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M・C様コミュの第1回:日の出 

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  わがあしかよわく けわしき山路
  のぼりがたくとも ふもとにありて
  たのしきしらべに たえずうたわば
  ききていさみたつ ひとこそあらめ

まず、自己紹介でもどうでしょうか(?)どの作品が好きですか(?)
太宰をどうして好きなのですか(?)具体的に、というと、難しいものですね。

僕は、太宰が始終純粋さと向き合っていたのがやはり胸を打たれます。年齢とともに喪失していくものを、失おうとせず、向き合っていたことが。青春文学としてや、今もなお若い世代に読まれるゆえんだと思います。
『斜陽』『人間失格』はやはり別格のように思いますが、ありきたりなので、中期の女性一人称作品や、『正義と微笑』『春の枯葉』好きですね。最近は、『東京八景』で泣き崩れました(*´^ิ艸^ิ`)

コメント(20)

ハッチサン>
 「努めている間は、迷うものだ。」
 そう、ゲーテが言っています。僕もそう思います。
 人間には、それぞれの価値観や常識の基準があると思います。
 だから、甲の人の苦悩の根を、乙の人は知り得ない、そういう
 事態がおこるものだと思います。実感として理解できないという。
 そういった苦悩を、彼は“作品に”投影させ、世間に問うたり、
 自戒したり、自虐を行っていることが見られます。
 『燈籠』や『きりぎりす』はその典型例です。
 彼はそうして、戦っていた。
 だから、理解できる人はできる、できないひとはできない。
 太宰治は、否定か肯定かどちらかなのです。
 僕は、このコミュで、そうした肯定者を求めています。
 前述の「…ききていさみたつ ひとこそあらめ」はその意味でもあります。
 『正義と微笑』の中にある、さんびかです。
 セリヌンティウス、僕が疑ったら、殴れ。

(※)“僕の”見解ですので、鵜呑みには、ね。
  注がれた水は、君の器にしたがうのだ。 
ん〜、結局は自分との戦いなんですよね、傍から見れば。
楽々クリアできる人もいれば、懊悩して駄目になってく人、本当にいろいろいますょ。僕は苦悩はぶつけられないなぁ〜って思っています。苦悩の除去は、他者に理解してもらえることか、自分で割り切るかだと。
ハッチさんの具体的な苦悩の根源が何かは明確には分からないけど、自己嫌悪なら別として、太宰のように世間だとしたら、世間のすべてが綺麗になるわけじゃないもの。それが可能なら、とっくに世界の平和は訪れてるもの。
少なくとも自分の存在してる環境においてなんですよね、きっと。世間は…と言っても、すべてではないから。
これは僕のことですけど、孤独であること・未熟であること、これが自分の煩悶の明確な原因です。だから、顔もしらないネットでさえ頼ろうとしてます。近くに理解者がほしんですよね僕の場合は。わがままなんでしょうけどね。
一概に太宰が何故好きかといっても言えず、
多様なようですね。まぁ当たり前といえばそれまでですが。

コミュの方はなかなか増えませんが、まぁ気を長く持って、
色んな人の意見を聞きたいものですね。

この太宰治という人のコミュによって、様々な思いで太宰治に向き合い、そうして戦っていく、そんな姿を僕自身見せれたらと思いますし、そのような苦悩を様々な立場の人が知り、自分の人生に活かすというか、やはり人間は求めるモノにしか目や耳をかせないものですけど、せめて心の中に何か、残るモノ、そういったものがこの場で示せたら本望です。

よくあることだと思いますが、自分の苦悩や文学性など、往々にして人と語れぬ場合が多いように思います。ですからここではそういったサロン(太宰自身はサロンは好かなかったようですが)的な要素をも持ちえたらと思います。僕の言うサロンは、世俗的サロンというよりも、それぞれの“告白”を擬制的で打算的でない、“心の告白”を兼ねたモノにもしたいと思っております。ですから、他のコミュと違って、ユーモラスなものや、いわゆる徒党なものにしようとは思いません。これは誤解を招くのかもしれませんが、僕は、本当に自分と向き合う方が好きだし、そういう人こそ必要だし、生きていて美しいと思います。太宰の批判している“徒党”ではない、真実の友情がこの場で作りえるなら、素晴らしいことだと思うのです。
先に述べましたが、セリヌンティウスとメロスの友情を、僕は信じたいのです。これはいったい愚かなことでしょうか。この友情には、暴君ディニオスも感動したではないか。疑いを始めからかけるのは簡単です。しかし、僕は信じる、心の底から信じる。神に問う、無垢の信頼心は罪なりや。


