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-日本史-コミュの大雑把に幕末維新を考察する場

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現在、歴史を語り合うトピが存在していませんので早急に場を設置しました。
トピ立て要望が出たらそれに応じたトピを作成します。

現状、少人数なのでトピが盛り上がるとかの以前の問題ですが、何かを綴るとかでトピを必要とするなら専門トピをお勧めします。
一発話題の提供とかでそこまでのコメント数を考えていないのでしたらこちらのトピをご利用ください。


幕末維新の話題は別トピに分けた方が良いかと思いまして制作しました。
何か話題がありましたら適当に書き込んでみてくださいね。
幕末維新なら私もお話を合わせることが出来るかと思います。

コメント(60)

>>[21]

名称について勝手に決めている話みたいですね。
寺田屋事件についての内容と勘違いしていました。

>>[22]

所詮、Wikipediaでは専門家が不在なのでマウント取りに躍起になる素人の戯言が蔓延っています。
かえるーさんが指し示してるところはその事例の一つということです。

つーか、寺田屋遭難って独り善がりも甚だしいですね。
坂本龍馬好きの厨房的な発想ですよ。
「孝明天皇を廃帝にすることを計画」には何か根拠があったんでしょうか?
普通に考えてデマと思いますけどね。
廃帝にした後には誰が天皇になるのかという大事な部分も聞きません。
>>[25]

>根拠

特に無いと思いますよ。
井伊直弼が提唱した公武合体を嫌う尊攘派の誰かが口にしたのでしょう。
平安時代ならまだしも幕末で天皇の挿げ替えってどうよ?と考えています。

それに孝明天皇は幕府に反抗する気は毛頭無いし幕府もそれを理解しているので挿げ替える意味が無い。
確かに異人嫌いではありますがこれを理由に廃帝する方がリスクが高過ぎますね。
因みに孝明天皇の後継者である明治天皇の生年は嘉永5年(1852年)なので文久2年で11歳。
>>[27]

明治天皇が即位したら中山忠能や田中河内介らが実権を握りそうです。
幕府としては絶対に避けたい状況と思います。
廃帝にしたいのは幕府ではなく朝廷となりますね。
>>[28]

ホント、それですよ。
この後、朝廷は親薩摩派と親長州派に分かれt暗闘となりますけどね。
>>[28]

ちょっと確認です。
そこで中山忠能の名が出てくるということは正親町三条実愛についても話をして大丈夫そうですか?

そんな突っ込んだ話ではなく軽く程度です。
朝廷の事情についてが本題って感じで。

問題が無ければそちらから話を振って頂いても構いません。
こちらが分からなくても何とかします。
>>[30]

「正親町三条実愛について」は名前くらいしかわかりません。
ちょくちょく見かける気がしますが重要な人物なんでしょうか?
朝廷の事情は知りたいところなのでこちらのほうこそ「分からなくても何とかします」です。
了解です。

公武合体を成したい幕府は、孝明天皇に攘夷を条件に和宮の降嫁の約束を取り付けます。
正親町三条実愛はその時に議奏に就任しこの件を担当することになります。
長井雅楽は「航海遠略策」で開国を主張する幕府と攘夷を主張する朝廷を公武一和を提唱。

文久元年5月に正親町三条実愛も彼の建白書を受け取りその方針で事を進めます。
そして、中山忠能も同じく担当したことで二人共に和宮の江戸下向に随行となります。
つまり、中山忠能と正親町三条実愛は朝廷内では親薩摩派と行動しているわけですね。
文久2年2月11日の和宮降嫁で無事にお役目を果たします。

更に4月には島津久光が上洛。
近衛忠房、中山忠能、正親町三条実愛らと会見し勅命による幕政改革の推進を画策。
※島津のお話は別に話す機会を作ります。

しかし、寺田屋事件が発生した後は京都での空気が一気に悪化。
朝廷誹謗文言事件で長井雅楽が失脚。
九条忠尚も関白を辞任しその跡は近衛忠煕が就きますが事態の悪化は急速に進み、7月20日に九条家家士島田左近が暗殺され天誅の時代へ突入。

