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新選組大検証コミュの伊東甲子太郎

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新選組の歴史、面白いですよね。特に伊東甲子太郎と藤堂平助は、物語の中でも重要な役割を担う二人です。
ただ、おっしゃる通り「試衛館(しえいかん)」に関わりはありますが、二人の出自や試衛館との距離感には少し違いがあります。
1. 藤堂平助(とうどう へいすけ)
藤堂平助は、間違いなく**「試衛館」の生え抜きメンバー**の一人です。
* 出自: **津藩(現在の三重県)**の第11代藩主・藤堂高猷の落胤(隠し子)という説が有名ですが、公式な記録ではなく、あくまで伝承の域を出ません。ただ、一介の浪士にしては持ち物が豪華だったという逸話もあります。
* 試衛館との関係: 近藤勇、土方歳三、沖田総司らとともに、江戸の試衛館で汗を流した最古参メンバーです。新選組結成時の「浪士組」にも最初から参加しています。
2. 伊東甲子太郎(いとう かしたろう)
伊東に関しては、実は試衛館の出身ではありません。 彼はもともと別の道場を継いでいた人物です。
* 出自: **常陸志筑藩(現在の茨城県)**の出身です。父は藩士でしたが、後に家を追われ、伊東自身も苦労して北辰一刀流を学びました。
* 試衛館との関係: 彼は江戸の「深川佐久間道場」を継いでいました。新選組が京で名を上げた後、藤堂平助の仲介によって、1864年に門弟を連れて新選組に合流しました。
* つまり、近藤らとは江戸時代からの同門ではなく、後からスカウトされた「インテリ・エリート枠」という立ち位置です。
出自まとめ
| 氏名 | 出身藩 | 試衛館との関係 |
|---|---|---|
| 藤堂平助 | 津藩(伝承) | 生え抜き(結成時からのメンバー) |
| 伊東甲子太郎 | 常陸志筑藩 | 途中加入(1864年に合流) |
> 【補足】なぜ記憶が混ざりやすいのか?
> おそらく、藤堂平助が伊東甲子太郎の弟子(または北辰一刀流の同門)であった時期があるため、二人がセットで語られることが多いからだと思われます。藤堂が仲介役となって伊東を新選組に引き入れたことが、後の「御陵衛士(ごりょうえじ)」としての離脱と油小路の変に繋がっていく……という流れは、幕末の大きな悲劇の一つですね。
>
他にも、この二人が離脱した「御陵衛士」のメンバーや、当時の対立構造について詳しくお話ししましょうか?
  gemini

伊東甲子太郎 も藤堂平助も試衛館出身と記憶しますが  またその出自 何藩だったか 教えてください。

コメント(2)

「御陵衛士(ごりょうえじ)」が新選組にとって「危険分子」だったかどうかは、新選組の立場から見るか、当時の政治情勢から見るかで評価が分かれます。
結論から言えば、新選組(特に近藤勇や土方歳三)にとっては**「組織を揺るがす極めて危険な裏切り者」でしたが、一方で彼らは「高度な政治工作を行うインテリ集団」**でもありました。
なぜ彼らが危険視されたのか、主な理由は以下の3点に集約されます。
1. 思想の決定的対立(佐幕 vs 勤王)
新選組は「徳川幕府を支える(佐幕)」組織でしたが、伊東甲子太郎ら御陵衛士は「天皇を中心とした新しい国づくり(勤王)」を目指していました。
新選組という幕府の治安維持組織の中に、正反対の思想を持つ一団がいたことは、組織の根幹を揺るがす大きな火種でした。
2. 「近藤勇暗殺計画」の疑い
新選組が彼らを粛正(油小路の変)した最大の理由は、「伊東らが近藤勇の暗殺を企てている」という密告があったためです。
新選組の密偵(スパイ)として御陵衛士に潜入していた斎藤一が、「伊東が近藤を暗殺し、新選組を乗っ取ろうとしている」と報告したことで、土方歳三らは先手を打って伊東を暗殺しました。
3. 高度な情報収集能力と人脈
伊東甲子太郎は非常に弁が立ち、学問もありました。彼は薩摩藩や長州藩とも通じており、新選組内部の機密情報が彼らを通じて敵方に漏れることを土方らは最も恐れました。
「ただの暴力装置」ではなく「政治的な駆け引きができる集団」であったことが、武闘派の新選組にとっては非常に不気味で危険な存在に映ったのです。
「危険分子」というレッテル
当時の新選組のルール(局中法度)では**「脱退は死罪」**でした。伊東らは「孝明天皇の御陵を守る」という名目で、形式上は平和的に「分離」した形をとりましたが、実際には新選組の戦力を引き抜いて出て行ったわけですから、土方らにとっては許しがたい反乱分子でした。
結果として、リーダーの伊東甲子太郎が暗殺され、その遺体を引き取りに来た藤堂平助らも待ち伏せされて命を落とす「油小路の変」へと発展します。
まとめると:
* 新選組から見れば: 組織を内部から壊し、リーダーの命を狙う**「最危険分子」**。
* 歴史の大きな流れから見れば: 幕府の限界を察知し、新しい時代(明治)へ舵を切ろうとした**「政治的先駆者」**。
という二面性を持っています。藤堂平助が、恩義ある試衛館の仲間と、尊敬する師(伊東)の間で板挟みになって死んでいったのは、まさにこの「立場の違い」が招いた悲劇と言えます。
こうした「組織内の対立」という視点で幕末を見ると、また違った面白さが見えてきませんか?

