック『わたしの特別な場所』があります。舞台は1950年代アメリカのテネシー州ナッシュビル。12才の黒人の女の子・パトリシアが主人公の絵本です。

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パトリシアは、特別な場所をめざしてバスに乗りました。でも、「黒人指定席」にしか座れません。公園のベンチは「白人専用」、レストランは「白人のお客さま以外お断り」です。
やっとたどりついた特別な場所、そこは――。パトリシアが見上げた石板にはこう書いてありました。
「公共図書館・だれでも自由にお入りください」
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これは作者自身の実体験をもとにした絵本です。パトリシアは、黒人でも誰でも自由に本を読むことができる公共図書館に、解放系としての魅力をみた。が、しかしそれだけに回収出来ない何か他の理由が、公共図書館にはあるように思えます。単に解放系であるだけならば、他にも無数の社会システムが存在するからです。
■サン・ピエトロ広場

以降の話を補強する伏線として、先月ヴァチカンに行った時の話をしたいと思います。世界に12億人以上の信徒を有するカトリック教の総本山ヴァチカンの入り口には、バロック芸術の巨匠ジャン・ロレンツォ・ベルニーニが設計したサン・ピエトロ広場が世界中から集まるカトリック信者とカトリック信者ではない人々を分け隔てなく迎えます。

このサン・ピエトロ広場が、キリスト教最大の教派であるカトリック教会が世界中に広まった理由を端的に表現している建築ではないかと私は考えています。
もし近代資本主義を建築で形象化しようとすれば、それはサン・ピエトロ広場になるのではないかとさえ思います。近代資本主義が興る以前、1656年から1667年にかけて建設された広場ですが...。上写真がサン・ピエトロ広場の全景です。幅240メートルの楕円形広場を、4列に並べられた372本のドーリア式列柱が取り囲んでいます。広場の中央にはオベリスクがそびえたっています。
ベルニーニは、世界中から集まる人々を温かく迎えいれるような、世界に開かれた広場であるとともに、広場で祈りを捧げる信者のために世界から閉ざされた静かな空間を創ろうとしました。つまりベルニーニは、不動の建築物において、開かれていることと閉じられていることとが並存するような空間を創ろうとしました。
広場に入るとまず気づくのは、広場を取り囲んでいる4列に並ぶ列柱は、広場と外界を仕切る、壁のような役割を果たしているということです。広場の中に入ると、列柱が間隙なく重なり合い、容易に広場の外を見通すことが出来なくなる。 ベルニーニはこうして、広場で祈りを捧げる信者のための、閉ざされた静かな空間を実現しました。しかし世界中に信徒を有するカトリック教会は、世界に開かれていなければならない…。この4列の列柱は全て、広場の中の、ある一点を中心に放射線上に並んでいます。広場の中を注意深く歩いていると、地面に"CENTRO DEL COLONNATO"というマークが見つかります。そこに立つと、4本の列柱が1本にすっきりと重なり合い、外界が、列柱をすき通してよく見えるようになります。つまり、世界から閉ざされているように見えた空間は、実は同時に、世界に開かれてもいる空間だったということです。ここに、ベルニーニが単なる壁ではなく列柱を採用した理由があります。開かれていることと閉じられていることとは一つのシステムにおいて矛盾しないか?私の答えは、矛盾しない、です。例えば、世界に対して開かれているのか閉じられているのかは、サン・ピエトロ広場という建築物だけではなく、内部にいる人間の立ち位置にも依っているからです。そして、サン・ピエトロ広場が持つこの性質は、カトリック教会が持つ性質の純化された形象化だからです。さらに言えば、近代資本主義が獲得した実存的本質の一つもこれではないか?そしてこれこそが、人々を魅きつけるシステムの本質的な魅力ではないか?資本主義について鋭い洞察を行っている日本人社会学者の一人、大澤真幸は次のように述べています。
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資本主義は相拮抗する二つの条件を前提にしている。第一に、現在の経験の地平に内在しえない異和的な視点の可能性へと、経験の地平を開くこと、第二に、異和的な可能性を、より包括的な経験の地平の内部に再定位し、経験の地平を閉じること。

