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M・C様コミュの第2回:葉ずれ

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『晩年』の巻頭を飾っている『葉』であるが、これについて、多少穿って考察してみようと思います。(※様々な論があるのは了解しているが、これは自論である。)

『葉』は、1つのエピグラムと36の断章からなっていて、ひとつの小説としては成り立っていない。しかし、ここに注目すべきなのは、芥川龍之介の影響がある。
晩年の芥川が、“筋の無い小説の意義”を強調しているが、太宰にはその影響が恐らく見られる。『或阿呆の一生』や『歯車』を読めば、その作品にある雰囲気や態度・断片の持つ意味に相通じるものがある。そして、僕が思うに、このいわゆる筋の無い小説にはまた、象徴派作品のようなあいまいな筋が通っているのだと思う。
生きようと思った…に始まる『葉』は、恍惚と不安のある中で書かれているから、当然に死ぬことを避けながら書かれ、最後に、…どうにか なる。で終えられている。そうしたある一本の糸の中で、意図的に(笑)配列されているのだと。
なぜそう考えうるのか、それは『葉』という題名そのものにあるのだと思う。太宰治の作品は書き出しや文体に注目されることがしばしばだが、タイトルの示唆するものにも、より注視される必要があるべきだ。特にこの『晩年』の中の作品群にはその意味が大きいように僕には思われる。『葉』は、1本の樹から幾枚も生えている葉であり、ひとつ太宰治という樹から生じた葉であると言える。そうしてその樹の意味を葉から読み取るのである。それは、筋の通った小説に無い手法であるとともに、『葉』のなかで、兄にいかに短い言葉で信じさせることが難しいかについて述べているところからも、“葉”から読み取る意義が伺える。そうした意味でもこの『葉』のもつ意味は大きい。
そして、この最大の注目点は『葉』をとりまく四季である。秋に関しては僕はまだ上手く抽出できていないが、夏から春に向かってこれは書かれているように思え、その最後に「春ちかきや」と続いていく。そしてこれが何を意味しているのか、それは「咲クヨウニ。咲クヨウニ。」に表されているように、夏の葉から春の花への成長を彼の作品に見たのかもしれない。作品の花が見開くことを。
そうして書き終えると、決定せられていた死を迎えることになる。僕自身は、『晩年』出版の後には太宰はそんなに死ぬ気になれなかったのではないかと思えるのだが、一度決めた事を忠実に守ったに過ぎないのではないかとも思われる。晩年のしめくくりとしての死をサッフォの悲劇を思い浮かべていること、また太宰が自殺を一種の処世術のように考えていたことからすれば、なんだかこの自殺は意味が気迫に感じてしまう。晩年を終えるまでの生活の継続のために「どうにかなる」と言っていることなど、所々で“死”に関しては、この時点では避ける努力の言葉を見出すことができる。『晩年』後、再生をかけて書いた『火の鳥』の中で、「君は、君自身の苦悩に少し自惚れ持ち過ぎてやしないか?」とあるように、“晩年時代”の自分をそのように振り返っているように僕には思える。それに確かに、“晩年時代”の太宰には、不安に加え恍惚があったように明るい印象をもった作品も多く、人間失格の頃の切迫感が伝わってはこない。そういった意味でも、太宰なりの若さが覘かれるものなのではないかと思う。

こうした彼の“葉ずれ”が僕には聞こえてきてやまない。この考察は、一般の論者の緻密な研究とは異なり、若干僕の主観が入りすぎている趣が強いが、熱心な読者の視点としてはある程度成功した見方ではないかと思うのです。もちろん、僕自身様々な研究書を読了してはいるが、そこで何か充たされないモノがあったため、僕自身が純粋に感じたこともここに織り交ぜようと思ったのです。

コメント(14)

>ギニュー特戦隊さん
これだけしっかり読み込まれていて、素晴らしいと思います。
これは、「葉」についてではなく、個人的なことになりますが、正直、私は、『晩年』は、太宰を読み始めた2冊目の本で、ここからじっくり腰を据えて読んでいこうと決めた本なんです。しかし、それ以来、一切、読み返したことは無いんです。何故だかはわからないのですが、読んでいて、『人間失格』の次くらいに、苦しくなるからだと思います。読み返さないのに、傍に置いておきたい不思議な本です。
なので、ギニュー特戦隊さんに、今は、ちゃんと考えた上での返しができないし、さらに、今は現実に差し迫った忙しさがあるので、落ち着いてきちんと考えられないのですが、上記を読んだ上で、今の素直な感想だけ述べておきます。