Gemini

御陵衛士は危険分子だったのでしょうか。
はい、その通りです。御陵衛士(高台寺党)を結成した中心人物は伊東甲子太郎です。
伊東は、新選組の思想(佐幕)と自分の思想(勤王)が相容れないことを悟り、1867年(慶応3年)3月に「孝明天皇の御陵を守る」という名目を掲げて、藤堂平助や斎藤一(実際は土方の命を受けたスパイ)ら10数名を引き連れて独立しました。
ご質問の「油小路事件後の活動」と「彼らの末路」について解説します。
1. 油小路事件後の御陵衛士の活動:近藤勇への復讐
1867年11月の「油小路の変」で伊東甲子太郎や藤堂平助ら中心人物が殺害された後、生き残った数名の御陵衛士たちは薩摩藩邸に逃げ込みました。彼らの活動は、一言で言えば**「新選組と近藤勇への執念深い復讐」**に特化していきます。
* 近藤勇の狙撃(墨染の難):
油小路の変から約1ヶ月後の12月18日、御陵衛士の生き残り(阿部隆明、篠原泰之進ら)は、伏見から二条城へ向かう途中の近藤勇を伏兵として襲撃しました。この時、近藤の右肩に弾丸が命中し、彼は重傷を負います。これが原因で、近藤は翌年1月の鳥羽・伏見の戦いにおいて、前線で指揮を執ることができなくなりました。
2. その後の目立った活動:新政府軍への合流
戊辰戦争が始まると、彼らは「新選組に虐げられた者たち」として、新政府軍側に加わります。
* 近藤勇の処刑に協力:
1868年、下総流山で捕らえられた近藤勇が、偽名を使って正体を隠そうとした際、御陵衛士の生き残り(加納鷲雄ら)が**「こいつは新選組局長の近藤だ」と正体を暴露**しました。これにより、近藤は武士らしい切腹も許されず、斬首されることになりました。彼らの執念が、ついに宿敵を仕留めた瞬間でした。
3. 御陵衛士派の「末路」
彼らの「末路」は、非業の死を遂げた新選組の多くの隊士たちとは対照的に、明治政府の官吏(役人)として生き残る者が多かったのが特徴です。
* 加納鷲雄(かのう わしお):
維新後、開拓使や農商務省、警視庁などに勤務し、麻布警察署長なども務めました。明治35年まで存命しました。
* 阿部隆明(あべ たかあき):
近藤勇を狙撃した一人。維新後は弾正台(現在の検察のような組織)に出仕し、司法省の役人として明治33年まで生きました。
* 篠原泰之進(しのはら たいのしん):
維新後は内務省に勤務。後にキリスト教に帰依し、晩年は穏やかな生活を送り明治44年まで長命しました。
まとめ
御陵衛士の生き残りたちは、数としては少なかったものの、**「近藤勇を負傷させ、正体を暴いて処刑に追い込む」**という点で、新選組の終焉に決定的な役割を果たしました。
「油小路の変」で無念の死を遂げた伊東や藤堂の仇を討つという執念が、彼らを明治の世まで突き動かしたと言えるかもしれません。新選組が「滅びの美学」なら、御陵衛士の生き残りは「執念の勝利」という対照的な結末を辿ったと言えますね。
 Gemini

御陵衛士を結成したのも伊東甲子太郎さんですか  油小路事件後 近藤局長が銃撃されましたが 御陵衛士の目立った活動はありましたか。 また 御陵衛士派の 末路は どうなったでしょうか。

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