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M・C様コミュの第4回:『グッドバイ』

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■私事から
久しぶりすぎて、すみません。
更新、気付きませんかしらね。苦笑

私生活と、生活全般の線引きは難しい。心に秘めたるおもい、生活の戯事に帰して私生活を送ることは、なんとも悲しいものである。考えたい事があっても、それを考えているわけにはいかぬ、生活の部分と、生活全体とを組み立てることへの葛藤と諦めと堕落の、選択をしなければならない。誰かの言う、考えているということはつまり、暇ということじゃないのかね。

規則正しい生活に不意に訪れる何ともいえない侘しさ、物悲しさ、虚無、それは到底判別つかないものだけど、前に進むために踏み出す一歩は、過去か現在か未来かの憂慮に、グッドバイ、それと告げなければならぬ。そう思ったとき、本棚の背表紙、グッドバイ、これだ、そう思い至り、生活全般を生活の部分に収束させてみたのである。この生活のあり方は、ダス・ゲマイネを排するものに似ているのだけれど、どうしようもない、グッドバイ、僕にはこれが目に入ったのであるから。

■『グッドバイ』について
これ、短いので、読みやすいと思うので、お勧め。
この文章、また長くなってしまったので、お暇な時に、どうぞ。
今回、異常に主観的ですけれども、主観と、客観と、永久に合致し得ない片割れとて、読んでもらえるとありがたいです。

さて本題。
これは太宰の自殺によって未完に終わった作品であり、その構成は「変心」、「行進」、「怪力」、「コールド・ウォー」の13回までで終えられている。
太宰の「グッドバイ」という言葉それ自体は、井伏鱒二の訳詩『勧酒』のなかの「ハナニアラシノタトエモアルゾ、『サヨナラ』ダケガ人生ダ」を想起させるが、実際、太宰もこのことについて「まことに、相逢った時のよろこびは、つかのまに消えるものだけれども、別離の傷心は深く、私たちは常に惜別の情の中に生きているといっても過言ではあるまい」と触れており、少なからず、井伏鱒二の「勧酒」に見られる「別離」像を意識して書かれたものだろう、と思わせる。と言っても、太宰の作品には、相逢った場面と別離の場面までを描いた作品が多いので、そういう観点から他の作品を見ても面白いのかな、なんて思う。

『惜別』という作品もあるが、『グッドバイ』という言葉の響きは、惜別のそれよりも、お互いが手を挙げて言える様なすがすがしい軽さと胸に秘めたある種の覚悟とを示すように聞こえる。つまり、気軽な掛け声と、静かな覚悟にも思える重苦しさとが二つ、存在しあう阿吽が、題して「グッドバイ」に思える…んだよにん。

その重さ・軽さに関連して言えば、構成が「変心」から「行進」と続いているのだけれども、変心の動機はどうであれ、それを行動へと移すことへの覚悟は想像以上のものであるから、そこには「グッドバイ」と告げるそれまでの重苦しさ、覚悟を見出せる。続く「行進」では、「行進」というコミカルな表現で軽さへの変化とともに、ドッドッドッという、規則正しく緊張し、ある目的へと進む足踏みとをやはり感じてしまう。というのも、この作品の書かれた時期は戦後で、行進は時代遅れのいささかコミカルな要素で、変心の動機を成就するための行進である反面、この後に「コールド・ウォー」に続く行進でもあるのかな、と思わせる。この「コールド・ウォー」については後で述べますね。

僕は、うまいなぁと思うところや、好きだなぁと思う所も色々あって、作品自体はいわゆる「小説」であって、太宰独特のリズムや言い回し、おかしみといったような部分が見出されるように感じている。「すごいほどの美人」、こんな表現が僕は好きなのであーる。でも恐らくここでの「すごいほどの美人」は外見上そう思わせる美人であって、内面を兼ね備えた「美人」ではないように思うので、本当の意味での「すごいほどの美人」、そんな人と一度でもご飯を食べれたら死んでもいいと思うのかもしれない。実際には手に入れたいと欲するのが、いわゆる世の常なのかもしれないけれども。はーい、余談。