確かに、ギニューさんのいうような意味での「葉」のように感じ、感心しました。
私は、『葉』自身の評論は読んでいないので、そこでどう述べられているのかはわかりません。素直に、今、「葉」から受ける個人的感想は(すいません、議論にならならくて。。)、まず、冒頭の、着物をもらったくらいで死を延期する、というのは、何か理由ができれば、生きる理由が見つかるならば、生きていてもよいか、と思われる心象を感じます。ヴェルレエヌの詩の太宰の意味合いが、恐いなと感じます。ここでいう、「選ばれてある」とは、ブルジョアであること、「恍惚」は、そんな自分だからこそ何かができるという思い、「不安」は、そんな自分だから抱える憂鬱、そしてこの二つは「死」という答えに繋がってしまうのかなと。そうはいいながらも、誰かに、生きていてくれと言ってほしいかのような印象がする。最後の「どうにか、なる。」は、『玩具』の冒頭でも述べられている。生きる意欲はないが、積極的に死にたいわけでもない、そういう倦怠な感じが伝わる言葉だなと感じる。(ふと思うのだが、太宰は、一人で死ぬことはできないのではないだろうか。誰かと一緒にでないと、若しくは、太宰は本当は積極的に死ぬ気はないが、誰かの為に死んでいるようにも思えてくる。「狂言自殺」と罵るつもりはない、死ぬつもりなのも、人の為に実際に死のうとするのも、どちらも優しさに思える。)
すみません、今は、こんなことしか書けません。

また、後日、きちんと考えようと思います。

最後に、この作品を読み返すと、太宰の中核的部分に触れるので、誰もが、太宰の苦悩に飲み込まれてしまいかねないと思えるので、この一節だけ付記しておきます。


  人生

 革命に革命を重ねたとしても、我々人間の生活は「選ばれたる少数」を除きさえすれば、いつも暗澹としている筈である。しかも「選ばれたる少数」とは「阿呆と悪党と」の異名に過ぎない。

 芥川龍之介『侏儒の言葉』より

 人間、誰もが、暗澹としているのだと思います。よほどの阿呆と悪党以外、苦悩の無い人などいないのです。
★fontaineさん
やはりヴェルレーヌのエピグラムは大きな意味を持っていますよね。恐らく『晩年』においてだけでなく、彼の生涯において。
彼が作品を、まだまだ…と言って書いていたのは、自己完結を望んでいたからだと僕は思っています。自己完結は、次へのステップのためであったり、そこで終わりのためでもあったりですが、彼の場合は当初は後者だったのでしょうね。
芥川賞を石川達三が取ったことも、彼の恍惚と不安に大きな動揺をもたらしていると思います。
ちなみに、僕はいつでも『晩年』を携帯しています。ヲタク。それにはやっぱり色々理由もあるんですがね…汗。

芥川のそれについては、僕は異なった解釈をしています。
・・・ゲーテの言葉に、「革命以前にはすべて努力があった。革命後にはすべて要求に変わった」とあります。後者は恐らく、選ばれたる少数以外の人たちのことです。そういった人たちは、目の前が“暗澹”としていているから、そうして努力から要求へと変わってしまうのでしょう。暗澹を違う角度から捉えると、“ぼんやりとした不安”だと思います。芥川の遺稿とも言える或る阿呆の一生は、どうなのか考えるとそれが、少し見えるような気がします。
芥川は明らかに、選ばれたる少数でありながら意識的にはそれ以外でした。しかし、太宰は恐らくそれをどこかで継承していたのかもしれません。恍惚と不安。
うまくまとまらないんですが、“阿呆”にも苦悩があって、多数者から見れば恐らくただの阿呆なのでしょう。その微妙なアイデンティティーが彼の不安であり、後に、“最も不幸で幸福”の中にいたのだ、と。