公武合体派の岩倉具視や久我建通ら四奸二嬪も失脚。
親長州派の公家が台頭していくことになり親薩摩派の立場が怪しくなります。

つづく。
>>[32]

正親町三条実愛は思ってた以上に朝廷で重要な人物と言えますね。
名前はよく見かけるんで上位の人物とは思ってましたが要職を任されてるという実績を知るとなおさらです。
九条尚忠は幕府派で近衛忠煕は薩摩派という認識でいいですよね?
これは近衛忠煕の正室は島津の姫でその関係の歴史も古いのでつながりも深いという理由です。
いろいろと書くと収拾がつかなくなるのでこれだけに留めておきます。
正親町三条実愛を少し調べてみたら倒幕にも深くかかわってくるんですね。
薩摩派なら確かに理解できる話なのでこれは見落としていましたよ。
>>[34]

>正親町三条実愛

日本史の視点として公家の一人で片付けられますが、当時の朝廷での存在感は抜群だったので注目に値します。

中山忠能と正親町三条実愛を朝廷内の親薩摩派として意識しながらその時々の動きを見つめると面白いですよ。
あ、親薩摩派の公家は他にもいます。
先に挙げた近衛忠煕もその一人です。
親薩摩派は当時の意外に多いですよ。
訂正です。

×親薩摩派は当時の意外に多いですよ。

○当時の親薩摩派は意外に多いですよ。

書かなくても分かるとは思いますが一応です。
島津久光の動向の方を見ます。

文久2年3月16日に島津久光は鹿児島を出発します。
小松帯刀、中山中左衛門、大久保一蔵もこれに随行。
28日に下関に到着。
4月1日に下関を蒸気船で出航し3日に播磨室津に到着。
ここで西郷吉之助が命令を無視して勝手な行動をしていることが発覚ですね。
9日に兵庫に到着。
10日に大坂に到着。
薩摩藩士の異常な行動を受け3回目の論告。

4月13日に安治川舟遊事件が発生。
この辺りは運命の悪戯の一言に尽きます。

4月16日に島津久光が上洛。
前述の通りですが近衛忠煕、中山忠能、正親町三条実愛と会見。
四天王の小松、中山、大久保、堀もこれに参加。
勅命による幕政改革の推進を画策します。
17日、堀次郎は急ぎこの件を柴山や橋口らに急報。
18日、奈良原や海江田らも大坂藩邸の尊攘激派を説得。
20日、大久保一蔵も大坂藩邸の尊攘激派を説得。

真の指導者である清河八郎を失った後の尊攘激派は誰にも止めることは出来ません。
田中河内介や真木和泉らでも薩摩藩に対して口を出せる術は持ち合わせていません。
この場に清河八郎、伊牟田尚平、平野次郎の誰かが残っていたのならまた違った歴史もあったのかもしれませんが。
この様子を見た長州藩は久坂玄瑞や入江九一に対し軽挙は慎むことを厳命。
先手を打って不測の事態を強く警戒したことで静観が出来たというところでしょうか。

23日、薩摩藩でも説得工作に失敗したとして永田が責任を取って切腹。
ここに至ってついに交渉決裂となり寺田屋事件が発生。
島津久光が上洛して一週間という急転直下の惨事に誰もが驚いたことでしょう。
この急いだ決断こそが以降の天誅の時代の呼び水となります。

つづく。
この時点での長州藩の藩論は長井雅楽が提唱する「航海遠略策」を支持ていますので公武合体派ではあります。

とはいえ、必ずしも藩士全員が支持しているというわけでもなく久坂玄瑞や入江九一らはこれに反対。
この時点で久坂玄瑞は長井雅楽の暗殺を画策し京都へ移動したりしています。
長井雅楽が京都が出発した後の久坂玄瑞、中谷正亮、佐世一誠、久保清太郎、楢崎弥八郎、楢崎仲介の6名は弾劾建白書を提出。
天誅の時代を少しだけ補足です。