ただ僕の好きな、太宰の何らかの「訴え」がこうした「小説」の中には無いように思われて、どうしても僕はそれを探してしまう変てこりんりんりーんな性癖を持っているようである。何より、頭の中での創造ほど、楽しいものはないのかもしれない。

■ここからは主観的な話。
13回以降の展開を予想するのは、事実にないことなので、んー、と思うが、変てこりんりんりーんな僕は、色々予想してしまった。
その結論は、主人公の田島は「グッドバイ」し得ない人なのだろうということ。
というのも、末文の「彼は、めっきりキヌ子に、ていねいな言葉でものを言うようになっていた」という部分が、昔の女にグッドバイを決めて妻子の元へと戻ろうとするも、彼は新しくキヌ子と「出来て」しまうということを暗示しているのだろう、なんて予想してしまったからである。もしキヌ子と田島のコールド・ウォーが終わり、互いが関係を持ったとしたら、太宰はその時、「雪どけ」という構成を立てたのだろうか、もっと違う言葉だったか、そんな所にまで思いを馳せると、ワクワクしてこないかい?なんて、ね。

「変心」と「行進」は、妻子の元へと帰る目的のためもので一貫性を持った構成になっているけれど、続く「コールド・ウォー」からその行進の目的が変わり始め、キヌ子との一対一の関係の話になっていく。つまり妻子の元へと帰る行進は、コールド・ウォーへの行進へと行き先を変える。それは一時的変更のつもりかもしれないが、無計画的で一時しのぎの行動ほど目的を曇らせるものはない。田島は、無意識のうちに、丁寧な言葉を用いる、それはキヌ子をようやく「女性」として認識するようになったということ。

と、ここまで予想すると、とんでもない方向へと話がそれてしまう。
もし田島とキヌ子が何らかの関係を持ったとして、その関係の築き方を書くとすると、わりと長編の小説になりそうである。また、「グッドバイ」という主題から反れないためには、どうしてもこのキヌ子との別離へと話を持っていかなくてはならない。更に、仮に妻子の元へと主人公が行き着いたとしても、太宰はそこで話を終えないだろう、そんな風に思ってしまうから。

『ろまん燈籠』の中で、太宰は恋愛のドラマは二人が結びついた所までではなくてそこからが真の出発なんだというようなことを言っていたような気がするのですが、僕はそれが印象に残っているので、妻子の元へと帰った、チャンチャン、じゃ…というのが僕の頭にあるんでしょうかね。あわよくば妻子とも「グッドバイ」なんて事になるんじゃないのかなんて思ってしまいそうです。付き合うまでの過程が楽しいといったようなものではないな、そんな風に思うんです。太宰の私生活はどうか知らないけれど、少なくとも作品においては、それはやらない、やっていないように思うんです。さっき書いたけれど、出逢いまでと別離までを描いた作品がけっこうありますし、では人間はそこからどうやって生きるのか、それを示唆する、もしくはそれを求めながら生きていたのが他ならぬ太宰本人だったんじゃないかなと思うんです。

実際に、太宰は過去と別離し得ずに生きていたように思うえてしまうし、キヌ子と田島の関係のように、結局、完全に妻子の元へと帰ることも出来なかったので、彼はグッドバイ、そう言って、グッドバイし得なかったんだなぁって。だから「サヨナラ」ダケガ人生ダと、太宰は思ってなかったんじゃないかなぁ。そういう風に言い聞かせることが精一杯でしかないと思ってたんじゃないかなぁって。だからこの作品に宛てて、「題して『グッドバイ』、現代の紳士淑女の、別離百態と言っては大袈裟だけれども、さまざまの別離の様相を写し得たら、さいわい」とだけしか述べられなかったんじゃないかなぁと。

先に書いたとおり、僕が『グッドバイ』をまた読もうとしたのは、私生活から生活全般への復帰のためのつもりで『グッドバイ』を手にしたのだけれど、結局、生活全般と私生活とのバランスがうまく保てないからそれを保つための支点が小説というか太宰の作品にあるのだな〜と。

最近は映画ファンが多いけれど、僕が思うのは、それを観たからじゃぁ何を得たの?という疑問があって、やっぱり小説をこうして見たときも、小説それ自体への感想とともに、自分にとってそれが何か、それを考える貴重なものにするべきだと、改めて思いました、ということで、話を閉じます。

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