脱線しましたが、僕もまた考えながら後に芥川について論考しようと思います。すいません。


★ハッチさん
太宰の内面についてはやはり、僕達の見解は分かれますよね…汗。やはり太宰にしか、という常套句ですね。すんません。
ただ、太宰の“おもしろさ”とか“読者の惹きつけ方”という部分から見ると、やはり…とも思ってしまいます。
前述したように、
死のうと思っていたとは思います。しかし、『火の鳥』の部分に見られるように、やはり一種の自惚れもあったのだと僕自身は思っています。ですから、死のうかな、そう思ったときにたまたま着物が届いた事をネタとしてか寓話としてかは知りえませんが、“ちょうどよいタイミング”だったのかと思います。

僕も経験したことがあるんですが、死のう死のうとしてる時期は何だかそのことばかりに囚われてるような感覚で、他を受け付けません。それが実際の“死にたい”であろうと、“自惚れ”であろうと。ちょうど、恋するひとが周りを見失っているように。そう考えるとなんか少しすっきりします。
★ギニュー特戦隊さん
そうですね・・・、人生を(?)完結させるために当初は書いていたのは、理解できるのですが・・・、『葉』全体の印象からいって、最後までそうだったのかは、よく私にはわからない感じがします。「何かの為の死」は、純粋で美しいから盛り上がる気持ちもわかるのですが、実際に「死」に直面したら、やはりもがいてしまうのではないですかね。「死ぬべきだ」と思うのは人の考えですが、実際に死ぬ場面になって死ねないのは、人間の本能なのかなと。死ぬべきなのに、生きている、生きている資格もないが、積極的にも死ねないという、そういう倦怠な気だるさのようなものを感じる気がします。すみません・・・あまり「生死」に関わるようなことを、軽々しく語ってはいけなかったかもしれません。。この私の捉え方は、少し、太宰を突き放して考えてみて・・・というか、全体を覆っている薄いベールのようなものを感じ取るような、そんな妙な印象として受け止めた感覚のようなものなので、いい加減かもしれません。。
そうだったんですか、『晩年』は、スタート地点でありながら、一番重い感じがするので、そのことをいつも考えられるのは、良いことに感じます。(私も、いつも持ち歩く本とかってありますよ。)

すみません、芥川については、私は語れるほど知らないので、何とも言いようはありません。教えていただけたらと思います。一見、私には、「阿呆と悪党」は、言葉の意味の通りに捉えていたのですが、『或る阿呆の一生』にいう「阿呆」とは、同じ意味なのですかね。私には、「阿呆」は、無意識的な、「悪党」は、意識的な人のことを指すのかと思っていました。ただ、無or意識的に○○な人、の、○○については、これだけでは断定できませんが。。(利己的とか、そういったことでしょうか?)「悪党」に徹することができない人も、「阿呆」の部類、ということなのでしょうか。(いや、本当によくわかっていないので。。)
いつか、論考してくださると、嬉しいです。

★ハッチさんたちの話
ハッチさんの指摘は、芸術的な価値として、大変意味があるように感じます。
太宰の真相に対する考えとしては、ギニューさんに、本当に納得です。うまく表現しているなぁと・・・感心しました。

そして、確かに、ハッチさんの言うように、『葉』の印象として、美点からいって、本当に死のうとしている人間の重みのある姿に、ぐっとひきこまれるものがあるという感じは、それもやはり作品の何よりも本当に大事な部分だと思います。

「芸術の美は、所詮、市民への奉仕である。」
とありますが、太宰がどういう人かということの前に、私たちに迫ってくる魅力は、時代を超えて残る不変的な、太宰作品の芸術的価値の部分だと思うから、それなしには、太宰は、私たちにとって、本当のところ、意味のないものですからね。

そういう部分の視点も、大事ですよね。
ただいまーです。
遅れてすみません、実家からやっと帰ってこれました。
これからもどうぞ、よろしくお願いします。

★ひとみさん
はじめまして。
晩年については“死”についての議論が先に行ってしまって、足元がどうやら危ういのですが、虚無感の中での感情の動きが果たしてあるのか、それがひとつの鍵でしょうか…。ぼんやり、ではないですから、そこのところが難しいですね。
でも、あなたの言うとおり、あるひとつの“きっかけ”が依存するべき対象になることも賛同します。ハッチさん達との話では、夏までいきることの深みについてですが、本当の所は分かりませんが、太宰自身が『晩年について』で読者の黄金権について取り上げているように、様々な読み方、捉え方、そういったものが大切なことでしょうね。
僕は、そういった選択肢を色々考えて、そしてそこで持論に固執せず、選択肢の模索と太宰への接近を試行することが太宰を理解しよう、太宰作品を理解しようとする素晴らしい態度だと思います。だからこうして皆さんと、太宰治あるいは津島修治を捉えよう、あるいは自分に何かひきつけようとすることが僕にとっても、嬉しいことであり、このコミュでの重要な要素だと思っています。
歌留多については作品化するかなり前から、構想はあったようです。懶惰といいつつ意識的なところが太宰らしいな、そう思います。ひとみさんのあげた言葉ですが、僕はなんとなくそれでも純粋を追いかけてるのだろうなと感じています。まぁ、この話はまたに、ということで勘弁してください。これからもよろしくです、M・C様。