大澤真幸『資本主義のパラドックスー楕円幻想』1991年、p.113
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ここで上記引用の意味詳細を解説する事はやめておきますが、本の副題にある"楕円幻想"と絡めて、次に少しだけ触れておきたいと思います。(実はサン・ピエトロ広場は円形広場ではなく、楕円形広場です。)
大澤真幸の理論を借りれば、資本主義とは、円を楕円に開き、そして楕円を円に閉じようとする反復運動に例えられます。そうやって面積を拡大していく。

楕円とは何か?楕円は中心点を二つ持っています。円とは、実は楕円の一種に他ならない。楕円の持つ二つの中心点がたまたま一致した場合、それを円と呼ぶわけです。大澤は次のように述べています。

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楕円とは、ある経験の(心的)経験が、それ自身の同一性の内部に、隔たり(差異)を含んでいることの、形象化である。円によって形象化される経験の領域は、一つの焦点(=中心)を準拠にして構成されるがゆえに、不可分の単一性=同一性を獲得することができる。しかるに、楕円は、二つの焦点をもつため、単一的=同一的な領域として閉じることができず、それ自身の内部に分裂を孕んでしまう。楕円が形象化する経験とは、一つの経験であると同時に、自ら自身に対する差異すなわち他者(に帰属するもう一つの経験)を同時に含みこんでいるような経験なのである。

大澤真幸『資本主義のパラドックスー楕円幻想』1991年、p.116
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上記引用の解釈はあとにまわします。ここで述べておきたいのは、資本主義は、その拡大のために、常に、既存の資本主義システムに含まれない“異和的な他者(差異)”を必要とするということです。例えば、領土拡大のための戦争によってそれを獲得する場合もあれば、イノベーションによってそれを獲得する場合もあります。(円を楕円に開こうとする運動)

そうして獲得した領土やイノベーションは、やがて資本主義のシステムの中に取り込まれ、システムのスタンダードとなります。(楕円を円に閉じようとする運動)

この繰り返しによって、資本主義は世界に拡大します。
この運動を、ある人はグローバリゼーションと呼び、ある人は資本の拡大再生産と呼び、またある人は自由の勝利と呼ぶわけです。ここでその価値評価をすることは避けたいと思います。ただ、近代資本主義とはそういう性質を持ったシステムだということを確認するにとどめておきます。

むしろここで強調しておきたいことは、必ず、閉じられていることと開かれていることとを併せ持つようなシステムでなければならないということです。これが人々を魅きつけ、世界中に広がるシステムの魅力の源泉、実存的本質だというのが私の仮説です。例えば118のコメントで公共図書館の開放系であることに関する魅力を、パトリシア・C・マキサック『わたしの特別な場所』という絵本を例に述べましたが、公共図書館が主人公パトリシアにとって特別な場所であったのは、黒人でも白人でも、誰をも受け入れる開かれた空間であったと同時に、黒人差別の嵐が吹き荒れる外の世界からパトリシアを守る、閉じられた空間でもあったからです。近代資本主義、近代国家、世界宗教と言われるキリスト教やイスラム教、どの地域にも必ず存在する小学校、図書館、世界中で驚異的な広がりを見せるインターネットや携帯電話。そのすべてが形態を異にするけれども、この魅力を備えているように思います。
サン・ピエトロ広場に話を戻します。繰り返し強調しておくと、この広場は楕円形です。したがって、この広場の中心は一つに閉じられてはいない筈です。中心にあるようにみえる一つの塔(オベリスク)は、ベルニーニにとっては、見せかけの中心だったと思います。仮にもこの広場は、一神教たるキリスト教カトリックの総本山、ヴァチカンに作られた広場ですから、オベリスクを堂々と二本建てるわけにもいかなかった。私の推測ですが、ベルニーニは、一神教であるキリスト教が、実は異和的な他者なしには立ちいかないシステムであったことを、見抜いていたのだろうと思います。私の考えでは、それが、カトリック教会が持つ本質的な性質です。サン・ピエトロ広場の列柱廊は、左右両方に分かれています。4列ある列柱がぴったり重なって見える地点、"CENTRO DEL COLONNATO"は、それぞれの列柱廊に対してそれぞれ一ヶ所ずつ、すなわち、広場の中に、二ヶ所あります。これらがサン・ピエトロ広場の本質的な中心点です。この二地点以外の場所に立った場合は、列柱が交錯して壁のようになり、サン・ピエトロ広場は外界から閉じられた空間となります。しかし、この二地点に立った時に初めて、サン・ピエトロ広場は、外界に開かれた空間になります。本質的な二つの中心点は、異和的な他者に通じています。カトリック教会にとっては致命的な風穴でもあり得るし、清々しい外界への窓でもあり得る。ベルニーニは、このことをよく知っていたのだろうと思います。彼の作品を見ていると、そう感じます。