(※)僕としては、週に1回程度の割合で、更新しようと思っています。太宰治をもう一度見直すというのが、僕のテーマというかそこから出発していこうと思っているので。
はじめましてです。
好きな作品は・・・どれも良いので選べませんが、『正義と微笑』が思い出深いので好きです、『走れメロス』も好きです。

太宰の好きな理由は、優しいからだと思います。
完璧な人間ではないし、人を傷つけもしただろうけど、自分の心に嘘をつかず、純粋に美しいものを求め、優しいところが好きですね。これは、奥野論文からだと思いますが、太宰の家は地主だから、社会のために、自分を傷つけることが、良いことだと思って、生き抜いたのだと思います。
さらに、文学の良さを教えてくれたのも太宰だからです。

すみません、太宰の本を読んでいた頃は、相当同調して、その世界に入っていたのですが、今はけっこう冷静になってしまっていると思います。なかなか抜け出すことは難しかったです。でも、そうやって、ようやく落ち着いてその良さをまた客観的にも考えられるようになれた気がします。
fontaineさん>

似てます、ね、僕と。笑
 
僕も、中毒のように読んでいた頃とは違って、今では毎日読んでる訳でもないし、パッと色々言われても分からないですが、少しずつまた太宰を振り返ってみて、自分は本来どう生きるべきなのか、忘れられようとするものを同時に見つめ直せたらと思っています。
社会の被害者でもない、加害者でもない、純粋で誠実な自分であるために。

難しい、神経質で敏感すぎた自分をうらむこともありますが、今更それを否定できないことが自覚せられています。人生には本当に、生きにくい人もいるのですね。えへへ、と微笑するほかありません。苦しいことには変わりないのですが、このコミュでこうして知り合えたこと、そしてそれが素敵な出会いであることを願ってやみません。

太宰治を通じ、それを共有できればと思います。

「ふと耳に、せんせん、水の流れる音が聞えた。」
                   『走れメロス』
ハッチさんをはじめ、皆さんのを改めて読んでいて、思うところがありました。

私も、太宰を読んでいた当初、『正義と微笑』の「智慧の実を食べると、人間は、笑いを失うものらしい。」のように、笑いを失ったように感じました。だけど、それって、多分、本当に大事な自分の部分に気付いたからなんですよね。自分に嘘を付くことができないと感じるようになってしまう。皆がどうして平気で嘘を付けるのだろうと思ってしまったり、虚しくなったり。。
だけど、さらに考えると、太宰は、道化はバカらしいといいながら、道化を演じていたと思うんです。これは、純粋に人を楽しませたいためなんですよね。ごまかしのようにも思われますが、周囲に対する気遣いや、優しさなんだと思います。そういう道化か、そうでない道化かを、見抜くことは大事かなと思います。それと、周囲に振り回されない、強い自分を持って、周囲を変えていくくらいの気持ちがないと、自分に正直であることはできないと思うんです。それは、できることだと思います。

ギニュー特戦隊さんのいう、”徒党”の意味がよくわかります。ここで、人に合わせたりして嘘を付く必要はないし、そんな”徒党”は虚しいですからね。人と意見が合わないときはつらいかもしれませんが、嘘をついて合っても何の意味もないし、心から合うことに本当に意味がありますからね。意見が合わないからといって、別に対立するわけではないと思うんです、色々な考え方があるだけで。嘘をつかれるくらいなら、対立してもぶつける方が、意味があるとも思いますし。私も、自分と本当に向き合う人が好きですね、そういう文学者とかがやっぱり好きだったりします。

ギニューさん、はい、似てる気がします笑。
素敵な出会いですね。

不思議なんですが、けっこう世の中の人の多くが、精神的に疲れたりするようにも感じます。なのに、社会に一歩出れば、やはりまた同じようにみんな仮面を被っている。そして、また疲れる。妙に、悪循環に感じます。なんだかこの悪循環、切っていけたらいいなぁと思うんですよね。