所謂、三大人斬りとして田中新兵衛、岡田以蔵、河上彦斎が有名。
とはいえ、河上彦斎は人斬りの実態が不明なので除外。
岡田以蔵は土佐、田中新兵衛は薩摩なので土佐と薩摩が人斬りを主導していたと思っている人も多いですが差に非ずで二人共に武市瑞山の指示の下で動いています。

当時の薩摩藩は長州藩との確執が次第に激化していく時期なので、天誅に関与するほど暇でもなかったというところが実情でしょう。
この辺り薩長激突の話は必要なら後で書くかもしれませんが期待しないでください。
「薩摩藩は長州藩との確執が」の部分も書くなら長州藩についてもまとめないとですね。

既に薩摩藩のまとめのストックはあるのですが長州藩の方は作っていませんので時間を見つけてちょこちょこと書き溜めていきます。
薩摩藩は寺田屋事件で尊王攘夷派の弱体化が始まり薩英戦争で現実を知り考え方を改めますが、長州藩や土佐藩はこれとは反対に尊王攘夷派が力をつけてく時期ですよね。
長州藩をまとめるとなると書くことが多くなるので大変そうに思います。
先に薩摩藩の話を進めて長州藩の話は補足する形でもいいと思います。
5月21日、島津久光は大原重徳を擁して京都を出発。
朝廷は島津久光と毛利慶親が協力して幕府に当たることを命じます。

ところが、その長州藩では前日20日に長井雅楽が辞職し「航海遠略策」も否定され公武合体路線を放棄。
また、老中久世広周も翌22日に辞職を願い出て6月2日に受理。
安東信正も既に老中を辞していたので公武合体派は自壊状態。

6月7日、島津久光が江戸に到着するも前日6日に毛利慶親は避ける様に江戸を出発。
梯子を外された島津久光としては長州藩の裏切り不信感しかありませんでした。
これが薩長激突の始まりです。
結局、島津久光は幕府の実力者松平春嶽と8日に会見し協力を取り付けます。

10日、大原重徳が江戸城に入り大原勅諚を提示。
1、将軍上洛と国是議論
2、五大老制の設置(薩摩、長州、土佐、加賀、仙台)
3、一橋慶喜の将軍後見職と松平春嶽の大老職
この内の一つを要求する選択制です。

大原重徳、松平春嶽、松平容保が日を重ねて協議を続ける中での12日に柳橋料亭川長楼騒動が発生。
薩摩藩士と長州藩士の会談が騒動へと発展し薩長激突も本格的に開始。

他方、京都でも不穏な空気が漂い始め九条家家士島田左近を見つけ出すことに躍起になり始めるのもこの頃。
23日、九条尚忠が関白を辞任。

29日、一橋慶喜の将軍後見職を決定。
30日、松平春嶽の政事総裁職も決定。
これにより大原重徳と島津久光も幕政改革の推進に結果を出します。
仕事を終えた島津久光ですが、その帰り道にやらかしたのが8月21日の生麦事件ですね。

幕末好きの人でも生麦事件には注目するも島津久光が何故そこにいたのかまでは知らないとする人がほぼ全員です。
歴史には理由があるので今回みたいに重要な理由は必ず知る必要がありますね。
この流を理解していないと何故に一橋慶喜や松平春嶽が重要ポストについていたのかイミフでしょう。
>>[42]

薩摩藩士から見たら薩英戦争は英国の勝ち逃げでしょうね。
英国を退けたとはいえ自身が思い描く様な攘夷とやらが如何に井の中の蛙の自己満足だったかを学べて幸運でしたね。
その後、その英国と手を結ぶことになる薩摩藩の変わり身の早さは流石です。
勿論、良い意味でですよ。
ちょっと余談です。

当時の京都所司代は小浜藩主酒井忠義でしたが、老中間部詮勝とともに安政の大獄で活躍したがために尊王攘夷派から疎まれて罷免を要求されることになります。

幕府は後任に本庄宗秀を充てますが彼もまた恨みを買っていたことで物議となり松平容保も反対したため任命されるも赴任することはなく。
結局は京都守衛酒井忠績が京都所司代を代行することになります。

