1908年9月に伊藤左千夫と蕨真一郎が呼びかけた「正岡子規七周忌歌会」の場で創刊が決められ、翌月に第1号が出版された[3]。創刊号(1908年10月)、第2号(1909年1月)、第3号(同年4月)の1巻3号は福岡町(後に八日市場町、現・匝瑳市)の多田屋活版所で印刷された(山武市歴史民俗資料館所蔵)[3]。 編集体制は当初左千夫を中心とし、古泉千樫、斎藤茂吉、石原純らが交替で編集にあたった。しかし編集主任であった千樫の編集体制のもとでは遅刊休刊が続き、左千夫が死去する直前の1913年(大正2年)には茂吉らとの内部分裂が深刻となり、休刊・廃刊も視野に入るほどの危機に陥った。茂吉は赤彦に窮状を訴え、業を煮やした赤彦が長野県から上京。編集発行人を一時的に千樫から茂吉に交代した。1914年(大正3年)6月より赤彦らと親交の深い岩波茂雄が経営する岩波書店にて販売取扱いを始めた。1915年(大正4年)2月に赤彦が編集発行人となり、3月1日より岩波書店が正式に発売所となる[4]。赤彦は会計整理を決行し、会員であった画家・平福百穂の絵画頒布会の開催や会員増強策などを講じた。また茂吉の第一歌集『赤光』は、新傾向短歌の代表格として一躍『アララギ』の名を高め、発行部数の増加と歌壇の制覇に大きな貢献を果たした。赤彦門下の土田耕平、鹿児島寿蔵らにより堅実な写生主義が引き継がれたが作風は狭隘な形式化が進み、千樫や純、釈迢空らは『アララギ』を脱退して1924年(大正13年)に北原白秋、前田夕暮らとともに『日光』[5]を創刊した。 1926年(大正15年)より茂吉が、1930年(昭和5年)より土屋文明が編集発行人となった。戦後は茂吉門下の佐藤佐太郎による『歩道』[6]、文明門下の近藤芳美や岡井隆らによる『未来』[7]、文明門下の高安国世による『塔』[8]など、有力会員による分離独立が相次ぎ、その過程で『アララギ』[9]本誌は相対的に影響力を落としていった。1993年(平成5年)、小市巳世司が編集発行人に就任。1997年(平成9年)12月終刊。これを不満とした同人たちの手により短歌誌が創刊された。宮地伸一、吉村睦人、雁部貞夫らによる『新アララギ』[10]、大河原惇行による『短歌21世紀』[11]、小市巳世司による『青南』、常磐井猷麿による『アララギ派』[12]の四派に分かれ、それぞれ後継結社を名乗った[13]。 Google