★孝之進さん
はじめまして。
部活ですか、実は僕の人間性を決定的に革命的に変化させたのも中学の部活でした。ああ、という感じです。汗
フラグメントに散りばめられた言葉が、すごく強い意味がありますよね。そこが芥川の要素を受け継いでるなと僕は思っています。
どうぞ、これからもよろしくお願いします。
              M・C様
★ひとみさん
“太宰のような人がいたら”という虚像は僕にもありますね、やっぱり。なんていうのか、太宰に囚われているというようなところもあるのかもしれません。
でもきっとそれは、ひとみさんがあこがれているかのように、僕には生きるうえでの“太陽の照る方向”を示してくれ、さらに憧れでもある太宰だからこそそうなのかも知れませんよね。
僕たちは決して太宰という真実を掴む事は出来ませんが、それでもそうして、ずっと求めているような態度、そういったものが自分の欠点でもありまた長所でもあると思います。
太宰に対して主体的であることは同時に自己疎外も含むのかもしれませんが、こうして求めていく過程こそ何かのきっかけになると僕は今でも信じています。

※更新がなかなかできなくてスミマセン。
5月中に必ず更新したいと思うので、是非みなさんコメントをお寄せください。だってあなたたちはM・C様なんですから。
★ひとみさん、ギニューさん
本当に、ひとみさんや、ギニューさんの言う通りだと思います。

 個人的には、少し太宰から離れることで、表面的な部分だけではなく、より深く、その精神のようなものが、見えてくるように思います。私は、「太宰のような人を求める」というよりも、また、私は私で太宰ではないことを思うと、自分として、太宰の伝えた大事な精神のようなものを、持ち続けたいという気持ちになりました。
 私は前に、太宰そのものの生き方を真似ているような人に会ったことがありました。だけど、それは何か違うと感じました。その人の抱えている苦悩は、苦悩ではなく、太宰になっているだけでしたから。太宰は、単に苦悩に溺れているわけではなく、それは、人への優しさからだと思うからです。
 私は、誰かに太宰を求めるよりも、自分に、そういった太宰の良さを、生かして、人に何かを伝えられたら、そうして、もし、人に伝わったら、それは、その人にも、太宰の優しさを伝えられたことになるんじゃないかと思っています。それは、たぶん難しいことだと思いますが。。すみません、個人的な考えばかりになってしまいましたが。。
★fontaineさん

そうですね、多分太宰の作品を読んでいる最中というか、そういう時期というのは、引き込まれることが多いというか、特にはまり出した初期の頃って、太宰の中毒になってる時期があると思うので、少し、離れて見るということは大事だなって思います。
僕は意識的でなく、今のような時期はほとんど太宰のどころか小説という作品を読めていないのですが、日常のあらゆる部分で、太宰の作品などの言葉が頭に浮かんできます。そういった意味で、太宰の伝えた大事な精神のようなものを受け継いでいるというか、自分も同じように生き、自分の中に太宰が生き続けているのかなと思ったりします。
僕は、「君は君自身の苦悩に少し自惚れ持ちすぎてやしないか?」という『火の鳥』の言葉を胸に抱き、過していますが、そういうところも十分学ぶべきことだと思います。
きっと、太宰を求めるということ、それ自身が自分が太宰の良さを、誠実さを、優しさを生きようとしていて、自分の中の太宰を反映して、彼の願ったようないきる態度を、他の人々や社会求めているのかもしれません。
相手を手に取るより、自分の内面を探り、善も悪も見つめようとしていたわけですから。だから、あなたがそうして生きようとすることは、とても喜ばしい事だと思います。
神に問う、無垢の信頼は罪なりや、ですね。

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