上記の「走れメロス」の引用、よいですね。。
疲れきって倒れていたメロスが、再び目を覚ます場面ですね。嬉しいですね。

「信じられているから走るのだ。間に合う、間に合わぬは問題ではないのだ。人の命も問題でないのだ。私は、なんだか、もっと恐ろしく大きいものの為に走っているのだ。」『走れメロス』
初めまして。
太宰治の作品についてこんなに真剣に語ってくれるコミュニティがあることが嬉しくて、飛び込んでしまいました。
太宰作品には自身がまっすぐに辿ろうとした道の困難さ、己の弱さ、そして同じ壁に直面するものを見守る侮蔑と憐憫、そして愛情が満ちているように思えます。
好きな作品は(まだ全部網羅できているわけではないのですが)新樹の言葉、斜陽などでしょうか。
内容もさることながら、その文体に刺激されることが多いです。
なんて虚栄なんだろうか、なんて格好良いんだろうか。と。

きっと本質を理解してないのかもしれませんが、特別な感情を持たざるを得ないのは事実なのです。
今の私は同調を求めて読んでいるのかも知れませんね。
今後変わった読み方が出来れば、それもまた、と思っています。よろしくお願いします。
★fontaineさん
「智慧の実を食べると、人間は笑いを失うものらしい。」ですか、類似の表現に「智慧の実は、にがいものだ。」がありますね。エデンの園で神に禁じられていた智慧の実、なぜ神が禁じたのかなんとなく分かりますよね。智慧を持った神はヒトに苦悩を与えたくなかったのでしょうね、純粋なままで。裸の姿でも自然に。それを太宰は示唆しているのかも…とまぁ、『正義と微笑』について、深く見ていくのはまだまだ先にするとします、焦らない焦らない。
仮面で装うだけでなく、もっと深い部分で純粋さを保とうとするヒト達はもっと、苦しいのですかね、偏見でしょうか。どうも僕は、自分の苦悩を押し上げるかなしい悪癖があるようです。しかし、仮面を剥いだ時のみんなの顔が純粋であればな、と僕は願って止みません。

信頼…恐ろしい大きなもの、というのが印象深いですね。

★ハッチさん
よく、男性より女性の方が観察眼が効くとか、注意力があると言われますが、三島由紀夫なんかもそうでしょうが、女性に育てられてきた男性はその能力が身に付くのではと、僕自身の経験からも思います。それと男性の敏感性が重なると、更に…と。
『走れメロス』は、ほとんどシラーの『人質』という詩と内容や言い回しが同じです。しかし、これを何故太宰治が選び、作品化したのかということを考えると、“信頼”というものについて異常な関心というか、希望を持っていたのではないのでしょうか。それはきっと本来の信頼が真に持ち得なかったからでしょう。太宰が良くそうするように、『走れメロス』で真実の信頼を描くことで、自分が同じ信頼の中にいることができるという錯覚の中に依拠できたのではと思います。しかしそれでもなお引きずっていて、人間失格の「神に問う。信頼は罪なりや。」につながっていくのでしょう。
ここではこの程度にとどめます。ですから、『走れメロス』どうか嫌わないでやってください。

★saeさん
どうも参加していただきありがとうございます。
『新樹の言葉』好きと言う事で…
「謂わば、私は、ばんざいであった。」
なんて、喜びを表現してみます(笑)
そうですね、僕もここを通じ、再度太宰治について見直していくつもりですので、違う読み方ですか、そういった切り口を示せたり、またそれをみなさんから得たいと思っています。


(※)大分、人数が増えてきましたね。ぱちぱち。
  そこでそろそろ次のトピックに行こうと思います。
  色んな事が重なってなかなか上手く、お返事やトピ
  の作成ができませんが、悪しからずお付き合いください。
初めまして。

参加承認ありがとうございます(^-^)