さて、この時点で京都の情勢は急速に悪化していくわけですが、京都の治安も京都所司代の手には負えず、更に格上の役職を用意することとなりその適任者として松平容保を起用し京都守護職任命となります。

ここに至り一橋慶喜、松平春嶽、松平容保の三者が京都へと乗り込むわけですね。

この余談は今後どこかに繋がるかもしれません。
>>[43]

島津久光が考えていたことは有力の公家と手を結び朝廷の権威を利用して幕政への干渉ですからそう簡単に方針を放棄する気はなかったのに対して長州藩の方は若手の公家と手を結びなし崩し的に朝廷による政治(攘夷)というところですからある意味では主導権争いとも言えますね。
幕府から見たら薩摩藩も長州藩も外様大名であることに変わりなく、幕政に口を出すどちらかと手を結ぶことに難色を示したことを感じ取った一橋慶喜が京都に出向いて幕府と朝廷の間を取り持つ。
でも幕府からは一橋慶喜が朝廷と組んで幕府を蔑ろにする可能性を無視できず両者の間でも溝ができてしまう。
こちらは一橋慶喜の政治センスに嫉妬した幕府と考えています。
>>[47]

結局、幕藩体制の名が表す様に当時の日本は連邦国家の如くでしたから意思統一に欠いた動きが出たのでしょう。
それに、宗教ではありませんが朝廷も幕府とは違った形での権威でしたからここでも面倒臭い意地の張り合いがあったと思います。

幕府が強権発動できる程の国力があれば良かったのですが財政難のため派兵する力も残っていないのが現状。
正直、優秀な人材の登場よりも有望な金山や銀山の発見の方がありがたいというところでしたし。

孝明天皇が開国に理解があったなら幕末は全く違う流になったことでしょうね。
>>[43]

「五大老制」とのことですが、雄藩の石高から見た場合は第1位は加賀藩(102.5万石)、第2位は薩摩藩(72.9万石)、第3位は仙台藩(62.6万石)で尾張藩、紀州藩、熊本蕃、福岡藩、広島藩が続きます。
そして第9位は長州藩(36.9万石)でベスト10圏外に土佐藩(20.3万石)ですね。
尾張藩と紀州藩は御三家なんで朝廷と幕府の両方から敬遠されるのは分かります。
石高から見た場合なら熊本蕃や福岡藩のほうが五大老に相応しいと思います。
それに暗君でもないのでこれらを差し置いて長州藩と土佐藩を五大老の名にあげるのは不思議です。
土佐藩は一橋派だから選ばれるとするなら福井藩や宇和島藩がでもいいような気もしますが選ばれた決め手が気になります。
>>[49]

何が決め手かは分かりません。
朝廷からの勅諚なので厳選されたというよりは公家との関係性が重視されたのかもしれませんね。

まあ、幕政は譜代の特権なので五大老制が採択されるなんてことはどう考えてもあり得ませんからあまり深い意味も無いのかとも思います。
数合わせで書くだけ書いて通らばラッキー的な感じでしょうか?
さて、島津久光が江戸を出発する直前の19日に毛利定広が江戸に到着。
21日に島津久光が江戸を出発した後の24日に毛利定広は江戸城へ登城。
その目的は大赦勅諚です。

大赦勅諚
・故徳川斉昭に大納言を贈位
・安政の大獄、桜田門外の変、東禅寺事件、坂下門外の変での死者の名誉回復
 ※寺田屋事件については薩摩藩の抗議で削除となり薩長激突を招きます。
死者に対しての名誉回復なので実質的に何かプラスになるわけでもありませんが幕府に反抗した人間を許す行為に幕府の威信の低下が伺えますね。

24日には他にも注目すべき事柄があります。
一つは牧野忠恭が京都所司代に就任。
一つは彦根政変。

京都所司代については先に説明した通り本庄宗秀の人事の一件が解決。
そして、後任の牧野忠恭は後の長岡戦争の雄となる人物になりますね。
彦根政変については家老の木俣と庵原を隠居謹慎で井伊直弼の影を払拭。
これは三日後の長野主膳の斬首へと繋がり彦根藩の迷走の始まりですね。