これがカトリック教会が持つ本質的性質の形象化であり、実は近代資本主義にも通じる性質を表現したものです。
【近代資本主義の構造】

開かれていることと閉じられていることとを、同時に実現しているシステムが、人間にとって魅力的なシステムとして現れるという話をしてきました。私は資本主義が共産主義に優った本質的な理由は、ここにあると考えています。

マルクスは資本主義を生産領域と市場領域に分けて考察しました。この分け方で近代資本主義を分析する意義は大きいと思います。私は、それぞれの領域が次のような対応関係にあると考えています。

市場領域・・・開かれたシステム。「自由」な人間のシステム。
生産領域・・・閉じられたシステム。〈自由〉な人間のシステム。

相矛盾する二つの性質を、一つのシステムのうちで重ね合わせることがいかに難しいかは、想像に難くないと思います。資本主義は二つの相矛盾する性質を同時に実現しているシステムです。しかし、これは危うい均衡の上に成り立っていると言えます。例えば生産領域に比重を置き過ぎ、「自由」を軽視し過ぎれば、資本主義は共産主義に転化する可能性を持っています。(今、世界で起きている現象は、この逆の流れだと私は捉えています。)

このトピックの前半でお話した「自由」と〈自由〉。トピックの後半でお話した、開かれたシステムと閉じられたシステム。ここにきてようやく、これら概念を接続する準備が整ったと思います。
先述したように、「自由」と〈自由〉はほとんど真逆の性質を持ちます。

「自由」のほうが直感的に分りやすいと思います。ルール・規則や他者からの束縛がないこと、個人として選べる選択肢が多いこと、どこへでもいける、何にでもなれるということ―。
冷戦時代、ビートルズのレコードを闇市で買ってこっそり聴いていた東側諸国の若者を魅了し、ついに冷戦を終結させる原動力となったのが、この「自由」への憧れです。

〈自由〉というのは、逆に、他者がいて、ルールがあるからこそ生まれる、飛翔する力です。他者と生き、他者から承認されるということ、創造力や生きがいの拠り所となるもの、人に指針を与え、方向付け、支えるもの。選択する力となるもの―。

音楽やスポーツや学問は、ルール・規則だらけの世界です。例えば、言葉を自由に操れる人とは、文法や発音といった基礎を徹底的に習得し、無意識に使えるようになるまで繰り返した人です。自由にヴァイオリンを弾いている人、というのは、記譜法・音名・音階・リズム・旋律・速度・運弓法・姿勢・全身の動き・呼吸…等、ありとあらゆる音楽のルール・規則を完璧にマスターした人です。私たちの目に、自由に生きていると映る人こそ、実は多くのルール・規則をマスターし、多くの他者とつながっています。これら飛翔する力は、前述の「自由」という概念からは生まれてこないものです。

まず、「自由」と〈自由〉の二つを混同しないことが大切だと思います。その上で、この相反する二つの自由を重ね合わせることのできる生き方・社会システムを考えていかなければなりません。

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