メロスを書いた太宰
人間失格を書いた太宰
背景にあるのは堕ちたキリストを中心に
完成された完全な世界 でしょうか。

その完成された世界の中で
不完全な自分が上昇したり下降したり

ダメな自分がいて
でもダメであることの方が正しいんだって
思ってる自分もいて

そのせめぎあいが語りの巧さで
なんともたまんない叙情を生み出す
背景にはキリストがいて

日本にはめずらしいキリスト教文学だと思います。
中也もそうだったけど
太宰ほどのしぶとさがなかった。。。

海外で太宰が川端なんかより違和感なく
読まれてるって理由はやっぱキリストの
イメージが中心にあるからじゃないかなぁ。。
なんて。

安吾は仏教的ですけどネ。

なんにせよ
年取ってから読んで初めて良さが分かった
私の場合はそんな感じでしょうか。

青春文学の代名詞だったんだけど
もっとおっさんたちが読んでいいような気もします(^-^)
★あっきぃさん
参加&コメントありがとうございます。

背景にキリストですか、うん、なんかそういう部分もあるかもしれないですよね。
個人的には、キリスト教的あるいはキリストに依拠していたと断言するほどそうだったとは思ってはいないんですけど、“救い”という意味で、その媒体をキリストにしたのかもしれないのかな、と僕は思っていますね。
実際に聖書の講義を受けていたりとそういう側面もあったらしいんですけど、絶対的な神というようなものは彼にはなかったのではないかと思ったりします。
神というものは、人間の作り出した最も高慢な救済あるいは逃避、と言い方を悪くするとそうなると思います。
遠藤周作なんかでもそうですが、神は沈黙をしているし、日本人的なキリスト教の救済は、現世にあるからだというような側面があるからです。
精神的依拠を求める対象がどこかにあるとすれば、彼には人間の創造物・創造主である神であった、そう思うのです。
以上のことや、いわゆる西洋人の目にうつる太宰作品への評価などから、欧米の読者にはむしろキリスト的な要素は太宰文学を評価しにくくさせているということも事実のようです。キリスト教は確かに太宰の好奇心や興味をそそったり、聖書の中に太宰自信の意志や情感と通じるものがあったとはいえ、決して完全にキリスト教信者ではなかったということからもそれはいえると思います。つまり、キリスト教という要素は太宰文学の中で一種の謎の部分ではあるのですが、単純に重要な部分あるいは決定的な部分であるのかというところには疑問があり、作中に太宰自信が望んでいた深みのようなものを与えることはままならなかったといえます。
巷ではよくキリストと太宰を比較したものこそあれ、少し安易な断定だと感じることもしばしばです。
僕自身の見解なので、何とも言えませんが、キリストとの関連を少し遠めで見るとまた違った意味が見えてくるのかなと思います。

西洋文学に他ならぬ影響を与えているという意味においては、日本あるいは東洋的文学の曖昧さや幻想が、彼の作品には、殊に『人間失格』にはないのではないか、というところから西洋に対する影響はそういう側面からの意味がより大きいと思っています。それは確かに、翻訳という段階の中での諸問題も関連するということは当然のことだとは思いますが。
海外ではよく、カフカの『変身』やドストエフスキーらと比較されているのも、作品の中に彼自身の肖像が見受けられるというところもあると思います。

それぞれの見解や解釈があるのですが、こうして様々な角度から太宰を見ようとしている人がいるということに本当に嬉しく思います。
これからもよろしくお願いします。
こちらこそよろしくお願いします。

てか私が抱くキリストのイメージや太宰のイメージは多分に
自分自身の中の救済のイメージの投影なんですね(^^)

安吾の堕落と太宰の堕落とも違いとかもかなり興味あって
日本の作家はだいたい親鸞みたいなところに行っちゃうのに
太宰には抹香臭さがないんでそれが特異って言えば特異だなぁ
って思います。

安吾はやっぱり仏教だなぁって「白痴」なんか読んでると思っちゃいますね。
てか安吾、太宰、中也との比較みたいな話だと別のスレてかコミュ
立てた方がいいですかね。。??
★あっきぃさん
僕は例の堕落論的な解釈というスタイルはとっていません。
何度も言うように、太宰の「人間らしさ」や「誠実さ」という部分など、以前fontaineさんが言ってくれていたように、人間という定義がある意味で悪なのであればそれなら太宰はそうい人間ではない、だから人間失格だということにも通じたものがあります。
デカダンスというようなイメージとともに確かにそういった部分は認められますが、太宰の堕落という意味合いでは僕はスタイルをとりたくありません。

坂口安吾や中原中也との比較についてですが、そういった視点もおもいろしろいにはおもしろいのですが、一般的な研究の中ですでになされているし、このM・C様というコミュの目指すところはあくまで太宰治という人あるいは津島修治という人に関する理解およびそこから僕たちの生活との結びつきを考えるというところにあります。コミュの説明の「さんびか」の部分にあるような意味合いが分かってもらえればと思います。
ですから後世の僕たちから彼らの文学や観念を比較することはできますが、太宰の同時代の中での理解を僕はしたいし、順次作品を振り返ることで太宰理解を深めたいので、ここのコミュではそういった試行はしないと思います。

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