閏8月1日、松平容保が京都守護職に就任。
3日、三奉行や勘定吟味役ら12名を政事改革用掛に任命。
幕府が改革を進め立て直しを図る様子が伺えます。
しかし、この時期の京都は既に天誅の時代へ突入。

つづく。
一橋慶喜、松平春嶽、松平容保が表舞台に登場した後の幕府はとたんに影が薄くなるので改革にスポットを当てた話には興味があります。
寺田屋事件以降は政局が京都に移るので幕府が何をしていたのか分かっていない人も多いので話をしようとしてもほとんど成立しません。
イイネのことを言いだせば私も全然つけていません。
イイネをつけることが目的でもないのでという理由かな?
>>[52]

>幕府はとたんに影が薄くなる

幕府の動向については小栗忠順や勝海舟の視点なら見かけますが、幕府首脳部としての思考はあまり見かけませんね。

小栗忠順の書籍でもその手法や言動に批判的な幕府という解釈が目立ちます。
まあ、それが故に罷免と任命が繰り返されるわけですが。
勝海舟の方も勝自信が幕府に否定的な姿勢なのであまり触れられていませんね。

当然、この時期の幕府は欧米列強の制度や技術の導入に力を入れていますので見所が満載ですが、幕府を評価してしまうと薩長の倒幕成功の説明がつかなくなるので目を逸らしたいのでは勘ぐってしまいますね。

幕府から見た幕末をテーマにした書籍が出版されたら必ず購入ですよ。
>>[53]

コメについては書きたい時に書けば良いと思っています。
無理して書いてもあまり意味は無いと考えていますので。

歴史の知識がよっぽど豊富であるなら人に合わせたコメを書けば良いと思いますが、基本的には人に忖度したコメよりも書きたいことを書いた方が楽しい様に思います。

誰のためでもなく自分自身が楽しめた方が結局は他の人も楽しめるのかと。
幕府からの視点の幕末も書きます…と言いたいところですが、アレも書きたいコレも書きたい状態で書きたいことだらけで手が回っていないのが現状。

気が向いたら書くことにしますが、日本史コミュは他にも戦国もありますし、もっと言えば世界史コミュなんか放置状態で何かコメの一つでもと思いますし。

まあ、世界史コミュの方は誰もコメを書いているわけでもないの引き続きそのまま寝かせておきますが、日本史の方は活気がありますので今後も日本史コミュの方でコメをしていきますよ。

さくらねこさんのコメは本当に助かります。
感謝。
7日、島津久光が上洛。
21日、朝廷に十二条の建白書を提出。
これは破約攘夷の反対と幕政改革の支援を主張する内容。
島津久光を京都守護にとの話も上がったとか?
これは長州藩が強硬に反対してここでも薩長激突を招いたと聞いています。

22日、老中水野忠精や若年寄堀之敏ら9名を将軍御用掛に任命。
ここには勘定奉行小栗忠順も含まれています。

23日、島津久光は京都を出発し帰国の途に。


島津久光が鹿児島に戻ったのでこの話はこれで終了です。
彼が鹿児島を出立した時の状況と帰国した時の状況では全く別物だったということが分かりますね。

勿論、みなさんがご存知の通り朝廷では長州藩派の公家が台頭。
幕府では改革を急ぐ一方で一橋慶喜が京都に赴き政治力を発揮。
その中でも島津久光は幕政に食い込もうとしていくわけですが。

まあ、この辺のお話は更に先に進んだ段階となりますのでまた別の機会にでも。
>>[57]

感謝したいのはこちらのほうです。
当たり前のように歴史の話が有意義にできることは奇跡と思うくらいすてきなことです。
他の歴史のコミュニティーではこうはいきません。
荒れているだけではなくコメントも魅力がなくで酷いものです。
ここはレベルは高いしましてや荒れる事なんてありえないくらいの雰囲気なので管理人さんのおかげと思っております。

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